昼食に誰かを待つ日は

2019年05月31日(金)

本当の金曜日だった。いよいよ週末になるとなにをしていたのだかわからなくなる。

先ほどコインランドリーに行き、洗濯物を回している間にナンバーガールを聞いていたら、泣けてきてしまった。特になにか悲しいことがあったわけでもないのだけれど、彼らを聞いていた当時のぼんやりした、夏休みの日記みたいなものを久しぶりにこじ開けてしまったようで、それで泣けてきたのだった。
タッチとか、性的少女とか。自転車に乗って学校へ通う途中に聞いていたし、学校が終わって、ひとりで二階の自室にこもって聞いていた。中学生の頃、大阪に住んでいる歯槽のう漏という男の子に教えてもらったのが始まり。この子にくるりも教えてもらった。(初めてばらの花を聞いた中2の頃は、もうずっと、その歌詞ばかりが頭の中をぐるぐるしていた)学校で音楽の話ができる子がひとりもいなくて、(歯槽のう漏は遠くにいたし)、だからひとりで聞いていた。でも正直言って、最初は何を言っているのだか聞き取れず、良さもあんまりよくわからなかった。でも、なんか聞いていた。聞いてしまう。なぜだか思い出されるのは夏の記憶だけ、それはナンバガが夏のイメージだからか知らないけれど、それでもふっと今日は記憶の隙間の、かれこれ数年以上思い出さなかったであろう些細な光景がコインランドリーにてサラサラと通り過ぎて行き、わたしはなぜだか少しだけ焦り、そうしてすこしの寂しさが募り、なぜかもう20代後半になってしまったことに改めて気がついて、それで。

いつのことだったか思い出せないけれど、ひとりで向井さんの弾き語りを見に行った。
なんか緊張して、微妙に遠くから眺めていたのだけれど、オレンジのライトに照らされて、ビール片手にギターを弾いている向井さんはひどく色気があり格好良くて、本人を前にしたとき初めて、いいなあ。と、本心で思えたのだった。どこでやっていたかも思い出せないし、そもそもなぜ行ったんだろう。

洗濯機がまわり終えて、サンタクロースみたいに大きな袋を担いで部屋に戻り、戻った瞬間にはもう何もかも元どおり。この狭い木造アパート2階の生活が今のわたしの現実です。ねえ。全然華やかとは言い難いのだけれど、おそらく同年代の子は稼いで、綺麗で、爪とかも美しくって、髪の毛もつやつやで、夜は美味しいご飯を食べて、そんなような、華やかな生活をしているのかもしれないけれど、わたしはこの生活が身の丈に合っている。いつでも気分は、中学時代に2階の自室にこもって、ひとりで何か書いたり、本を読んだり、音楽を聴いたりしていたときと何も変わっていない。たぶんそれしかできなかった。住む場所はだいぶ変わってしまったけど、いろんなことが変わったのかもしれないけど、それでたどり着いたこの地味な、地味な生活も悪くないのです。
狭いベランダに服を干したので、あとはもう寝るだけ。

過ぎ去った、を省略すると過去だけれど、過去というよりかは、過ぎ去ったなあ。確かに過ぎ去った。
と、言いたくなるような短いときだった。

あしたは前髪をうんと短くしてこよう!



2019年05月30日(木)

朝。青空。カーテンを閉めないで寝ているので、6時ごろ光が差し込み健康的に目覚める。その後二度寝をし、若干寝すぎてしまった。

自転車で通勤。PC起動。特別忙しくもない日。

ずっと座っていることが出来なくて、途中で外に営業へ出た。涼しい日。なにをしたのかあまり思い出せないけど、アイスコーヒーを2杯飲んだ。夏はアイスコーヒーではなくホットコーヒーを飲もう、と決意したばかりなのに。
ふらりふらりと戻って、戻ってもまだ17時。ほんとうに今日はなにをしていたのだろう。
そういえば朝、きょうが金曜日だと思い込んでいた。5月31日だと思い込んでいた。でも今日は木曜日だった。思い込みたいだけで、でも現実は現実である。
思えば、つい最近まで社会人になることなど到底不可能(ましてや週5働くことなど想像できなかった)だと思い込んでいた。それに、なぜだか社会は冷たいものだと思っていた。けど、意外とそんなことはなく、そして大人たちはシンプルだった。勝手にことを複雑に、難しく、自分の首を絞めるように考えていただけだったらしい。というより、そういう人たちから離れたところに身を置いているだけなのかもしれないが。
身の安全、精神の安全を何より一番に考えたい! 去年や一昨年は目上の大人と喧嘩ばかりしていたが、今はまったく穏やかで、穏やかすぎて、軟弱になってきたような気がする。心の獣が冬眠したような。

隣の席のMさんが、机の上に見たことのない植物を置いている。妙で、なんか長い。
あまり言葉を発さないMさんが時々鉢を抱えて水を注ぎに行き、そしてまた元の場所にその謎の植物を戻す。
そのときのMさんは満足気だ。
これは一体なんなのだろう、と思いながら、目のやり場に困るときには隣の席から、それを眺めてしまう。
なんというか、枝にそっくりなんだけど、鉢にすっぽり収まっている。
きれい、とか、そういった感情を一切抱かせないので、確かにこれは、置きたくなるような気がしてくる。
いちいちなにかをきれい、うつくしい、と感じる必要はない。

それでも仕事の後屋上に行って空を見上げていたらば、その空はたいへん美しかった!

そういえば、今朝I君から連絡が来たのだが、私の写真(動物園でクマの銅像と写っている。それもふてぶてしい顔)を間違えて親戚一同に送ってしまったというのだ。何をどうすれば間違えるのだろう。受け取った方々のことを思うと、謝りたいような気持ちになる。急に、クマと写っている見ず知らずの女の写真が送られてきたら困惑するだろう。こちらも胸が痛み、このことはなかったことにしたい。

本当になにもない日であった。それでいい。




2019年05月29日(水)

朝。黄色い服を着た。

いまはつかれて、今日の記憶をもう忘れさせようとしている。
いろんなひとに会って、話しすぎて、エネルギーがなくなった。

充電の仕方は、人に会う時間の倍、倍、倍以上ひとりになること。


どうせいつかは自分も死ぬわけだけど、悲惨な事件はスクロールして、指先で眺めるようなことでは全然なく、かといって、目の前で生々しい現実を知りたくもない。なぜ、わたしは無事なんだろう。
生きていることに慣れているけれど、段々生きていることが不自然にも思えてくる。

わたしの支えは、ある種の諦念感。希望も願望も期待もない。
ただただ、朝が来て目が覚めることの繰り返しで、日差しが入るとうれしい。
朝が気持ち良いとうれしい。ある日突然そういうことが出来なくなってしまうのだ、と想像すると、とても悲しい気持ちになる。

そういえば、きょうHさんは前髪を結っておでこを出していて、よかった。
いろんな物事に無味乾燥なHさんの態度を見ていると、なんだかとても安心するのだ。
なにもかも、「ああそうなんだ」と受け入れる態度。何にも期待していないひとが言えることだ。
あのひとの何がいいって、「私」と、一切言わないこと。主語がない、主体がない、でも存在している。
ただ、このひとは今どこに立っているのだろう、と時々思う。半分ゆうれいみたいで、透けている。




2019年05月28日(火)

朝。今日は比較的涼しい日だった。昨日の夜、日記を書いたあと死んだように眠り、ああよく眠った。と実感できた朝だった。よく眠れると充実感がある。目覚めも良い。

自転車で仕事場に。下り坂で自転車を飛ばして事務所へ着くと、職場のAさんが後ろから現れて「自転車で駆け抜けているの、すごくいい!見ていて気持ちがいい!爽やか!」と興奮気味で言ってきた。坂を下ったあとは体が火照るから暑く、それを聞いているときには、わたし自身はまったく爽やかではなかった。

10時、仕事。扇風機をセット。
お茶に氷を入れるため、冷凍庫から氷を取り出したのだが中身がくっついて取り出せず、仕方がないので床に打ち付けているところをまたもやAさんに見られていて、「ねえ。文明を知らない猿みたいだよ」と言われた。水をつけたら早いじゃない、という。なぜ気がつかなかったのだろう。わたしの行動は、たしかに映画猿の惑星、じゃなくって『2001年宇宙の旅』の冒頭のそれとなんら変わりがなかった。

きょうは某占い師の先生と打ち合わせ。先生に、きっと一瞬不快な思いをさせてしまった。「面白い」という言葉の意味を、ニュアンスを、違う風に捉えられてしまったのだ。こちらが揶揄しているような意味で。
もちろんそういう意味合いではなかったので、謝った上で、きちんとそうではないということを伝えたのだが、「面白い」という言葉は、ある時には不快な要素を含んでいる場合がある。
今からわたしは映画の『フリークス』を見ようとしているけれど、この映画に出てくる畸形の人たちが「面白い」と言われる場合には、それはどういう意味の面白いなのだろう。健全な面白さと、不健全な面白さ、があるような気がする。

打ち合わせ後、おいしい焼き菓子が用意されていた。差し入れと言って、どうやら本屋さんが持ってきてくれたらしい。わたしはレモンの焼き菓子をいただいた。とても、とても美味しかった。

特に書くことがなにもない日だ。いまは雨が降ってきて、涼しい。暑い日の翌日に雨が降って涼しくなるのはいいな。本でいうと、ページをめくるとカラーページ・白黒ページ・カラーページ、と交互に続く仕様があるのだけれど、天気もそういう風に、晴れ・雨・晴れ・雨になってくれたらずいぶん楽なのになと思う。良いのか悪いのかは別として。

Hさんが首に巻いていたスカーフがとても素敵だった。
Hさんはお洒落なので、実は毎回着てくる服を見るのが楽しみなのである。

もうすぐ6月だ。6月かあ。





2019年05月27日(月)

非常に暑い日。5月だというのに気温は30度を超えていた。真夜中に変な夢を見て、忘れないうちにそれらをIに送りつける。親しい友人たちが夢の中に出てきたのだった。気持ちの良い夢ではないが、楽しい夢だった。

自転車で出勤。ずっとノラジョーンズを聞いていた。

10時。仕事。PCに触る。今関わっている著者のお父様が亡くなり、今はバタバタと忙しいですとのメール。
人が死んだ後の方が大変だということはよくわかる。それを伝えると、「甲斐さんも随分お若い年でお父様を亡くされたのですね。大変だったでしょう。でもきっとお父様は見守ってくれていますよ。私からもご冥福を祈らせてください」と返事。S氏の父は既に80を過ぎていたが、それでも死は急。独りで逝ってしまったために誰も最期を看取れなかったという。「でも、それも彼らしいです」と。

S氏の原稿は、当初とは全く違う方向性になっている。それが正しいのか間違っているのかわからない。日々不安。何かを言うたびに間違ったことを言ってしまっているのではないか、といつも思う。時間が経てば経つほどに不安が増していく。きっとあんまり向いていない仕事なのだ。それでも、S氏が書いていて楽しい、発見がある、というので、それだけで、こちらとしては嬉しいです。
途中、暑さにやられてPCと向き合うのが困難になった。そのまま背を向けて扇風機に顔を当てていると、隣に座るHさんに、「大丈夫?」と尋ねられる。「暑いと、生きる気力を失います」というと、「そっかあ。じゃあ今日はよく来たね。それだけでえらいよ」と言ってくれた。Hさんはいつも涼しげな顔で愛想も良い。けれど実は誰にも何にも興味がないひとで、部屋ではユーカリを育てている。そして家に帰ると痴呆症になってしまったおばあさんの世話をしている。こんな生活がすこし息苦しいよ、と以前涼しい顔で言っていたことがあった。
Hさんが隣の席であることはわたしにとって救い。それから時間が過ぎ、時間が過ぎた。それでも外はまだ明るい。そしてうんと暑い。

買い物をして家に帰り、キャベツを千切りして米を炊き、暑い暑いと言いながら顔を水で洗って麦茶を飲み、風呂などに入ってキウイを切る。ベランダでぼーっとしていると、今日はこの時間のために生きていたのだな、と思う。

なにもなさない日であった。それで良い。



2019年05月26日(日)

朝、1月に申請していたパスポートを受け取りに千葉へ向かう。きょうも暑い日だった。
パスポートの自分の写真は、幼く、そして老けていた。相変わらずしまりのない顔をしている。
アイスコーヒーを飲んで休憩。暑いから、怪談の短編を読んでいた。とても暑い8月に、とある男は考える。ああ暑いなあ。この世で一番すずしい場所は、プールの奥深いところだけなんだろうなあ。それから男はハッと、突然絵を描き始める。ぶくぶくに太った男が裁判所で判決を下されている場面。男はこの絵を描けたことに満足して、ぶらぶら外を歩く。そしてとある庭に入り込んでしまうと、そこには、さっき自分が描いた男とそっくりの人物がいて…という話。このヘンテコな話が気に入った。暑いなあ、から始まるところにただ共感しただけなのかもしれないが。

友達の写真展を見に、浅草橋で下車。歩いている途中、缶コーヒーを蹴っ飛ばしてしまう。中身が入っていて、足にコーヒーがかかってしまった。(しかも今日はサンダルだった!)なにが起きたのかわからなくて、気付いたら手に持っていた爽健美茶を、足に垂らしていた。なんとなくかなしい気分で、靴擦れしていたところが急に痛み出し、その足でコンビニに向かって絆創膏を買い、足首に貼った。
Kちゃんの写真。静かで、ひんやりとした空気の立ち込める不思議な写真たち。添えられた短い文章も簡潔で、すっと馴染んだ。ギャラリーのかたすみ、にその写真があることも納得がいく。そういえば、孤独死、というワードがあったけど、きょうこの後、孤独死について考えることになる。

上野。人が多く、やっぱり嫌になった。座る場所を探すため、上野公園を歩きまわる。結局見つからなくて、木陰をただ歩いていた。アイスクリームを食べているひとたちが眩しい。I君がやってきて、上島珈琲で涼む。彼は仕事をしていた。私は怪談を読んでいた。けれど、隣の女性たちが交わす会話が嫌でも耳に入ってきて、集中できない。そのうち、机の上に見たことのない色の虫が現れて、そいつが少し可愛くて、眺めるのに夢中になる。小さな小さなその虫に、でも触覚はしっかりとあって、なにかを求めるようにいそいそと歩き回っていた。Iに、虫がいるよ。と話しかける。彼は顔を近づけて、「これは外来種かもしれないよ」という。確かにそうかもしれなかった。それからしばらく、小さな虫が進む方向に障害物を置いたりして、ちょっと意地悪なことをしていたら、その虫は、知らない間にどこかへ消えていた。虫が嫌いなのに、初めて虫と遊んだな、と今気づく。
クリムト展を見るために美術館内に入った。人が多く、ディズニーランドのアトラクションに並ぶ人たちのようで、なにをしに来たのだか目的を忘れかけてしまいそうになる。そしてわたしたちは並んでいる最中に、けっきょくその列から抜け出して、動物園に行った。

閉店間際の動物園。パンダは見ていない。足の長い鳥や、白くないホッキョクグマ、大きなゾウ、悲しい目をした猿、水のなかに潜って体を冷やしているバク、青い鳥、やせ細ったトラ。
まるで老人夫婦のような鈍くゆっくりとした動きで園内を歩く。動物たちを見ても、ワクワクすることも、ウキウキすることもなかった。けれど、また会いたい。また、会いたいな。

帰りの電車で、ふっと東洋経済の記事に目が止まる。都内に住む40代の女性が孤独死をした、という記事。孤独死は年々増えているらしい、というのは知っていたけれど、その内容が凄まじく、見たくもないのに亡くなった現場の写真が不意に現れて、それが今、全然消化できない。
独りでいることが好きだけど、独りで死ぬことを想像したことが、実はあんまりない。この記事を読んで、突然「独り」ということが怖くなった。この女性は、20代の頃は健康で婚約者もいて、充実した生活を送っていた。でも体に病気が見つかって婚約破棄、その後体調も精神面もおかしくなって、最期は、トイレで死んでしまった。そのまま誰にも見つけてもらえないまま、4ヶ月。部屋には悪臭が立ち込めて、悲惨な状態だったという。正直なところ、こんな記事を見つけたくなかったし、読みたくもなかった。けれど、金曜日も仕事でとある包括センターの方と話しているときに、孤独死についての話題が出たのだった。そのひとは、「まずはとにかく身近なひとに関心を持つことです、どんな些細なことでもいいから。」といっていた。要するにコミュニケーションを取ることで、これは、いろんな問題が積み重なっているなかでのほんの初歩的なことに過ぎないことだけれど、きっと最も重要なことなのだ、と思う。そして実はとても難しいことだ。

「絶対の関心とは、祈りである」 シモーヌ・ヴェイユ

孤独、孤立、というのは、とてもこわい。独りが好きだけれど、それは、人がいるから、大事な人たちがいるから独りになれるのであって、本当の独りになるのが、とてもこわい。自分に関心のあるひとなんて、全くいないとも思っている。ましてこんな日記など、誰の関心も向けられず、誰も興味なんてないのだ。
卑屈になってはいけないよ、とIに注意を受けたことがあるので、卑屈にはならない。けれど、今日は初めて、「独り」ということの、もがくような辛さを、先ほど想像していたのだった。こんな風に死んでしまう人たちが、どれほどいるんだろうか。記事の写真が、わたしはとても怖かった。Kちゃんの写真を思い出して、払拭しようとしたけれど、生々しいそれは、本当に頭の中に残ってしまったのだ。
プールの奥底くらいにまで静かな状態に心をもっていきたい。ノラジョーンズは独りで車に乗って、辺りに何もないだだっ広い道をどこまでもどこまでも走っていて、それは美しい女性の姿。顔には凛々しさがあった。
強くてたくましくて、飄々としている女性に憧れているのに、こんな風にこわいこわい、と嘆いていては、そんな風になれないな。

うまくまとまらない日だ。そういえば、今日からの日課として毎日必ずキウイを食べる。
きょうはキウイを二つとりんごを一つ買った。キウイはすでに熟れていて甘い。



2019年05月25日(土) 日記

シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』、メイ・サートンの『独り居の日記』を同時に読んでいた。
とくに「日記」を買おうと思って買ったわけではなく、偶然に、この2冊が手元におさまっていた。

日記。

日記は毎日書いている。手書きの日記帳もあれば、PCのなかに保存しているものもあれば、適当な紙っぺらにその日の出来事を乱雑に書き記したものもある。それに加えて、この日記サイトを見つけた。多くの誰かが「ただ日記を書いている」シンプルさが気に入った。
わたしはさいきんめっきりネットから遠のいていて、(単純に光で目が疲れる)仕事以外ではもはやインターネットに触れていない。でも、久しぶりにこの変なサイトのなかの、見知らぬ人の日記を読んでいるのはなぜか心地よかった。なんか、一昔前のにおいがする。それが良い。だからこれにも書いてみよう、といま書いている。

きょうは独り屋上に座っているときに、サガンの名前は、変換すると左岸になるのか。綺麗だな、と考えていた。左岸、字面がいい。気に入ったから、左岸。とここの名前に打ち込んだ。
検索すると江國香織の小説が出てくる。それもそれで気に入った。

何でもないことを、取るに足りないことを、ボソボソと書き連ねていこうと思っている。
このサイトが無料で使用できるのは2週間と定まっていて、それ以降は有料になる。
なんとなくこのサイトにはお金を払ってもいいんじゃないか、という気がしています。

飽き性だから、すぐに飽きると思うけれど。

今日はアコーディオンで「幸せなら手を叩こう」を、大変たどたどしい指使いで弾いた。音符も読めない人間が、よくもこんなに複雑な楽器に挑戦しようと思ったものだ。独りで奏でられる、というのがこの楽器の良いところ。
だからか、アコーディオンを触るひとには圧倒的に「おひとりさま」が多いらしい。
蛇腹を動かすとき、呼吸を吐いたり吸ったりしながら、一体になる瞬間があって、それが心地よい。
普段使わない指を使って、脳がつかれる。終わったあとに食べるチョコレートがやたらと美味しく感じられる。この時間がとても好きだ。今日はジーンケリーの曲がずっと流れていた。べつにうまくなりたという訳ではないけれど、楽器に触れる時間、へたくそだけど、自分の音を出す時間は、いまのところ尊い。

今日はようやく金曜日。明日も労働。でも、『工場日記』を読むと「労働」と言えるようなことは何もしていない気がしてくる。それでも、頭を使うよりも手を動かしたい、身体を使いたい。できないことがたくさんあって、野菜の切り方も下手で、当たり前のことが当たり前にできない。でもじぶんの不器用さを実感することは時になぜか不思議な安心感がある。手を使う、身体を動かす、あちこちに意識を向ける、そういうことの積み重ねは、わたしにとって大事な作業だ。訓練だ。
しかし、休みたいなあ。めんどうくさいなあ。というのは本心。棘のある言葉を店主に向けられると、素直に心がひりひりする。
何かできるようになるのは、わたしは、たぶん50歳を超えてからくらいなのではないかと思う。だからそれまでは生きていないと。

今日はここまで。ノラ・ジョーンズの新しいアルバムが素敵です。


正確な5月25日の日記。

前半は5月24日のもの。でも、書いた時間はすでに0時を過ぎていて25日と表示されている。
いまが、確実な5月25日。の、22時半。朝起きると、空に雲がひとつもなく青空で、気持ちが良かった。
こんな日に働きに出るのは億劫で、だから布団のうえに長いこと寝そべっていたが、意を決して目覚める。
暑くなる前の涼しい朝に、せまいせまいベランダに腰掛けて、ずっと上を見てた。
働き先の駅が、好きではない。やっぱりきょうも人が多く、それだけで辟易とする。いったいこんな暑い日の昼下がりに、みんなどこへ向かっていくんだろうな。八百屋のおじちゃんは今日も声を張り上げて、青果を一生懸命に並べていた。おっちゃんのそういう姿は見ていて気持ちがいい。

開店15分前に店に着く。店主は来ていない。でも、お客さんが来てしまった。
席に座らせて、水を持って行き、曲を流し、店主が来るのを待ち、けっこう待ち、そして現れた店主は顔色がいつも以上に悪く、半ズボンをはいていて、両手には重そうなビニール袋を抱え、そこにたくさんの野菜が詰め込まれていた。
お客さんはきょうも少なかった。怒られるのがいやできびきび動くと、怒られる代わりにいつも以上に話しかけられ、それはそれで手を動かしながら対応するのが難しかった。
途中で店主はいなくなった。しばらくすると帰ってきて、なにをしていたかと尋ねると「境内のなかで涼んでいた」という。そうですか、と返事をして、労働を終える。ときどきトンチンカンな発言や行動をするこの店主をけっこう好きだけど、きょうもそれなりにチクチク刺さる言葉があった。カナダ土産の長いメープル味のポッキーをもらう。メープルの素朴な味がした。帰り道にも人があちこちにいて、それはそれはつかれる光景だった。暑い、というだけでたちまちすべてのことが嫌になる。

今日読んだ小説のなかの「ビビ」という女性のこと。きっとこれから思い出すであろう女性のひとり。

ビビ。ずっと病気で人と同じことが一度も出来なかったビビ。手が綺麗なビビ。教育なんてろくに受けていなかったビビ。日課が、アパートの屋上で、物置に座っているだけのビビ。結婚相手がいつまでも見つからなかったビビ。青春なんて一度も知らなかったビビ。病気の暗さが毛穴の奥から滲み出ていたビビ。誰の子かわからない子供を身ごもって、そして病気が治ってしまったビビ。相手が誰なのか、誰にも口を割らなかったビビ。ビビ。悪魔、と呼ばれていたビビ。

ビビ。ただ呼びたい。


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左岸 [MAIL]