舌の色はピンク
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月曜はつっらい。 よくある精神的なそれじゃなくて 単に体が重い。 怠さが他の日に比べて抜群にひどい。
体の怠さを初めて感じた日を覚えている。 小学校3年生の体育の時間、 体育館で縄跳びをし終えたインターバルの合間に、 なにか背負わされたような重みを胴体に感じた。 「さっきまでと全然違う!」 と思ったし、 「これから先ずっとこうだったらどうしよう?」 と思った。 実際、それから先ずっとそうだったわけだけど。
月曜は単に眠いのと、 たぶん日曜日に 体重をソファに預けた姿勢を長時間取り続けているのが 関係している。
それでも飯は作ったし洗い物もやった。 マグロのブツを丼にしたやつ。 刻みのりワサビ万能ねぎと、アボカドが余ってたから足した。 アボカドってマグロだかトロの味を再現できるのが強みなんだっけ。 じゃあマグロそのものがあるんだからいらないじゃん、 という考えもよぎったけど いやマグロアボカド丼てやつも街中で見かけたことあんな とも思ったから結局足した。 美味かった。あんま変わんなかったけど。 月曜は刺身系に世話になることが多い。楽だから。 なにしろ帰宅して20分後には飯を食べ終えてる。
少年のアビス2巻読んだ。おもろ。 一気に深み増したなあ。 1巻で散りばめてった種が芽吹きつつあるのか。 新たな要素もキャラもなく、 すでに物語に配していったありもんで 展開させていく感じが 地方都市の閉そく感と接続してなんだか巧妙だ。
狂ったラノベのタイトルをたまたま見かけて あんまり衝撃的で覚えてしまった。 「パワハラ聖女と絶縁したら何もかもがうまくいって最強の冒険者になりました 〜ついでに可愛くて優しい嫁がたくさんできた〜」 もうホントにバカだなというか 女を敵にまわしたくて仕方ないんかっていう。 ついでに、から畳みかけていく加速度がすさまじい。 そしてどこにも書いてないけど 「可愛くて優しい」の裏地に「巨乳」という二文字が透けて見えるようだ。 なんなんだろうこれは。 こんなこと言ってるくらいだからモテが欲しているのだ。 女からの。 それでいて、女から嫌われたくて仕方ないんかっていうような この言いぐさ。 ここまでいくと腹立たしさも恥ずかしさもないし ただただわななく。
読みもの書くの楽しい。 ただ140字に収めるのに苦労する。 文内容を犠牲にしてもいる。 それでも楽しい。 あとはもうちょっと読まれさえすれば… 誰一人として読んでない可能性はだいぶ高いので… ちょっとでも反応があれば… ほんのわずかでも…
ミュークルドリーミーみっくす。 ときわちゃんの回。 なんか今回は振るわなかったな。 全体的な…なんだろう脚本か…? 久しぶりにプリチャンのほうが見ごたえあった。 クライマックス感あるけど一か月遅れで終盤扱いなのかこれ。
昼飯に素麺つくって 食べ終わってすぐタルト焼いた。 焼成しながらサーモンとアボカドのサンドイッチをこしらえて、 タルトが焼き上がり次第近所の広場へ出向き 青木淳吾の このあいだ東京でね を読んだ。 あーすげーえ。 小説でしかできないことを 小説文を駆使してやってのけてる。 視点のドライブ感。 読書メーターの誰かの感想に 街が視点として描かれ人が風景として描かれ ってあってなるほどって。 ところどころは読み疲れて飛ばして読んだ。 普段扱う言語としては処理できない文だから 使われきてない回路通すから とっても疲れるのだ。 それ自体が醍醐味で凄味なんだけども。 しかし何より悔しくなるからもう読みたくない。
帰ってきて一息ついてタルト食べた。 あまおう、すご。 とちおとめと全然違うな。甘味がオッ上品に広がって。
夜は アジの梅肉ちらしをやった。 アジおろしてたたきにして酢飯に混ぜて 梅肉と大葉を散りばめる。白ゴマをふる。
ブルガリア映画見た。 ソフィアの夜明け。 めちゃくちゃよかった…! いい映画って冒頭一秒で雰囲気ある。 一秒は言い過ぎでも二秒とか三秒とかのカットで。 意味にあふれない、ただ映像を写してるだけの映像というか。 今作は昼の退廃的な街並みもいいし 夜の奥行きある街並みもいい。 ところどころで4カ月3週間と2日を思い出したな。 気まずい食卓とか。 僕にとってこの映画で一番の見どころが兄弟の描写で とりわけ食卓は象徴的だった。 食卓の場面って複雑な事情を持ち込めがちなんかもしれん。 そう思ってみればいくつかの映画でもそんなんあった。
休日あっちゅーまにおわっちったな。 全然読みものを書くの進まん。 とくに今日なんか、青木淳吾とブルガリア映画のせいで 自由に世界観を構築させるタイプの読みもののアイデアばかり湧きいでて かえって困った。
| 2021年04月24日(土) |
晴れててあったかくて涼しくて気持ちいい |
いい天気。 共同口座に預金するのと 家賃半額4か月分と 奨学金と実家に入れる金と生活費で 一気に40万近くおろしたドーン。
昼飯のチャーハンべらぼううまかった。 じっくりたっぷりネギ油をこしらえてから 国産ニンニク炒めてベーコンも加えて キャベツ長ネギはサッと炒めて 卵べしゃ ごはんトパッ がしがしがしがし べらぼううまかった。
飯食ってすぐ実家へ。 毎度自転車で45分ほどかけて行くのは 運動不足解消のみならず いろいろ思考をめぐらせることができて かなり有意義な時間になるから。 でも往路は大してものを考えなかった。 イヤホンから聞こえてくるやくしまるえつこの声聞きながら ほんとそそる声だなとびっくりしてるあいだに着いた。
小学校だか中学校だかの 教員手伝いのパートをしている母は 忙しいなりにそれなりにうまくやってるようなのだが 校長先生がきっつい人らしい。 語気を荒らげたり言い方に配慮がなかったり 非を認めなかったりと前時代的で そのせいでやる気をなくしてしまい辞めてった若い教師も 何人かいるんだとか。 が、話を聞いているとそんなに母は 彼女(校長)へ悪印象を抱いてないような口ぶり。 どうやら正面切って勝ち気、という人はへっちゃらのようだ。 「だって、ウチの家系がそうだからね」 なるほどだ。 パワハラ上等なのだ。 荒々しくやり合える相手は よっぽどやりやすいらしい。
ついでに母の日の相談をした。 コロナを警戒して翌月は来ないから 花でも贈ろうかと思っている。 そう伝えると、花はいらないとの答え。 でも鉢植えならありらしい。
あと、祖母の手術が難なく成功したそうだ。 「あれ笑っちゃうわよねえ。 手術中にいつ終わりますかって聞いたら、 もう終わってますって。言われたって。 あらいつ手術したのって。うふふ。 手術っていっても内視鏡のあれなのに。 手術っていったら切ったりするものって思ってるのね」 「内視鏡の手術ってどんななの」 「知らない」 じゃあ笑うなよ…。
それから今も実家に住まう次男が 一瞬だけ廊下に現れたが ちゃんとお兄ちゃんに挨拶しなさいよと母は言う。 しかし僕ら兄弟はまったく仲は悪くないのだし ろくに口を聞かないといっても これはこれで一つの兄弟像なのだという意味のことを伝えた。 長男にはかなり面倒になってきているうえ 近年はすっかり蟠りのない会話ができるようになっているが 僕からすれば次兄に対しても長兄と同等の信頼を寄せている。
昔を懐かしんで復路ではミスチルのクロスロードを聞いた。 冷静になってみれば 何がいいんだか っていういかにも売れ線のポップスに過ぎないけども 7歳か8歳くらいの頃 狭いマンションの一室で 兄二人と布団を奪いながら夜の自由時間を過ごしている間 よくこの曲が流れていた。 実はそんなに繰り返しかかっていたわけじゃないかもしれないのだが やけに思い出深い。 そこにいるだけでいじめられるから隅っこで気配を殺し ひっそり兄の漫画を盗み読んでいた。 この頃は貧乏していて、母は毎日がつらく、 思い返すと泣けてくるそうだが、 僕にとっては幼少期のかけがえない記憶で、 なんだったら いつでもあの空間を追い求めてる。 最高の片思いとかいったか、 夜に放映していたドラマを 家族4人そろって布団の上で見た時間を忘れない。 福山雅治のHelloを聞くたびに思い出す。 自分というものの起点、因果の発生が あの時あの空間にある気がする。 この思い出は単に感覚だけで まったくエピソード性がないから 人に聞かせる意義も文章に残す機会もなかった。 でももし自分が消失してしまったら この思い出はこの世から消え失せてしまうのだなあと思い 書いてみた。 しかしそれは誰のどんな思いででも同じだ。 記憶は記録できるが 思い出は記録しえない。 当人の感覚は完結性が高すぎて外部保存できず、 当人の消失とともにこの世から抹消されるさだめだ。 もしかしたら プルーストの失われた時を求めては この限界を突破してるのかもしれないが 読んだわけじゃないのでわからない。
自転車こぎながら 友達少ないよなあってぼんやり考えた。 増やそうと思えば増やせるんだろうけど。 友人の友人みたいな関係性で広げていくのが 自然で健全だってイメージはある。 が 友人の友人は、なんでだか初対面で 殺すぞ って思ってしまう。 いや別に殺害したいわけじゃなく 単に敵意をもってしまう。 女性なら別だけど。 知らない男ってだけで 知り合った瞬間は ぶっ殺してやる くらいの気合が破裂する。 一瞬後にはしぼむし、 すぐに和やかな仲が紡がれることはわかってるんだけど。 それでもだ。 知らない男は大体敵だ。 だから知り合っていけない。 しかしこれはこれで大事な自分らしさだとも思う。 ぶっ殺すぞ って気持ちがもてなくなったら 例の、あの、 大人になってしまう。
緊急事態宣言下で活動が抑制されるから 古本屋とか図書館でいろいろ仕入れてきた。 中野区立図書館はまだ方針が決まってないようだ。 ホームページの方をごらんください と言われた。 オツカレっス。自分応援してるっス。
青野くんに触りたいから死にたい1巻 面白かった。ホラーでもあるのが楽しい。
夜は映画を。 前々から気になってた TOKYO! を。 オムニバス三本のうち 初め作品は知らない監督で イマイチだなあと思ってみてたけど終盤よかった。 イマイチなのは脚本。 それも多分、ホンとしてはいいのだけど 日本語にしたときのト書きがよろしくないのだと思う。 それを口にしていく役者人もよくない(加瀬亮はよかった)し 芝居の演出も行き届いてない感じ。 ゴチャゴチャした部屋は好み。 話はよくできた読み切り漫画みたい。 二本目は本命のレオスカラックス。 ホーリーモーターズの野人の元ネタがこれか。 銀座であれをやってくれるのは満たされるものがある、 街中を闊歩しながら無意味に無法を働いていく というのは僕の中にもあるイメージで、 ひとつの完成形を見た。 しかしこいつは… おれたちの東京をめちゃくちゃにしやがって… ニュース番組のとこなんか完全にふざけてるし。 でも、映画だった。 刑務所内だろうが裁判中だろうがカラスの鳴き声がところどころ入る。 現実がどうあれ、レオスカラックスにとってのTOKYOはそうなのだ。 三本目、ボンジュノ。 いっとう良かった。 というかボンジュノの他作品と比べてもパラサイト含めて このシェイキング東京がいちばん。 日本でロケして日本人しか使ってないんだから 理論上は日本人でもこの映画は撮れるはずなのだと思うと悔しかった。 香川照之の一人芝居ずっと見てられるし 蒼井優はかつてないほど美人に撮ってもらってた。 音楽もよかった。 なにより脚本か。 引きこもりと地震。 引きこもりが引きこもりに会うには。 途中、街中ですりガラス越しに見た女性の人影が消えるとこ怖すぎる。 あれがあるから、 引きこもりが外にでましたという希望きらきらのシーンじゃなく、 不安や精神的歪み、非日常の世界といった重みが グッと作品を締め付けてるのだなあ。 かえすがえすも素晴らしい。 人を食ったようなラストはいただけないけども。
緊急事態宣言が出るとのこと。 それにともなって勤務形態が普段と変わる。 だから各部署の責任者にあたる人間が その調整をしていくはずなのだが 決めなければならない何を質問しても どうなんだろうね の一言でワンクッション置く。 低能なのは知れてるから こちらから問題点を整理しきってやって ほとんど方針を指図してやるくらいのヒントも与えてやって そのうえでイエスかノーで答えられる質問形式にして そこまでやっても わっかんないんだよねえ と独りごちる。 わかんないならわかる人間に確認しにいくのがお前の役目です。 僕はそういう停滞がばかばかしくって嫌気さすから 率先して動いて見えにくい事情を明らかにして その都度妥当案を練って関係者から承認を得ていく という役回りをかつては引き受けていて 実務のみならずそういった立ち回りが 当時の上司からたいへん評価されていた のだけど上司が入れ替わってから逆の評価になった。 余計なことはするなと。 そして責任者が僕から低能の先輩に入れ替わり ばかばかしい停滞に毎日悩まされることになった。 簡略化するとこんな感じだけど なんともはやありふれた話だ。 それも二十代半ばくらいの仕事の愚痴でよく聞くような。 とても人に話せたもんじゃねえや。
毎日通ってる庚申通り商店街に ホラーカフェとかいう店ができて まぁ好きな人は通えばいいんじゃないですか くらいのつもりで大して興味ももってなかったのだけど いつも暗い2Fの窓に人形が置いてあるのです。 呪怨?ぽい、青白い子供の。等身大に近いサイズで。 それが外へ向けて体育座りしていて。 ものすごい不快だ。 ホラー好きなやつらは勝手にこの店の中で楽しんでりゃいいにせよ そうでない人に向けてまで何してんのって 不快で不快でしかたない。 ホラーが苦手ってわけでもない僕ですら 視界の隅に違和感を感じてそれを視認した瞬間はギョッとしたし ましてホラー嫌いな人からしてみたらしばらくは脳裏に焼き付くだろう。 「反応を楽しむ」みたいなお寒い趣味も働いてるんだろうし 抗議含めていっさいリアクションしたくないけど。 あれやめてもらえませんか なんて言われたら連中はもう達するほど喜んじゃうもんな。 ゲスだ。
ところで ある人が攻撃的な態度してたから その人に対しては因果応報とばかり 攻撃的に接していい ってのはちょっと違うと思う。 自分もそれに近いことやってしまうことあるけど反省が必要だ。 これは連鎖の構造をもつから。 AさんがBさんに厳しくあたっていました。 それを見てきたCさんはAさんに厳しく接するようになります。 「あなたがBさんにしてきてたほど厳しくないよ」 という言い分がCさんにはあります。 しかしAさんからすると、 BさんはかつてDさんに苛烈な厳しさで接していたから、 「あなたがDさんにしてきたほど厳しくないよ」 という言い分があるのです。 Cさんはそのあたりの事情を知らない。 AさんもBさんもDさんも言いたくはない。 しかしまたDさんにも似たような背景があったかもしれず… って。
生クリームあまってたからカルボナーラ作った。美味しい。
文化大革命についてちょっと調べた。 もともとのイメージとして、 悪名高い文革のせいで 中国はその文化や文物、歴史が積み重ねてきた風習を バキバキ破壊されて 儒教思想も根絶やしにされて そうして今の中国になっていった。 歴史で学ぶ中国と今の中国が結びつかないのも文革のせいだ。 という見方があった。 調べた限りそう誤ってもなさそうだったが 一部の意見としては 文革が破壊せしめた文化文物は 広大で深遠な中国文化のほんの一部に過ぎず、 莫大な歴史を誇るかの国においては その影響などたかが知れている。 そーゆー話があった。 これがどれだけ正しいかはともかく、 なるほど自分は 文革がとかく悪の原因になっていると見なした方が 自前の思想の論法が成立しやすいから 安直にその図像に飛びついていたきらいがあったな と反省した。 こういうことって多い。 自分で描いた絵図のピースを埋めるために よそから引っ張ってきた断片の形を 都合よく歪めてはめてしまうこと。 いや、歪めるというほどじゃない。 曲解や牽強付会くらいなら皆意識してる。 あらゆる物事には正誤も善悪も多元的に含まれている。 少なくとも、そう前提すべきだと僕は思っている。 そのバランスを無意識的に偏らせて扱ってしまうルール違反を 世の多くの人が犯している、 だから自分は気を付けよう本当に気を付けようと、 かなり警戒していたはずなのに まだ自覚しきれてなかった。
意見。主張。論考。 対立するどっちの意見も正しい。 どんな正しい意見にも穴はあるし どんな愚かな意見にも正しさはある。 そんなことは当たり前だ。当たり前のはずだ。 でもなかなか共有されてない。 だから正論なんて恥ずかしー言葉がはやる。 コロナ禍は世間に潜んでいた多くの問題を暴いてってるが 意見の対立については みなさん身近になってよかったと思う。 意見の対立慣れをしてないと被害者意識ばかりもってしまうから。 コロナ禍で目下いらいらしちゃうのは 「〜しないと意味がない。」構文。 もともとコロナとか関係なく大嫌いな言い回し。 全然何にも考えてないんだなって思う。 ただ強調したいからその言い方を 慣用句的に採用してるに過ぎない、 軽い軽い、上滑りの日本語。 だいたいほとんど意味はあるし。 本気でその意味を見いだせてないならまんまバカだ。 さすがにそこまでバカとは信じたくないから、 ただ強調したいだけで何も考えず その言い回しを使ってる三下という見方にとどめておいてやる。
ここの日記には かっこつけずてらいもなく 文章も練らず ただネガティブな感情を書きつけてしまおうと決めてる。 こうしてみるとTwitterなんかでは ずいぶんかっこつけてたんだなあと気づく。 そして毎日いろいろなこと考えてるもんだなあと再認識。 Twitterでは考えがキッチリ整理されたうえで ちゃんと健全な出口を用意して さらにそれが140字×3程度にまとまらないと 投稿もしないようにしているから。 ここでは書きなぐってるだけなので 毎日じゃぶじゃぶ所感が出てくる。 今日こんなことを思った。 ってだけなら無限に出てきちゃうもんな。 頭のなかの一日は24時間よりはるかに膨らんでる。
あぁそうだ TwitterでRTされてきたツイートで まともな人はTwitterやめてったから 今残ってるのは異常者だけ みたいなしょーもない いかにもTwitter的痛々しさにまみれた文を読んで いちぢるしく気分が害されてたことをここに記録しておきます。 自虐風なのが本当に痛々しい。 帰属意識まみれで恥ずかしいし これに無批判に賛同してる連中って 「ほんと私の周りって変わった人ばっかりなんだよね」 とか もっと言うと 「濃いメンツと飲んだ!」 みたいな言いぐさをどう捉えてるんだろう。 お前らがみたいな連中が一番 こうした言いぐさをイタイイタイ!って面白がってたんじゃないのかって。
あともういっこTwitterで。 グルメ情報や美食の美学を書きつらねているアカウントを フォローするでもなくリストに入れるでもなく たまに覗いていて しかしどうやら人格的には好めない。 彼なりの思考様式は確立しているし 文章の節々に知性が散りばめられ 世間的に見て賢い人ではあるのだろうとは認められる。 ただ気に食わない。 人格よりは価値観の問題だろう。 勝手にツイートを追っていながら ひそかに敵愾心を燃やす一人相撲をとっていたのだけれど 何日か前のツイートで大塚英志の名前を自前の論法に援用していた。 それを見てどこか安心してしまった自分を恥じた。 大塚英志は文芸評論も創作もいくつか見てきたが くだらん男だ。 生半可なくだらなさじゃなく 日本の文化にとって害悪と見なしきってるから はっきり悪い言葉で貶す。 アホをもっとアホにさせるアホの活性剤みたいな男だ。 こんな愚劣の筆頭みたいな輩を好む人間が この世から一人でも少なくなればいいと本気で思っている。 なのに、今回そのアカウントの彼が大塚なんとかの名前を (好きかどうかまではわからないが)引っぱってきたことで、 僕は瞬間的に、 ほらねやっぱりこの男も下らん男だった、 と自分に言い聞かせる心理を作用させていたのだ。 これはとても、とてもとても醜いことだ。 劣等感まるだしだ。 フェアーでもない。 品もない。強さも。知性も。 ただ、この作用の構造自体は、 人間が人間と関わり合うフィールドにおいて、 多かれ少なかれ、見えにくく働いてるとも思う。 覚えておきたかったのでここにメモ。 へこんだが…。
レオスカラックスの新作情報きた。 ヤッター。嬉しいです。 予告編の映像も期待させてくれるものだった。 この人の撮る街道、 とくに車を走らせた街道がとても好きだ。 去年公開したギャスパーノエの新作は コロナで観に行くの諦めたけど7月にはレンタル解禁だそうで。 ウーン遠い。
あらためて近所のレンタルビデオ店の ヒューマンドラマコーナーを物色してて パッケージのうたい文句にいらいら。 感動作の三文字が見えた時点で観る気が失せる。 まぁ実際そのケのある映画は見たくないから 判別できて便利ではあるんだろうけど… ヒューマンドラマってくくりをやめてほしい。 その他みたいな扱いのジャンルだ。 お涙ちょうだいの感情をかきたてる場面で それっぽいBGMが流れるような三下ドラマと アートフィルムを別にしてほしい。 そしてパッケージなんとかならんのかな本当に。 これがアニメだったらジャケットに ゴチャゴチャ能書き載せてないわけでしょう。 少なくとも感動作の三文字はない。 どんなお涙ちょうだいアニメだろうと。 広告代理店が噛んでるのはどちらも同じなんだし 単に客層の違いってことなんだろうか。 だったらなおさらヒューマンドラマでまとめるのやめてほしい…。
夕飯、すき焼き。 お義母さんが送ってくれた能登牛。美味しかった。 しかしこれが、ふるさと納税による返礼品であるらしく、 この制度を快く思っていない僕にとっては複雑だ。 「ふるさと納税が気に食わないから利用しない」は個人的信条の範疇で、 「ふるさと納税が気に食わないから人からのそれも固辞する」とまでなると へそ曲がり呼ばわりも仕方ない。 そして僕はそのつもりで営業していきたい。 のだが、配偶者の親御さんという関係性は、 そうした頓着のもつ力学を機能させないところがある。 こちらが勝手に我を抑えているだけなのだが、 ちょっと考えてみれば、 あっちの偏屈もそっちの偏屈も、 義理の親には弱い。 弱いというかこの場合に限っては ゴーイングマイウェイをあきらめるというか。 この構造はちょっと面白いので今後も考えていきたい。
天気よすぎ。 あったかい。 中目黒行きたい。 中目黒行って街歩きしてちょっと冷えた飲み物飲んで また歩いて適当に店入っておしゃれなもん見て 最終的にはフレンチでフルコースしたい。 いつわりならざる本音。
むかしのことを思い出す頻度が高まってる。 もともと僕は過去を振り返りまくる男で、 8歳くらいの時点ですでに「あの頃」の感覚があり、 なにかと思い出を振り返っていた。 最近は初めて一人暮らしをした20歳くらいの頃、 狭い部屋でブラッドサースティーブッチャーズや ルミナスオレンジをかけてのんびりしていた時間を思い出す。 部屋にテレビはなく、携帯端末はガラケーで、 今では考えられない量のメールを毎日誰それとやりとりしていた。 街の歩き方も人との接し方もこなれてきた頃で、 まぁ最強だった。 いろいろ悩みはあっても こわいものなし最強の毎日を過ごしていたから 思い返すと気分が上がる。 まだまだまだまだ未熟だったけど 未熟だったからこその最強なのだ。 それは満点が低いという意味なわけではない。 深遠を、奥行きを、先を知らないからというわけでもない。 熟す余地があるからというわけでもない。 あの頃、未熟の自覚はあっても最強の自覚はなかった。 これから成長していく確信はあった。 これから挫折していく未来も想定していた。 十年後の自分は今の自分を恥じるだろうという見通しも立てていた。 風がよぎるとほんのかすかに肌寒さを感じる五月のよく晴れた休日に、 ひとり自由が丘の街路に設置されたベンチで本を読んだ。 さして集中もせず、道行く人をぼんやり眺めたり 人目を気にして微妙に場所替えをしたり 雑感にまみれながら数十分を過ごした。 もうあんな幸せな時間は味わえないかもしれない。 今でもやろうと思えば同じような時間は過ごせる。 自由が丘に行ってベンチに陣取り本を読むくらいの予定は確保できる。 でも今の僕は、最強でなくなってしまった。 しかも未熟だ。
仕事で今日は印刷会社やら編集部やらと メールのやり取りを何本かした。 うちはそういった外部交渉の一切を営業部が担当しているから 本来は現場が携わることじゃないのだけれど いま属している部署は長年の経緯があり 直接メールや電話をする。 営業任せにするのと比べると一長一短だし メール打つのは好きだからいっこうにかまわないが 上はやはりというか分化させたいらしい。 そもそもまともなメール書けない者が上に立ってるし。 でもあんたメールくらいは書けないと…と思うと、 学歴で人を計るなーって見方にも与したくなくなってくる。 うち程度のところだろうとさすがにメールくらいは…。
深夜のダメ恋図鑑最新刊読んだ。 もともとこの作家さんは好きだけど この漫画はヘンな売れ方しちゃったから心配だったけど トータルで見れば好きだけど やはり行きすぎなところもある。 不動産のお話はうさんくさいなあと思ってたら やはりというか担当編集からのお話らしい。 つまりネット上での「ありがちな」話なのだ。 多くの女性が、あるある、わかるわかる、としている。 でもそれって大体の人が、 そういう話を知ったからこれまで眠っていた獅子が目覚めたって話で、 純度がひくくて、 不健全な感じがする。
スーパーでまた遅いレジの人に一瞬いらだってしまった。 もたもたするなよ、と心の中で毒づいてた自分に嫌気。 いいじゃんね別に。 本人も一生懸命やってるんだろうし、 仮に一生懸命じゃなかったとしても、 別にいいじゃんね。 そう思っていきたい。 心にゆとりを!とか 人にやさしく!とかってより、 都市生活に支配されてる感じが嫌だ。
家帰ってすぐ飯の支度してちょっと休んで飯仕上げて ちょっと休んで洗い物して 余りものでかぼちゃパウンドつくって洗い物して 明日の飯の支度してついでにローストビーフサンド作って 今日記書いてる。これから風呂掃除、風呂、そして読みもの進める。 今さら、やることやって偉いでしょう、というところはあんまりなく、 でも、ちゃんと休んでて偉いでしょう、という自負はある。 休むのは大事だ。
Twitterで前から気になっていた人がフォローしてくれた。 だいたいフォローくらいでどうとも思わないけど 今は延々読みもの投稿してるだけだし 本来ならフォロー減るような真似してるわけで そんななかページ開いてちょっとでもツイート見て フォローすることを選んだくれたのなら それはとてもうれしいことだ。
いまちょっと目を横に向けたら 妻が飾ってる花瓶の花に蛾が止まっていた。 隣の部屋にいる妻を電話で呼び出すと 小器用にポリ袋でつかまえて外に放してやっていた。 蛾は嫌いだが生き物は殺したくないのだという。 しかし花に蛾か、ああなるほどなあと妙に実感してしまった。 部屋に飾ってある花は観賞用の花でしかなくて、 自然界においての虫の居所という現実と結びついてなかった。 そりゃそうだよねっていう。
| 2021年04月19日(月) |
生きる意味、生きている意味 |
知らない土地にいって記憶を失いたい。 知ってるものが知らないもののように感じる、 ジャメビュ的感覚は好みだ。 あれも異化の一種だろうか。 難しいことはなくて、 たとえば旅先で食べるカップ麺は 知ってる味であるにも関わらず 新奇の意味が迫ってくる感じがする。 今、あれを欲してる。
NHKの逆転人生、 いつも番組構成のあくどさにイライラしてしまう。 嫌なら見るな は正論でもなんでもない。 いろいろつつきようはあるけど とりあえず "嫌"で一くくりにまとめられるほど ネガティブ感情は単純じゃないし。
今日は脱北者の女性の半生を追っていた。 脱北にあたってはそれを専業としている ブローカーを頼るものらしい。 でもブローカーが道中で悪さを働いても露見しようがないし、 人身売買やレイプなどの危険は十二分にあるそうだ。 で、そういう恐ろしさを存分に紹介してから、 今回の彼女がその道中、メコン川を渡る際を振り返って、 「そのときブローカーは、 私たちを恐ろしいところへ連れ出そうとしていたのです」 と述べる。 こんな引きをされたら ブローカーがどんな悪さを…と疑りながら見ることになる。 実際には、ワニがうじゃうじゃいるところを小舟で渡ると。 警備の目をかいくぐるにはそこしかないからと。 …別に全然ブローカー悪くないじゃん!(今回は) それどころかはした金だろうに ブローカーごと命かけて川渡ってるし。 つまり番組の都合で そういう引きをさせたわけです。汚い。本当に汚い。 仮にそのつもりがなかったなら 単純に構成がへったくそだ。 でもそのつもりだったろうけど。 引きのためにやってた。確実。
その後彼女は韓国で、 北朝鮮出身の女性と韓国の独身男性を引き合わせる マッチングサービスを開始。 意外にも韓国男性からの問い合わせは多かったそうだ。 ワールドカップのときの美女応援団が報道されて話題になってたとか。 でも実際に合ってみると、女性は第一声から年収をたずねる。 じっくり仲を深めていきたい韓国男性は面食らうとのこと。 それを彼女は説得する。 もう絶対にみじめな生活に戻りたくないからなのだと。
僕が面白いなと思ったのは、 きっと韓国男性は、北朝鮮女性を下に見て登録してきてるのだ。 下に見て というのはつまり、 求める幸福の水準が低いだろうから おれでも幸せにできるだろうとか、 おれでも優良物件扱いになるだろうとか、 そういう相対的な目で場に臨んでる。 で、蓋開けてみたら第一声から年収。 ここにはドラマがあると思った。
会社の引っ越し先を見学した。 真新しいオフィスだとか立地だとかはどうでもよくて 席だけが問題だった。 どうやらこれまでのように 後ろが壁 というわけにもいかなくなるようだ。 仕事を人の何倍かこなしてから 仕事中に仕事ならざるあれこれをするのが この会社に居続けるメリットだったけど それすらなくなりそう。 ウーン面白くない。
自分の引っ越し先は見つからない。 ゆるゆる2年くらい探してるし この半年はかなり本腰入れてるけど見つからない。 なんとか石神井公園に住みたいのですが。 きれいめで広めの。
ローストビーフサンドうまい。
読みもののために ならず者を列挙していきたいのに 自分が敵視するようなならず者って もうあんまりいないみたいだ。 それなりに強くなったし ならず者たちの事情も見通してやれるから 敵として純化しない。 でもその構造自体を主題にできるかな。どうかな。 憎み切れない連中でも憎んでいいのかどうか。 憎むべき連中を愛してもいいのかどうか。
オーオーオー。
あなたが生きる意味はと問われたら 即答できるつもりでいたが よくよく考えてみればそれは 生きている意味 であって 生きる意味 とはまた別かもしれないと思った。 その違いは死を念頭に置くことで引き立つ。 生きる意味は 死を想定してみてやることで像を結びやすい。 生きる意味。 ありていにいえば、死に意味を与えるためと言えるだろうか。 よくいう話、死が到来したときには自分はもう無に帰している。 死は経験できない。 つまるところ、自分の死に意味を与えうるか以前に、 死は自分にとってのすべての意味を剥奪しうるのだから、 この答えは答えとして成立していない、と言えるかもしれないが、 死が自分にとって経験しえない事象であると前提しているからには、 それを語ろうとしている時点で、 生きている自分にとっての未来における死を仮想しているに過ぎないと あらかじめ話題を限局しているわけだから、 その意味において、 今生きている自分にとって、 やがて到来する死に意味を与えてやれるという実感さえ達成できれば、 これは成立するのだと思われる。
昨日に続いてやる気が出ない。 本は一冊読んだ。 アフターコロナの都市計画。 そりゃそうなるよねって内容が語られてる本。
天気はめちゃくちゃよくて 洗濯ものも干して気分は上々。 ミュークルドリーミーは これまでより子供向けになった気がする。 もともと子供向けなはずとはいえ あの高度なギャグの数々が子供にわかるのか疑問。
ローストビーフサンド作ろうとか にんにくを国産にしようとか ちょっと贅沢にスーパー堪能したら あっちゅーまに5000円いっとった。 贅沢こわ。
スーパー、コンビニ、ドラッグストアと 立て続けにレジで待たされ こんなことでイライラしたくないなあと思った。
自分の前で店員さんとお客さんとが ペチャクチャしゃべっていて 早くしろよという文句が一瞬頭によぎっちゃうとか。
買い物が、買い物だけを目的とした予定になってるから そう思えてくるのだ。 たとえば中東圏では売値をふっかけてくるという。 客はそれを値切る格好で交渉が始まる。 それで結局は適正価格に落ち着く。 じゃあ初めから適正価格で売れと言いたくなるのが合理主義。 しかし店主は言う。 「あなたとお話できたからそれでいいのだ」 ここには買い物が単なる金銭と品物の取引という目的にとどまるのでなく、 生活、生きる営みの一部となっている。 本来自分が体感する時間のすべては 生きる営みと一致しているはずで、 そこに無駄はあろうはずがない。 それを好き勝手に、生きる営みを生活のための目的別に切り刻んで、 一つ一つをタスクとしてこなそうとするから 時間がもったいないとか無駄にしたとか思えてくる。 都市化ってそういうことだ。 しっくり腑に落ちた。 自分が体感する時間のすべては 生きる営みと一致しているはずなのだ。
図書館で青木淳吾借りた。 あと、またコロナ後の都市計画についての本を。 野方図書館のおかげで都市計画まわりの本読むようになって 本当に収穫だったとつくづく思う。 いずれなんらかのお礼をしたいとたくらんでいるくらいだ。 でも図書館員も公務員だから何一つ謝礼は受け取れないんだろう。 それでも何らかの礼はできると思うけど。
昨日見た 酔いどれ天使について妻とちょっと話した。 その中で思ったこと。 三船演ずる松永にとっては、任侠道は間違いなく美徳であったはずだ。 しかしそれは兄貴分である岡田、親分によって打ち壊されてしまった。 じゃあ岡田と親分にとっては任侠とは嘘っぱちだったのか? というと、そうでもないんじゃないか。 つまり、武士道みたいなもので、任侠もまた 「これが任侠で、これが任侠じゃないですよ」とは成文化されていない。 成文化マニュアル化されていないから、 各々の信ずる任侠道があるはずだ。 それは大筋は合っていても、細やかな部分では統一はされておらず、 (そもそも"細やかかな部分"という見方自体がこの場合誤りだ) 各々にとって都合よく解釈されているはずのものだ。 コンプライアンスなんかとはまるで違う。 だから岡田と親分にとっても、それぞれの任侠道がある。 …というわけで、麻雀中の 「それにしたって親分、どうしてあんな死にぞこないを あのシマでのさばらせておくんですかい」 「近々よその組と戦争がありそうだからな、 そのときにあいつを鉄砲玉にさせるんだ」 みたいな会話を松永に聞かれた二人が 取り繕えないのはすごくがっかりだった。 お前らなら取り繕えるだろう。 いやそれは取り繕いですらない。本心から言えるはずだ。 「松永てめえ馬鹿野郎。 そのままくたばっちまうんじゃ情けねえだろう。 てめえはてめえなりに、 死にぞこないは死にぞこないなりに、 死にざまで男を見せてみろってんだ」 この程度の啖呵をきってみせればそれで充分なのに。 大事なのは、これは逆切れでもなんでもないってとこだ。 彼らにとっては等身大の任侠、侠気で表せるはずって点だ。 これが、現代的なものの見方に縛られてるとなかなか行きつかない。 でもとてもとても大事なことだ。
エロネタでちょっと思いついた。 エロは とくに自分用のエロは 全く取り繕いのないマジのガチの むきだしの好みが現れるはずだ。 どんなに本当の自分がわからないとか抜かしてる モラトリアム野郎だってそこんとこはガチだ。 それを細部まで突き詰めていけば話になる。 ちょっと面白いかも。
| 2021年04月17日(土) |
おとこ女かくあるべし |
朝なにげなくつけていたテレビに 氷川きよしが出ていて 女性寄りの中性的なその見た目に 妻が この人こんなんだったっけ と言うからここ数年の事情を伝えてやった。
僕も全然詳しく知るわけじゃないけども、 彼は やれLGBTがどうの制度がどうの などのメッセージは発しておらずに ただ行動で示しているだけなのだろうと思われ 妻に伝えながら 実に素晴らしいことだと感じ入った。 妙ちくりんな層から たわけた利用のされかたされないといいな。
雨でやる気が出ず 本もほとんど読まず ものも書けてない。
ウェイバックマシーンで キヨミズダイバー見て感慨にふけった。 ルビコンダイバーも。
黒澤を見た。 酔いどれ天使。 こんなに面白かったっけと首傾げるほど面白い。 今回初めて字幕つけてみた。 それで脚本のすばらしさを再認識。 そして三船敏郎のかっこいいことよ… ちょっとした後姿、つぶやき、手の仕草一つ一つに かっこよさがあふれてる。 他のどんな映画見るより真似しちゃうもんな。 態度でいうと 肺に穴空いてるってのに 久しぶりに会った兄貴分から酒を促されても 今病気あるから とはすぐに切り出さない、切り出せないところに 今時分には失われた男気が垣間見えたようだった。 打ち明けない理由はいろいろ考えられるけど 単に男としてダセーからなんだと思いたい。 それは病気患っちまったこと以上に、 そんなことを言い訳にする情けなさ、 さらにはそれを口にすることの情けなさが 彼にとってはダセーのだ。
なんか久しぶりに性欲に支配された一日だった。 性欲邪魔だな。足かせだ。
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