VITA HOMOSEXUALIS
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私は左翼運動から遁走したのと同時期に酒屋のアルバイトも辞めた。私は完全に行方不明になる必要があるのだった。
私が潜伏したところは多摩川を渡って川崎側にある小さなアパートだった。家賃は安く、銭湯のすぐ裏だった。私はその時初めて自分の部屋のトイレと洗面台というものを得た。ここもしばらくしたら逃げなければならないかと思いつつ、そこに住んだ。
私は仕事を探さなければならなかった。もう22になっていた。私は知人の知人を介して、動物を扱う仕事場が作業員を求めているという話を聞いた。私は動物なんぞ嫌いで、重労働そうなその仕事にも食指は動かなかったが、とりあえず食べていかなければならないので、簡単な面接を経てそこでアルバイトをするようになった。
仕事はきつく、朝7時に起きて電車の駅まで歩き、そこから満員の電車に乗って、さらにバスに乗って山の中に入って行く。そこで作業服に着替え、一日中獣の世話をする。仕事が上がると同僚は女を買いに行くか、ばくちを始めるか、酒を呑みに行くかのどれかである。荒くれた職場であった。私はそういう行動に馴染めず、いつも一人で部屋まで帰った。その途中に薄汚い中華食堂があり、値段の割には山のように盛った炒め物などが出てきた。それを食べて帰って銭湯に入って寝る。その毎日で、私は自慰もあまりしなかった。する気にならないほど疲れていた。
ある日、日曜日の午後、私は小田急に乗って新宿へ行ってみた。 新宿にはかつて私が通った「パレス座」があった。そこは初めてオトコにチンチンを露出したハッテン場だった。
ところが、パレス座の中はすっかり様変わりしていた。あれだけびっしり立っていた「立ち見」がちらほらしかいなかった。客席で隣に多いかぶさってフェラチオをしている男の姿も見得なかった。
隙間の多い場内をやくざ風の男が大声で恫喝しながら歩いていた。
「おまえらホモだろうが!」、「この変態!」
彼らは私たちをにらみつけてそのように叫んだ。
「ああ、ここも往年の場所ではなくなったのだ」
私はがっかりして「パレス座」を出た。相変わらず暑い夏の陽射しが新宿駅前のアスファルトを溶かしているように見えた。
オレはまともになる。昼間の仕事について、オンナとつき合う。就職して、結婚もする。ゲイの世界からは足を洗うのだ。そう思った。
ある冬のデモ行進は荒れた。
清水谷公園を出発したときは6列横隊で整然と歩いていた。だが、隊列が虎ノ門にさしかかる頃には左右を挟む機動隊からのちょっかいが激しくなり、しばしば隊列は乱れ、「挑発に乗るな!」という怒号が響いた。シュプレヒコールが大きくなり、隊列はうねり始めた。外務省に突入しようという勢いが増し、デモはジグザグの様相を見せ始めた。完全に日が暮れるとうねりはますます大きくなった。警察の装甲車はひっきりなしに「デモ隊の諸君、静粛にしなさい、さもないと放水を開始する」と叫んでいた。何人かの逮捕者が出たようであった。
私は疲れていた。何のためにこんなことをやっているのか、もう自分でも考えられなかった。
デモ隊の目的地は日比谷公園で、がちがちと震えるほどの寒さのなかで「大勝利集会」が開かれた。私はそれを空しいと思った。この国は我々のこの活動では変わらない。
集会が終わり、私は帰途についた。K君がついてきた。地下鉄の駅の方まで、少し私から離れた位置を保ちながら、彼は私の跡を追ってきた。私は苛立った。
「なんでついてくるんだ? 尾行をまくためにバラバラに行動しろと言われただろ」
私は小声で、しかし厳しく彼に言った。
「先輩のウチに連れてってください」
「なんで?」私の顔は険しくなったと思う。
「オシッコもらした・・・」彼は消えそうな声で答えた。
そのとき、私の頭の中で何かの糸が切れたと思う。私は相変わらず不機嫌な顔をして彼を見ずに歩き続け、地下鉄に乗り、我々を弾圧する張本人の巣窟である富士見警察署の前を通り、自分のアパートに帰り、跡をついてきたK君の下半身を脱がせて私のジャージを着せ、銭湯に行き、彼の濡れたものをコインランドリーに放り込んだ。
私たちは飲酒は禁じられていたが、銭湯からの帰り道、私とK君は小さな居酒屋でしこたま飲んだ。腰をふらふらさえながら坂道を上がって私のアパートに帰る途中、私はよろけて洗面器を落とした。それはカラカラと坂を転がって落ちた。それをあわてて拾いに行く私を見てK君は嗤った。陽気な笑いだった。彼が笑うのを初めて見た。
私たちは下着だけになって一つしかない布団にもぐり込んだ。冷たい部屋だった。
私は彼を抱いた。彼も腕に力を入れて私の首に回した。私たちはキスをした。彼の口からは甘いミルクのような匂いがした。私は勃起した。彼も勃起していた。私たちは下着を脱ぎ捨てて全裸で抱きあった。私のペニスからも、彼のペニスからも、ガマン汁が垂れ始めた。
形も何もなかった。5ワットの電球が暗く部屋を照らす中で、私は彼の乳首を吸い、彼は私の首筋に舌を這わせた。私たちは体幹を密着させて愛撫しあった。激しい息遣いが私たちの気持ちを高めた。私たちはお互いに体を反転させて覆いかぶさり、私は彼のペニスを、彼は私のペニスを口に含んでしごいた。彼のペニスはだらだらと流れるガマン汁でしょっぱかった。
酒の酔いが回ってきて、彼の白い顔は紅色に染まっていた。私の顔も赤かったと思う。私たちは再び顔と顔を合わせ、激しいキスをした。お互いの下腹を規則正しくこすりあわせ、勃起したペニス同士がまるで乾いた剣のようにお互いを責めあうのを楽しんだ。私は彼の髪の毛をつかんてくしゃくしゃにした。
私たちはほとんど同時に射精した。
彼は私の腹の上に白い粒のような精液を撒き散らし、私は彼の股間に向かって勢い良く白い粘液を吹きかけた。
それらを始末するにはティシュの箱をほとんど半分使った。
私たちは疲れ、再び下着を身に着けて、抱きあったまま眠った。
翌朝早く、よく晴れて寒く、街に白い靄が漂っているように見える頃、彼は帰って行った。
私はその後ろ姿を見送り、再び会いたい、何度でも会いたい、ずっと会っていたいという衝動に駆られた。いまここで彼の姿を見失えば、おそらく二度と会うことはない。
彼は後ろを見ずに冷たい街の中を歩いて行き、角を曲がって見えなくなった。私の体には夕べの温かい感触がまだ残っていた。私はぐったりと疲れて部屋に戻った。部屋の中はきつい精液の匂いがした。二人の精液が混ざり合った匂いだった。
私はおそらく彼のを拭いたと思われるティッシュのかたまりを広げた。そこには糊のようにべっとりとついた彼の精液がまだそのままに残っていた。私はその匂いを嗅いだ。突然涙が溢れた。
私は彼が好きだった。ずっと昔から好きだったのだ。初めて会った時から好きだった。彼を教育しているときには気分が高揚した。私はいつも彼と一緒にいたかった。もっとたくさんのことを話したかった。私は彼を愛していたのだ。私はしばらく声を立てずに嗚咽していた。
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一週間ほどかけて、私は部屋の中のビラやパンフレットをすべて捨てた。
アパートを解約した。私はだれにも行き先を告げずにそこから立ち去った。
とりあえず遠くへ行きたかった。
どこかに住むところと、仕事を探さなければならなかった。
私は新宿から小田急に乗って、登戸で降りた。
私は新しい生活を始めることにした。
だがそれは潜航生活、仲間を裏切った生活、見つかったら総括を要求される生活なのだった。その総括というのは、手の指と爪の間に一本ずつ針を刺しながら行われるのだ。
K君は次第に活動への疑問や批判を口にするようになった。
それは実は私も感じていることだった。
だが、彼を教育する立場の私としては、彼の言葉に同感めいたことは言えなかった。
ここで私は気づいた。
上層部は私の気持ちが離反し始めたのを知って、わざと私を新人の教育係にし、私の思想を鍛え直そうとしているのだ。
自分が信じてない言葉でも、他人に向かってそれを100回も言えば、自分でもだんだん信じているような気になる。
だが、私はそれに倦んだ。
私たちが究極的に目指していたのは全世界の労働者の同時蜂起だ。
世界各地でプロレタリアートが資本家階級を倒し、全世界統一政府のもとにプロレタリア革命が成就する。
私は、そうなれば良いとは思っていたが、そうなることはないだろうとも思っていた。
そうすると私たちが局所的にやっている闘いは何なのか?
原発、基地、反動教育、思想統制、大資本家優遇、下層労働者切り捨て、福祉切り捨て。
手直しして行かなければならないことはたくさんある。しかしその手直しの先に目指すのが世界同時革命であるなら、それが無理なことなら、局所的な闘いは無意味ではないか。
K君のように疑問を持つ人は、従来のやり方ではオルグできなかった。
もっと彼の言うことを聞き、彼の気持ちに寄り添い、彼の心をほぐすような工夫が必要だった。
それで私は事務所外でも彼と個人的に会い、闘争と関係ない話もたくさんした。
秋風が吹き始めた渋谷の街を二人で寄り添っていろいろ話ながらぶらぶら歩き、喫茶店でタバコを吸ってコーヒーを飲み、本屋で思想とは関係のない本を見て歩く。
私は彼のプライベートな生活は知らなかったし、こちらも教えなかった。
しかし、若く美しい男の子とこのように並んでいると、それは甘いデートのように思えて来るのだった。私はそれをだんだん喜びに感じ、彼を積極的に誘うようになった。
前回の記事を書いてから一年経った秋のことである。
結局私はこの活動に足掛け二年かかわっていた。
今では10月21日が何の日であるか、知っている人も少なかろうが、この日は国際反戦デーなのである。私たちは代々木公園に集まって集会をし、渋谷の町をデモ行進した。
このデモ行進というものは6列横隊で進み、両脇をがっちり機動隊に挟まれている。
機動隊はときどき私たちにちょっかいを出す。わざと足をひっかけたり、警棒で私たちの列をつついたりする。
国際反戦デーに合わせて私たちは大学に行ってビラを撒き、新人をオルグした。
成果はたった一人だったが、新しく参加したメンバーは私と同郷だった。Kという色の白い、ほっそりした青年で、およそ活動とは縁のなさそうな、おとなしい人で小さな声でしゃべった。
私と同じ県の出身ということもあって、私が彼のメンターにされた。
新人を指導する立場に立つということは、活動から離れかけていた私の心を一時的に活動の方に戻した。私は熱心にK君を教育した。 夜の事務所で二人きりで話していると、ときどきKの甘い息が私にかかった。
以前の私なら同性愛の欲望に駆られていたところだが、今は違うと自分では思っていた。
それから季節は寒い冬になった。
ある秋の日、あるところで活動中に「内ゲバ殺人」を目撃した。
横丁から走り出た数人の覆面、ヘルメットの男が路上の男を鉄パイプでめった打ちにして逃げた。
道路にはケチャップのような血だまりがぐんぐん大きくなった。倒れた男はぴくりとも動かなかった。
私もすぐにそこから立ち去ったが、どういうわけか警察の事情聴取を受けるはめになった。
私は素直には答えなかった。そうすると相手の態度が硬化した。目つきの鋭い、いかにも昔は特高だったといったおもむきの刑事がねちねちと私を恫喝しはじめた。
事情聴取は一日だけでは終わらなかった。何度も呼び出しがあった。
そして、私のアパートは見張られるようになった。日曜に目を覚まし、カーテンを開けてみると、電信柱の角に私服らしいのが二人タバコを吹かしていた。
「あんた、何かやったんじゃないの? 警察がつきまとってるみたいだし」
私はアパートの管理人の太った中年のおばさんから叱責され、上京してから住んでいたアパートを追い出された。それで下町の金魚屋の二階に住み処を替えた。
その頃になって、私はようやく活動に倦み始めた。6000枚もビラを撒くが、集会に来るのは数人である。あちこちの闘争に出かけて行くが、地元で何十年も闘いに取り組んでいる人々の迫力には負ける。数人でチョロチョロと歩いたデモでも常に「大勝利」と総括される。「敵は我々の戦闘力を恐怖している」という。しかしそれは戦時中の大本営発表のような強がりではないか。
私は依然として闘争そのものには意義があり、我々の路線は間違っていないとは思っていた。
しかし、体の疲れ、権力の暴力装置すなわち警察への警戒、厳しい上下関係、革命を支える前衛の無謬性という考え、こういうことが次第に私の心身の力を殺いでいくようであった。
私たちは小さな集団で、闘争目標は何でも良かった。
肉体的に激しい闘争は三里塚(成田空港)だった。理不尽な政府のゴリ押しで不便な地に作られた貧相な国際空港。空港としての機能よりも、私たちはあれを日本政府が民衆に牙をむいた象徴としてとらえていた。
韓国の民主化。今では信じられないことだが、1970年代当時にあっては、北朝鮮の方が経済力があった。韓国政府は何とか経済成長を遂げようとして非常に独裁的な体制を取った。民主化運動をする人たちを次々に逮捕・投獄した。その中には後に韓国大統領になる金大中がいた。また、詩人の金詩河もいた。それを弾圧したのは朴正煕政権だった。私たちは民主化勢力を支援し、朴政権を打倒するために闘っていた。
あるいは、原発。原発もまた政府が貧しい地方を補助金で釣って、地方に危ないものを誘致させるのだった。静岡の反原発闘争は辛かった。「東京から来たアカの若造らに何がわかる」、「地元の事情を何あも知らんくせに」、「わしらは原発で豊かになるんじゃ」と言われ、地元の政治ボス、財界人、警察が一体となって我々を排除した。
そして反戦。政府による靖国神社国家護持に反対。日米韓三カ国の軍隊が共同で行う演習「リムパック」全面阻止。
私らにはやることがいっぱいあった。それは充実した生活だった。
だが。その生活に陰りが見えてきた。
きっかけは、この年の秋に起こった「内ゲバ殺人事件」を私が目撃したことだった。
都会のアスファルトが溶けるような夏が来るころ、何度か「彼ら」の集会に顔を出した私は「事務所に来てみないか」という誘いに乗って「彼ら」の本拠地に行ってみることにした。
それは奇しくも私が東北出身の痩せた男と一夜を裸で共にした安いアパートと同じ駅で降りるところにあった。そのアパートに行くのとは反対側の道を行くと「彼ら」の事務所なのだった。
それは二階建てのマンションの一室で、扉には「XX企画」という会社のような表札が出してあった。扉を開けてみると広い部屋で、コピー機やガリ版の輪転機などが置いてあり、事務机と椅子が数脚、流し台には大きめの薬罐やカップラーメンの屑などがあった。その奥にも部屋があり、二人か三人の人が泊まり込めるようになっていた。
壁にはグラフィックデザイナーの粟津潔がデザインした「空港は必ず緑野に戻す」と書かれた三里塚闘争のポスターが貼ってあった。部屋の隅にはビラやパンフレットのようなものが積み上げてあり、いくつか書籍もあった。
私は気後れしなかった。なぜか「彼ら」にはすんなり入り込めた。
それから私は何度かその事務所に行き、会計係のようなことをしたり、ガリ版でビラを作ったりした。「彼ら」とはあまり話すことはなかった。仲間に入ってしまうと「闘い」の生活をするのは当然という雰囲気があった。何月何日にどこへ行き、「闘い」をしてくるかという相談はした。それは事務的な相談であった。
何度か通っているうちに、「彼ら」は特定のセクトには属さず、大学や職場からはみ出した人々がいつかどこかで寄りあって集団を形成したのだろうと思うようになった。中核のメンバーはやや年かさの二人の男で、実務はそれより若い美男子と言える男が取り仕切っていた。性を全く感じさせない女性メンバーも二人いた。
私は酒屋のアルバイトをやめた。活動資金を得るにはそのアルバイトでは少なく、自由になる時間もなかった。それで、短時間でもっと金になり、勤務も不定期な肉体労働の仕事に就くことにした。
不思議なことに、この生活が始まると私の同性愛は引っ込んでしまった。ときおりオナニーはした。だがそれは、性欲の発散というよりも、肉体的に溜まってくるものの処理だった。「薔薇族」に描かれているような男同士の恋愛は、階級意識を持たず、自立してない人たちが弱みを舐めあうために寄り集まっているように思った。
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