スリムクーラー1L




2020年10月29日(木)

ちかごろ
うんざりしている
知ったこっちゃないと思う
テレビから少子化…と鳴ると
でしょでしょ、と思う

誰が誰の子が死のうが苦しもうが
知ったこっちゃないのだ近頃
うんざりしている

なので
ハイコンテクストの中でローコンテクストにふるまい
かつ言語化はしないというやり方でとっとと仕事から帰る
定時より長く職場にいると悲しくって
泣けてくるので
とっとと帰る




2020年10月16日(金)

たまに、工場の人が産休をとるにはどうすればいいのかと思う

工場といってもそんな大規模ではなく、手作業の、
「こうじょう」と「こうば」の中間の規模、かつ、
コミュニケーションになんらか特徴あって、
そこに押し流されて来ている、
というのか、コミュニケーションで順番に産休をとっていく
(うちの事務には暗黙的にその雰囲気がある)ような
           ﹅﹅﹅﹅
コミュニケーションは「とれない」現場で、
数ヶ月、現場に、穴をあけて戻ってくるためには、
いったい何が必要なのだろうかと思う。

そのような職場環境では結婚=辞めどきであり、
そこに夢を見るようなていで飛び立つしかなく、基盤を整えてから
辞めようということができず、それもただ「はずかしい」といった
表現でなされるときもおおい。

わたしはそれはとても理不尽で、不平等なことだなと思う。
正規の人間はふたりとも同じ会社に勤めながら産休をとり戻ってくる(そして二人目へ)のに対し、
工場のパートはその手が使えない数ヶ月はそれなら辞めてくれ、と無言の圧がかかり、本人もそれを前向きに、踏み切り板に幸せのふりをして新天地に巣立つしかない。そこから先はわたしたちは知らない。それは新天地のようでいてもしかしたら暗渠かもしれないのに、おめでとうとしか言えない。

仕組みをつかえるように算段をととのえる、ということがとても重要になってきていて、私たちはいろんなことをよしとしなければならない。私は結婚しないし子供も産まないが、私が結婚も子供も産まなかった分のことは何も返ってこないし、そのことを権利としてもらえるわけでもない。産休分の産休じゃない休みがもらえるわけでもない。そして産休は休みではない。ただ会社からみたときに休みにみえるというだけだ。だが私も会社から休みにみえるというだけならそういう休みをとりたい。なぜ同じだけの休みを、それをしない人にも与えられないのだろう。バカ、と言われている気がしてくる。





古谷実「ぼくといっしょ」思い出しメモ

2020年10月13日(火)

◆すぐ夫といく夫

古谷実「僕といっしょ」は上京してホームレスになった中学生、小学生、イトキンが床屋に引き取られて少し闘って、また上野にもどる話である。

いまとなってはほとんど思い出せないが、主人公の兄弟の名前は、兄のほうが「すぐ夫」、弟が「いく夫」である。名字は…さきさか、だったかな。

このネーミングセンス、彼らの「親」はどう考えて、なにを思ってつけたのだろうか。すぐ夫は中学三年生(相当)?で、いく夫が小学三年生(だったはず)なので、四、五年は空いてるはずのだ。先に「すぐ」をつけて、四、五年後に「いく」をつける。「すぐ」をつけたあとの「いく」は決定事項のようでいて、もう別れるのが決まっている男を恨んでつけたようでもある。こんな、あてこすりのようにして子供の兄弟の名前を、四、五年かけて名付けている意味について考えだすと、わけがわからなくなってくるのだ。

すぐ夫とイトキンは、防御と隙の関係である。女性観や優しさの発想が真逆で、父性的なのがすぐ夫、母性的なのがイトキンという感じである。すぐ夫はバカで自尊心もないが、いく夫を守ろうという気持ちだけはある。ある意味サルチネスに受け継がれた部分でもある。古谷作品には人との関係が希薄な人が祈ったり願うタイプの作品と血縁関係を持ちながら兄がバカな作品が8:3ぐらいの割合である気がする。

たしかマネキンみたいなサイボーグのすぐ夫が被弾して頭部や腕を撃ち砕かれながら、うしろのいく夫を守ってやっているというイメージシーンが出てくるが、あれは名前としての「すぐ」に対し、「いく」はまだ単体ではありえる名前だが、「すぐいく」と繋げられたときには甚だ迷惑でしかないという関係をそのまま表している。そしてすぐ夫も本来「優」の訓読みでしかないのに、「いく」のためにシモに引き寄せられるという悲しい関係である。このような関係を仕掛けた両親というものに考えというものがなかったのだろうか、考えがなかったにしても、さきにすぐとつけた時点で次の子が決まっているという意味では考えていないはずがない気もする。

愛していたのか、していなかったのか。いや〜、してないだろうな。

◆イトキンの母

中盤、偶然イトキンの母らしき人が出てきて、イトキンとはニアミスのままふたりは会えないのだが、その母の行動原理が不可解すぎて、なんかこういう人がすぐ夫やいく夫を産んだと思うと納得できるかもしれない。

たしか話はこうだ。すぐ夫といく夫が屋台でなんか買った。買った人の顔をみたらイトキンの女版だった。絶対イトキンのかーちゃんだ!と確信し、イトキンを連れていくが、イトキンの母は公園の茂みの奥でホームレスとセックスしながら雄叫びをあげていた…という話だった。あの雄叫びをあげているのが、まったく他者を意識していない目には見えず、すぐ夫やいく夫をうっすら意識しているかのような気配があるような気がした。

イトキンの母は、何を考えているかはまったくわからないが、とにかく息子からは離れようと、逃げようとしていた。それだけは徹底していた。そして、そういった関係を壊そうとしていた。

◆いく夫の耳と散髪屋

すぐ夫といく夫とイトキン(ともうひとりイケメンがいた気がする)は川原の橋桁の下でホームレスとちょっと暮らしてた。ある日、河原で騒いでると、電車に乗っていた女子高生がそれを見ていて、その子の家が散髪屋だった。

女子高生がホームレスの中学生に人生について尋ねたかった。古谷実の世界では、全員がいきなり人生などについて語ってもいいことになっている(ラフな口調で哲学的?な対話ができる)のだ。

散髪屋だが、いく夫の耳(の上)は、毛がかかっていて、ずっと隠れている。

古谷実作品では悪い子供(世を恨んでいる子?)の耳の先はとんがっているのである。

いく夫はいくらかつらい思いをする。一瞬捨てられたり、一瞬で惚れた女に裏切られたりする。でも、最後まで見えない耳の先っちょは、最後まで尖ってなかったような気がするのだ。

◆親から何を預かったのかは思い出せない

最近つくづく思うのだが、親から何を預かったのだろうか。思考のフレームワークとかだろうか。話し合いで解決してこなかった家で生まれたり、ずっと物音に怯える家で暮らしてテレパシーで生きてるようになってしまったり、そういった世界で、親から何を預かったのかはなかなか思い出せない。

稲中で、前野が自殺しに来た倒産したネジ工場のおやじのふりをしてボートに乗ろうとしたら井沢と神谷が相乗りしてきて神谷が「何やってんですか前野さん」と言った瞬間前野の変装が中学生がハゲヅラ被って顔に死相を表す線をマジックで引いてトレンチコートを羽織っただけの状態に戻るコマがある。

僕といっしょの冒頭と最終回でこの現象の逆が起こる。冒頭とは血の繋がってない義理の父親が「(母親の代わりに)お前らが死ねばよかったのに」と、すぐ夫といく夫に宣言するシーン。そして最終回は、すぐ夫といく夫(とイトキン)が、出て行った実家にもどり「ここは俺の家だ」と闘いを挑むシーン。

冒頭のシーンでは小さなコマで正座して向かい合う兄弟と義理の父親が横から描かれ、父親は痩せてみえる。イトキンの母とやってたホームレスのような体格。

だが、最終回では、父親の体格はとてもがっしりとしている。すぐ夫はいすくまり、いく夫は泣きじゃくる。均衡を破るのはイトキンだったし、すぐ夫を動かしたのもイトキンだった。殴れる人を連れていくこと。

ノリをぶち壊し、ノリに埋もれていく。ノリをぶち壊すのもイトキンで、ノリに埋もれるのもイトキンがいるから。最終回はそんな感じだった。最後、いく夫が「(床屋に)電話してくる」と言って、両手をひろげながら走っていく後ろ姿と、すぐ夫とイトキンが視線をはずしながら横並びで「ヘッ」って少し白けた顔(ボコボコ)をしているのが印象的だった。

すぐ夫にとっては戻ることは解放なのに、ふたりにはどうしようもなさが募るだけ。

◆育めるものがもう残り少ない

もう高校生に相当する年齢で、学校に通ったことがないふたり。すぐ夫には野球選手が羨む筋力があることが示唆されているが、作中では、これが人生をどうよくするかはわからないまま終わっている。

◆どうしようもなさ

古谷作品では、少しずつ横顔が増え始め、首が太くなり始める。考える脳と、悪魔を意味する耳と、視線をいちどきに捉える断面として真横のアングルが増えたのか、それとも、わにとかげぎすで民家に突入する車を真上から捉えたように、稲中でしょっちゅう(岩下や神谷などの)女性の顔を崩して描いていたように、描けないということなのか。



僕といっしょメモ

2020年10月12日(月)

◆ブリオンのジオング

僕といっしょに出てくる人生やりなおせるボタンをもつ謎の球体野郎。宙に浮いていて、顔は黒水晶のような球体で目も鼻も口もないが喋ることはできる。宇宙服のような素材の服を着て、袖から先は手がない。下半身はなく、UFOのようなスカートが拡がっている。裾は前が突き出していて、その中央に人生やりなおせるボタンがある。作中に何度か(すぐ夫がその質問をするたび)登場する。

※一時期放映されていた、サンセイR&DのCMにも構成がよく似たやつが出てきていた。(パチンコ玉に顔のある、下半身がUFOの物体)

◆先っちょ考

古谷作品は先っちょが入るか入らないかがモチーフとしてよくでてくる。稲中ではナスであり、僕といっしょでは野球一家の兄妹の2mm、シガテラでは谷脇捜索中に暗闇のぶどうのような表現や、南雲さんのバイト先の上司や同級生の罠など。


暗数の暗渠

2020年10月10日(土)

服着てあるいてると、きびしい。自分はすでに暗数になって、暗渠に入りつつあると感じる。もうとっくに強制スクロール面の壁に挟まれてて、どうにもならない。

信号待ちでバスが止まり目を開けて、反対車線の歩道をみると、バスを降りて歩く人の列があり、そこにいない人(暗数、自分)を感じようとする。最近、いない人が気になる。この社会の歩留まりが気になる。

背の高い人が目につく。整ったカップルが目につく。車でワープする家族が目につく。生き残った人ばかりだ。サラリーマンは太ったとは言えどれも意外と恰幅がいい。生き残った人ばかり。最近はガタイ(バイタリティ)やポージングとして生き残ってる人しか外にいないのではないかと思うことが増えた。

ポージングとは空間認知とかまなざしの総数に支えられた自己モニタリング能力のことだ。車の駐車のとき、ナビ画面に映る車を真上から見たように再編集された画面のようなことだ。私が勝手に思ってるだけだ。つまり女性はポニーテールの揺れまで計算して生きているというような、計算はしていないにしても誰かのポニーテールをみて、私のもこう揺れるだろうといったインストールで髪を結っているようなところがある。これの壊れっぷりは世の中の見えかた、解像度の悪さの曝露であって、超ヴァルネラブル、ワンモアヴァルネラブル、ヴァルネラビリティ待ったなし

今の時代、自己モニの平準化機能が強くないと、生き残れないか、少しずつ周縁に掃き出されていくのだと思う。無理に住むと、病んだり、成果主義によって少しずつ金銭的に暮らせなくさされるのだと思う。

だんだん自分は生き残れないという気がして、バスを待つ、すらっとした老人をみて、わたしはこういうふうに老人にはなれない、そのまえに暗渠に消えてしまうのではなかろうかと思うことが増え、そうなると、バスから降りる人の数人のうちにも、その中にいたはずの人を見ようとするようになった。そして自分ももうすぐ何らかの理由でそこにいくのだろうなと、望みなのかうんざりなのか、その半々ぐらいで「そこ」に期待&恐怖するようになった。

フレスコ。スーパー、役所、図書館はまださまざまな人がいるような気がする。ここにおったんかわれーと思う。図書館が一番近いような気もするが、またまったく違うような気もする。フレスコで腰の曲がったおばあさんをみると、やりたいことは全部やったんですか?と思う。全部我慢してわからなくなっちゃったんじゃないですか、とも。それから世の中の悪についても思う。世の中の栄養の吸い上げかたを思う。そしてまた暗数、暗渠のことを考える。

自分の服が暗数を予約している気がする。服が包摂を拒んでいる。鈴木志郎康さんは白がやさしく、闇がやさしく、といったような感じのことをよく書いているイメージがあるが、闇がやさしいのはそういうことなんだと思う。信号待ちで、向こう側の人からどこのカタログやねんと思われてそうで怖い。ちゃちゃいれマンデーで大阪の市井の人の服をみると安心する。年齢による服の誤差も年々広まっている。

21エモンの0次元の恐怖という回がある。昔夏休みまんが子供映画大会みたいなやつで見た記憶があって、最近またおもいだしてAmazon Primeでににちレンタルで見たりした。

子午線6の鼎談で松本圭二が思潮社現代詩文庫鈴木志郎康詩集の背表紙の著者近影について、ゼロ次元ですよと言っていた。著者近影というか、鈴木志郎康さんがパンツ一丁で目を閉じながら歩いている全身を正面から撮影したもので、視線恐怖だった(今も)私は「この人も視線恐怖なんだ!」と思って親近感をおぼえたことがあった。

ゼロ次元というのは1960年代のパフォーマンス活動らしく、なんとなくオゲレツな、アメリカでやったらかっこいいのだろうがいかんせん日本なのでまず歯茎に栄養が足りてねえよみたいな、なんか汚さばかり目について、自尊心が低下していく感じがする。

原作にゼロ次元の恐怖はあるのだろうか。21エモンの新装版を買おうか、どの話だろうか。ノッペラ星が近い気もするが、どれだろう。

31話「目玉と口が散歩する? エモン・ゼロ次元の恐怖!」
http://www.mars.dti.ne.jp/~yato/21/31.htm

これも暗渠に運ばれていく人の話だ。SNSの風刺にもみえるし、AIの反乱とか、効率化重視のディストピアとかいろいろ思い浮かぶ。

AIが、支配する星の町外れの砂漠にある切り立った岩間のブラックホール(これがゼロ次元らしい)にベルトコンベアで老人をがんがん流し込むという話で、21エモンに優しくしたおじいさんはブラックホールに流し込まれてしまう(スローモーションで印象的にのまれる)。そして次は21エモンを馬鹿にしていた若者らがのっぺらぼうのまま運ばれるが、どれが自分の体かわからないので戻れない。とりあえずエモンやモンガーは脇をつかんだり、モンガーの超能力で流される体をレーンの外に置き直すが、とても間に合わない。と、そのとき…という話なのだが、もう私もすでにゼロ次元に入ってしまっている。

鈴木志郎康さんも、浜風文庫に詩が投稿されなくなってかなり経つ。ずっと私はネットで詩のことを追いかけるうちに、そこで死ぬ人のことを言葉としてみてきた。鈴木志郎康さんはまだ生きているはずだが、詩を見ることはできない。Facebookでは更新されているのかなと思いはするが、わからない。私にとっては鈴木志郎康さんも暗渠に入ってしまった。鈴木志郎康さんは死ぬまで詩を書いてくれると思っていた。自分が死ぬ時のことを、詩にして自身のホームページに書いていた。そういうふうにはいかなかったのだと思う。そして自分もそういうふうにはいけないのだと思う。その暗渠、もう入りつつあるその暗渠が怖い。

ひきこもっていたころは極私的分析的覚書(鈴木志郎康さんのサイトにあった1と4の抜粋)を、暗渠からぬけだすための回路として読んでいたのに、それだけでは足らなかった。生まれつきのことを考えだす。生まれつき手が足りなかった。これもよく思う。


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