Web Masterの日記



裁判員裁判の限界

2010年11月02日(火)

日本シリーズ第3戦は、両リーグでポストシーズン制が導入されてから
初めての屋外球場での試合になったが、サブマリン渡辺俊介が
千葉マリンの風を味方につけて見事に完投勝利。
もし明日も千葉ロッテが勝てば、そのまま一気に決まってしまいそうな予感もする。


さて、耳かき店員殺人事件の判決を見て驚いた。
無期懲役って…。
どう考えたって死刑が妥当じゃないのか?
今回の事例は、何の法律的素養の訓練も受けていない裁判員が、
死刑を含む量刑まで決めることへの限界を如実に物語っていると思う。
なぜなら、この裁判は、くじ引きで選ばれた一般国民が、
裁判員として死刑判決をくだすことがいかに難しいか?を示すとともに
素人裁判人が個人の感情を切り離して客観的事実から
量刑を判断することの難しさがモロに出てしまっている。

だいたい、くじで選ばれた裁判員に、被告人の生死にかかわる
死刑の判決をくだせ!と要求するのは無理であると同時に、
くじで選ばれた裁判員に、一生その重荷を背負えというのは無茶な要求でしかない。
プロの裁判官は、自らが選んだ道なので、ある意味覚悟の上だろうし、
それなりの報酬も貰っているが、一般国民にそんな重荷を背負わせる権利は
国にはない。

個人的にだが、今回の事件は極刑に値するほど重大で悪質な犯罪だと思うよ。
被告が殺したのは2人だが、2人だけではない。
被害者遺族の心を殺し、さらに被害者がこれから先、新たに作ったかもしれない
子供たちをも殺したのだ。それも何の落ち度もない被害者を一方的に、
自分の身勝手な思い込みだけで。

結局、これは裁判員制度というものが大きく原因となったのは
言うまでもないだろう。
自分にしても日記で好き勝手に「こいつは死刑だ」と言うのは実に簡単だ。
日記で死刑!と叫んでも本当に死刑になるわけじゃない。
だが、なりたくもない裁判員に勝手に選ばれ、強硬にそれを主張して
判決を「死刑」に持っていった場合、自分の意見で
確実に人1人の命を奪うことになる。
しかも目の前に、そうやって命を奪う相手を
何日か見続けた上でのことになると思えば
簡単に「死刑だ」とは言えないだろう。

今回の判決が出た時、被害者遺族は極刑を求め
閉廷後の法廷で泣き叫んだというが、
それこそが真の人間感情であり、無期懲役で臭い物に蓋をされ、
さも一件落着扱いされる遺族の気持ちを考えるといたたまれない。
一応、大学で少しは法律の勉強をした自分から見て、今回の事件は、
その残虐性と計画性(凶器を準備している時点ですでに計画性はある)
そして社会的影響(これを良しとしてしまうと風俗産業やサービス産業で
働く女性は、いつでもその客に殺される危険性を容認してしまうことになる)
を考えて死刑判決こそ妥当なケースであると考える。

犯行後、反省の情を示そうとも死人が生き返るわけではないし、
本当に反省しているというのであれば、自分もその場で死んで詫びるか、
少なくても何らかの自傷行為に出ていてもおかしくはない。
そもそも犯行後の反省などというものは、裁判での心象を良くし、
被告人の量刑を軽くする以外に何の役にも立ちはしない。
刑務所の中で被告が反省し、苦しみの日々を過ごすかどうかなど
本人以外の誰にも分かるわけではないし、そんなものは裁判員が
自分の下した判決を正当化するための逃げ道でしかない。
実際、被告が反省しようがしまいが殺された人間は生き返れないわけで
殺された本人にとって何の意味もないし、被害者遺族にとっても
被告人が反省しようが、失った家族は戻ってこない。
極論、被害者本人と遺族の人権については
「死んじゃったものは仕方がないから諦めてください」と
言っているようなものである。

法律の素養のない裁判員が永山基準など事前に知っているはずもないし、
そんなものを急に提示されたって短い時間で客観的に判断できるわけもあるまい。
おそらくこの事件の裁判員の胸に去来したのは、
「自分の判断で人を殺したくない!」という自己擁護であり、
永山基準と被告人の反省という状況が間接的とはいえ、
自ら人を殺す決断することを回避するための理論武装に使われただけに過ぎない。
くじで勝手に国から選ばれた裁判員を非難するのはあまりに酷ではあるが
何の訓練と覚悟もない一般裁判人に死刑判決など
簡単にくだせるわけがないのである。
こうなると裁判員制度を導入した法務省は、
死刑廃止論者の何らかの意向でも受けて
この制度を導入したのかと疑いたくもなるよ。

素人裁判員では死刑判決を下すべき時に、くだすことができず、
結果として検察側が控訴すれば地裁以上の高等裁最高裁に裁判員制度はないので
裁判は当然、長期化する。そもそも裁判員制度を導入した意味もなくなる。
裁判員に過酷な精神的負担を強いて、被害者遺族に悲しみと絶望を与え、
挙句に控訴して高等裁判所での審議となればそれこそ骨折り損で時間の無駄遣い…。

そもそもこの裁判員制度、誰がどのような経緯で発案し、法制化したのか
決して明らかにされない。
ムチャクチャな欠陥制度を不十分な議論のまま強行したのに、
いったい誰がこんなもの発案したんだ?
アメリカの陪審員制度ですら、有罪・無罪の判断のみで、
量刑の判断は裁判官が行っているのに。
勝手に国から選ばれた一般国民にこんなバカなことを押し付けている国は
先進国いや自分の知る限り、世界中で日本のみだ。
選ばれた以上、裁判員を務めることは国民の義務と言われているが、
国民の義務というものは、一般の法律で定めるようなものではなく、
日本国憲法に明記されるべきものであり、現在、日本国憲法で定められているのは
「納税」「勤労」「教育」の三大義務だけである。
一般法として簡単に国民の義務を追加できるのであれば、為政者にとって
都合のいいように国民の義務をいくらでもでっち上げられる。
しかも、もし裁判員法という一般法で国民の義務を追加するのは
国民の義務を定めた憲法に違反すると訴え出たところで、
憲法違反かどうか判断するのは…そう、裁判所である。
当然のことながら裁判所に不利な判断が下るはずがない。
しかし裁判員になる事など国民の義務ではないし、それを国民の義務と主張する
法務省と政府こそ憲法違反でしかない。

つい話が逸れてしまったが、裁判員制度はその導入経緯が不透明なうえ、
今回のように必要な場面ですら死刑判決を回避する傾向が出るなど
運用上の問題点が浮き彫りになってきているならば、
一度、執行を停止させ、その存続に対して
国民投票を行うべき問題ではないだろうか。
民主主義国家において、官僚の作った法案と、政治家の駆け引きによって
国民の義務が乱造されるなどあってよい話ではないし、
新たな国民の義務を創設するなら、それは憲法を改正することによって
導入されるべきものだ。
官僚と政治家の作り上げたバカな制度に国民が唯々諾々と従う必要などない。

まぁ、昔から日本人とドイツ人は権威に弱いと言うが、
ある日突然「これは国民の義務だ!」と言われて
何の疑問もなく従ってしまうのは、世界広しといえど
日本人とドイツ人ぐらいのものだろう。
あっ!両国とも敗戦国か…。

裁判員に死刑判決はくだせない可能性が非常に高い。
それは国に勝手に選ばれた一般国民の限界であり非難されるべきは、
裁判員ではなく制度そのものである。
今回の事件は裁判員裁判で最初の「死刑求刑事案」だった訳だが、
残念ながら一つの流れができてしまったと言ってもいいのかもしれない。
相当な事案でない限り、裁判員裁判では死刑判決は下せないという悪い判例。
裁判員制度って、やっぱりおかしい制度だと思う。
もう一度、みんなで考えるべきじゃないのかな。
何度も書いているが、自分の持論は「人1人でも殺したら死刑」
自分の命で償ってもらわないとダメだろうよ。

過去記事…2008年4月24日 裁判員なんてしたくない
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=20779&pg=20080424
     2009年2月19日 永山基準って何なんだ?
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=20779&pg=20090219 
     2009年7月7日 裁判員制度
 http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=20779&pg=20090707

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