昨日は散々な日だった。午前中のこと。信頼できません。責任を取ってください。傷つきました。ありえないですよ。と、ひとりの女の子に散々怒鳴られる。驚きながら、全身に針が刺されるような気持ちで苦しかった。 全てが吐き出されたタイミングを見計らって静かに電話を切ったが、その後呆然としてなにも頭に入ってこない。 そして夕方、私宛に一本の電話。粘着質な男性のデザイナーからだった。馴れ合いについていけない。良い本になると思えない。降ろさせてくれ、ということだった。何も言えず、この人もすべての感情を電話口でぶつけてきたため、終わったところでまたもや静かに電話を切る。 どちらにもなにも言えなかった。
去るなら去って。
追いかける気も、弁解する気も、謝罪する気も起こらない。 かと言って心臓は恐ろしく高鳴っていて、なにかがとても怖かった。 同時にふたりの人間が感情を噴火させ、その吐き出し口が私だったこと。 全身火傷を負ってまでも、でも私には最後まで聞く義務と責任がある。
それでもきついものはきつく、死んだも同然に仕事に励んでいたが、家に帰ってからはもう泣けて泣けて、自分が本当に嫌になった。正直言ってかなりしんどかった。久しぶりに、死にたいなあなどと思ってしまった。 けれども正直言って、ふたりの人間性には出会った時から疑問を抱いていたため、今思えば離れてくれてよかったと思う。特にあの男は苦手だった。生理的に受け付けない匂いを発していた気がする。
ということで、今日は1日その案件から逃げていました。考えないようにし、メールは無視。
仕事を終えて本屋に行き、『火口のふたり』を購入。 この前映画館で見た。私はとても好きだった。こんな風な狭い世界に、とある男と生きていたことが、自分にも一度だけあったことを思い出す。
あの閉じた世界が苦しい反面、どれだけ安心したことか。 今は、開けた世界にいるけれど、死んでしまえるほどの安心感はない。
繕っていたらすぐにばれる。丸裸同然の関係とはそういうもの。
この数日間、自分のした行為が娯楽だったのか地獄を見る行為だったのか、単なる好奇心から湧いた戯れだったのか、それとも自分に課した拷問だったのか、もう何もかもがわからなかった。それ自体は、おそらくはたから見ると常識を逸した行為で、わたしの頭のネジもどこかへ飛んで行ってしまったようだった。何を確認したかったのだろう? 何を求めていた? 苦しくて苦しいのに、笑ってしまう。笑っているのに、涙が止まらない。
感情を麻痺させて、とある人物と一緒にいるというのはおかしなことだろう。笑うところでないところで笑って、勝手に悲しむ。私は素直に、正直に、人と向き合い、愛したり、愛されたりということをしたかった。
ネジが外れ感情が麻痺した状態で、こんな壊れた状態で、ひとと一緒にいるのはおぞましいことだ。 そもそも「一緒にいる」というのは何なのだろう。 わたしの目の前で、たしかにふたりは「繋がっていた」が、それは「一緒にいる」ことより遥かに深いことだった。そうしてそれをあえてみることによって、わたしは何を確認したかったのだろう。こんなにも簡単に繋がれてしまうこと、そこには確実に、愛に似た何かが発生していた。 この手だけがどこにも触れてはいなかった。朝、この手だけが冷たく、忘れ去られ、触れられることもなかった。触れられることを拒み、すべてを恨んだ。朝の光が残酷で、それはわたしを正直にさせた。そういうものはこわい。こわいこわいこわい。だから逃げたくて、逃げたくて、忘れたかった。本当は望んでいなかったんだろう。馬鹿なことをした。
人を失う。このままでは人を失ってしまう、何より自分がいなくなる。 まともになったら、わたしは。
あなたを捨てるの。
いまのわたしは、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。 まとった衣装がまちがっていたのだ。 別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。 後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。
暑い。今朝神戸から帰ってきて、寝ていた。この1週間は楽しく健全に過ごしていた一方で、その前に犯してしまった事件の余韻に浸ってた。とっても楽しい事件。冗談みたいな、すこしだけ悪いこと。 細部まで思い出すことができない!なぜなら結局見ないようにしていたから。 でも謝らない。悪いと思っていながらこんなことをしていたら、私は腐ってしまう。自分の自由に対してはどこまでも寛容でいたい。会いたい人には会いたいし、楽しいときには楽しみたい。その隙間でどこまでも独りでいられる。
ところで自分の名前にまつわるささやかな発見があった。 『万葉集』の一番はじめの歌(雄略天皇が作った歌)に自分の名前を発見したのだ。
春を告げる
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
「いい籠を持っているねえ。いいヘラを持っているねえ。この岡で若菜を摘んでいるお嬢さん、名前はなんていうの?家はどこなの?」
若菜を摘む「をとめ」たちに声をかけて名前を聞いて回る天皇。けれども、女性が自分の名前を明かすのは結婚を承諾する男性の前でのみだったので、女性たちは自分の名前を決して明かさない。
「この大和の国は私が君臨している国。私が治めているのですよ!ならば、私から名乗りましょう。家も名も」
そこで天皇は自分が大和を治めているのだぞと宣言し、女性にプロポーズをするという内容。 求婚は春を迎える儀式と考えられていたため、天皇の求婚は一種の農耕儀礼だった。 この歌は、春にお米や作物がたくさん採れますようにという祈りが込められているのだそうだ。 「球根」という漢字の由来も実はここから来ていたりして。
私は春生まれでなく冬生まれで、どことなく自分の名前がいつも自分の名前ではないような気がしていたが、万葉集の最初の歌に自分の名前を見つけたことがなんだか無性に嬉しくて、改めてこの名を授けてくれた父親のことを想った。お盆にお墓参りができたことは良かった。そのために神戸に行ったのだが。 お墓を掃除しながら、私の父親は一体どこにいるんだろう!と思わずにはいられなかった。こんなにもしんみりした場所にはいないはずで、快楽を求めてもっと他の場所にいそうな気がしたから。
毎朝祖父母は朝早くに目覚め、仏壇の水や花を取り替え、御仏飯を供える。自分よりも先に逝ってしまった息子に、いつもいつも心の中で話しかけている。時々声に出して何かを話しかけていることもある。妹は神戸にいる間、何かがあるとすべて父に報告をしていた。
「今日は水族館に行ったよ」 「パパ、今日は皆とご飯を食べに行ったよ」
私はそこに父はいないと思っているのだけれども、それでもやっぱり無意識に、仏壇の前では父に話しかけてしまう。不思議と出てくる言葉が「ありがとう」ばかりなのは、いつでもどこかで守られているような気がしているからかもしれない。何より父がいなければ私はこの世に存在していないのだ。 父の父、父の母。いつも笑顔を絶やさない二人は、でも子供が先に逝ってしまったという最大の不幸をずっと背負い続けている。いつも朗らかなふたりは、それでも静かに、心の中で、ちゃんと悲しんでいる。私たちに見えないところで。祖父母の態度や習慣を見ていると、襟を正すような気になる。とにかく態度や行動に、死者を弔う気持ちがすべてあらわれているのだ。お墓はずっと、ずっと綺麗に保たれている。見えないところに一番時間をかけ、手を抜かない。そういう生き方を私もしたい。 父は破天荒であったが、祖父母は律儀で真面目で温厚。死んだ後にも親に迷惑をかけて、どこまでも愛されている父親なのであった。迷惑をかけられる人がいる、というのは愛されていることと同じに思える。 菜摘という名前の由来をちゃんと聞いておけばよかったな。
大人数で集まる会が苦手だから避けたい。けれど仕事であるとどうしようもない。だから昨日は渋々大多数が集まるそれに出席したところ、色々と間違えてしまった。 間違えてしまったよ。 場を盛り上げるために馬鹿なことを言って笑わせてくれる、いわば仕切り役のようなひとが必ず存在しているけれど、わたしはまずそのひとが頑張っている姿を見ているだけで体がかたまってしまう。ましてや時々、ほんとうに誰にも気がつかない一瞬、すべての疲れが表情ににじみ出ているのを目撃してしまった際にはますます体が固まり笑えなくなってくる。けれども、この場では「皆で笑う」ということが大事であって、仕切り役に気をつかう前にまずその場に馴染むことをしなければいけない。この気遣いほど要らないものはないし、誰も望んでいないことは確かだ。でも馴染むことができなかった。無理に出した話題はまったく見当違いのもので、場は白け、まったく悪夢のような時間であった。自分が異物であることを身を持って実感する時間は苦痛でしかなく、恥ずかしさで顔が赤くなると同時にもう周りに興味が薄れ、なにを話しているのか、なにを言っているのか、なにを笑っているのか、全てが遠くなる。そうして諦めて、探ろうとすることをしなくなる。このとき以上にひとりの世界に入っていることはないくらい。昔から協調性が△の子供だったけれど、社会人になってもこのままだとちょっと救いようがない。でも、努力がから回って収拾がつかなくなる前に、透明人間のようになったほうがまだ良い。その場にとって、多分。 何を勘違いしているのか、私のことを社交的だと思い込んでいる社長。やたらと私を外に出させようとするけれど、悲しいかな。私は大人数が苦手だし嫌いだし、それも内輪で盛り上がっているようなひとたちは特に苦手分野なのである。そういうことで、失態を犯し、結構落ち込んだ。もう二度と行きたくないなあ。「本が好きな人たちの集い」など、普通に生活していたらば絶対に参加しない場所である。私は本が好きだけど、本が好きな人たちと語り合う気はさらさらない。けども心からそこにいるひとたちに馴染みたかった。もっと社交的に、体を固めずに、気軽にお話をしたかった。だからいつも残るのは一抹の寂しさだ。これを感じたくないからひとりでいることを選んでいる節もある。
きょうから、あるひとたちにむけての取材が始まった。この一ヶ月はほとんど取材。それもかなり特殊な人たちの話を聞いているため、現実が若干ゆがんで見えてくる。 こんな暑いなか、わざわざ外に出たくはないし、本当になにもしたくない。 けど、相手に関心を示すことの練習だ。探って探って、探りまくろう! あなたに興味があるの、という姿勢を見せるのはけっこう難しいことだけど。
いろんな流れがあって、なんとなく自分の星を調べたところ「傷官」というのが出た。 この星の生まれが持つ性質を見ていたら、なんとなくああそうかと腑に落ちて楽になった部分がある。そういうものに影響されたくはないけれど、あらかじめ何か決まっていたらば納得がいく。 受け入れると楽になる、まあ仕方ないかあと。諦めながら前向きになりたいものだ。
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