昼食に誰かを待つ日は

2019年09月05日(木)

一通のメールの差出人。その差出人の名前を見るたびに耳の奥の奥が呻く。頭が痛くなって鼓動が早くなる。こんなにも動揺してしまうなんて一体どうしてしまったのだろう。情けない。明日も同じ差出人からメールが届いているのだろう。仕事とプライベートは割り切りたいが、どこにいてもストレスは発生し、無意識に今後の動きや予定を組み立ててしまう。例えばシャワーを浴びている時や、換気扇の下で煙草を吸っている時。安静にしていたいのにつきまとってくる。ただ大抵のひとがきっとそうなのだろうし、大したことではないはずだが、それにしても心地は良くないものだ。

救いもある。今回新たに仕事を依頼したデザイナーの女性が天使のような人物で、どれだけ安心したことか。電話を通して聞こえる彼女の穏やかな話し方は、その声を聞いているだけで不思議と心が静かになる。とてもゆっくりとした、静かな話し方をするひとだ。見た目は上品で華があり、笑うときには子供のようにして笑う。こんな女性になりたいなあ、と思う。ゆっくりと静かに話すひとは、早口で横暴な態度を取るひとに対しても動揺しない。一部の人間は、焦っているとき、嘘をついているとき、また図星をつかれたときには早口になって声が大きくなり、相手の声を急いでかき消そうとする。けれども同時にボロが出る。ボロを出す。黙っていれば良いものの。わたしも気をつけよう。この女性のように天使にはなれないけれど、早口になったり、相手をまくしたてたり、必要以上に声を大きくしないよう心がけよう。ゆっくりでも、大きく構えていれば大抵のことはなんとかなる。

昨日の「虚言癖がある」ふうに見られていたこと。それについて今日も考えていた。思い出せば思い出すほど、なかなか堪える一言だ。虚言を発したことはこれまで一度もないのだが、そういうふうに見られているというのは一体どういうことか。私の話し方に原因があるのだろうか。彼女は大学時代の講師だったが、他の講師や先生と話している様を一度も見かけたことはなく、浮いている存在だった。リュックにゴダールのバッジをつけていたので興味が湧いて話しかけたのをきっかけに話をするようになり、授業終わりには自然に二人で神保町の喫茶店へ行き、さまざまな話を何時間も続けていたのだった。その時にも彼女には、「演劇に出てくるみたい」、「映画を見ているみたい」と言われていたが、やはりそれは虚言癖があるのと同等の言葉だったのだろう。発する言葉や状況が、まるでフィクション映画のようだったのだと思う。ひとつ言わせてもらいたいのは、けれどわたし以上に彼女が演劇的であり、映画的であり、もはや何者なのかわからない未知の存在だったということ。あまりに現実離れしているのはあなたなのではないでしょうか、と何度思ったことだろう。これが5年前くらいの話で、そして1年前に電車のなかでぱったりと再会し、昨日ようやくゆっくりとまたご飯を食べて、「あなたの言うことが虚言にしか聞こえない」と、面と向かって言われた次第だ。だいぶ年が離れてはいるが、彼女をわたしは友人だと思っている。そのためあらゆることを正直に素直に話すと、その中には不快な話も混ざっていたために明らかに彼女の顔は強張り、がっかりとしていた。
「あなた自分が嫌にならないの?」という質問。嫌に、なります。「嫌になったほうがいいわよ」

自分が嫌になって、この身から離れたいと思ったことはこれまで何度もあった。わたしは自分から離れられないのであれば、じぶんの中に何人もの人格をつくり、日ごとに彼らを入れ替えようとしていたのかもしれない。そうじゃなければ、こんなに毎日言っていることや考えていることがぶれていないはずだ。要するに、調子が良いのだ。けれども、もう一体どれが本当の自分で、どれが自分の意思で、どれが自分の言葉かなんていうことはわからない。わたしの中の中心人物が誰であるのかがわからないから。

彼女は、「わたしは自分がどうしたいかですべてを決める」と言った。

「で、あなたはどうしたいの?」

この質問に答えられるはずがなかった。自分がない。自分がいない。これはもしかすると大変なことかもしれないが、いまさら自分を見つけようとも思っていない。見つけてどうなるのだろうか。何もかもは、けれどもわたしが判断し、選択し、決めていることだ。それは間違いない。ほとんどそれは、その瞬間の直感だけで決めている。わたしのなかのすべてのわたしが直感したことだ、と言うしかない。

なにを言っているのだか、そうしてわからなくなってきます。ただ、事実は事実。嘘はついていないのです。それだけはわかってほしかった。


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左岸 [MAIL]