VITA HOMOSEXUALIS
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| 2016年08月13日(土) |
少年の日の回想(2) |
私の通った高校には二つの対立するグループがあった。大半の生徒はそのどちらにも属していなかったが、少数の生徒たちが反目し合っていた。その一つは朝鮮出身の二世や三世から成るグループで、もう一つは被差別部落の出身者から成るグループであった。これらのグループは時折小競り合いのようなことを繰り返した。その反目が深刻であった理由は、それぞれのグループの背景に大人たち、それも反社会的な勢力とされる人々がついていたからである。その反目は後に私が政治的な関心を持つようになる源泉でもあった。お互いに日本社会から疎外されている人々がなぜ反目し合わなければならないのか、私はその対立を無用なものと思い、お互いが階級意識に目覚めれば解消できるものと思っていた。
私は朝鮮出身側のM君と親しくしていた。M君は小柄で浅黒く、精悍な顔つきの悪戯っ子だった。しかし彼は読書家でよく本を読み、自分も小説家になりたいと思っていた。
高校2年の夏休みの日、私は彼の家に遊びに行った。彼の家は長屋の一角にあり、二間ほどの狭い家は表通りから裏側まで見通せ、その長屋の外れには豚小屋があったので、動物の匂いがぷんと漂っていた。彼は家にいなかった。家族もみな働きに出て留守だった。だが、私は勝手をよく知っていたので彼の部屋に上がり込み、そこらへんの本を見て、井戸から勝手に水を飲み、彼が部活から帰るのを待っていた。
ツクツクボウシが鳴く頃、自転車が止まる音がした。M君がよろよろと帰って来た。白いシャツが破れていた。顔に傷があった。
「やられた」
彼はすり切れた畳にどんと転がった。私は驚いた。彼のシャツを脱がせた。あちこちに痣があり、シャツには血がにじんでいた。
「Oか?」
私は対立するグループの首領の名を言った。
「それだけじゃあない」
彼は薬罐から水を飲んで転がった。
「ただじゃあおかん」
彼の胸が波打っていた。
「廣島に声をかける、二、三十人集めるぞ」
「やめとけ」
「チェーンに、木刀に、ヌンチャク・・・」
彼は起き上がって両手をついた。肩が上下に揺れていた。
「こうなりゃ戦争じゃけ・・・」
「やめえというに」
私は彼の両肩をつかんた。目が血走っていた。その目に涙がたまり、ぼろぼろとこぼれた。鼻水がぼたぼた落ちた。
「ケンカしても何にもなりゃせんけ」
私はできるだけおだやかに言った。
ぐあっとしゃくりあげるような声を響かせ、彼は私にしがみついた。そのまま小さな子のように「ぐあっ、ぐあっ」と声をあげて彼は泣いた。私はしばらく彼を抱きしめていた。それからタオルを井戸水で濡らし、彼の顔を拭き、体を拭いてやった。
「どこかに薬はないか?」
彼は戸棚を指さした。メンソレータムがあり、私は痣になった彼の傷にそれを塗った。
「落ち着けよ、仕返しはやめえよ」
私は何とかして全面対決を防がなければいけないと思っていた。とりあえず生徒会長に相談するか、いきなり警察の助けを借りるか、私にも良い考えは浮かばなかった。彼はひくひくと体を震わせていたが、ときおり思い出したように涙を溢れさせ、私の手からタオルをむしり取って顔を拭いた。私は何度かタオルを井戸水で濡らし、絞った。口の端が少し切れているようであった。
ようやく涼しい風が吹き、日が暮れ始めた。
| 2016年07月25日(月) |
少年の日の回想(1) |
突然思い出したことである。
18歳で郷里を出てから最初の夏、東京から鈍行を乗り継いで帰省した。3ヶ月ぶりに見る故郷は昔と同じようでもあり、何かが変わっているようでもあった。
私の郷里は海のそばである。海水浴場もあった。私は一人でぶらっと海水浴に出かけた。
白い砂がまぶしく、海に入ったり出たりしているうちに背中がひりひりと痛くなってきた。
そこにT君が来た。T君とは高校の同じクラスだったが、特に仲が良いというわけでもなく、あまり話をしたことはなかった。高校生にしては珍しく坊主頭をしていて、小柄で目鼻立ちのくっきりした可愛い子だった。彼のお姉さんは生徒会長を務めたりしてなかなか活発で能弁な人であったが、弟のT君は地味で無口な子だった。
「いまどうしてるの?」という話をし、彼は岡山の専門学校に通っていると言った。彼はほとんどしゃべらなかったので会話は途切れがちになった。「泳ごうか」と私は言った。彼はこっくりとうなずき、それから水に入った。
水に入ると彼は活発になった。海辺で育った私たちにとって、泳ぐことは歩くことと同じである。速くは泳げないが、5キロでも10キロでも泳げる。彼が先になって沖へ進み、私が後から続いた。彼を追いかける私の手が彼の体に触れると、ぬるっとした感触があった。彼は身をかわし、さらに沖へ泳いだ。私たちは水にもぐり、小さなサザエやウニを手に取って遊んだ。
しばらく泳いだ後で砂浜に戻った。私たちの体は水滴で光っていた。「鼻水が出てる」と彼は言った。「君も」と私は言った。大きな水たまりが上唇まで届いて光っていた。水にもぐるときには、水圧で海水が鼻腔に入り込んでしまうから、鼻から強く息を出す。塩水で鼻腔が刺激されると、自ずと鼻水が出る。手鼻をかんで水から上がってもなかなか止まらない。私たちは「洟たれ」、「おまえも」と笑いながら追いかけたり、追いかけられたりした。息がはずんだ。
そのまま砂浜に倒れ込んだ。粗い砂が体中にくっついた。私たちはそこらをごろごろ転がり、体に砂をかけたり、相手に投げたりした。息がはずみ、腕が触れ合い、私たちは抱き合った。彼が勃起しているのがわかった。私も勃起していた。しばらくそうやって抱き合っていた。
それだけのことであり、それ以上のことがあったわけではない。お互いに目が赤くなった。潮のせいでもあるだろうが、それだけでもない涙だったかも知れない。彼にもそれなりに辛いことがあるのだろうと思った。
松林にベニヤ板で囲いをし、水道水が出るようにしたシャワーを形だけ浴びて私たちは別れた。すでに日は暮れ始め、カナカナ蝉の鳴き声が響くようになっていた。
| 2016年07月18日(月) |
体長12センチの男の子を思う |
Rは新卒で入社した。目が大きく、少女といっても良いくらい幼い感じの女性であった。
会社が倒産したのはその1年後であった。
倒産してから私らは雇用関係を切られたが、かなり残務があり、私らは雀の涙ほどの謝金でそれをこなしていた。その仕事に身が入らなかったRを私は作業室で叱責した。
「入社して1年、何がどこにあるのかもわからない、そんな状況でハローワークに通いながら必死で仕事を続けているのに」
彼女の訴える声は涙声になり、大きな目に涙が湧いて、ぽろぽろと落ちた。余った涙は鼻に流れ、鼻水がたらたら流れて出た。私は彼女に謝り、これから仕事をサポートすること、未来を見ることを述べた。私自身に未来がないとき、半分は自分に言い聞かせる述懐でもあった。私は誰もいない作業室で彼女を抱き寄せ、そっとくちづけをした。
それから数年経った。私はときたま彼女と連絡を取っていたが、あるとき全く音信不通になった。どうしたのか、私は少し強く彼女にメールした。
彼女からの返事には、茨城県の職場にいること、妊娠したこと、結婚できる相手ではないこと、シングルマザーとして産み育てようかとも考えたが、将来を考えてそれは断念したこと、摘出された胎児は体長12センチの男児で、それを郷里の寺に葬ったことが書かれていた。
私は愕然としたが、気持ちはわかると思った。倒産を経験したものは不安定な日々を過ごす。見知らぬ職場での仕事が始まる。誰も頼りにならず、話し相手もいない。そんなときに親身な人が現われたら、身を任せるのも無理はない。
それにしても、と私は思った。あの少女のようなRが妊娠するとは。彼女はいったいどうした態度で男を受け入れたのか。彼女の体はどんなふうに反応したのか。
私はそれを想像してオナニーした。寒い雪の日。私自身も自室の布団以外にはぬくもりを知らぬ日々であった。
年が明けた早春、私は犬吠埼で彼女に会った。Rはおとなびていた。私たちは荒い海の見えるレストランで食事をし、仕事のことをいろいろ話した。男の子のことはまったくおくびにも出さなかった。
私たちは寒い海岸を歩いた。強い風が吹き、コートがばたばたとひるがえった。
そろそろ帰らなければならないときが来た。
「君は私とは違ってあの会社に過去と言えるほどのものは持っていない。今が現実だ。これからキャリアを開けばいい」
私は彼女の肩に手をかけた。
「私にもいろいろあって」彼女の声はふるえ、大きな目がみるみる涙でいっぱいになった。しかし、それは頬を伝いはしなかった。そのかわり、ふたすじの鼻水がつーっと流れて厚い唇の上に水たまりを作った。
私はそれをそっと吸った。少ししょっぱい味がした。彼女は肩を震わせた。私は強くキスをした。鼻水がどんどん溜まっていくのが感じられた。私は唇を離し、それを優しく指でぬぐった。
私は同性愛者だから彼女に性欲は感じなかった。感じる男もいるのだろうと思った。性欲は感じなかったが私のトランクスはガマン汁で濡れていた。
犬吠埼の海岸にはハマグリの殻がたくさん落ちていた。
長野県は南北に長い県である。
私がとりあえず就職したのは県南の小さな会社だった。秋に採用面接があり、中央高速を駆ってその地に赴くと、東京はまだ夏の色おいを残していたのに、塩尻を過ぎるとすでに晩秋の景色なのだった。
採用が決まって赴任したのは年が明けてからだった。まず、20センチの積雪が私を迎えた。「本当は年齢制限を越してるんだが」と総務部に言われつつ、独身寮に入った。独身寮は男性棟と女性棟に別れていたが、入社早々私が聞かされたのはかなり自由な行き来があり、乱脈なセックスも行われているという噂だった。何しろ、冬の間は雪に閉ざされるから、仕事が終わってからスキーに行くか、この独身寮で過ごすかしか、楽しみはないのだった。私はここで、冷蔵庫とうものはモノを凍らせないため、暖めるために入れておくものだということを知った。
私はここで気ままに過ごした。仕事は前の職場よりは楽だった。そのぶん給料は少なかった。
休みの前日ともなると車を駆って鄙びた宿場町に出、フィリピンパブでぐでぐでになるまで酔った。不思議なことに、こんな田舎にフィリピンから何人かの女性が働きに来ているのだった。フィリピンの女性は鼻が大きく唇が厚く、女性に興味のない私にも肉感的なことは判った。
私は大きくて重いラップトップパソコンの走りを持っていた。電話回線にそれをつなぎ、夜はパソコン通信で同性愛の掲示板を見て、何人かの男性とメールをした。その頃は今と違ってSNSなどはなく、メールをする人は長文を書くのが好きだった。画面上に字がポツポツ現われるような遅い通信速度ではあったが、その人々とエッチな話をし、オナニーした。
部屋は寒く、石油ファンヒーターの風が当たるところだけが暖かい。布団をめくってその風に当てていると布団が良い具合に暖まってくる。そこにもぐり込んでオナニーすると、そのたびに私はガマン汁を出してあたりがベトベトに濡れるのだった。
風は冷たいというよりは痛かった。通勤には車を利用していたが、独身寮の雪かきをしたり、近くの店まで出かけるときには歩いた。男子棟で雪かきをすると、数分もしないうちに手や顔の感覚がなくなった。雪かきの後は飲み会で、私は若い同僚たちに鼻水が出ていると笑われた。しかし、そういう彼らの鼻の下も鼻水で光ってい、頬は赤く染まっているのだった。私は青年が鼻水を光らせているのを見ると感じてしまい、部屋に戻ってから必ずオナニーした。
私はまた、暖かい寝床の中でオシッコをした。体の上にも下にも厚い毛布を敷いていた。その中に下着のままでもぐり込み、懐中電灯でペニスを照らし、少しずつオシッコを漏らした。性感が高まってくると衝動的な気分になり、思い切って毛布を濡らした。そういうときは下着も熱くなるほど濡れていた。濡れたパンツを脱いで匂いを嗅ぐ。そうするとますます乱暴な気分になり、湿ったペニスの先からオシッコの滴を出し、毛布を濡らす。下着だけはまめに洗濯したが、毛布はそのままだった。
そのように私の生活はすっかり青年の頃に戻っていた。もっとも、体はすでに中年だった。
やがて農協からリンゴの消毒日が知らされてきた。それが来ると春も本番になるのだった。
私が再び同性との束の間の愉悦を味わうようになった頃は、往年の「ホモ」という呼称は影をひそめ、「ゲイ」という明るいがどこか軽い響きが私らのことを指すようになっていた。
その頃の大きな社会情勢の変化と言えば、HIVの治療薬が開発されたことだった。かつてはHIVに感染すれば免疫力の低下は否み難く、いずれはAIDSと呼ばれる状態になって日和見感染から命の終焉を迎えることが宿命のように思われていた。しかし1996年から、HAARTと呼ばれる多剤併用療法が行われるようになり、HIV感染は適切に治療すれば恐ろしい病気ではなくなった。
アナルセックスを行わない私は、行う人よりもHIVに感染する危険性は低いと思っていた。しかし、HIVはレトロウィルスであるため、ごくわずかでも感染すれば影響は全身に拡がる。私は時に応じてHIV検査を受けるようになった。
そのころ私はとあるオーケストラのバイオリン奏者とつきあっていた。
この人とは掲示板で知りあい、何度かメールのやりとりをし、音楽やワインの好みが(私の知らないものが多かったが)高尚だと思った。初めて出会ったのは新宿であった。そのとき彼はメールで「それなりの食事とワインを楽しむからには、それなりのお金がかかりますが良いですか?」と聞いてきた。相変わらず動物実験の現場で糞尿にまみれて働いていた私のことを相当貧乏だと思ったようだった。実のところ私のふところは苦しかったが見栄を張って「大丈夫です」と答えた。
新宿の裏町のどこだかわからない路地を歩き、看板も何も出していない小さなビストロに私たちはやってきた。店主と彼は顔なじみらしく、こんなものが食べたい、あんなものが飲みたいといろいろ注文をつけた。店主の出してきたワインは彼の口に合ったらしかった。
彼は演奏旅行で世界中を歩いており、私の知らないヨーロッパの田舎町のことをいろいろ話した。彼の口から出るのは世界的な指揮者やオーケストラの悪口だった。
私はもう、話と食事とワインだけで頭がいっぱいになったので、これで別れても良いと思っていた。しかし彼は「これでさよならではちょっと寂しい」と言った。それで、二人で新宿のラブホテルに行くことにした。そのラブホテルの前では、酔った男女がお互いにしなだれかかって入るか入らないか言いあっており、そのうち女は男に肩を預けるような形で店内に入っていった。これからセックスをするこの男女の振る舞いを私は醜いと思った。
ラブホテルの部屋に入ると私は彼を後ろから抱き、ペニスに手を当ててみた。それはすでにガマン汁でヌルヌルと濡れていた。「ああ、もう・・・」と私は声を出した。彼がこれから起こることへの期待で興奮しているのが何か嬉しかった。
私たちは一人ずつ軽くシャワーを浴びてベッドに入った。彼は少し太めで、私の上になると重かった。彼は始終興奮して、ペニスの先はガマン汁でベトベトに濡れていた。私たちはからみあい、お互いのペニスをしゃぶりあい、動物のようなうめき声をあげて転がりあった。
普段は燕尾服を着て舞台の上に立っている演奏家なのだろうが、性的に興奮してしまうと見境のない青年と変わりない。当たり前ではあるが、その落差が面白いと思った。
彼とは3年にわたってつきあった。その間に何回か新宿で出会ってセックスした。彼は演奏会のチケットを私のために取っておいてくれ、私はあまりなじみのないクラシックの音楽会に出かけた。
しかし、彼はあるとき突然「好きな人ができた。可愛がってくれる。これからあなたと付き合うのは構わないがセックスは抜きだ」と通告してきた。それで私たちは縁が切れた。
こういう突然の別れは私にある種の喪失感をもたらしたが、若いときのことを思うと、それが男同士の出会いの特徴なのであった。要するに私たちは男女のように安定して巣を作るような恋愛はできないのだ。常に行きずりの一時的な縁が私たちを結ぶ。それは突然切れることもある。
そうして私は自分の体がだんだん中年の真っ盛りとなり、若い時のように「おじさま」を引きつけるわけでもないことに気づいた。
逞しい青年に射精させてもらって、若い時分に染まっていた同性愛の性向に再び火がついてしまったが、性的なサービスをする人をカネで買ったという記憶は後悔のようなものになって残った。
そこで私が選んだのは同性愛の掲示板サイトを見ることだった。そこに投稿したこともあれば、投稿されているものに返信したこともあった。投稿するとスパムメールがたくさん来るようになったが、それは仕方ないと思った。自分で投稿するよりも誰かの投稿に返信する方が返事はもらえた。しかし、多くの場合、相手が送ってくるメールは短く、数通のやりとりで自然に消えた。ある人とは比較的長い間続いたが、その人には別に好きな人がいて、いつもその話ばかり書いてくるのでだんだん腹が立ち、気まずい幕切れとなった。
ときには実際に会ってみることもあった。会っても多くの場合は喫茶店で話をしたり食事を一緒に取ったり、少し酒を飲んだりして終わることが多かった。だが何人かの人とはラブホテルなどに行って体の関係を持った。昔はそういう相手を年上と見ていたが、今はだいたい同年配か、相手の方が年下なのであった。
そんな一人は大阪に住んでいて、私は大阪に出張があったので会うことにした。高校の教師をしているというその人は小柄できちんとした身なりをし、言葉遣いも丁寧にしゃべった。
「生徒に感じたりすることはないのですか?」と私は聞いてみた。
「そこはしっかり自制しています。言わば商売の種ですから、そんな気は微塵も起きません」とその人は答えた。
ホテルに行ってシャワーを浴びた。別々に浴びたが、シャワールームから出てきた彼はすでに勃起していた。
「あまり経験はないのです。これから何が起こるかと考えると興奮して」と彼は赤くなった。
私は彼の後ろにまわり、後ろから肩を抱き寄せた。これは私が若い時に教えてもらった方法だった。正面を向いて抱擁するとどうしても抵抗が生じる。どうにかすると格闘技のように見える。後ろからだとすんなり抱ける。そうして相手の体を少し反らせるようにすると、抵抗する力は入らない。
私は肩を抱いた手を乳首の方におろした。少し乳首をいじっているとそれは硬くなり、彼は熱い息を漏らした。私も彼の首筋に後ろからそっと息を吹きかけた。私は手を彼のペニスに届かせた。それは硬く反り返って先端から粘液を出していた。私はその粘液を彼の腰や股に塗った。実は私もすでに勃起して粘液が漏れていた。
自制するのはそこまでだった。私たちはベッドに倒れ込み、愛撫しあった。彼が上になり、下になり、喘ぎながらごろごろ転がった。私は彼のペニスをくわえ、彼の足の方を向いて、かがえめた自分の体を伸ばした。そうするといわゆるシックスナインの形になった。彼は私のペニスを舐め、何度も口に入れた。私は彼の股を広げ、彼の尻を舐めた。彼は「うう」という苦しそうな呻き声を出した。
私たちは再び正対した。お互いのペニスをぶつけ合った。私たちのペニスから出たガマン汁の軌跡が腹の上で光った。
私はアナルを使おうとは思わなかった。若い頃は掘られることが多かったが、そのせいか私は痔になり、手術も受けたのだった。私はその痛みをホモ行為の罰だと思っていた。だから中年になってから男と相手をするときにはいわゆる掘ったり掘られたりということはしないのだった。もっとも、後には「入れてくれ」という人にも出会った。
だが、今は私たちはベッドの上で複雑にからみあいながらお互いの性感が高まるのを自覚していた。男の体、肉の薄いその体躯、逞しい上腕や太股、腋毛や陰毛の隠微な匂い、太くなったペニスとぬめぬめ光るガマン汁の水滴・・・私は久しく忘れていた男の体を思い出した。自分自身も興奮しながら相手の興奮を見る。それは情けないような、楽しいような、不思議な悦楽だった。
私たちは再びシックスナインの体制を取った。彼は次第に息が荒くなってきた。全身に力が入り始めた。ぎゅっと収縮したかと思うと、彼は私の口の中に大量の射精をした。
私は口の中に彼の精液を含んだまま、体の向きを変えて彼の顔に近づき、口移しで自分の精液を彼の口の中に入れた。彼はそれを受けた。「あなたの、精液」と私は囁いた。彼は涙の溜まった目で「うぅ」とうめいた。
それから私は乱暴に彼の口の中に自分のペニスを入れ、腰を振って射精した。彼の口の中では二人の精液が混ざった。
彼は口中の精液の始末をし、放心したようにベッドに横たわった。私もそのそばに横たわった。お互いのペニスはもう小さくなっていた。私はゆっくり彼の体を撫でた。彼も私の体を撫でた。「どんなでした?」私は聞いてみた。「頭の中が真っ白になった」と彼は言った。
「実は初めてだったんです」ぼつりと彼が言った。「こんなに興奮してしまって」と、飛び散った精液の後を眺めながら彼は言った。
翌日、私は彼の運転するクルマで六甲に案内してもらった。車の中でもセックスするかも知れないと思ったが、そのときはそういう事はなかった。
正直なところ、私は彼ともういっぺん連絡してみようかと思うこともあった。 だが、あるとき、私の携帯に(その頃はすでに携帯電話を使っていた)彼からのメールがあり、それはどう読んでも私以外の他人に宛てたものだった。「キミが忘れられない、もう一度合いたい」みたいな内容であった。
私は鼻白んで、彼にはそれ以上の連絡はしなかった。
仕事を取って歩く放浪の日々。私は大阪にいた。大阪駅前のホテルに投宿し、疲れた体をベッドに投げ出していた。いつまでこんな苦労が続くのだろうと思っていた。こういうときには、私は思いっきりオナニーをするのが習い性だった。だがその日はパソコンをつないで仕事をしていた。ふと私は、見慣れないWEBページに誘われた。
それは男の子が男に性のサービスをする、いわゆるウリ専という人々を抱えている業者のページだった。私の手元にはそれなりの金があった。時間もあった。
しばらく迷ったが、私は思いきってその業者に電話してみた。電話の応対はこれ以上ないと思えるほど丁寧だった。それはわりと近いところにあり、今からでも受け付けられるという話だった。
そこで私は行ってみることにした。都市の冒険の一種のような気持ちだった。
待ち合わせ場所に立つと、本当にそんなことをやるのか、心臓の鼓動が大きく響くようだった。
しばらくすると男の子が迎えに来た。それはとてもハンサムといっていい、さわやかな青年だった。私はその青年に連れられて店に行った。どんな洞窟のようなところだろうと思っていた当ては外れた。外からではそのような店とはわからない仕組みになっていたが、中は明るく清潔だった。私はアルバムを見せられて、どの子が望みかを聞かれた。どの子という当てもなかったので、いま迎えに来てくれた青年を頼むと言った。
個室で待っていると彼が来た。私はなんだか悪いような気がして、べつにサービスなどしなくて良いから、休憩時間のつもりで気楽にしてくれと言った。彼はとてもよくしつけられているようで、受け答えは丁寧だった。
私たちはシャワーを浴びた。彼がとても念入りに私の股間をこするので、私は勃起した。
私たちは少し濡れた体のままベッドに横たわった。灯を暗くすると、彼は舌先に力を入れ、私の乳首を猛然とペロペロ舐め始めた。その舌はやがて私の体側を這った。くすぐったいような妙な気持ちがしたが、私はだんだん性感を感じ始めていた。
「声を出すぞ」と私は小声で言い、彼は「うん」とうなずいた。私はあえぎ声をあげた。自分があられもなく声を出していることに私は興奮した。私の声はいつしか大きくなった。
私もまた彼がするように彼の乳首を舐めた。それは浅黒く大きく、じきにぴくんと大きくなった。彼のペニスが大きくなっているのを私は感じた。私はそれを口に入れた。何十年ぶりでこうやって男のペニスを頬張るだろう。しかも相手は金で買っているとはいえ爽やかな俳優のような好男子だった。盛り上がった肩の筋肉やたくましい二の腕、きゅっと絞まった腰や大きな尻に私は舌を這わせ、むしゃぶりついた。
私は彼のペニスの先端がぬめぬめと濡れているのを感じた。私はそれをしごいた。彼は身をくねらせてよがった。
暖かい夜だった。私たちは獣のように体をむさぼりあった。お互いの「ハッ、ハッ」という息や、「あぁ、うぅ」という声が狭い部屋に響いた。私は彼のペニスを握り、その手を激しく上下させた。「あっ、ヤバイです」と彼は小声で叫んだ。私はかまわず彼をしごいた。「ヤバい、ヤバい」と彼は二、三度うめき、射精した。小さな白い水滴が彼の胸のあたりまで飛び散った。私はそれに口をつけようとした。「それはダメです。禁じられてます」と彼は言った。私は彼の精液をティッシュでぬぐい、そっと匂いを嗅いだ。
彼は私に覆いかぶさってきた。彼の手が私の股間をしごいた。「濡れてます」と彼はささやいた。私は彼の手を止めた。私は彼の上に馬乗りになり、腰を動かした。私のヌルヌル濡れたペニスが彼の腹を這った。私は声にならない叫びをあげた。それから勢い良く射精した。
再びシャワーを浴び、私はホテルに帰った。ネオンサインがまぶしく、私は疲れて足取りは重かった。
カネで男を買う。そのことに何か良心の呵責のようなものを感じないわけではなかった。私にしてみれば思い掛けない散財でもあった。
だが、私は自分が同性愛者だったことを思い出した。何十年もこの感覚を忘れていた。そして今やインターネットというものを使えば手軽に男と会えるのだった。
私はホテルに帰ってから再び全裸になった。ユニットバスの大きな姿見の前で私は放尿した。私は再びオナニーした。
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