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2005年11月06日(日)
今朝は10時から池袋でSリーグの役員会議があったので早起きして向かった。 昨日、一日中休養していたおかげで体調は戻りつつあったが、 各チームの代表者から「声が変ですね」とか「風邪ひきました?」とか 心配されてしまうほど、自分でもまだ変な声だと分かる状態で参加。 しかし、とりあえず会議のほうは何も問題なく終えることができた。 まだ正式発表できないが、来年からチョット投手陣は 変な神経を使いながら投げなくてはならなくなりそうなので大変かも。 だけど、今大会全体を見ると、それも仕方ないのかな…。 あと再来年の2007年、第15回大会での記念イベントの話も出て盛り上がった。 このまま行けば2年後には再び夢の舞台で野球が出来る可能性が高くなってきた。
せっかく久しぶりに訪れた池袋だったので、いろいろ見てまわりたかったが、 体調が完璧でなかったため、会議を終えて早々に帰宅。 パソコンの電源をつけて、日課のニュースサイトを見て衝撃が走った。
「本田美奈子さん 白血病で死去」
マジで驚いた。まだ38歳、復帰に向け闘病生活を送っていたのは知っていたが、 まさか亡くなってしまうとは…。
実は自分は今から20年位前に本田美奈子と何度か会っている。 自分が大学3年の終わり頃、学園祭の野外ステージ企画の 全てを担当する役職に就いていた。 うちの大学は当時1、2年が八王子の高尾校舎で、 3、4年は文京区の茗荷谷で学ぶことになっていた。 女子学生の多い外国語学部は例外で4年間高尾校舎だったが。 学園祭も5月に高尾校舎で「高尾祭」 10月に茗荷谷校舎で「紅陵祭」と2つあり、 秋の「紅陵祭」が終わるとすぐに「高尾祭」の準備に入った。 大学3年の秋、高尾祭のステージ企画を考え、 その企画に例年だと若手お笑いタレントを呼ぶのが慣例であった。 自分が1年や2年の時は、まだ当時、売れていなかった 「とんねるず」や「コント赤信号」を呼んでステージを盛り上げてもらった。 そして自分が企画考案の中心になった時、例年のようなお笑いタレントではなく、 華のある女性アイドルを初めて呼ぼうと考えた。 まぁ、これは自分がミーハーだったこともあるが、 とにかく、ただでさえ男臭いバンカラな校風の大学だったので、 せめて高尾での学園祭くらいは華が欲しかったという気持ちもあった。
学園祭のコンサートと違い、野外ステージでの企画の進行をするタレントは 予算の都合上、はっきり言って売れていないノーギャラタレントしか呼べなかったが、 ノーギャラでもステージに上がり人前で名前を売れる機会さえあるのなら 使ってくださいと言ってくる芸能事務所は山ほどあり、 直接、プロフィールを持って売り込みに来たり、 本人も連れて売り込みに来る事務所も多くあった。 お笑いタレントの場合はノーギャラの代わりに ステージでネタを披露させてくれればいい。 アイドルの場合は何曲か歌わせてくれればOKみたいな感じで。
当時はアイドル全盛・花の80年代だったので、次から次へと売り込みは来た。 そんな中、いろいろ打ち合わせなどもあり様々な芸能事務所に訪れたとき、 渋谷の某事務所で本人を直々に紹介されたのが本田美奈子だった。 目がクリっとしていて色白で小さくて細くて、すごく印象深かった。 まだデビュー前で来年のデビュー日も決まっていなかったが 是非、ステージ企画のアシスタントで使ってくださいと 猛プッシュされたのを覚えている。 まだ、その時は本名の工藤美奈子と名乗っていた。 企画担当の中心であった自分は会った瞬間に本田美奈子で決めようと思っていた。 俗に言う一目惚れに近い状態だったかもしれない。 若さからか企画担当の特権を個人的な一目惚れで使う暴挙に出ていた。 ちなみに次の候補は同じ渋谷区にあった某事務所で打ち合わせ中に お茶を出してくれた南野陽子である。 この2人は本当に可愛かったし、なんかオーラみたいなものを放っていた。 他にも何人か直接、紹介されたがいまいちピンと来ないというか 2人のようなオーラがなかった。 やっぱり本田美奈子にしても南野陽子にしても芸能界で長く生き残っているだけある。 あの衝撃度は忘れられないほどの瞬間だった。
契約直前、本田美奈子の事務所との最終打ち合わせで 事務所側が突然、学園祭でレコードを売りたいと言ってきた。 その場にはデビュー直前の本田美奈子本人も同席していた。 学園祭でプロの販売目的が入ってくると様々な許可が必要になり、 今からだと、とても許可を取るのが厳しく、 また模擬店等の場所も全て決定していたため 売ろうと思っても場所の確保も難しい状況だった。 それに、最初から野外ステージ企画進行のアシスタント、 もちろんノーギャラで、その代わりに数曲をステージで披露という 条件に合ったアイドルしか学校側も認めてくれなかったので 校内でレコード販売などは絶対に無理だった。
この野外ステージ企画は「チャリティーオークション」と 各クラブの代表者がステージに上がり「がまん大会」が行われ、 その司会進行のアシスタントと企画と企画の間に歌を歌ってもらう形だった。 ちなみに司会者は自分の代では適任がいなかったために 企画内容や進行を全て分かっているということで プロデューサーでもあった自分が行うことになっていた。 自分としては是非、本田美奈子と一緒に司会進行がしたかったが、 残念ながら事務所の突然のわがままにより契約を結ぶことが出来ず 本田美奈子との進行は幻に終わった思い出がある。
結局、学園祭にノーギャラで読んだ女性アイドルだが、 次の候補だった南野陽子もすでに他の仕事が入っていてNG。 で無難なところで つちやかおり に決まり 5月の学園祭の野外ステージで一緒に司会進行した。 それはそれで、かなり盛り上がったけどね。
本田美奈子との思い出はそれだけで終わらず、 契約が出来なかったお詫びみたいな感じなのか、 事務所の方から新宿ミロードの野外ステージで行うデビューイベントに招待された。 確か4年生になっていたので4月の上旬だと思う。 5月の学園祭の準備で忙しかったが、せっかくなのでミロードまで足を運んだ。 デビューイベントといっても、まだレコード発売日前で 観客の前でデビュー曲を歌ってレコードを予約してくれた人と 握手みたいな昔のアイドルにはよくあった屋上イベントみたいなもの。 まだデビュー前で認知されていない頃だったので観客もまばらだった。 何度も打ち合わせで会った事務所の人が自分を見つけ声をかけてきてくれた。 そしてレコードも予約していないのにステージ上で 握手&ツーショット写真まで撮ってくれた。 ちゃんとデビュー曲が出てからレコードと一緒にツーショット写真も送られてきた。 握手した時に本田美奈子が小声で「学園祭行けなくなってゴメンなさい」と 優しく言ってくれた言葉が忘れられず一気にファンになってしまった。
送られてきたデビュー曲「殺意のバカンス」は何度も聴いた。 2枚目「好きと言いなさい」今で言うマキシシングルのような3枚目「青い週末」 4枚目の「Temptation(誘惑) 」も実はレコード屋で発売日に買ってしまった。 代表曲ともなった5枚目の「1986年のマリリン」が出た時は あの可憐な少女がなぜ?!みたいな感じで少しショックを受けたのも事実。 それから「Sosotte」「HELP」などロック路線に行き、 さらに「MINAKO with WILDCATS」なるものになった時は一気に冷めていた。 というよりも、当時もう1人直接会った南野陽子が一線でデビューしたので 気がそっちにいってしまっていたのかも。ヾ(^-^;)
そのミーハー心丸出しで例年の企画を変えてから20年が過ぎ その間に本田美奈子は日本を代表するミュージカルスターとなり、 病に倒れてからも復帰を目指して闘病生活を続けていた。 しかし今日、帰らぬ人となってしまった。 本当に残念で仕方ない。 今も新宿ミロードでの本田美奈子とのツーショット写真は 大事にアルバムに貼ってある。 本田美奈子という女性アイドルは、 自分の大学時代の思い出でもあったと言っても過言ではないかもしれない。
ご冥福をお祈りいたします。
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