昨夜は結構時間掛けて打った日記が消えて「ををう・・・」 父の事を打ってましたが、流石にまた打つ気になれず・・・・。 そして下でも散々書いたので、今日は別の話題にします。
実は昨日、ここ2ヵ月ほど悩まされてた歯痛を治しに歯医者に行ってきました。 左下奥歯ですが歯磨きの時の水だけで非常にしみる! 痛い! 多分、詰めてある中で虫歯が密かに進行しているのかもしくは詰め物が外れかかってるのか・・・・と思ってました。 で、先生。 必死に詰め物を取ろうとしましたが全く動かず、結局麻酔かけて削りました。
・・・・・・・・・・・・
痛かった。 久しぶりにイヤな汗を大量にかきましたよ。 治療終了後のスカートは汗でびっしょりでした(おもらしに非ず) あまりの激痛でイスの上で背中が跳ね上がる跳ね上がる・・・・。
「麻酔・・・・効かない?・・・困った。これ以上麻酔強くするとな〜〜〜う〜ん」
とか言いながらガリガリ削ってる。 痛いんですケド。 涙もの。
「ええ〜〜〜っと削れましたが〜〜。特に虫歯もないようですし・・・・何でしょうかねえ・・・・・?あれ?あれれ?これは・・・ちょっとぉーーーー」
どうでもいいけど先生、いちいち煩いよ。
「あ〜〜〜・・・神経が出ちゃってますね〜」
え?神経って勝手に飛び出ちゃうもんなんですか?
「ホラ、この鏡見ててね。空気当てます(シュー☆) ジワーって血が滲んできたでしょう?」
ああ、本当だ。 歯のド真ん中。そこ針の先ほどの赤い点がジワーっと浮かび上がって来た。
「もうこうなったら神経抜くしかありませんね。残念ですが。」 この残念、と言うのは自分は神経を抜いたのは1本でこれで2本目になる訳です。 先生にしてみれば「この歳まで(大変に無礼者!)抜いた神経が1本だけなんて凄いですよ」 なんです。 自分は虫歯では無かったけれど原因不明の痛みで結局抜かざるを得なくなった上の奥歯。 歯の神経を抜くだなんてなってないよ!自分!!と思ってた位なのに、この先生との温度差にアタマがクラクラしました。 がこの後の先生の言葉で脱力。
「ボクなんか10本も神経抜いちゃってますからね!」
『先生・・・・そこ自慢するとこじゃないですけど?』
と盛大に突っ込み入れてあげました。 そしてまた麻酔針を何度もブスブス刺してから神経抜き開始。 最初は麻酔効いてなくて地獄の痛みでしたが途中からやっと効いてきました。 麻酔さえ効いてりゃこっちはヒマなので足を上げ下げして腹筋鍛えてみたりしてました。
そして今日もまだ歯は痛いです。 今度は来週の24日だったかな? しばらく通いです。
そして。 M様・G様・M様・Zちゃん・G様・・・・ 拍手・メッセをありがとうございました!
| 2010年03月18日(木) |
父のこと。(今までのあれこれです) |
父にがんが見つかったのは昨年の6月末の事でした。 その様子は昨年の日記(ここの日記に移る前の日記で)に書きました。
「顔色が悪いから病院で検査してもらえ」 とここ数年、母は父に言い続けていたらしいのですが、元から持病のあった父は毎月病院で血液検査等をしてもらってて自信があったんでしょう。 「その必要はない」 とガンとして聞かなかったんだそうです。 実際、毎月の検査での肝機能の数値はこれ以上はないくらいに正常値だったそうですし。 自分は父のあの顔色はウォーキングでの日焼けのせいかな?とか単純に考えてたくらいでした。
それでもウォーキングから戻ってそのままグッタリしてしまうような日が続くようになり、流石に本人も「これは?!」と思ったのでしょう。 それと前立腺肥大か?みたいな症状も出始めていたので泌尿器科で検査をしてもらって、『膀胱がんです。』と医師から告げられたのが昨年6月末。 『上んとこにも影があります。そちらの検査もしてみて下さい』 と言われ肝臓にもがんが見つかったのでした。
開腹手術なのかと思いきや、カテ−テル術だと言う。 腿の血管から管をガン細胞部分近くまで通してそこから抗がん剤を一気に投入するんです。 部分麻酔なので本人の体力の消耗も無く危険度も少ないので、今はよく行われているみたいです。 膀胱がんの方は抗がん剤を入れる前に、そのカテーテルを使って膀胱内のがん細胞を吸い出し、改めて抗がん剤を投入。 4日後には退院。 その一週間後の検査で『ガン細胞、消滅してますね。』と言われました。 念の為、一週間置きにこのカテーテル術での抗がん剤投入を全行程9回行うと言われましたがこの抗がん剤。 やはり膀胱内が相当荒れるらしく、我慢強い父がかなり痛がったそうです。 尿が溜まり始めても痛い。 トイレを済ませても激痛。 トイレをガマンしても激痛。 ほとんど一日中痛かったんじゃないだろうか? 『これね〜、みんな途中でイヤんなっちゃって(痛みで)3〜4回辺りでリタイヤして病院に来なくなっちゃうんですよ〜』 と、のどかに先生はおっしゃってたそうだ。
その治療と並行して肝臓の方もカテーテル術を行っていきました。 なので7月8月は病院を出たり入ったりの繰り返しで。 どちらもせいぜい4〜5日入っててはスグに退院と言う感じでした。
うちの父は何と言うか・・・・「その時の状況を楽しむのに長けている?」節がありまして。 術後すぐ病室に戻ってしばらく様子を見てもういい時間になってきたので母と 「もう帰るからねー」 と言うと、 『今まで、本当に世話になって・・・・・うっ』 とか言いつつこちらに手を伸ばしてバタリ☆とベッドに手を落としたり・・・・とシャレんならない演技かましてくる。 「明日も来るからさ」 と言うと 『明日、まだ生きてたらね・・・うん・・・会えるよね・・・・・(しんみり)←クサイ演技』
マジでシャレんなんないよ!的な冗談を平気でかましてくるんだよ。
それでも順次出てくる検査結果を見るたび、がん腫瘍の大きさがみるみる小さくなって行ってるのが素人目に見てもよくわかりましたので 「何だ!楽勝じゃん♪」 なんて思っていました。 9月末までは。 10月に入ってから父は時折激痛に見舞われるようになって行きました。 自分は同居していないのでその時の様子はあとから 母に聞いたのですがそれはもう酷い内容でした。 「あまりの痛みに耐えかねて、壁に頭を打ちつけている」 「ここが痛い・・・・とかそういうもんじゃなく、内臓全てを取り出したくなるような痛み」 だと言うのです。 それはいきなり始まって数分で治まっていたらしいのですが、かなり我慢強いあの父が「殺してくれ」と身をよじり泣いた・・・・と聞きました。 母は転げ回る父の身体を押さえつける訳にも行かず、ただただ抱きしめ二人で泣いたそうです。
9月末に3回目の肝臓のカテーテルを行った時 「今回は抗がん剤、多めに入れときましたよー」 と言われたとかできっとそのせいだ。 とずっと言い続けて我慢していたらしいのですが、流石に病院へ行き外来で薬を貰って来よう、と病院へ行ったのが11月2日。 『入院しましょう』 と言われそのまま入院となりました。
そして肝臓の方の主治医から、 『実は肝臓の外側のリンパの部分に豆粒ほどのがんが取りついていたのは分かっていた。けれどこの部分に手を出すと半身不随になる危険性があり手出しが出来なかった。なので肝臓の方の治療に専念する他手立てはなく、その間にリンパ部分の豆粒大のがん細胞がみるみるうちに大きくなり他臓器を圧迫する位にまでなってしまった結果がこの痛みであった』 と言う説明を受けました。 肝臓の方のがん細胞は、三度の治療で当初の三分の一以下程までに小さくなっていました。 たった三回の治療でここまで小さくなるんだ・・・・・。ならあと数回やったら完治とまでは行かなくてもかなり小さくなるのでは? なんて思った程でしたが現実はそう甘くは無く 『こう言った状態ですので、もうこれ以上肝臓の方の治療を行い続けても患者の身体に余計な負担を掛けるだけになりますので肝臓の治療はもう終わりにしましょうか?』 と主治医から切り出された時、後頭部をハンマーで叩かれた様な気がしました。 デスク上の盤面に貼られたMRI画像の一つ一つについて説明を受けておきながら、話の流れ的にはもう手立てが無いのだ・・・・という雰囲気になっててもまだ、頭のどこか片隅では 「まだ大丈夫」 とう意識があったんです。 「え?終わり・・・ですか?」 としか答えようがありませんでした。
リンパの部分については肝臓や膀胱の様にカテーテルを用いた治療は出来ない。 なので全身に回ってしまう点滴による抗がん剤治療しか残されてはおらず、身体に負担を掛けずだましだまし弱い抗がん剤を続けるか、それとも強い薬(新薬)を使うか・・・という話になりました。 この先生はがん研有明病院から引き抜かれてきた方です。 父が入院する前この病院のHPを調べて知ったのですが、この先生はがん研究にかなり力を入れてらっしゃる方で(特に進行性・転移性肝臓がん治療)サイトに治療方法と治療例がかなり詳しくのっており、最初は「セカンドオピニオンを・・・」なんて考えていた自分も先生が書かれたこの文献を読みデータを見て「この先生だったら!」と全てお任せしていたのです。
「Uさんは(父の事)年齢が70歳代です。そして抗がん剤の副作用が出やすい体質でしたね。今まで苦しかったんですもんね。」(そうなのです。巷で言われている「お酒を飲んで顔が赤くなる体質」なのです) 「この薬は副作用が非常にきつい。吐くだけでなく全身が真っ赤になり激痛が続きます。」 この病院ではまだ2名しか試してないらしく、一人は好転(若かった)もう一人は亡くなられたとか。(高齢) その他の治療法も提示して下さったんですが、今すぐに答えをださねばならんのか?という焦り。 しかも命が掛っている。 頭の中がぐるぐるしました。 母も迷っています。 父もまかなり迷っている風でしたが結局、新薬は使わず騙しダマシ弱い抗がん剤を使っていくと言う事にしたのでした。
い・・・いかん。
あまりにいかんぜよ。 昨夜寝たの多分8時だよ?ビューティーコロシアム観ながら! (どこで?とは聞かないで) 目覚めたら7時だったよ。
ちょっと寝過ぎ。
K様・S様・C様・R様・・・・・・
拍手メッセージをありがとうございます。
毎日続いていたあのもの凄い緊張感が無くなり 今はどっぷりと気が抜けております。 看護に通っていた日々の方がある意味、辛さの頂点だったかも知れません。
花粉症が酷くなってきました。 同志の方々・・・・。 しばらく我慢の日々が続きますが頑張りましょう。
月曜から仕事復帰しているので流石に疲れてしまって連日爆睡しています。 お陰で沈み込むヒマもなく・・・で有り難いことなのかも知れません。
S様、A様、M様、G.N様、H様、Y様、S様、M様、K様、R様、N様、U様・・・・・ 拍手・メッセージ・メール・・・本当にありがとうございます。 皆さまの温かいお言葉のひとつ一つを噛み締める様に、何度も何度も読み返しては 涙が零れます。 心から、本当にありがとうございました。 またゆっくりお返事させて下さいませね。
がんで昨年7月から闘病を続けていました父が、一昨日の3月4日 朝、9時40分に永眠致しました。
享年71歳。
11月の入院からずっと吐き気と痛みに苦しんでいましたが 最期は苦しむ事なく眠るように息を引き取りました。
病院から「血圧が非常に下がっており、そろそろ危ない」 と連絡が入ったのが1日の朝。 午前中だけ仕事をやり午後から病院へ。 そのまま病院に泊まり込みました。 血圧、上が70〜80。 下が50という状況で父はそれから3日頑張りました。
呼びかけにも応じるし 「きょんきょん(長女)が来たよ!ゆったんも(次男)浜松から来たよ!」 の声に目も開け、枕元の孫らに手を挙げて酸素マスクの下で何か話していましたが僅かに声が出てはいるものの、言葉にはなりませんでした。 よく言われている「がん患者は最期まで耳の機能は失われないので、周りの声はちゃんと聞こえている」と言うのは本当でした。 最期の最期までこちらの呼びかけにまばたきや首をわずかに振る事で応じてくれていました。
今日はお通夜でした。 明日、告別式となります。 生憎、今日明日は雨模様と言うのがとても悲しいのですが それでも新潟から車で駈けつけて来てくれる親戚衆が、休日割引を使える日程だという辺りが気を使う父らしいねと母と笑いました。
昨夜7時頃、子供らと夕飯を食べて居て 「自宅でこんな時間にのんびりと夕飯を食べるのって何か月ぶりだろうか?」 ってしみじみ思いました。 11月からこっち、昼間夕飯を作りにあわただしく帰宅。 病院へは毎晩通ってましたので、いつも夕飯を食べるのは9時過ぎ10時過ぎ。 そんな日々が当たり前になっていたこの頃でした。 ここ1〜2ヵ月父は食事をほとんど取れなくなっていたので、病院で出される食事は代わりに自分がベッド脇で美味しく頂いていました。 仕事が終わってから制服のまま直で病院へ通うのが日課になってましたので、仕事帰りにまたついうっかり病院へ行ってしまいそうな気がします。 (母も同じこと言ってた)
看病してたこの4ヵ月。 色んな事がありました。 またここにあれこれ父の思い出を語らせてもらおうと思います。
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