昼食に誰かを待つ日は

2021年10月11日(月) 10月11日


秋なのに暑い。今日も半袖で自転車を漕いだ。一昨日は久しぶりにIと映画館でばったり遭遇し、話をすることができた。彼はやっぱり外に外に出る人間で、だから周りにいつも人がいる。居酒屋でふと席を離した瞬間にはもう、ヤクルトファンの客と懇意に話をしていた。そして私もそこに招き入れてくれたのだった。こんな風に外側に外側に連れ出してくれたのだよな、と彼の器の大きさに改めて気がつく。隣にいてくれたことを素直に嬉しいと思えた。その後私は酒を飲んで新宿のトイレに引きこもることになるのだが、自業自得だ。でも無事に家路につくことができた。

いろいろなことが停滞している、と思い込んでいるだけで実はそうではないのかもしれない。予定外のことしか起こりえない。それはいい意味でも悪い意味でも。ふとした時にはもう手元から離れているものが沢山あって、それは日々選択をしてそう言っているのだ。そんな風に自分で仕向けている。だからこれも自業自得である。そしてまた新しい出会いというものあって、それは自分が外に身を乗り出さなければ果たせない出会いだ。これも小さな選択の上に成り立っている出会いだと思う。そして全てに身を委ねることしかできない。大事な人がいなくなったなあ、と改めて思う。でもそれは必然的で、とがめる資格もない。でも諦めたくない関係性というのも、あるんです。

映画をとろうと決意したのに、決意した日からどんどんやる気が消耗し、今ではもうカメラを手に取ることさえ憚られる。けれど、背中を押してくれる友人がいるおかげで、まだマッチの火は完全に消えかけてはいない。しかし、この家に住人が増えたことで、なかなか家丸ごとを舞台にして映画にすることは現実的に難しそうだ。

女が出てくる。男が出てくる。部屋がある。他人がいる。心を通わせる。部外者である。侵入する。窓がある。窓を開く。誰もいない。人の気配がある。私たちは他人。

自意識というものを薄めたい。ここに家があって、人がいる。確かな気配があって、記憶がある。時間が流れている。その媒介者を務めるのが自分。自分が何か事を動かそうなど傲慢な考えは捨てたい。ただここにあるものをすくいとればいいわけで。そのためには目と耳をすますこと。

ただ、他人の声に耳を澄まし続けるのも、そんなに簡単なことじゃない。正直深入りしたくないとも思う。人と関わるということ、自ら歩み寄って行くことは、シンプルだけれど難しく、でも絶対的に必要だ。この家を舞台にするには、この家に住んでいる家主に歩み寄る必要がある。だから彼の話に、時々耳をすませる。

何にもならなくとも、この家で暮らす一定の期間は特別なものには間違いない。なぜ自分は今ここにいるのだろう、とふと思う。毎日、自分の家を初めて見るかのように見つめてみる。知りたくない人の家の事情や匂い。みんな、きっと知っているはず。カメラを通す。ろ過をせずにむしろ濁るかもしれない。でもこの家の断片をすくいとる行為をしなければと思う。


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左岸 [MAIL]