バカパレーシア 築39年 1LDK




2020年08月10日(月)

家の応接間のソファーに毛布をかぶってくるまっていると母が予約したからクリニックと言い、動かずに聴いていた。青い合皮ソファーはもうずっと寝ていたので座面から皮が裂けていくつかが垂れ下がっていた。

夜になって、まるいクリニックを調べた。2chだったか地域chだったか。どちらも、どこでもヤブだ、いかにヤブであるかということしか言ってなかった。

それでもぐずりながらその日は母とふたりで行った。先生の記憶は今はヒミズの岡島渚(偽)みたいだったと思う。それからは何回か、ひとりで行った。

少し話し(よくなったかわるくなったか)、薬をもらう。歩く廊下の帰りには少し靴で歩くところより高い灰色の床カーペットの空間が広がっていて、その奥のほうの柱にもたれてフランス人形みたいに腰掛けた女の子が微笑み、その両側にめがねの男子が両手を突きながら女の子に顔を近づけていて、求愛しているようだった。わたしはそれがデイケアだと言われた気がして、それが怖かったので、私は「あっち」には行かないでおこうと決意した。今思えばあんな(サークルクラッシャーのような、非モテコミットのような)ものでも溺れてしまえば結んでしまえばかけがえがなかったのかもしれない、と思い返す。

私はそのころパンフレットだったSADという社会不安障害というものだと言われ、セニランだったか、何かのジェネをもらいのんでいた。飲むと効き、頭が麻痺している感覚で警戒心が落ちてたびたび変な人に絡まれたり変な行為に巻き込まれた。ただ人に対する不安はなく、ただ手の甲がやたらすりむけて髪の毛の色がやたら変わりカバンの底が血でペッカペカになっていたりして、今思えば非常にうんざりする(記憶にない)日々だ。


好意的にみる

2020年08月08日(土)

岩瀬敬吾さんのYoutubeチャンネルをみている。広告もきっちりみてまたグッズも買おうとおもう。最近オンラインで人を助けるというか、お金になって少しでも足しになろうという意識がある。身はもう価値がないとでもいわんばかりの、こういう身を助けるのが二者関係なのかもしれないなと思う。

岩瀬敬吾さんとかgroup inou(cp)の詞が好きで、ぶっちゃけよくわからないものに興味をもって、興味をもってる自分が好きというのもあるのだが、それ以上にお城の矢を射る穴みたいだなと思っている。中からみるとあんなに外が見えるのに、外から見ると全然みたいな。あとは幻灯機のような、スリットから覗き見るような詞であり、言葉であるがゆえに、それはまったくわけがわからなくなってしまっている。いや、なんとなくしかわからないといったほうが正確かもしれない。

ミスチルの詞がふだんの状態の自分に、あっち(言葉のほう)から来てくれる詞とすると、彼らの詞はこっちから行かないとわからない、行ってもあまりわからない詞である。愛をもって好意的にみないとわからないし、ふだんの状態の自分だと素通りしてしまいそうなわからなさをもっている。

ミスチルの詞はふだんのちょっと疲れた心さえあればいいのだが、彼らの詞はなにがあればいいのかわからないのに、たしかに何かを言っているという確信だけはあるように思う。だから完全に轢断されたバラバラの言葉ではないのだ。

私たちに向け、咀嚼された翻案が送られてくるのではなく、歌われているはずなのに、私たちに向ける前の、話者がみた光景や心象が断片的に、音韻を優先させながらRAW画像的に語られていく。ある程度の方向性を保ちながらそれぞれの人生と照合しながら、その言葉を城の穴のように覗き見て、その周囲の経験との照合で次の言葉とのベン図で意味をぎりぎりに繋いで、そのぎりぎりさに尊さを感じるような味わい方をする。




たまに

2020年08月07日(金)

戦争のことをやっている。Twitterがなんか戦争のことをやっている。忘れてはいけないという。楢山節考のことを考えていて、なんかあの弟?だか婿養子だかもう忘れたが、図々しいふてぶてしい何もかも忘れている人間のほうがふつうなんじゃないかと思って、このTwitterはおかしいなと思っていた。年がら年中参考になるものをいいねして、毎年はてなのポータルみたいなところに新生活の知恵みたいなやつが上がってきてるけど参照できてる人なんかいるのかなみたいな、自分の思想の身固め以外になんらの意味もないなら図々しいほうがいいよなと思った。知らないことはどんどん薄れてもいいというのが最近の気持ちだ。Youtubeは原爆を漫画でやったやつがいっぱいあがってていいなとおもった。あのいつものアリとキリギリスみたいなビフォーアフターみたいなサムネで人間が溶けるとか、地獄とか、骨が透けてるのとか、安っぽく冒涜的に真摯に取り組んでるふうにアップしてあるサムネをみると人間はこうあるべきだと思い、その人間に会って話を聞くとかいうのはなんか違うなと思ってしまう。ツァーリボンバの動画とかをみてなんか思ってるときのほうがいいんじゃないかと思う。だから悲劇を伝えるための人とかそのために絵を描いてるとかいう人がいても、なんかそれはそれでいいけど全然伝わらないということははっきりさせといたほうがいいように思う。その人がいてその人がしゃべると重みがわかるとかいうのはないのだと、そういうのがなんか人間を「ずらしている」という感覚が年々増している。全員そこに対するもがきで現在イライラしているのだと思う。この違うさと違わなさのはざまの問題を話せる日がくればいいなとおもう。

左翼的なおごりというか、ほんとに体験した人がほんとのことを話せばそれが一番だ!という正しさのおごりのようなものがずっと戦争体験というものにまぶされていて工夫というものや、のべ人口のグラフで人型が半分割れてるような感じの冷たさも搦手として使って戦争を理解していくのならいいとして(ケンバーンズ的なだらだらした歴史のコンテンツに対する耐久力がこちらにも必要ではあるが、需要しきれない人がいることも見越して)、講演だけで乗り切るとか、戦争の悲惨さだから姿勢をただして何時間でも聞くべきではなくて、人間理解に基づいて理解しやすい環境で何をどう聞くべきなのか説明して手短にやってもらってしんどくなったら退出可能にして感想も正直に書かせるべきなんじゃないかと、今そういう教育がどうなってるかも知らずに思う

そういうところ以外から出てくるコンテンツのほうが、まだ人の世として健全にみえてくる。やはり「ずれている」と感じる。無理をさせている(過去に無理をさせられた人が今の人になぜか無理をさせている、なんで?と思ってしまう)

富井副部長の息子と塾っ子が定年退職して子供食堂のはしり的なことをしようとしていた老夫婦が作ったレバーのパテなどにつけたイチャモンと同じタイプの問題のように思う。チープな愉楽に比べて本人というのはそこまで重みがありホンモノであれるのかと。炊き込みご飯のおにぎりになれるのかと。


去年の今頃は

2020年08月06日(木)

去年の今頃は出社するため家を出るのが非常につらかった。いつも逆算してぎりぎりになるよう、時間までソファに横たえ、電気を消し、目薬をさして、ぎりぎりまでpollyの"生活"とか、Red House Paintersの"Void"とか聞きながらじっとしていた。目の中の暗闇で、音をさけちーのように分解するように聴いてみたり、体のどこかが痛くないか探ってみたり、なにかをおもってみたりした。

今年はそのぶんでいうとかなり気楽である。いつかこのツケもくるのかもしれないが、今はまだ大丈夫である。

さっき、2019年のプレイリストを流していて、ひさびさに"生活"が流れた。シューゲイザー版の"ZOO"だな、と思った。なぜだろう。

先月まで2009 lateのiMacの27インチを使っていて、最近21インチに買い換えたのだが、音質が隔世で、デスクトップで音楽を聞く習慣が戻ってきたのだ。

なぜ買い替えたかというと、今でしょ、という気分だったのである。最近ちびちびするのをやめようと思っているのだ。いとようじを全部の紐が切れるまで使うとか、歯磨き粉を新しいのを買ったのに親指でぎゅーっとして何日ももたせるとかいうことに意味が感じられなくなってきたのだ。もう替えたらええやんと思うことが増えてきた。

真面目が一番とか、もったいないとか、順番やでとか、なんでやねんと思うようになってきた。これじたい中年期危機なのか、それともちゃんとした考えなのか、ホルモンバランスなのか、老化なのかよくわからない。

ただAmazonの購入履歴を見ると「あれ、これが3ヶ月前!?もっと前かと思った」みたいなことが増えてきている。90年代、00年代に比べると、考えてから行動するスピードは上がりまくっている気がする。そのぶんうわついているとも思う。そもそも私は2006年ごろまで消費の主体でもなかった。

"生活"は音読みが特徴的だ。雨の愴(ソウ)、白夜の光(コウ)といった読み方をする。ハマっているところと、ん?というところが混じっているが、この音との溶かし加減には、この音読みと「です」の羅列がちょうどいいのかもなと思う。

iMacでZINEを作りたいとおもっていたのだった。また意欲が薄れ始めている。ZINEというより、チャップブックなのかもしれない。いや、なんでもいい。今読んでいるのは『チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本』という文庫本だが、ヨーロッパの庶民が仕事を終えて家で汲々と本を読んでいる姿を思い浮かべると愛くるしくなるのと、スマホで意味を調べながら本を読み進める私は似ている気がする。

読みながら、チャップブックは今で言うとなんだろうなと思う。ネット広告の漫画だろうか。それともYoutubeの漫画、Youtubeの広告の早口漫画、FANZAの同人誌。すくなくとも文化芸術系の人がつくる丁寧な小冊子のたぐいではないことだけは確かで、庶民に寄り添い使い捨てられ真偽や審美とはまた別の用を成すものであり、それが愛しくおもえ、またそうではないものをつくってわかりあっている層のようなものにほのかに憎しみを抱くような気分にもなるのだ。つまりわたしが作りたいものはまずその層を弾くように作りたいと思うのだ。下品で下世話で用を成し、人間の美的感覚や無意識にはひとつも訴えないようなもの。もっている自分がうっとりするようなものではまったくないようなものがいいのだ。

そうやって作ろう、などと思わずにまず始めたくてぼんやりしている。用すら成さないものなので、スカムブックとかでもいいのかもしれない。鈴木志郎康さんが言うところの「読者限定公開無用雑誌」このへんのもっとくだらなさ、とりとめなさ、また急に意識しだしたり、離脱、脱線、弛緩するさまをそのままOKする本をつくりたい。


諦念と自由と詩的許容

2020年08月05日(水)

吉田拓郎の流星を聴いていて意味わからんなとは思うが、なんか響くものもある。これを詩的許容(poetic lisence)といっていいのかは微妙だが、これとはまた別の詩的許容のことを考えている。いや、むしろダダ漏れ、垂れ流しの文章のだらしなさや諦念のことを詩的許容の考え方で「許す」というか。これだけ書く人がいる世の中で「まだ響かせないといけないのか」という枷から逃れたい一心、という意味合いの詩的許容について考えている。

つまり芸術文化への造詣がないか、とても浅いが、そういうものがあること自体は知っていて、にも関わらず箸にも棒にもかからないものを書く(書いてしまう)ためのコアとしての詩的許容、とでもいおうか。

それは本来詩的許容が肩代わりするものではなくて、関係があれば関係が果たす役目なのだろうが、あいにく私には今いくべき関係ももどるべき関係もない。

ある効果のために語法の逸脱が優先することが詩的許容であり、その効果の部分に「できない私」とか「私だけが知ってること」とかを載せることもまた詩的許容のひとつだと考えられないか。効果に届かない「逸脱」も詩的許容とする考え方。黙殺や唾棄に気づきながら続ける方法論としての詩的許容。

効果の部分が読者ではなく、作者に比重がある場合、作者に応対する誰かがいてはじめて用を成すような言葉は、宛名をつけて送ったり合評会で顔を突き合わせてやったほうが本来の効果を果たすような気もする。とくにインターネットでは、ほとんど効果を果たさないか、効果を果たすとしても、その呟きや咆哮は、非常に迂遠なものになる。



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nemaru [MAIL]

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