昼食に誰かを待つ日は

2019年11月06日(水)

気分が滅入っていたが、金曜日の夜表参道に踊りに繰り出し、翌日は静岡に踊りに行ったところずいぶんと朗らかになった。踊っただけで人生がすべて明るいものに思える。静岡では、ブラジル人のトン・ゼー(83歳)を生で見て、老人なのにもかかわらずまるで生まれたての無垢な赤ん坊のような姿にいたく感動した。歌詞の翻訳が後ろのスクリーンに流れていたのだが、その歌詞は良い意味で宗教的で、一種の神様のような人物なのかもしれないと陶酔。幸せからは逃れられないという恐ろしい歌詞、幸福に身を預けても良いという確かな確信が沸き起こる歌詞があったのでここに載せる。


私たちが起きた時 あなたに伝えたい
人は必ず幸せになれる 人は必ず幸せになれる
その時が来ても誰も逃げられない
ベッドの下でも 誰も隠れられない
幸せは人々の上に降りかかる 幸せは人々の上に降りかかる


必ずそれは来る、というニュアンスはある種の恐怖も含まれているし、ましてや「逃げられない」などと言われるとネガティブなものが迫ってきているように感じられるのに、なんとその正体が「幸せ」だなんて。怖がっていても必ず包み込まれてしまう。最近の生活でたしかに実感している節はある。ずっと泥沼にはまっていることなどなく、一瞬一瞬でたしかに幸せになっている。幸せの定義は人それぞれであるけれど、あくまで個人的なそれは、例えば誰かと笑い合うことや美味しいものを食べること、踊っているときや友人と酒を飲む時間など。朝起きて光に包まれているときもそう。知らない間に、隠れる前に、幸せになっている。


トン・ゼーを見ていたら、人間ってこうあるべきだよなあと背中を押されたような気がした。とても自由なひとで、縛られたら叫び、追われたら全力で逃げ、幸福なときに大泣きをし、絶頂に達するときには持っているギターを叩き壊してしまうような奔放さ。それで良いのだと見ながら感じて久しぶりに生き生きとした。そのせいかライブの直後は隣のイノウエに、「あなた急に肌ツヤが良くなったよ」と指摘された。内部がみなぎると皮膚の外側にも作用するらしい。


初めて静岡の「さわやか」に入ってハンバーグを食べる。その後ブックオフに行き、5分で出ようとお互いに言っていたのに結局20分ほど滞在し、本を数冊購入。私は100円の文庫本を選んだが、イノウエはハードカバーの500円以上もする本を選んでいた。ブックオフではいかに金をかけず良いものを選べるかだと思っている。

連休が明けて月曜日。本の校了に向けて本格的に忙しくなってきてしまった。今日は著者のひとりと口論する羽目になるだろうと朝から意気込んでいたのだが、口論にはならなかった。だが先ほどコインランドリーで洗濯物をまわしている最中に連絡が入り、その文面を読んだところこちらの要望があまり伝わっていないようで、結局「自由に・直感に」やらせてくれとのこと。デザイナーには「あまり自由にやらせないように」と言われていたのだが、結局私も強く言えないまま「直感でお願いします」と折れる始末になった。指示をして忠実に何かを書く人よりも、直感で自由にひらめきを大事にする人の方がでも確実に面白いことは確か。何があっても自分の責任であるので、とんでもないものが上がってこないかがただ心配、その反面楽しみでもある。それにしても私は相手に何かを言われると「そうかもしれないな」と思いすぐに納得してしまう。それについて恋人は「もうすこし粘りなさいよ」というようなことを時々いう。主張を貫くのも大事だけれども、私はその人から生まれるものを見たい節があるのと、本当にそうかもしれないなと感じるのであまり自我を通す気はない。ただし、自分の道理に反するものについては全力で「それは違うだろ」と言っているつもりだ。現に前の会社で社長からの軽いパワハラに遭ったときには人としてどうなのか、ということをはっきりと伝えた。それはおかしい、と。逆に言うと、人としておかしくないこと・恥じないことであれば別になんでもいいということにもなる。ずいぶん簡単な構造をしている。


先ほどのコインランドリーの一件で、またもこの一週間不安な日々が続くのだろう。この仕事をしていると、必ず終盤で嫌になってくる。何かしらのハプニングが必ず起こるからだ。それも締め切り間近に。誰かしらの板挟みになり、誰かからは確実に嫌われる。そういう役回りは仕方がないことなのだけれど、皆で気持ち良く仕事ができないものなのかしら、と思う。

今はもう、祈るばかりだ。どうにか誰も傷つきませんように。無事に本を作り終えられますように。
イノウエは今、インドネシアについたらしい。


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左岸 [MAIL]