スリムクーラー1L



M-1 2020感想メモ

2020年12月22日(火)

下に貼ったのはAC部のフリー素材の人だが、今年のM-1はこのフリー素材みたいな足をよく見た気がした。野田の終わりの足と、小田のツッコミの足がこんなふうに見えたときがあって、思い出したのだった。AC部のサイトは少し変わってたが基本は昔のままで、フリー素材としてこの人も残っててよかった。




東京ホテイソンを見てるとき思ったのは「ツッコミの恣意性」みたいなワードだった。敗者復活戦のカベポスターもクイズのような入り組んだようなネタだが、あれはボケの永見に浜田がつっこんでいるので、徳川にアルファベットを詰め込む法則性のなさに対してツッコミが入った時点で終わりになるのだが、東京ホテイソンの場合はショウゴもたけるも恣意的なボケを恣意的なまま繰り返してからツッコんでいるので、別に語尾に何が含まれていても「はぁ…」というか「アンミカが入っている言葉を並べたんだからアンミカが入ってるのは当然だろう…」と思ってしまうところがあって、どうも私は楽しめなかった。なんかアハ体験を求めてしまってるのに、自由なワードを並べて節をつけて言われても…となってしまうのだった。
そもそも東京ホテイソンのネタそのものが、すでにコウメみたいな「△だと思ってみていたら○でした」レベルの崩し方になっている気がする。
なので、オール巨人が言ってた「頭を使うネタ」という言い方はあまり当たらなくて、どちらかといえば「楽しみ方が分からなかった」が近いのかなあと思った。
新幹線とアルゼンチンを織り交ぜてもシアトリマリナーズにならないのはかなり序盤でわかる(少なくとも聞いてる途中で私はわかった)ので、その時点でそこはもう笑いのポイントから除外されるし、あとあとの語尾をとるパターンも動物の名前の羅列のスピードからいってもひとつひとつ保持する必要はないことを示唆してるから、まあ「完成したワードのほうに面白みがあるのだな」という期待は向けられるのだが、完成したワードのほうが「アンミカドラゴン」「消しゴムコスコスコスコスパーティ」であっても「そう並べたらからそうなるのだろうな…」というところで、私のなかでは感心にも笑いにもハマらなかった。ワンピースのドン!ぶわっみたいな感じなのかなとは思うのだが、わたしはドン!が好きじゃないというのはあるのかもしれない。

そういえば私は、昔からボケやツッコミが恣意的なのが好きではなかった気がする。コロコロコミックの、ドラえもんののび太の服の肩のところとか、ああいうかっちりしたところが好きだった。ジャンプとかとんねるずは苦手だった。カイジは絵柄で長い間読むことすらしなかった。

岸大介の太秦の空き時間78時間の78の根拠とか、見取り図のえみ(苗字)ねむ(名前)とか、なんかそういうのは、なぜそこで78なのか、なぜこの盛山のマネージャーがえみねむなのか(だから人生の歯車が狂っていてやることなすこと狂気的なのか?)とか、気になって、好きじゃなかった。
でも今はもう、そういうのはあんまり気にならなくなってきた。歳をとると、78に理由がなくても笑えるようになってきた。西澤が78時間と言い、津田が78時間!と言うだけで面白いこともあるのだと沁みるようになった。
というか、この「78時間!」と「アンミカ」は同じことである。
ただ、「78時間」にはすぐさま「長すぎやろ」と思える、脳から瞬時に取り出せるズレがあり、それをそのまま「78時間!」と繰り返す津田にも共感できるから、ほぼ「78時間!=長すぎやろ!」が共有できるのに、それが「アンミカ!」にはないように思う。同じ式にしたら「アンミカ!=語尾、アンミカになってるやろ!」であって、なんかそのへんが面白いという話ではないのなら、結局いったいどこがおもしろいのだろうとなってしまうのだった。

なんか「若い」という感じがする。要は、話の節々や端々に仕込まれたギミックにわざわざ連れまわされても苦にならないというのか。返り点でちゃんと返って読めるとか、古典の文章が読めるとか。あと、できるだけ大きな投網を投げるときの若者の忸怩たる思いみたいなものも感じるけど、気づけるかどうか(厳しいんじゃないか)みたいなことも思う。

もともと同業の労働組合主催の技能大会みたいなやつの漫才版で、たまたまこの業界にいる組合員の文脈がふつうの会社員よりもめちゃくちゃ「知れる」からみんな熱くなれるのであって、これがなんか旋盤とか左官の技術大会だとして、たまたま会場が開いててなんか見に行って、オズワルドみてわかるかと言われたらやっぱりわからないというか、あとそれは左官の人同士では全員褒めるかもしれないけど、たまたまみた観客はよくわからなかったらわからないのだし、わからないとおもしろくないのだし、という感じにおもしろくなかったのである。

長く生きる前はギミックにしがみついていた。ギミックには年齢があんまり要らないからだと思う。「あーはいはい、そこで曲がるわけですねーなるほどなるほど」と思ってればいいのだ。で、そういうのがしんどくなるし、そういうのがしんどい人間の層とともに結局押し上がって同じ年齢が経済力をもったあたりで自分たちの見渡せるものがメディアから何から揃ってきて「よくぞごぶしで」と思えるようになるみたいな部分もあるので、そのへんの「よくぞごぶしで」要員としてのオズワルドはあるかもしれない。マヂカルラブリーもじゃっかんその要素があった。

かまいたちの漫才も、あまり年齢が要らないところがいいところだと思う。かまいたちの漫才はちゃんとしたギミックがある気がする。たくさんの動詞や言い回しがある。昔は少年アシベとかクレヨンしんちゃんとかを読んでいた。くっきりした丸い線でかかれたものが好きだった。最近やっと、カイジとかドラゴン桜とか嘘喰いとかも漫画なのだと思えるようになった。それでもまだ食わず嫌いは多いし、愛がないなあと思う。嘘喰いは、絵のハマり方がロマサガ的な感じが好きだ。たまにパースを少し狂わせてでもスプライトのような枠にはめ込もうとしている恣意的な崩しがいかにもロマサガ的で、嗜好性というか嗜癖を刺激してくる。なんかたまに目が黒い眼窩の中に白い点みたいになってるところとかが、FFやロマサガの敵キャラっぽかったりして、そこに体のねじれや(コマへの)押し込まれ具合などと相待って、ゲームのドットキャラに感じていた不気味さの嗜好性をよびさます部分がある。



おいでやすはジャングルの王者たーちゃんのコマの左下とか右下から指を差しながら突っ込んでるやつみたいだった。というか、一瞬まったくそのままの構図になってた気もする。たーちゃんはジャンプだが、コロコロコミックのツッコミ、というイメージ。あとはツタタタ、と不規則に動く足も笑いを誘う。



オズワルドはいつもみるたび「強化系なのにダブル使ってる人…」とおもってみてしまう。そして水見式をしたほうがよいのでは…とおもってしまう。
なぜだろう。畠中さんが「逆にいうけど」と言い始めて、ぜんぜん逆じゃないので、伊藤さんが「…逆に?」と拾いにいってるが、それでもけっこう遠いなあと思ってしまう。なんかもうすこし直近の言葉尻から、ツッコむべきポイントを拾えないのかなとおもってしまう。去年の「猿が拾ったまつたけと…」とかでも「なんなんだよそれ!」ではなく「どっちがどっち?」みたいなツッコミになるのが、しんどく感じられる。そういうのをたくさん聞いてると「そう言いたいだけやん…」となってしまって、話が追えなくなってしまう。
で、そういうのをみんなが「面白い」というのを聞くと段々心が倦んできて、隣の人間国宝の二階をアトリエにしてるおじいさんの家で円広志がおじいさんこれすごいですねーと褒めてるような感じがしてきて「本当のこと言ってやれよ」と思春期みたいな心持ちになってきてしまう。なんかそういう感じでいつも笑えないのがオズワルドである。今回ちょっとだけ笑ったのは、畠中が手をパクパクさせて「やまかわ」の「ま」のセキュリティで雑魚ずし防げると豪語したあげく「入るじゃねーか」とツッコミが入ったところだけだった。
ということは、わたしはジェスチャーとか、画で補完できる場合にはちゃんと笑えるのかもしれない。



アキナ
なんか一瞬テンダラーがTHE MANZAIでちんちんと言うときに纏ってる防御創のようなものがみえた気がした。関西の人が関西の空気をまとったまま出てきたような感じがあり、うわあ…となった。せやねんファミリー臭を纏ってたのかもしれない。最初から「僕には帰れる場所がある。こんなに嬉しいことはない」みたいになってて、M-1の前後の文脈を無視したような雰囲気があった。
好きなん?のくだりとか、面白いのに、釣り針に返しがないうえに、食いついてないのにガンガン竿を引くので何も釣れてない状態だった。シチュエーションを組んでいくところがとにかく早すぎて「ちょっとすみません」の透明彼女の位置関係も「そこなん?」みたいな感じになってきて、神棚のくだりも伏線なのかもよくわからなかった。



その他
フレームワークで漫才か漫才でないか、突き抜けてるか突き抜けてないかみたいな分け方をして、巨人師匠は漫才か漫才でないかの部分に少し重めの門(ゲート)があったので、それが開くほどの突き抜け方がないと厳しかったのかなと思った。中川家礼二は突き抜け重視だったのでマヂカルラブリーになったのかなあ、とか。要は文脈依存というか、M-1の文脈を引きずるとマヂカルラブリーになり、しゃべくり漫才で考えると見取り図になり、R-1の文脈とか勝たせてやりたいなあとかになってくるとおいでやすこがになるような。でもマヂカルラブリーが漫才じゃないというより、漫才やってって最適化していったらああなったというふうな感じにもなりそうなので、あれでいいんじゃないかと思う。もともと野田さんは鬨の声と動きが得意なのだし、村上さんは声がいいのだから、そのまま最適化していくと結局はあれになるんじゃなかろうか。無理に向いてないしゃべくりする必要もないような気がする。
あと、オール巨人は去年の評価軸をそのまま今年も使ったような感じにもみえた。上沼さんは今年用に変えていた気がする。なんとなく。

今年感動したのは、最終審査ですべてのパネルがめくれたときのバランス感。めちゃくちゃグッときた。ほかの賞レースはけっこう「は?」となることが多かったので、やっぱM-1はいいなあと思ってしまった。

錦鯉は好きなのだが、パチンコがどうこうよりも、新しいかどうかで松本からはかなりキツめの評価だったのかなあと思った。あとはあいだに繋ぐやりとりがあると違うのかなとは思った。台になってから頭をしばく以外繋がりが途絶えるので。


漫才か漫才ではないか枠 巨人
新しいか新しくないか枠 松本
突き抜けてるか突き抜けてないか(芸術か)枠 立川
がんばってるかがんばってないか枠 上沼
人間みえるかみえないか枠 礼二
バランス・構成 塙
考えずに笑えるか笑えないか枠 富澤

スマホのメモに書いてたやつ。なんかこういう枠があって、これが笑いの量によってゲートが開いてさらに高得点が出たりする、のではないだろうか。

今日仕事しながら考えてたのは、昨年のかまいたちの「ちょっと泳がせてみます?」みたいな、ジャブというかフックというか、ちゃんと笑うタイミングではないがこちょこちょくすぐってじわじわ体にこもるような笑いみたいな成分が不足していた気はする。点、点、点、というか。今年でいえば、意外にも、もっともそういうものをもってたのが、あの決勝メンバーではマヂラブだけだった気もする。どストレートかつ天丼にも見えるが、意外とじわじわを埋め込んでるというか「やば」「やばいでしょ」とか「わかってきたわ」「なにがだよ」とか、地味にめちゃくちゃいい。思い返してみれば、意外と一番線になってたというか。

あと、漫才じゃないとかいう話に関しては、それ言っちゃうとニッポンの社長とかが優勝できる世界線がなくなるので自由でいいじゃないかと思う。金属バットみたいなしゃべくり漫才がペンだとすると、ニッポンの社長がシェイクみたいな感じでどっちでもいいのではと思う。


そういや、去年でかまいたち・和牛がいなくなり、今年マヂラブの因縁もなくなった。コンテンツとしての因果、物語を消尽した。今年で新M-1の第一部完の感がある。まあでも、これから漫才が映像(ラジオだと意味わからない)というYoutubeや時代に適合する進化ではなく、あくまで38マイクの前に立つ2人の特性に最適化された人を笑わせる芸の形態としての進化ということになるのだと思う。てことはまたしゃべくりとかコントとかいって揺り戻しが来ているわけではなく、5081組よりもっとたくさんのコンビの中でもっとも自分の特性を活かしあった人が上がってくる(その中で影響を受けた世代によって、大枠での流れ、揺り戻しはあるかも)というだけなのかもしれない。



2020年10月29日(木)

ちかごろ
うんざりしている
知ったこっちゃないと思う
テレビから少子化…と鳴ると
でしょでしょ、と思う

誰が誰の子が死のうが苦しもうが
知ったこっちゃないのだ近頃
うんざりしている

なので
ハイコンテクストの中でローコンテクストにふるまい
かつ言語化はしないというやり方でとっとと仕事から帰る
定時より長く職場にいると悲しくって
泣けてくるので
とっとと帰る




2020年10月16日(金)

たまに、工場の人が産休をとるにはどうすればいいのかと思う

工場といってもそんな大規模ではなく、手作業の、
「こうじょう」と「こうば」の中間の規模、かつ、
コミュニケーションになんらか特徴あって、
そこに押し流されて来ている、
というのか、コミュニケーションで順番に産休をとっていく
(うちの事務には暗黙的にその雰囲気がある)ような
           ﹅﹅﹅﹅
コミュニケーションは「とれない」現場で、
数ヶ月、現場に、穴をあけて戻ってくるためには、
いったい何が必要なのだろうかと思う。

そのような職場環境では結婚=辞めどきであり、
そこに夢を見るようなていで飛び立つしかなく、基盤を整えてから
辞めようということができず、それもただ「はずかしい」といった
表現でなされるときもおおい。

わたしはそれはとても理不尽で、不平等なことだなと思う。
正規の人間はふたりとも同じ会社に勤めながら産休をとり戻ってくる(そして二人目へ)のに対し、
工場のパートはその手が使えない数ヶ月はそれなら辞めてくれ、と無言の圧がかかり、本人もそれを前向きに、踏み切り板に幸せのふりをして新天地に巣立つしかない。そこから先はわたしたちは知らない。それは新天地のようでいてもしかしたら暗渠かもしれないのに、おめでとうとしか言えない。

仕組みをつかえるように算段をととのえる、ということがとても重要になってきていて、私たちはいろんなことをよしとしなければならない。私は結婚しないし子供も産まないが、私が結婚も子供も産まなかった分のことは何も返ってこないし、そのことを権利としてもらえるわけでもない。産休分の産休じゃない休みがもらえるわけでもない。そして産休は休みではない。ただ会社からみたときに休みにみえるというだけだ。だが私も会社から休みにみえるというだけならそういう休みをとりたい。なぜ同じだけの休みを、それをしない人にも与えられないのだろう。バカ、と言われている気がしてくる。





古谷実「ぼくといっしょ」思い出しメモ

2020年10月13日(火)

◆すぐ夫といく夫

古谷実「僕といっしょ」は上京してホームレスになった中学生、小学生、イトキンが床屋に引き取られて少し闘って、また上野にもどる話である。

いまとなってはほとんど思い出せないが、主人公の兄弟の名前は、兄のほうが「すぐ夫」、弟が「いく夫」である。名字は…さきさか、だったかな。

このネーミングセンス、彼らの「親」はどう考えて、なにを思ってつけたのだろうか。すぐ夫は中学三年生(相当)?で、いく夫が小学三年生(だったはず)なので、四、五年は空いてるはずのだ。先に「すぐ」をつけて、四、五年後に「いく」をつける。「すぐ」をつけたあとの「いく」は決定事項のようでいて、もう別れるのが決まっている男を恨んでつけたようでもある。こんな、あてこすりのようにして子供の兄弟の名前を、四、五年かけて名付けている意味について考えだすと、わけがわからなくなってくるのだ。

すぐ夫とイトキンは、防御と隙の関係である。女性観や優しさの発想が真逆で、父性的なのがすぐ夫、母性的なのがイトキンという感じである。すぐ夫はバカで自尊心もないが、いく夫を守ろうという気持ちだけはある。ある意味サルチネスに受け継がれた部分でもある。古谷作品には人との関係が希薄なふつー寄りの人が祈ったり願うタイプの作品と、困難なバカな兄の作品が8:3ぐらいの割合である気がする。

たしかマネキンみたいなサイボーグのすぐ夫が被弾して頭部や腕を撃ち砕かれながら、うしろのいく夫を守ってやっているというイメージシーンが出てくるが、あれは名前としての「すぐ」に対し、「いく」はまだ単体ではありえる名前だが、「すぐいく」と繋げられたときには甚だ迷惑でしかないという関係をそのまま表している。そしてすぐ夫も本来「優」の訓読みでしかないのに、「いく」のためにシモに引き寄せられるという悲しい関係である。このような関係を仕掛けた両親というものに考えというものがなかったのだろうか、考えがなかったにしても、さきにすぐとつけた時点で次の子が決まっているという意味では考えていないはずがない気もする。

愛していたのか、していなかったのか。いや〜、してないだろうな。

◆イトキンの母

中盤、偶然イトキンの母らしき人が出てきて、イトキンとはニアミスのままふたりは会えないのだが、その母の行動原理が不可解すぎて、なんかこういう人がすぐ夫やいく夫を産んだと思うと納得できるかもしれない。

たしか話はこうだ。すぐ夫といく夫が屋台でなんか買った。買った人の顔をみたらイトキンの女版だった。絶対イトキンのかーちゃんだ!と確信し、イトキンを連れていくが、イトキンの母は公園の茂みの奥でホームレスとセックスしながら雄叫びをあげていた…という話だった。あの雄叫びをあげているのが、まったく他者を意識していない目には見えず、すぐ夫やいく夫をうっすら意識しているかのような気配があるような気がした。

イトキンの母は、何を考えているかはまったくわからないが、とにかく息子からは離れようと、逃げようとしていた。それだけは徹底していた。そして、そういった関係を壊そうとしていた。

◆いく夫の耳と散髪屋

すぐ夫といく夫とイトキン(ともうひとりイケメンがいた気がする)は川原の橋桁の下でホームレスとちょっと暮らしてた。ある日、河原で騒いでると、電車に乗っていた女子高生がそれを見ていて、その子の家が散髪屋だった。

女子高生がホームレスの中学生に人生について尋ねたかった。古谷実の世界では、全員がいきなり人生などについて語ってもいいことになっている(ラフな口調で哲学的?な対話ができる)のだ。

散髪屋だが、いく夫の耳(の上)は、毛がかかっていて、ずっと隠れている。

古谷実作品では悪い子供(世を恨んでいる子?)の耳の先はとんがっているのである。

いく夫はいくらかつらい思いをする。一瞬捨てられたり、一瞬で惚れた女に裏切られたりする。でも、最後まで見えない耳の先っちょは、最後まで尖ってなかったような気がするのだ。

◆親から何を預かったのかは思い出せない

最近つくづく思うのだが、親から何を預かったのだろうか。思考のフレームワークとかだろうか。話し合いで解決してこなかった家で生まれたり、ずっと物音に怯える家で暮らしてテレパシーで生きてるようになってしまったり、そういった世界で、親から何を預かったのかはなかなか思い出せない。

稲中で、前野が自殺しに来た倒産したネジ工場のおやじのふりをしてボートに乗ろうとしたら井沢と神谷が相乗りしてきて神谷が「何やってんですか前野さん」と言った瞬間前野の変装が中学生がハゲヅラ被って顔に死相を表す線をマジックで引いてトレンチコートを羽織っただけの状態に戻るコマがある。

僕といっしょの冒頭と最終回でこの現象の逆が起こる。冒頭とは血の繋がってない義理の父親が「(母親の代わりに)お前らが死ねばよかったのに」と、すぐ夫といく夫に宣言するシーン。そして最終回は、すぐ夫といく夫(とイトキン)が、出て行った実家にもどり「ここは俺の家だ」と闘いを挑むシーン。

冒頭のシーンでは小さなコマで正座して向かい合う兄弟と義理の父親が横から描かれ、父親は痩せてみえる。イトキンの母とやってたホームレスのような体格。

だが、最終回では、父親の体格はとてもがっしりとしている。すぐ夫はいすくまり、いく夫は泣きじゃくる。均衡を破るのはイトキンだったし、すぐ夫を動かしたのもイトキンだった。殴れる人を連れていくこと。

ノリをぶち壊し、ノリに埋もれていく。ノリをぶち壊すのもイトキンで、ノリに埋もれるのもイトキンがいるから。最終回はそんな感じだった。最後、いく夫が「(床屋に)電話してくる」と言って、両手をひろげながら走っていく後ろ姿と、すぐ夫とイトキンが視線をはずしながら横並びで「ヘッ」って少し白けた顔(ボコボコ)をしているのが印象的だった。

すぐ夫にとっては戻ることは解放なのに、ふたりにはどうしようもなさが募るだけ。

◆育めるものがもう残り少ない

もう高校生に相当する年齢で、学校に通ったことがないふたり。すぐ夫には野球選手が羨む筋力があることが示唆されているが、作中では、これが人生をどうよくするかはわからないまま終わっている。

◆どうしようもなさ

古谷作品では、少しずつ横顔が増え始め、首が太くなり始める。考える脳と、悪魔を意味する耳と、視線をいちどきに捉える断面として真横のアングルが増えたのか、それとも、わにとかげぎすで民家に突入する車を真上から捉えたように、稲中でしょっちゅう(岩下や神谷などの)女性の顔を崩して描いていたように、描けないということなのか。

あと、この頃「ぼくと一緒」からグリーンヒルの中盤まで続き、またヒミズの序盤やシガテラのゴミ箱にメモを捨てるシーンなんかにもみられるが、一コマで動作を3つぐらい同時に書き込むことがある。もしかしたら稲中からあるかもしれないが。イトキンが寄ってくるシーンとか、赤田が走ってこけるシーンとか、なんかそのへんで一コマで2、3人分の残像が書かれて一連の動きが表されたりしている。おそらくこの表現があるあいだはシリアスではないということの指標みたいになるんじゃないかと勝手に思ってる。



僕といっしょメモ

2020年10月12日(月)

◆ブリオンのジオング

僕といっしょに出てくる人生やりなおせるボタンをもつ謎の球体野郎。宙に浮いていて、顔は黒水晶のような球体で目も鼻も口もないが喋ることはできる。宇宙服のような素材の服を着て、袖から先は手がない。下半身はなく、UFOのようなスカートが拡がっている。裾は前が突き出していて、その中央に人生やりなおせるボタンがある。作中に何度か(すぐ夫がその質問をするたび)登場する。

※一時期放映されていた、サンセイR&DのCMにも構成がよく似たやつが出てきていた。(パチンコ玉に顔のある、下半身がUFOの物体)

◆先っちょ考

古谷作品は先っちょが入るか入らないかがモチーフとしてよくでてくる。稲中ではナスであり、僕といっしょでは野球一家の兄妹の2mm、シガテラでは谷脇捜索中に暗闇のぶどうのような表現や、南雲さんのバイト先の上司や同級生の罠など。

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