VITA HOMOSEXUALIS
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サナトリウムで私を射精させた車椅子の男性は、米人の牧師と同性結婚すると言って私のもとを去った。その頃は同性婚という制度はどこの国にもなく、その人だけの心の満足なのだろうと思った。
私はしばらく一人でぶらぶらしていたが、また「薔薇族」を買って読み、浪人と称する19歳の男の子と会った。
晩秋のある日、私の前に現れたのは整った顔立ちをした背の高い男だった。自分の一族はみな医者で、自分も医学部を目指して浪人していると言った。
私たちはとりあえず体のことは考えずつき合うことにした。
彼はバレエを習っていたそうで、舞台にも立ったことがあると言っていた。彼は私をクラシック音楽の演奏会に連れて行った。そうすると彼は一般客とは違う入り口から入り、中にいる係のような人と知り合いらしく、いろいろ談笑しているのであった。
そういう社会は私の住んでいる社会とは全く別のものであった。
彼は中野にマンションを持っていた。親に買ってもらったといい、見晴らしの良い2LDKに一人で住んでいた。
それもまた私には想像もできない社会の出来事であった。
私には彼を好きだとか愛するとかいう気持ちは生まれなかった。だが、私の知らない世界のことを知りたいという気持ちが湧いてきた。
私を出迎えてくれた青年は車椅子に乗っていた。
脊椎を損傷したが、運が良かったので下半身が動かないだけで手は自由に使えると言っていた。今は少し具合が悪くなったので入院しているが、退院するとアパートで一人暮らしをしているし、手だけで動かす自動車に乗ってドライブにも行くという話だった。
部屋はたしか四人部屋ぐらいで、カーテンで仕切られた空間が彼の城なのだった。そこにはギターやノート、楽譜などが置かれていた。その部屋の中だと他人の耳があるので同性愛の話は出来ない。彼は屋上に行こうと私を誘った。
彼の車椅子を押して廊下に出た。廊下は暗かった。すれ違った看護婦が「あら、お友だち? たくさんお友だちがいていいわね」と声をかけた。それで私は、彼がこうやって男を呼んでいるのは自分だけではないということがわかった。
屋上は明るかった。洗濯物がたくさん干してあった。陽射しがまぶしく、暑いくらいであった。私たちはエレベータの機械室の影に行った。
私は自分が酒屋でアルバイトをしながら専門学校に通っていることを話した。
「全くのノンケでしょ?」と彼が言うので「いいえ、そうじゃありません」と、私は映画館での体験を話した。そうして自分は青年になった頃から同性愛であると自覚していたのだという話もした。
彼は「ボクはこんなふうな体になってからなんですよ」と言った。「チンチンが立たなくなってから、他人のチンチンが恋しくなったんです。大きく勃起してるやつが」
彼の話によると、最初に自分の相手をしてくれたのは医者だった。それから、アパートにやって来る宅配便の配達員などとも関係を持った。今は教会のアメリカ人の牧師が好きだ。できれば結婚したいと思う。
彼は突然私の方をまっすぐ見た。
「チンチン見せてくれませんか?」
「ここで、ですか?」
彼の目は真剣で、すこし凶暴になっているように私には見えた。
私は彼の方に近寄った。
彼は私のジッパーをおろした。それはまだ硬くなかったが、彼の手でいじられているうちに硬くなってきた。
「もっとこっちへ来て」彼は喘ぐように囁いた。私が二歩ほど進むと、彼は私のペニスをくわえた。彼の舌と頬が生き物のように私にへばりつき、私を翻弄した。私は股に汗をかいた。腰が疼いてきた。彼の口の運動は規則性を加え、動きは激しくなった。私は目を閉じた。
私は彼の口の中に射精した。
彼はそれを呑み込んでしまった。
なぜか私の目から涙が一条流れた。
東京の西の森にあたる陽射しは傾こうとしていた。
上野駅の、いまは横浜銀行があるあたりに、小さな本屋があった。
その本屋には『薔薇族』が置いてあった。
全然愛想のないおばさんが店番していて、客の顔も見ずにカネを受け取った。それが『薔薇族』を買うには都合良かった。
私は何度か『薔薇族』を買った。そしてあるとき「交際希望」の欄に「ミュージシャン志望」とある青年の投稿を目にした。
私はその人に宛ててメッセージを書き、第二書房に送った。
そのことを忘れかけていたころ、返事が来た。返信の差出人の住所は、とある療養所になっていた。
私はその住所に宛てて手紙を書いた。
そうしたら返事が来た。その中には自分の歌を入れたカセットテープが入っていた。フォークと演歌を合わせたような歌だった。
私はその人に会いに行くことにした。
東京の東の端から西の端まで電車に乗った。
冬枯れの森の中を、多摩郊外の療養所に向かって歩いた。
木枯らしが吹きすさぶ東京の冬は私にとって厳しかった。
温暖なところで育った私にはこの風の強さと埃だけで頭が痛くなるような日々であった。
そんなとき、私は渋谷の大盛堂書店の雑誌売り場で『薔薇族』という雑誌を見た。
学生服姿の若者がいろいろなポーズをとっているグラビア写真の載っているその雑誌を私は最初ファッション雑誌かと思った。
だが、中身に目を留めているうちに、この雑誌は「そんなものではない」ということに気付いた。
それは男性同性愛者のための雑誌なのであった。
私は何だかそれを店頭で見るのが恥ずかしかった。
レジに持っていくのはもっと恥ずかしかった。私はその雑誌を慌てて閉じ、別の雑誌を見た。しかし、頭の中は『薔薇族』に載っていることで一杯になっていた。
結局私は他のなんということもない、今では名前さえも忘れてしまったバイクの雑誌か何かと一緒に『薔薇族』をレジに持っていって、それを買った。
部屋に帰ってからそれを読んだ。小説みたいなものや、マンガ、それに随筆のようなものは、一言で言うと稚拙で、読んでも面白いとは思わなかった。
しかし、圧巻だったのは巻末の「交際募集」の広告欄であった。そこにはいろいろな人が「相手を求める」メッセージが寄せられていた。今のようにインターネットがある時代とは違う。同性愛者が相手と出会う機会は少なかった。その欄は今の「出会い系」によく似ている。自分の簡単なプロフィールや相手に求めることが書いてある。もちろん、自分の名前のところは変名になっている。
私はやがてそのシステムを理解した。その広告記事を読んで、この人と交際してみたいという人がいたとする。そうすると私は、自分の住所と宛名を書いた返信用の封筒に切手を貼ったものを同封し、『薔薇族』を発行していた第二書房の編集部に宛てて、その変名を書いて「この人と知りあいたい」という手紙を送るのである。そうすると第二書房の編集部は相手にその手紙を転送してくれる。
私は一人でその欄を読みながら顔が熱くなってくるのを感じた。今まで、新宿の映画館やスナックでしか見たことのない同性愛者たちがこんなにいて、相手を求めている。その事実は私をぼうっとさせた。
私は東京に出てきてからしばらく経って映画館やバーに行き、行きずりの男と体の関係を結んだが、自分の気持ちとして好きになった人はいなかった。ただ体を重ね、射精したりされたりするだけの関係であった。
その年の秋から、私はアルバイト先の酒店の配達のために、自動車の運転免許が必要になり、学費を半分社長に出してもらって自動車学校に通い始めた。
当時は今のようにネットによる実技予約などはなく、実技実習を受けるためには早朝から自動車学校の受け付けに並んで時間の予約をしなければならなかった。季節は秋から冬に向かい、早起きをして出かけるには辛い時期であった。
実技予約の列に並んでいる人の中でいちばん目立つのは中年のおばさん達であった。このおばさん達は何の楽しいことがあるのか、いつも大声で話していて、それはたいてい教官たちの噂話なのであった。私はこのおばさんから話しかけられるのが最も苦手だった。酒屋の店員をやっている事や、その配達のために免許が必要である事も、恥ずかしくて言えなかった。
時折その列にガクランを着た大学生を見かけるようになった。背の高い、涼やかな顔をして、いつも皆に「おはよう」と元気の良い声をかける、明るい青年だった。何度か見かけているうちに、私はその人が好きになって行くような気がした。
あるときたまたま隣り合わせの列に並び、同じ時間に教習を受け、同じ時間にそれが終わるということがあった。「いま終わったんですか?」私は声をかけてみた。「そうだよ」と爽やかな声が返ってきた。私たちは少し立ち話をした。
別の日にまた一緒になった。「なんで学生服を着てるんですか?」私の質問に彼は応援部だからだと答えた。
それから、一緒のときにはいろいろなことを話すようになった。彼が相手だと私は自分が専門学校を挫折しそうな店員であることや、誰も話し相手がいないことなどを素直に打ち明けることができた。彼は東京六大学のうちの一つに通っていた。それは私から見ると雲の上の存在なのであった。「自分に負けてはダメだよ」、「どんな境遇でもそこからはい上がるチャンスはどこかにあるんだ」彼はいつもまっすぐにそのようなことを言った。私たちは教習の後に喫茶店でコーヒーを飲みながら話し合うまでになった。私はいつしか自分が彼を好きになり始めているのを感じた。彼のたくましい腕に抱かれている夢を何度か見た。
ある朝、それは年の暮れも近いとても寒い朝だった。待合室には石油ストーブが一台しかなく、私たちは震えながら自分が予約表に記帳できる順番が来るのを待った。
そこに彼が「おはよう」と元気良く入ってきた。「おはようございます」と私は返事をした。そして彼の顔を見たときに、私は思わずハッとなって顔をうつむけてしまった。彼の顔は相変わらず明るく涼やかであったが、鼻水が垂れて唇に届いていた。あまりに寒い朝だったし、待合室は急に暖か湿度もあったので、それは仕方のないことだったろう。右の鼻から垂れた水洟が光って、彼の顔は急に幼さを増したように思えた。
そのとき私には不思議なことが起こった。私は急に性の欲動を感じたのだった。私は隣のおばさんに「ここの順番お願いします」と言い置いてトイレに駆け込んだ。私のペニスは勃起していて、先端からぬるぬると「先走り」と呼ばれる汁を出していた。私は自動車学校のトイレの個室で早朝にオナニーした。ほんの数回こすっただけて勢い良く精液が飛び出した。
ようやく静まった気持ちの高ぶりを抑えて私は列に戻った。彼はまだ鼻水を垂らしていた。まわりの人は皆それに気付いていたが、誰もそれを指摘できないのだった。
その日、私は恥ずかしくて教習が終わった後も彼とお茶をすることができなかった。
木枯らしが吹くようになった。
私はまたいつものように新宿にいた。誰かお金をくれるおじさんはいないかなと探していた。
よく行くスナックのカウンタに座っていると、若く端正な顔立ちの青年がやってきて、「ちょっと」と私を誘った。
「これは上客だ」と思いながら私はついて行った。
誘われたところは新宿御苑に近い神社の暗い境内だった。そこに三人ほどの若い男がしゃがんでいた。みな整った顔立ちの青年だった。服装も普段着で、どこにも変わったところのない人々だった。しかし、彼らの目つきは鋭かった。私は何となく浮いた気分が沈んでいくのを感じた。
小柄な男がしゃがんだまま私を見上げた。
「彼氏(その頃、誰だかわからない人を呼ぶのによくこういうふうに言っていた)、ちょっと目立つんじゃない?」
彼は私をじっと見たままそう言った。
「オレたちは仕事があってさぁ、 彼氏みたいなのがウロウロしてると困るのよね」
彼らはすっと立った。その途端、私の腹に蹴りが入った。
私はうずくまった。散々に蹴られた。
「顔はやめといてあげてね」
最初の男が嘲笑するように言った。
私はうずくまったまま丸くなった。それでも蹴りは止まなかった。「イキがってんじゃねえ」、「カッペが」というような声が聞こえた。それは決して大きな声ではなかった。ささやき声のようだった。
私は動けなくなった。
「これからはちゃんと挨拶においでなさいね」
最初の男が笑いながら言った。男達は去った。
土は冷たかった。私は腹、腰、臀部などを蹴られていた。男達が去ってから、鈍い痛みがやってきた。関節を動かすことができなかった。私はしばらくそこに丸くなって横たわっていた。「顔はやめといて」と言っていたが、顔にも何発かパンチをくらっており、口の中が少し切れたようだった。
私は起き上がった。ずきずきする痛みをひきずって電車に乗った。電車に乗ると恐ろしさが襲ってきた。彼らは「ウリ専」と呼ばれる商売人だったに違いない。私は彼らのなわばりを荒らしたのだ。だから処罰されたのだ。何よりも恐ろしかったのは、彼らの端正な顔立ちと乱暴な行為のギャップだった。「新宿にはもう二度と行くまい」と私は思った。
自分が悪いことをしたわけではない。しかし、確かにこの町には、知らない者にはわからない獣の法則のようなものが渦巻いている。
「都会にゃあ用心せえよ」私はこんな父の言葉を思い出した。
アパートの部屋に帰ると気が緩んだ。私は傷を調べてみた。ずきずきする全身の痛みに対して、傷らしい傷はほとんどなかった。「あいつらはプロなのだ」と私は思った。布団をかぶって横になった。
「遠くまで来すぎてしまった」私はそう思った。そう思ったら涙が出てきた。私は痛みをこらえながら息を殺して泣いた。
オナニーを見せただけで2万円もらった私は浮ついた。その頃の私にとって2万円と言えばほとんど一月分の生活費だった。
「もう一度同じことがあるかも知れない」
そう思って私は新宿の町をうろついた。それは浅ましい姿だった。
ホモバーに入り、目をつけたおじさんの隣に座り、初めは無関心を装い、何気なく言葉を交わし、先に出ておく。おじさんが出てくるまで待つ。もちろん、たっぷり気を引かせるようなことを言ってバーを出るのである。わりとすぐに出てくるおじさんには脈がある。
最初からカネの話などはしない。
ことが終わってから、「オレいまちょっと金欠なんで、帰りの電車代とかちょっとカンパしていただけたら」というようなことを照れ臭そうに言う。
田舎から出てきて一年も経たないうちに私はこんなふうになってしまった。
ところが、驚いたことに、たいていのおじさんが金をくれたのである。さすがに2万円というのはなかったが、5000円とか10000円とか、きりのいい金額をくれた。もちろん、私が金のことを切り出した途端に露骨にイヤな顔をし、「何だおまえ、そういうのだったのか」と屑のように言われることもあった。そういうときには無理をしないのがコツだ。「あ、すんません、いいっす、気にしないでください、何とかなりますから」と言ってそそくさと帰る。しかし内心では「ケチ」と思っているのである。
当時いちばん多かったのは、私のお尻に相手がペニスを突っ込む、私はいわゆる「受け」、相手は「立ち」というスタイルだった。
初めてこれをやられたときには死ぬかと思った。それほど痛かった。
私には「受け」に対するセンスがなかったのだ。ゲイの中には挿入されるのが好きな人が多いことは知っている。バックで受けると感じる人がいる。しかし、私はそうではなかった。
いくらローションを塗ってくれても、指で「開発」されるとしても、いざ実際に怒張したペニスが入ってくるときの焼けつくような痛み。その後に感じる重苦しい便意。いつも自分が漏らすのではないかとおののく不快感。実際に太腿を熱い液体が伝って落ちたときには「もうダメだ」と思った。しかしそれは相手が塗りたくったローションと相手の精液と私の腸内の何かが混じった液で、便ではなかった。
私はバックに入れられるとしばしば涙を流した。相手はそれを見て私が感激していると思うようであった。
じっさい、不思議なことに、バックに入れられると私は勃起していなくてもガマン汁は出た。これはきっとクーパー腺が機械的に圧迫されたからなのだろう。ときには沢山あふれるほど出た。相手はそれを見ると私が「感じている」と思うようであった。
尻の痛みは翌朝まで残り、そんなとき私は一万円もらっても割に合わないと思うのであった。
しかし、再びそのカネが欲しくてバーに出かけるのであった。
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