昼食に誰かを待つ日は

2019年09月12日(木)


千葉が大変なことになっていて、電柱がなぎ倒されたり、屋根が吹っ飛んでいたり、何より停電と断水の被害が尋常じゃない。わたしは今千葉に住んでいないけど、友達がいる。親もいる。そんななかでのうのうとこの狭いオンボロ木造アパートのなかで、悲惨なニュースを小さな画面で見ることしかできない。

こんなときに頼れる場所や頼れる人は限られていて、外部からの救助に頼らなければ、力に頼らなければ、どうしようもないのに、声すら届いていない。きっと自分が同じ状況になっても、誰にも助けてもらえないし、声も届かないんだろう。自分が過酷な状況にいるなか、のうのうと生活をしている人たちの姿が頭に浮かんでもきっと何も言えない。

いざ自分の身に何かが起きたらもう受け入れるしかなく、絶望するしかなく、力を失うしかなく、それだけがはっきりとわかる。希望が何もないということだけがわかる。けれど、こんな暑いなか寝る間も惜しんで働いている人たちがいることも忘れちゃいけない。感謝することも忘れちゃいけない。
自分が今こんなに平凡な毎日を、小さな愚痴を吐きながら生きられていることがどれだけ尊く恵まれているのかということを、もっと噛み締めなくちゃ。これからますますひどいことが起こるだろうし、その時が来たら受け入れるしかないのだけれども、もうどこにいたって安全な場所はない。あちこちで何かが起こる。そこにたまたま立ち会っていないだけで、たまたま立ち会っていないことのほうが奇跡に近い。

今日も寝床がある。今日もご飯を食べることができた。親や友達と連絡を取り合うことができたし、人と話すことができた。これだけのことがどれだけ幸せなことか。多くを望みすぎないこと、当たり前の日常に感謝すること。大きな希望はないけれど、小さな幸せを噛み締めること。この地続きだ。高望みはしないから、どうか平穏な生活だけは、みんなに平等に、与えられていたらいいのに。


 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]