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2021年01月14日(木)

昨日は会社を出たらすぐポーいーしやーきぃもーと聞こえてきたので買ってみた。
石焼き芋を買うのは初めてだった。
でもすぐ食べる場所が思い当たらないのでジャンパーの左ポケットに押し込んで
自転車で帰宅して食べたらまだあったかくて
固形の蜜を食ってるかというほど甘かった。
それだけでけっこう幸せだった。

あとは斎藤環「家族の痕跡」をちびちび読み、
Youtubeをだらだらみた。ミルクボーイの漫才ブームのやつをまた巡ったりして。
ちょうどほどよく忘れてて、また笑えた。

「家族の痕跡」はもともと
「謝れ職業人」という詩のことが書いてあるらしいから買ったのだ。
この詩は私が2chで放流して、私はそのまま「谷脇地獄(いつか後述します)」に突入して
そのまま忘却してしまっていたのだが、
去年この詩が2chで広まった匿名の詩として
「家族の痕跡」で取り上げられてることに気づき
びっくりして、昨年末にAmazonでぽちったのだ。

2chに放流してから広まって、作者不詳のまま引用され、斉藤先生のTwitterでも数年前に作者が判明しましたと書かれていた。作者は松岡宮さん。当時わたしがよく見てた詩の投稿サイトで書かれてた人だ。

この方(松岡さん)はなんというか、平気で生理感に踏み込める感じがすごい。そこに少女漫画的なロマンティックな光景やフェティシズムが入り混じった独特の詩を書かれててすごいなと思う。わたしはこの松岡さんの日記でG(ゴキブリ)とかG痢(下痢)という言い方を学んだ。あとは、この松岡さんの日記で「謝れ職業人」も見たのだった。

で、ずっと自分が謝れ職業人を放流した時期などを自分の日記や検索でずっと照合してたのだが、ちょっと確証がもてないのだった。これはあくまで自分が生きてる証というとアレだが、なんか人様の役にたったか、迷惑だったかということは度外視して、ただ自分なのか自分じゃなかったのかを知りたいという欲に突き動かされている(なんか自分にはこういう欲が何個かあって、定期的にぶり返すが、すぐ疲れ、すぐ潰える)。

で、2004年ごろに2chに単独でスレ立てされてるほうを自分が上げたかどうかの記憶がない。

そして、2006年ごろにおそらくニュー速的なスレに上げてるやつに関しては記憶がある、ような気がする。

そんなことしかわからない。で、気持ち的には2004年のやつも自分だと思いたいが、当時ひきこもりだった私としては、板的に可能性が低い(たしか2004年のは就活板だったはず)ので、わたしは広めた人ではない、という残念な感情を抱いてしまう。

「家族の痕跡」、これは文庫版で、「謝れ」は162ページに書いてあるらしいのだが、今読んでるのは90ペーシなので、まだまだ道のりは遠い。

私はコロナ禍から、なんか「谷脇地獄」の手前にあった、断絶した興味をまたつなぎ始めている。それが無意味とわかっててもそこから繋いでいってしまう。もう家族や知人友人もいなくなって、ただ働いて、自立していることだけが残った。

サードプレイスとか、人に適度に依存するのが本当の自立だとどっかでしょっちゅう読んでる気がするけれども、そういうのも「家族」と「谷脇地獄」で潰えた。

学生マンションおじさんとか、学生マンションおばさんをマッチングさせる専門のアプリとかがあればな、とは思う。

「あんた、学生マンションのおっちゃん遊びに来てはるえ、挨拶し」
「遊びには、来てない。」
「こんにちは」
「おう」
「家賃は?」
「やかましな。6万7千円」
「家買いなさいよ」
「みてるよ。けど広すぎたりして独り用の家って案外ないもんやで」
「結婚は?」
「いや正直どっちか先決めたらあともどっちか決まる感じ。それで家を結婚に合わせて3LDKにするとか、もう結婚諦めて1LDKにするか、あいだとって2LDK(昨日何食べた?は2LDKやった気がするな)」
「いうてるまに40やないの(オナホばっかりコレクションしてたらどないしょ)」
「もう結婚はええかなと思う。家族嫌いやし(こないだ内側から射精するとこ見るためにエンドスコープ買いました)」
「ホーム画面にmarrishあるやないの(急に死んだらどうすんの、このウレタンの尻)」
「人信じれへんけど、もしかしたらとは思ってまう」
「どうすんの」
「おかんの口癖、それが一番死んで欲しい、お前こそどうすんのやねん。はよ死んでほしい」
「」


○○(地名)のおっちゃん、おばちゃん

2021年01月13日(水)

ちっちゃかった頃、よく祖母や母が「○○(地名)のおっちゃんが…」とか話してるのを聞いた。

なんとも思ってなかったのだが、今、まさに、自分がその「○○のおっちゃん」になってるんじゃないかと思うことがある。

で、考えてみると、いとこもいない関係の、つまり結婚してなかったり子供がおらず、ひとりでへんぴなところで暮らしてるおっちゃんおばちゃんについては、所在地+おっちゃんおばちゃんと呼ばれるというシステムだったのかなあと思う。いとこがいれば「○○ちゃんのおっちゃん」でいいのだが、そういうのがいないと、居るところにおっちゃんおばちゃんとくっつけて呼ばれるんだ。

でもあのころはまだ全然、しゃべらない、胡麻のおっちゃんとか瀬田のおばちゃんが、たまに放浪者のようにやってきて、何日か朴訥と過ごし、またふわぁっと帰っていく…というよくわからない時間があった。遊んだ記憶もしゃべった記憶もないのだが、いた記憶だけがある。たぶん今もう死んでるだろう。

現代社会において、わたしがそんな感じで今ある眷属のリングのなかに居れるかっていうと、そんな隙はまったくなくて、ああ、鷹揚さのない、きもちのわりぃ社会だなと思わずにいられない。

そういうものが「影」を落としてはいけない社会なのだ、と思う。なんか4人で道幅いっぱいに横並びでまったく人が見えないかのように話している人も、影を落としたくないからホームレスを見ないし、誰も避けようとしないのだ。「下がる」と、「影」の意識をもつと、暗渠行き、つまり終わりなのだ。日本には、行き先は暗渠しかない。たまにそういう上昇志向じゃなくて、(仲間から)堕ちない志向のようなものを若い人から感じる。その堕ちるというのも結局はクラスタの移動であって、なにも嘆くことじゃないのだが。若いうちは。と書いてみて、たまにテレビできく「40やのに」とか「男やのに」とかは、ひとのチャレンジ精神をとにかく阻むなあとおもう。くぐりぬけて美談になれないようなものも蠢いていける世の中にしていきたいなあ。あー。

1Kの学生マンションに住んでるので、最近SUUMOでそろそろ定住しようとおもって中古物件を見てるが、さっき言った胡麻とか瀬田というのは買えそうなのだがそこそこへんぴなのだ。それで、地名のおっちゃんのことやおばちゃんのことを考えていた。自分もその地名のおっちゃんになる(誰にも知られずに!)のだと、ふとおもった次第。

※一応言っとくが、別に胡麻や瀬田がへんぴだと言ってるわけじゃないんじゃないですよ。



2020年12月31日(木)

最近読んでるのが「生まれてこないほうが良かったのか?」というタイトルの本で、なんか最近の誕生否定の哲学で有名なベネターという人の話から、インドとかブッダとかいって、今はニーチェにきている。読んでるとニーチェはすごいドコモショップとかホンダカーズとかセンチュリー21とか、なんか体育会系の人が多そうなそういう業界の人みたいだと思ってしまう。

あと、こんな昔からこういう議論があったのかと驚く。たとえば生きてることは全部苦なんだよ、とか、ちょっとでも苦があればそれは何も生まれてこなかったときのほうがマシなんだよ、とか。あとは世の中への執着を捨てて二度と輪廻転生しないように解脱するために修行しまくって涅槃にいたるんじゃとか。そういうのをずっと秘伝のたれみたいに継ぎ足したり逆に考えたりして哲学というのは続いてきたのかと思う。

バスに乗りながら途中まで考えて会社に近づくにつれて忘れていくようなかんじのやつを、昔の人は日がな一日中突き詰めて考えたり、書物に残したりしてきたのだ。ニーチェのところではなんか運命愛と永遠回帰というのがあって、運命愛と生成は相入れないみたいなことが書いてあって、なんかエヴァを思い出していた。というか、この本エヴァみたいっすね。

運命愛というのはある種宿命みたいなものであり、生成というのはそんなの関係ねぇという野放図がうりの概念であり、前者はぐるぐるして同じ場所、同じときがめぐりくることを肯定する概念であり、生成というのはそういうことをがんがん裏切って繁茂する、ぐるぐる同じことになることを否定する概念である。で、この両概念を推してたニーチェというのは矛盾してるのかというと、、、
というところまで読んでる気がする。もう最近本も読めないし、論理的にもの書く気力もない。

で、これがエヴァのなんとか(not)Redo.とか、かっこ付きでnotとかついてたアレに似てるなとおもったのだった。それにエヴァ自体がぐるぐるしてるイメージがついてて、ある意味輪廻っぽい。前回は世界が終わって、かなりがっつり終わったけどシンジ君がかなり後で「これは違うっぽい」と言って瓦解したけどあんまり元に戻らなかったっぽいところで終わった。

またシレッと序から始まって、どんどん脱線してQでもう全然違う話になってきて、最近になってシンエヴァンゲリオン劇場版の本予告が公開された。今月下旬、やっとエヴァが終わる。14歳のとき本放送があって、でもテレ東が見れない地域だったので、友達が誰かから借りた3倍のVHSに録画された全話を、その年の大晦日にみた。そして2年後か3年後に劇場版を見て全員無言の帰宅をした。あの時の衝撃は多分体に刻み込まれてると思う。画面の右下に終劇と出てから、すぐスクリーンの前に薄い白い幕がサーとかかっていって、電気がつき、余韻にひたるまもなく現実に引き戻された。あの衝撃と余韻へ浸れなかったあのときの17歳ぐらいの自分は今もどこか、体の中に残ってる気がする。それは今でこそSF的な道具立てや考証や考察のほうがメインになりつつあるエヴァがトガってたころの、ある種のパワハラみたいなものだった。

なんか前の劇場版でリツコが白衣のポケットで自爆スイッチ押したりしてたとこっぽい場所でいろんな人が一同に会しているような感じの場面があって、ゲンドウはゴーグルというかバイザーみたいなやつが撃たれて窪んでるシーンがあったりしてめちゃくちゃ興奮した。そういや旧劇ゲンドウは手にアダムをしこんだら全部ちゅるっと綾波の子宮に取り込まれてヘタレみたいになってすごい抽象的に食まれて死んだ記憶がある。あれは加持が固めたアダムを持ち帰ったのだが、新劇で持ち帰ってきたのはネブカドネザルの鍵だった。これをゲンドウが使用した場合、単純に旧劇は手のひらに有機体を仕込むのが、新劇だと体内に機械?を仕込むという話になってくる。で、このへんの機械を仕込んだ結果が本予告の眼鏡が割れてるあたりに現れてるのかなと思う。
で、ゲンドウの目的が前回と同じでユイに会うだとしたら、この機械でどうやってユイに会うのかということになってくる。機械になると行けるみたいな場所、逆に肉体があると殺がれてしまうようなゲートをくぐるとか、エウレカでもなんかノルブとサクヤが木の船でキスしたら体を持ってかれてエウレカとレントンはニルバーシュに乗ってたから大丈夫だったみたいな話があったが、そういうところの瀬戸際でリツコやシンジやミサトが会するんじゃないかと思う。つまり、させるかよ!ということである。
前回の圧倒的儀式感、有無を言わさぬ強制力のようなものや、儀式をずっと現実の言葉に置き換え続ける日向くんとかネルフの面々や空を見ながら諦めの表情を浮かべる戦自の人たちとか、ああいう儀式のもつ圧倒的パワーに対して受け身で依代になるだけだったシンジ君に対し、今回のエヴァはもうみんながとにかくなんとかしようという感じが、じつはあまり好きではない。
なんか、蹴散らしてほしいなと思ってしまう。というか、あの世の中にそんな都合良く赤い養生テープが残ってるかとか、あの世界のどこの製造ラインで作ってるのかとか、13号機の出てくる胎盤みたいなやつは誰がどうやって作ったのかとか、バグりネルフのマークは誰が描き直したのかとか、ヴンダーを建造する能力はどこにあったのかとか、なんでも戦艦の底でなんとかなると思うなよというか、もうガフの扉まで戦艦の底でなんとかなりそうになってきてる感じがあんまり好きじゃない。もうガフの扉に入ったら有無を言わさずエヴァは引き裂かれて中身は液状化して赤い実はじけたになってほしい。
現代は不確実な状況によって臨機応変に対応したものが勝つのだとしたら、それは結局コミュ力とバイタリティによって差別化される世界であり、ゼーレみたいにじっくり段取りを整えた人たちが最後に有無を言わさぬ儀式で世界を終わらせるようなパワーを得る世界ではなくなってしまっていることが納得いかない。で、ニーチェはそういうゼーレやゲンドウ的なものに否定的っぽいにおいがする。どちらかといえば、世の中をどうにかしようともがくアスカとかマリとかミサトにつくとおもう。自分はFUJIWARAであれば、原西のほうが好きで、フジモンがあまり好きではないのも同じ理由である。ギャグよりも当意即妙なガヤのほうが世間的に「強い」ことが納得いかない。

ともあれ、エヴァも終わる。楽しみがひとつなくなるのだ。40歳になってしまった。26年も経ったのだ。結婚しようかな、ともおもう。ひとりで生きていこうかなともおもう。





かまいたちと「生まれてこないほうが良かったのか」

2020年12月30日(水)

図書館で借りた「生まれてこないほうが良かったのか?」という本の最終章を読みながら「かまいたち」を感じていた。

ポイントカードやタイムマシンやトトロのネタが、「生まれてきた場合」と「生まれてこなかった場合」、「自分が存在しなかった場合」と「自分が存在する場合」の議論と似てるような気がしたのだ。そして読んでいくと、子供を産むことについての議論に突入する。現代のやたら自律を求める世界と子供は相性が悪い。しかも、子供というのはなんだかんだいっても基本的に物心がついて思春期ぐらいになるまで「誰が産んでくれいうてん」とか言わずに何も考えずに生きているし、親側も特に同意を得ずにいろいろやってあげたりやらせたりしている。このへんの折り合いというか、じゃあだったらどういう原理で子供を産んでいいという判断をしますか?という話になって、それを考えた人は「モチベーション制限」と「出産バランス」でやっていきましょうと言ったらしい。

モチベーション制限は子供を愛でる気概があるかどうか、出産バランスはもし産んだ子供がなんかなってたとして、そのなんかが自分自身でも許容できるかどうかみたいなことらしい。要は自分が産まれさせられて「ありえへん!」とかならない感じなら産んでよしということらしい。ここでまた「あやまってこられてきてたとしたら、ぜったいにみとめられてたとおもうか?」が頭によぎった。そして、だんだんと「かまいたちは存在と非存在の漫才、あるいは誕生と非誕生の漫才をやってるのかもしれない…」と思うようになった。

こう考えると、よくできた漫才というのはおそらくほぼすべてなんらかの哲学に当てはめれる気がする。当てはまるというか、かするというか、微妙に並走する瞬間がある。


思い出話(鈴木謙介〜ネット)

2020年12月28日(月)

朝はいつもめざましテレビ派なのだが今朝はたまたま6をつけていて、おはよう朝日だった。起き抜けに気力もわかず、ただ「あのエレクトーンとうさぎのやつまだやってるんや〜」と思ってると、新聞を並べてしゃべるコーナーにcharlieこと鈴木謙介さんが出てたので「えっ」となった。

去年、コロナで図書館が閉まる前に慌てて借りたのが鈴木謙介さんの『ウェブ社会の思想』『ウェブ社会のゆくえ』だった。これらの本に書いてあったのが情報空間の「多孔化」という概念で、これはドーム状の文脈が共有された空間に、オゾン層に穴が開くようなイメージで、他の文脈からさまざまな情報が飛び込んでくるよといった事だったかと思う。

ポケモンGOの情報によって、なんでもない道端に人が固まってるとか、一緒にごはん食べてるのにスマホでなんかやりとりしてるとか、向かいにいる人が向かいにいながらにして全然外部と情報をやりとりしてたり、全然共有してる文脈や社会規範が違ってるかもしれないみたいなことになるみたいなことだった気がする。

最近Youtuberになる妄想をしてて、そこでインターネットの詩について語りたいと思ってて、インターネットに入るときには、インターネットというドーム状の空間があって、そこに開いた穴から、それぞれが寄生獣の胞子みたいに降り注いだということを言いたいとおもってる。

降り注いだ座標は時代が下がるにつれ経済的にも技術的にもパーソナルになる。常時接続なんか大学とかだけで、あとは家でテレホーダイだったり。あるいはガラケーのインターネット機能からしか入ってこれなかった人や、ちょっと金があってサーバー借りる人とか。

わたしはジオシティーズで無料のホームページを作ってバナーやWebringで擬似的に向こう三軒両隣をつくって、そのジャンルのポータル的機能を果たす場所(詩の場合だと投稿サイトか、詩の同人サイト的なもの)のうち、もっとも自分に適合するクラスターに移動して所属して、だんだんライフステージが忙しなくなってきて、自然消滅していくみたいな流れがあったようにおもう。で、この頃に忙しかった人の出戻りする人がいる。それはある種の呪いというか、端的にいえば現実に戻る場所がなかったということがあるのかもしれない(わたしもそうなのだ)。

あるいは、色々あって「ここ」にまったく気づいていなかった人が最近気づいたりして、たまに文脈を辿ろうとしているのを見たりすると、最初からインターネットと折り合いをつけて節度をもって接してきた「大人」と、ライフステージの繁閑がもろに接続状況に影響する「若者」がいて、そのあとから来る人というのは「若者」じゃない場合は、なんで生きてるのか、とか、生きてる意味というか、表現手段を探している、何ものかになろうとあがいている人ということになる。ただなんとなく女性のほうが経済的に安定し、男性はみすぼらしい。黒田三郎さんの詩の書き方の本に「女性は耐えてきたものが噴出して心配になるが、男性は心得があるぶん生ぬるい詩になる」みたいなことを書いてて、それは新聞投稿を念頭においた発言だったのだが、今のネットの状況でいうと、有閑マダム的な女性と(総合的に)貧しい男の自己実現の場になっていて、心得はむしろ女性のほうがもつようになってきている気がする。かといって男性が耐えてきたものが噴出して心配になるかといえば、そんなことはなく、ただただ貧しくなるだけだったようにおもう。はるな檸檬のダルちゃんという漫画でも、なんとなくこのへんの「噴出」をめぐる男女の対立のようなものがかかれてた気がする。

単純にネット上では、ある程度「切る」ことができるので、噴出したところで、新聞投稿のように直結するわけではない。逆に、インターネット上では、心得ることと、実名や仮名といったパラメーターの加減によって調節しなければならなくなる。そして、新聞のような、みんなが見るひとつの場所ではなく、ひとつの場所をみんなに見せる戦略が必要になってくる。

このクラスターの移動も「居心地」や「レベル」もあれば、たまたま最初に目についたのがそこだったとか、憧れの人がそこにいたとか、いろんな理由があってそこに居つくことになる。自分のホームページというのをもったところで、結局来てもらうにはどこかにうっすら所属したり、BBSに挨拶してリンクのページにお互いのバナーを貼ってみたいなことをする必要があった。

で、ポータル的な場をつくる人というのが当時わたしが「大人」だと思ってた人たちで、今思えば時間を持て余しているというか、昔とった杵柄で、何かしら業余を活かすような動きとか、インターネットというものに対する期待が入り混じったような、ある種の使命感があったように思う。わたしたちはお金もないし、テレホーダイでピーガーやって、無料でサーバーのスペースを数メガ借りてこちょこちょやってたころ、大人はロリポップ(しらんけど)とかさくらインターネット(しらんけど)のサーバーを借りてCGIでなんか色々ビジョンをもって自分の城を作っていたのだった。

あと、サイトの構造そのものにその人のセンスがもろに出るし、毎日通うようになると、だんだんフレームの中のフレームの目次を押して、というふうに勝手知ったる動きでお目当ての場所(一番更新頻度の高い場所)に行って、新しい書き込みを読んだりしてた。

(つづかない?)


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