昼食に誰かを待つ日は

2019年11月20日(水)


土曜日の夜、Jと踊りに出かけた。踊りという名のエクササイズという名目ではあるが、深夜に音楽を浴び、適量の酒を飲んで、低音の音が響く中、煙草を吸いながら互いの近況を報告し合う。話は意外な方向に向かったが、互いに「まあ、いろいろあるわな」という態度で各々の事情を察した。踊り疲れたその足で、中華料理屋へ行き水餃子を食べる。どうやら私はJの「親友」であるそうだ。親友、というのはどこから呼べるものなのかわからず、私には親友がいないもんかと思っていたのだが、そう思ってくれているならばきっとJは親友なのだろう。もう5年の付き合いになるのだが、変わらずこのままばあさんになっても仲良くしていたいと思う。

そしてその晩、思い切り風邪をこじらせた。キッチンに立っている際に、突然めまいがやってきて、一瞬地震かと思ったがそれは思い過ごしで自分の体が浮ついてしまっていたのだった。これは何かがおかしいぞと思っているうちに頭痛がし、体が重くなり、夜にはくしゃみが止まらなくなる。やれることは何もなく、その翌日はずっと布団の中でうずくまり、柳美里の小説と大島弓子のマンガを読みふけっていた。

その翌日は仕事だった。普通だったら休んでいるが、何せ入稿が迫っているため休むことが許されず、朦朧とした頭で会社へ向かう。あまりにも病人のような態度をとって皆に心配されるのが嫌なので、空元気でなんとか騙し騙しやっていたが、午後になると体はまたもやふらついて、退勤時を今か今かと待ち、すぐに仕事場を出て家に帰るという日々が続いた。昨日は一番ひどかった。こんなときに入稿前の最終校正をしなければならず、なんとか赤入れを終えたものの、きっと見逃しがあるに違いない。なぜこんなときに限って、とため息が出る。それでも今日は少しマシになってきたような気がする。

さっきコインランドリーで洗濯物を回しているときに、写真家の友人から突然連絡が来た。「文章を読んでほしい」と。その少し前、郵便ポストに電気代未納の通知、督促状が3通届いていることに気がついて、電気が止まってしまう・電気が止まってしまうとそればかりを考えていたために、友人が送ってくれた文章を正直細かく読むことができず、当たり障りのない感想を打って、とりあえず送信したのだが、その後に激しい後悔をした。彼女は誠実で、人にも自分にも嘘をつけない子だ。だから愛想笑いというものもしないし、その場に合わせて、例えばサービズ精神旺盛に皆を盛り上げたりとか、そういうことは一切しない。その代わりに、自分が信じた人や信用している人に対しては、嫌われる覚悟で全てを打ち明ける。人前で平気で喧嘩もする。そんな彼女に、当たり障りのない返事などしてはいけなかったのだ。重大なことに気がついて、まず滞納していた電気代をコンビニに支払いに行ったのち、またゆっくりとその文章を読み返した。読み返すと、面白かった。彼女が見る世界の捉え方や「女」である自分をぼかしていく過程がとても面白かった。急いで、今度は丁寧に文面を作り、なるたけ誠実な答えを返す。彼女から返信はなかったが、先のメールに続いてとりあえずもう一度送ったのだった。

今度は私がドキドキする番だ。こういうとき、自分の言ってしまったことが原因で彼女の何かを損ねてしまわないだろうかと過剰に不安になる。返事が来るまでそわそわしてしまう。けれども今、連絡が返ってきた。「すっごくちゃんと読んでくれてありがとう!送って大正解だった」と。なぜ私に送ってきたのか、その理由が定かではないのだけれども、こうして何かを見せてくれるというのは稀だから素直に嬉しく思う。

そして、シドニーから帰ってきた井上からは連絡がない。
彼は元気にしているのだろうか。



2019年11月14日(木)


労働終了。きょうは朝から何をしていたっけ。労働終了と書きながら、すっかり数時間の記憶が抜け落ちている。頭痛がして、やるべきことを放置しひたすら退勤時間を待って、誰よりも早く職場から出ると、嘘みたいにぽっかりまあるいお月様が目の前に現れて、その大きな穴に引きずり込まれそうだった。道行く人が月を見上げている姿を見るのが好き。大きいなあ、きれいだなあ、恐ろしいなあ。みんな何を感じているのだろう。

どこにたどり着くのでしょ。いくら追いかけても近づいている気さえしないそれのために。どこにたどり着くのでしょ。骨になる前に、私の肉体はどこにたどり着くのでしょ。



2019年11月07日(木)

木曜日。1日校正作業に没頭。途中で面倒くさい案件が入り、すべて他力本願の当事者に怒りが湧き、無意識に心の声が外側に漏れていた。面倒くさいひと、ああ、などとつぶやきながらメールを打つ。隣に座るMさんからすればいい迷惑だっただろう。

8月から取材を開始し、まったく形になっていなかったものが今形になってきたのでホッとしつつ、果たしてこれで良いのだろうかと校了日が近くたびに不安になる。私の今の安らぎは今回デザインを担当してくれているAさんという女性。昨日も煮詰まって電話をすると、穏やかに真っ当な意見をくれた。話をしているときに気がついたのだが、電話越しに鳥の声が聞こえる。てっきり窓の外に鳥でもいるのだろうかと思ってたずねると、「youtubeで鳥の音を流しながら作業をしているんです」ということだった。おもわず笑ってしまったが、たしかにAさんは小鳥のような女性であるのでまったく違和感はない。むしろそのままのイメージをイメージのまま生きている人だった。Aさんは雰囲気も佇まいも穏やかで品があり、けれどユーモアさも兼ね備えている。この女性のおかげでどれだけ助けられたことか。当初依頼していた男性のデザイナーにはボロクソに言われた上、もう一緒に仕事をしたくないときっぱり言い切られてしまった。あのときはどうしようかとだいぶ落ち込んだが、今思えば彼とやっていても良いものができなかっただろう。こちらからお断りである。その後何通か粘っこい文面のメールが届いたが、すべてを無視している。粘着質で執念深い人間は男女問わずさっさと縁を切るべきだ。

今日は長いこと残業かと思われたが、私は7時を過ぎると脳が働かなくなるので、とっとと家に帰った。明日にすべての赤入れを終えるための準備。だらだらと長い時間をかけて仕事をするのは向いていない。去年は二日くらいは事務所にこもり徹夜をしていたが、今思えば愚かなことをしていたなと思う。


校了前は不安しかない。これをあと何度経験するんだろうか。
先ほど洋梨を剥いて食べた。洋梨って、奇妙な食感がして面白い。何より皮をむいているときの感触がたまらなく好き。これはどの果物より特別な気持ち良さがある。



2019年11月06日(水)

気分が滅入っていたが、金曜日の夜表参道に踊りに繰り出し、翌日は静岡に踊りに行ったところずいぶんと朗らかになった。踊っただけで人生がすべて明るいものに思える。静岡では、ブラジル人のトン・ゼー(83歳)を生で見て、老人なのにもかかわらずまるで生まれたての無垢な赤ん坊のような姿にいたく感動した。歌詞の翻訳が後ろのスクリーンに流れていたのだが、その歌詞は良い意味で宗教的で、一種の神様のような人物なのかもしれないと陶酔。幸せからは逃れられないという恐ろしい歌詞、幸福に身を預けても良いという確かな確信が沸き起こる歌詞があったのでここに載せる。


私たちが起きた時 あなたに伝えたい
人は必ず幸せになれる 人は必ず幸せになれる
その時が来ても誰も逃げられない
ベッドの下でも 誰も隠れられない
幸せは人々の上に降りかかる 幸せは人々の上に降りかかる


必ずそれは来る、というニュアンスはある種の恐怖も含まれているし、ましてや「逃げられない」などと言われるとネガティブなものが迫ってきているように感じられるのに、なんとその正体が「幸せ」だなんて。怖がっていても必ず包み込まれてしまう。最近の生活でたしかに実感している節はある。ずっと泥沼にはまっていることなどなく、一瞬一瞬でたしかに幸せになっている。幸せの定義は人それぞれであるけれど、あくまで個人的なそれは、例えば誰かと笑い合うことや美味しいものを食べること、踊っているときや友人と酒を飲む時間など。朝起きて光に包まれているときもそう。知らない間に、隠れる前に、幸せになっている。


トン・ゼーを見ていたら、人間ってこうあるべきだよなあと背中を押されたような気がした。とても自由なひとで、縛られたら叫び、追われたら全力で逃げ、幸福なときに大泣きをし、絶頂に達するときには持っているギターを叩き壊してしまうような奔放さ。それで良いのだと見ながら感じて久しぶりに生き生きとした。そのせいかライブの直後は隣のイノウエに、「あなた急に肌ツヤが良くなったよ」と指摘された。内部がみなぎると皮膚の外側にも作用するらしい。


初めて静岡の「さわやか」に入ってハンバーグを食べる。その後ブックオフに行き、5分で出ようとお互いに言っていたのに結局20分ほど滞在し、本を数冊購入。私は100円の文庫本を選んだが、イノウエはハードカバーの500円以上もする本を選んでいた。ブックオフではいかに金をかけず良いものを選べるかだと思っている。

連休が明けて月曜日。本の校了に向けて本格的に忙しくなってきてしまった。今日は著者のひとりと口論する羽目になるだろうと朝から意気込んでいたのだが、口論にはならなかった。だが先ほどコインランドリーで洗濯物をまわしている最中に連絡が入り、その文面を読んだところこちらの要望があまり伝わっていないようで、結局「自由に・直感に」やらせてくれとのこと。デザイナーには「あまり自由にやらせないように」と言われていたのだが、結局私も強く言えないまま「直感でお願いします」と折れる始末になった。指示をして忠実に何かを書く人よりも、直感で自由にひらめきを大事にする人の方がでも確実に面白いことは確か。何があっても自分の責任であるので、とんでもないものが上がってこないかがただ心配、その反面楽しみでもある。それにしても私は相手に何かを言われると「そうかもしれないな」と思いすぐに納得してしまう。それについて恋人は「もうすこし粘りなさいよ」というようなことを時々いう。主張を貫くのも大事だけれども、私はその人から生まれるものを見たい節があるのと、本当にそうかもしれないなと感じるのであまり自我を通す気はない。ただし、自分の道理に反するものについては全力で「それは違うだろ」と言っているつもりだ。現に前の会社で社長からの軽いパワハラに遭ったときには人としてどうなのか、ということをはっきりと伝えた。それはおかしい、と。逆に言うと、人としておかしくないこと・恥じないことであれば別になんでもいいということにもなる。ずいぶん簡単な構造をしている。


先ほどのコインランドリーの一件で、またもこの一週間不安な日々が続くのだろう。この仕事をしていると、必ず終盤で嫌になってくる。何かしらのハプニングが必ず起こるからだ。それも締め切り間近に。誰かしらの板挟みになり、誰かからは確実に嫌われる。そういう役回りは仕方がないことなのだけれど、皆で気持ち良く仕事ができないものなのかしら、と思う。

今はもう、祈るばかりだ。どうにか誰も傷つきませんように。無事に本を作り終えられますように。
イノウエは今、インドネシアについたらしい。


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左岸 [MAIL]