昼食に誰かを待つ日は

2019年06月26日(水)

目的の地に行くために、わざと遠回りをする。快速に乗らず各駅で行ったり、明らかに乗り換えした方が早く着く場所に、一本の電車で向かう。律儀に各駅に止まる電車に乗り、そうしていつまでも降りない乗客がここにいる。今日も荻窪から池袋まで、わざわざ丸ノ内線に乗って向かった。昨日から体調が優れず、新宿あたりで人が多くなって、ますます具合が悪くなる。イヤホンで音楽を聴くのも苦痛で外したけれど、かといって雑音は何も耳に優しくはなく、そのうち首から頭にかけて嫌な重さを感じ、それがそのまま頭痛へと繋がった。ぼうっとする目のやり場もなくて、車内で金井美恵子の『岸辺のない海』を読む。苦痛だった。頭が痛い時に活字を読むとますます目が回るのだけれど、それでも美しい描写が救いで、小説に没頭し、色々な煩わしさを一時的に忘れることができた。

池袋の本屋を回り、疲れ、帰宅。

今日は絶対に靴を洗うと決めていた。近所に靴のコインランドリーがあって、初めてそこに行き洗濯機(靴専用)の中に靴を入れ、回り終えるのを待つ。このコインランドリー内がサウナのように暑く、はじめのうちは中で待機していたけれど段々と身体中に熱がこもり、白目をむいて倒れてしまいそうだった。無駄な我慢をなぜしていたんだろう。
外に出て、ファミリーマートに行き、大して食べたくもない白くまアイスを買って半分食べ、半分捨て、一服し、そのままぶらぶら外を歩く。何も考えないで歩いている時間は空白で心地がいい。でも途中、大事な連絡をしそびれていることに気がついて、気がついた途端に空白の時間が終わった。本当になにも考えない時間なんてあるんだろうか。それは相当に疲れる。でも考えないと、本当に私は呆けてしまう。すでにいろんなことをあまりにも忘れすぎているので、物事をただ通過するだけではなく、それを覚える努力、知る努力、蓄積する努力をしなければいけないのかもしれない、と最近思う。

靴を洗い終えて、部屋に戻って、花瓶の水を取り替え、風呂とトイレを掃除し、ついでにマグカップにハイターをかけたりしてた。昨日からカマキリに似た虫が天井から張り付いている。少し前ならすぐさま殺しにかかっていたところを、守り神なのかもしれないと思い込むようにして生かしている。なぜこんな風に思い始めたんだろう。どうでもよくなってきたのかも。

それにしても、もう六月になってしまった。そしてこの間、この間に何ができたんだろう。今年に入って何かしたかと言われると、本当に何もしていないのだった。覚えていない、忘れてしまった、何もしていない。こんな風に言っているのがだんだんと嫌になってくる。全てがただの言い訳に思える。去年はそれでよかった。そういう年だったから。それが必要だったから。考えても辿り着かないから、自分の言葉を持ち得ないから、覚えると責任が生じるから、全てに対して真摯に向き合うのが怖いから、とても、精神が持たないから。
でも今は、埋める作業をしないと本当に何も無くなってしまうような気がしている。

汚れを落としていく作業が必要で、不要なものは全て捨てたい。今必要なものしか要らない。
だから部屋を掃除し、不要なものは徹底的に捨てた。それで次、ここに何が必要なんだろう。

とにかくたくさん眠りたい。起きている時間より隙間がないような気がする。

「公園のベンチで、煙草を吸いたいと願っていた。煙草を吸って、それから何よりも眠りたかった。何よりも眠りたい。身体を伸ばし、あるいは丸め、眠りを貪りつくしたいと彼は願った。眠りほど貴重なものがあるだろうか。この解放、生の時間からの束の間の解放の夢である眠り。」


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左岸 [MAIL]