昼食に誰かを待つ日は

2019年07月19日(金)

昨日の夜は香港にいるバリキャリOLの理穂さんと久しぶりに連絡を取って、互いの近況を報告しあった。私たちに共通していることは「ひとりで居られるようになってしまった」ことで、なぜこんなにもタフになってしまったのか、ということについてひとしきり語り合う。薄っぺらい表面的な関係を維持するために費やす時間がとてつもなく無駄なことに思われて、だったらひとりでいることを選ぶよね、と。
一見ドライに見えるけれど、より深い部分で分かり合える数少ない人を、私たちはおそらくとても求めているのだろう。理穂さんはよくモテる女だ。けれど今年の冬に泥酔しながら私の部屋に来たときには、スイス人の彼と泣きながら電話をし、それはどうやら別れ話で、ついにこの部屋で彼女たちの関係は終わりを告げた。
なぜわざわざ私の部屋で別れ話をするのだ。縁起悪い!
彼の前では努めて明るい声であったが、それでもその後はシクシクとこの部屋で泣いていた。とてもひとりでは耐えられなかったのかもしれない。けれど、その後は清々しい顔をしていたようにも見えた。女は上書き保存、と言われるがそれはあながち間違いではない。そんな彼女には今珍しくボーイフレンドがいない。だけど昨日は、本当に溺れるような恋がしたい、と言っていた。そんな人が現れないかなあと。溺れるような恋愛は身を滅ぼすし危険だよ。と言うと、「一度きりの人生なんだから、それくらいまで人のことを愛したいよ」とのこと。その後私も色々と考えた。本当に人と向き合うとは、人を好きになるとはどういうことだろうと。
でも考えてもよくわからなかった。考えるより先に感じるものなのだろうけど。

時々自分の意思が希薄になって、白黒はっきりさせなくても、なんとなくこのままで良いのかもしれない、と楽な方向へと進んでしまうことがある。でもそうなると関係自体がうやむやになって、さらには相手を尊重することや思いやることすら出来なくなってきてしまう。相手に対して本気で怒ったり本気で悲しんだりすることもできなくなる。好きな人に対して感情が機能しなくなる、というのはなんて寂しいことだろう。感情は厄介だけど、一緒にいるからこそ、あらゆる感情が引き出されるんだもの。一緒にいるということはどういうことだろうと、思いやるというのはどういうことだろうと、このひとでなければならない理由はなんだろうと、時間をかけて考えてみようと思った。そして、少し距離を置いてみないかと提案したところ、相手を悲しませてしまったのだった。でもそもそもなぜこんなこと言ってしまったのか。一番のきっかけは、このひとは私を必要としていない、と思ってしまったからなのだ。すべて自分の世界で完結している。私はその隙間にも、真ん中にもいない。そう思ってしまった。それは思い過ごしなのかもしれない。でも、思ってしまったのは事実。同時に、井上くんがもしいなくなったら、ということを想像したら悲しくて涙が出てきたのも事実。

ずっとこんなことばかり考えている暇もなく、今日は一日中外に出て動いていた。そして言い回しのきつい人間に久しぶりにあたってしまった。なぜそんな物の言い方をするんだろうか? こちらはものすごく冷静になって、逆にまじまじ耳を傾けてしまう。一方的に文句のような愚痴のようなものを聞かされたが、彼にとってそれは「言ってやっている」という意味合いが込められていたので「おっしゃる通りです。貴重なご意見ありがとうございます」と砂を噛むようにして、一応の言葉を返した。この手のじじいに今日は二人も当たってしまった。

なんだか疲れてしまって、家に帰ってからはしばらく動けなかった。
明日も朝から仕事だ。でも今は、一息つく間もないくらい動いていたほうが余計なことを考えなくて済む。
コインランドリーで本を読んでいる時間だけがとても平和(でも今読んでいる村上龍の小説は平和どころか殺戮の嵐だが)。

先ほど前の職場の女性から連絡が来た。仕事を辞めるそうだ。
それを社長に告げると、なんと泣かれたという。ぞっとする。


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左岸 [MAIL]