てくてくミーハー道場

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2017年04月22日(土) 赤坂大歌舞伎『夢幻恋双紙−赤目の転生−』(赤坂ACTシアター)

安定力のなかむら兄弟。

ダメ出し(あるん?!)は後でちまちま書きますが、まずは(恒例のデカ字で)


う ま い 。


字、大きすぎましたか。すいません。

この「うまい」は、出演者の皆さんが全員(ほんとに全員)演技力がある、という普通の意味だけにとどまらず、作・演出の蓬莱竜太氏が「うまい」っていう意味も含む。

それも、彼の、通常の劇作家としての実力に今さら感心しているわけでなく、今作がちゃんと「歌舞伎」だったことへの感銘である。

本当は、芝居を観るのにいちいち「これはジャンルは何であろうか」なんて考える客ほどヘボい客はないので、普通に「面白かった」「感動した」と言ってればいいのであるが、やってる側がとりあえず「赤坂大歌舞伎」と銘打っているので(以前、この「大歌舞伎」の「大」に対して文句言ったことがあるぼくだけに)、「そんなら、ちゃんと『歌舞伎』かどうか観てやろうじゃないの」などと、かわいくない客と化してしまったわけである。

実を言えば蓬莱氏は、ぼくがマストで観に行く作家さんではない。モダンスイマーズにも出会うことなくここまでシアターゴアーをやってきた。

だけど、今回初めて蓬莱氏の作品を観たわけではなく、井上芳雄主演作というヒキで観に行った『Triangle 〜ルームシェアのススメ〜』『Triangle Vol.2 〜探し屋ジョニーヤマダ〜』『正しい教室』、井上ひさし先生追悼作で藤原竜也主演『木の上の軍隊』、あと題材に惹かれて観に行った『スコット&ゼルダ』を観ている。

これらそれぞれ、もちろん良い作品だと思ったのだが、正直に申し上げると、これで蓬莱氏の大ファンになって「よし、次の作品も必ず行こう!」とはならずにここまで来た。

大変申し訳ない。

ぶっちゃけ、ぼくが“変な”芝居を好んでしまうたちなのもいけないのである。

今日の作品を観て改めて感じたのだが、蓬莱氏の作品は、普通の人間の心の美しさを訴える作品だと再認識した。

登場人物には突飛な人物はほとんどいない。みんな、常識の中で“正常に”生きている(変な言い方だが)

ストーリー自体は時空を超えているのだが(今回の話も、“転生”がメイン設定)、考え方が変でついていけない人は出てこない(そういう人が出てくる芝居もめったにないけど、ぼくが好む芝居だと、実はちょいちょい出てくる)

普通の、スーパーマンでも大悪人でもない人間が、与えられた状況の中で自分なりの力をふり絞っている姿に観客は喜怒哀楽をそそられる。

今作品の“太郎”もまさしくそうだった。

しかも、その思い通りにいかない状況に何度も何度もアタックしなければならないというのが今作のメインテーマ。

太郎が生まれ変わるたびに、お客は「がんばれ」と力が入る。

転生モノの典型といえばそうだが、誰しもが抱く「あのとき、こうしてればなあ」という願望を、登場人物は代わりに果たしてくれるのだが、これまた当然のように、こうしたらこうしたで、また別のバッドエンドが現れる。

結果、どうやって話を終わらせるのだろう、と思っていると(おっと、大ネタばれになるので以下略)

この終わらせ方がこれまたう ま い 。

なんか、テレビでよくやってるうんざりする映画CMみたいでほんとイヤなのだが、

「ラスト10分、あなたはハンカチを手放せない」

のである(ほんとぉ〜?←読者さまの声が聞こえる

いや、意外に周りの皆さんケロッとしてた気がするのだが(それじゃダメだろ!)、ぼくはもうグズグズ泣いてしまった。

このぼくが(どのぼくが?)恋愛ネタで泣くなんて今でも信じられないのだが(実は恋愛ものなんですよ)、つまり“普通の”恋愛ものではなかったってのもある。

で、ここで、「立派な歌舞伎だったなあ」という冒頭の感心に戻るわけである。

要するに、恋愛ものと言っても、ぼくが常々忌み嫌っているテレビドラマ(または邦画)的な恋愛ものではなく、岡本綺堂作品のような、新歌舞伎的な恋愛ものだったからである。

ぼくが愛してやまない、「筋の通った恋」(観たことない人には意味分かんないかも知れないが)であった。



もちろん、恋愛もの嫌いのぼく(しつこいですか?)をここまで泣かせたのは蓬莱氏だけの手柄ではなく、多分に出演者(特に勘九郎)のチカラであることは言うまでもない。

今回も例によってときどきおとっつぁんがフラッシュバックしてそっちの意味でも泣かされたのだが、とにかくひたすらに上手い。

そして、ほれぼれするような体つきをしている。←お、おばさん・・・?

違う!(←何が違うんだ?)そういうイヤラしい意味ではなくて、江戸時代の日本の男としての理想的な体つきなの!(江戸時代の人にしては脚が長めかと思うが、そこは平成の理想ということで)

歌舞伎の役者さんたちは、大御所になればなるほど実年齢よりもはるかに若い役をされることが多く、還暦オーバーのおじさんたちが十代の少年少女を演じたりして、厚化粧して衣裳着てるときはいいんだが、世話物の顔で着流しの懐がはだけたり、尻はしょりをしたりすると「・・・み、見なかった。あたしは見なかった」と言わざるを得ないことも多い。

それでも、踊りで鍛えた大腿四頭筋や腓腹筋などはアラセブンのおじさまたちでも見ごたえがあるが、勘九郎のような、おなかの肉もなくすっきりとバランスが整った体つきは、やはりアラフォー未満の役者でなくては望むべくもない。

しかも、ぼくらは歌舞伎俳優にRIZAPで鍛えたような人工栽培の筋肉など求めてはいない。マシントレーニングの痕跡のある肉体など“へ”(←暴言)なのである。

あくまでも、踊りで鍛えた体であるべきなのである(厳しい要求)

今回、やたら下帯だけの姿になるシーンが多いのだが、蓬莱氏もそんな勘九郎のセールスポイントを熟知しておられるのだなと思った(そ、そうなんだろうか・・・?)



そして七之助。

今回の役は歌舞伎の女方としてはかなり現代的な性格の女性だったが、そこは世話物の技巧も駆使してしっかりと“浮く”のを抑えていた。

それでいて、やはりどこかモダンさを感じさせる感性。

つくづく上手くなったなあと思う。

実は、これまでは甘い目で見ていた鶴松が今回は若干苦戦気味(でも、難しすぎる役だよ!しずかちゃ・・・いやお静ちゃんは!)だったので、七之助にしっかりと指導してほしいな、と思ったことである。

七之助も、部屋子に指導する立場になったんだもんなあ。時の経つのは本当に早い。

もちろん本人もまだまだ修行は積んでいかなきゃならない(役者の道は一生修行だから)わけだが、こうやって芸の力が受け継がれていくのが伝統芸能の醍醐味なのである。



亀蔵丈、猿弥丈、亀鶴丈には文句のつけようがなく安心三銃士。

今回ラストに特筆するのがいてう丈。

もちろん「中村座」だからこその大役ではあったが、まったく違和感のないスネ・・・いや末吉(今回の役名のつけ方、遊びすぎですよ蓬莱さん!前にもこういうことやった演出家がいたけど・・・)

普段出演されている歌舞伎ならこんな大量のセリフをしゃべることはないわけであるが、そんなプレッシャーをものともせず“本役”をモノにしておられた。

これからもしっかりと成長&熟成して、中村屋の屋台骨を支えてほしいと強く思った次第である。





さて、結局今月も木挽町には行く気をまったく見せないぼくでありますが、「伊勢音頭」にはちょっと心惹かれる・・・。

行くチャンスがあるとしたら明日だけか・・・(こりゃ行かないな/溜息)


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