昼食に誰かを待つ日は

2019年09月03日(火)

朝、パソコンを起動しメール画面を開くと、またもや不穏な雰囲気を持つメールが届いていた。
穏やかに何もかもを終わらせようとしたこちらの努力も虚しく、あのデザイナーからまたもや怒りの、ほとんど不満に満ちた内容のメールが届いていたのだった。

またあなたと仕事させていただく気はありません。そんな人と一緒に仕事はしたくありません。

私も彼に二度と依頼をするつもりはなく、社交辞令のつもりで言った言葉に対してこのような返答が返ってきたのだが、もう何も言うことはなく、ただただ力が抜けた。

どうぞ去ってください。あなたと仕事をする気は、私にもありません。


今日はあらゆる人にメールを送り続けていたが、あまりに慎重になってメールの文面を考えていると送信ボタンを簡単に押せなくなる。躊躇いが生じる。何を怯えているのだろう。そうしている間にも時間は過ぎていく。顔を見て話せたら、直接話せたら、どれだけ良いだろう。

いつもお世話になっております。大変申し訳ございません。

意味がない。意味がない。社会にこのような言い回しが共通していなければならない理由は、どこにあるんだろう。虚しい。不気味だ。メールを打つのがアホらしくなりました。という理由でいつかことごとくすべての仕事を放棄してやりたい。
そもそももうPCなどに触れたくないのに。

昼の休憩時、まったく違う世界に逃避するため多和田葉子の小説を読んでいた。意味不明な単語の連なりは妙な動きをしていて、思考も、感覚も、言葉も、別世界に思える。
自分に自信がなくなりかけているとき、軸がぶれているとき、弱っているとき、そばに信頼できる作家の本があることで、ぐらついていた足元の震えがすこしだけおさまる。
ここだけには誰も入ってきてほしくはない。入る隙を与えたくない。どんなに刃物のような言葉を向けられたとしても、それに耐え得る器を自分の中に隠し持つこと。それが私の支えになる。

武器を持つこと。
ここ最近、武器をもつ人間に出会った。その人の武器は、数学。
それを突き詰めて行き、何があっても、どんな状態に陥ったとしても、この武器さえ強固なものにしていれば彼はどこへでも行けるということだった。生半可ではなく、本当に突き詰めた結果、そのひとは高い高いところに身を置き、そして今もなお、数学を突き詰め続けている。とても孤独な作業。果てしない作業。
わたしには武器が何もない。誰かに勝てるものが、なにひとつない。
けれどもひとつ、ずっとそばにあるものはある。それがなければ今わたしはこんなことを書いていない。

外に開けていくことは確かに大事だ。わたしの恋人は、わたしの手を引いて外の世界に導いてくれる。
けれども実際、わたしは内にうちに潜りたい。潜っていった先で、武器を手に入れたい。あまりに外に開かれすぎると、分散して、シャボン玉のようにはじけて、自分自身を見失ってしまう。
この考え方が間違っているのかもしれない、とも思っていた。けれど、私と同じ考えの人間を見つけたとき、なぜかとても安堵したのだった。まったく私とは別の人種ではあるのだが。
彼は間違いなく日本のトップレベルにいる人間なんだろう。そして本当の意味での孤独な人間だ。私はこの人と比べると全然孤独ではなかった。本当に独りで戦うというのは、果てしない作業なのだ。だからこそ、本当の武器を手に入れることができる。

賢くもないこの頭で、今考えることはなんだろう。
外に開いてくれる人の手を、離したくはない。

真っ暗な部屋の中で、ようやく本当の静けさを感じる。
まるで静かな動物の、息をしない動物の体の中にいるような感覚だったが、これは多和田葉子の小説を読んだせいか。



 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]