舌の色はピンク
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2021年04月21日(水) 未熟、最強

レオスカラックスの新作情報きた。
ヤッター。嬉しいです。
予告編の映像も期待させてくれるものだった。
この人の撮る街道、
とくに車を走らせた街道がとても好きだ。
去年公開したギャスパーノエの新作は
コロナで観に行くの諦めたけど7月にはレンタル解禁だそうで。
ウーン遠い。

あらためて近所のレンタルビデオ店の
ヒューマンドラマコーナーを物色してて
パッケージのうたい文句にいらいら。
感動作の三文字が見えた時点で観る気が失せる。
まぁ実際そのケのある映画は見たくないから
判別できて便利ではあるんだろうけど…
ヒューマンドラマってくくりをやめてほしい。
その他みたいな扱いのジャンルだ。
お涙ちょうだいの感情をかきたてる場面で
それっぽいBGMが流れるような三下ドラマと
アートフィルムを別にしてほしい。
そしてパッケージなんとかならんのかな本当に。
これがアニメだったらジャケットに
ゴチャゴチャ能書き載せてないわけでしょう。
少なくとも感動作の三文字はない。
どんなお涙ちょうだいアニメだろうと。
広告代理店が噛んでるのはどちらも同じなんだし
単に客層の違いってことなんだろうか。
だったらなおさらヒューマンドラマでまとめるのやめてほしい…。


夕飯、すき焼き。
お義母さんが送ってくれた能登牛。美味しかった。
しかしこれが、ふるさと納税による返礼品であるらしく、
この制度を快く思っていない僕にとっては複雑だ。
「ふるさと納税が気に食わないから利用しない」は個人的信条の範疇で、
「ふるさと納税が気に食わないから人からのそれも固辞する」とまでなると
へそ曲がり呼ばわりも仕方ない。
そして僕はそのつもりで営業していきたい。
のだが、配偶者の親御さんという関係性は、
そうした頓着のもつ力学を機能させないところがある。
こちらが勝手に我を抑えているだけなのだが、
ちょっと考えてみれば、
あっちの偏屈もそっちの偏屈も、
義理の親には弱い。
弱いというかこの場合に限っては
ゴーイングマイウェイをあきらめるというか。
この構造はちょっと面白いので今後も考えていきたい。


天気よすぎ。
あったかい。
中目黒行きたい。
中目黒行って街歩きしてちょっと冷えた飲み物飲んで
また歩いて適当に店入っておしゃれなもん見て
最終的にはフレンチでフルコースしたい。
いつわりならざる本音。


むかしのことを思い出す頻度が高まってる。
もともと僕は過去を振り返りまくる男で、
8歳くらいの時点ですでに「あの頃」の感覚があり、
なにかと思い出を振り返っていた。
最近は初めて一人暮らしをした20歳くらいの頃、
狭い部屋でブラッドサースティーブッチャーズや
ルミナスオレンジをかけてのんびりしていた時間を思い出す。
部屋にテレビはなく、携帯端末はガラケーで、
今では考えられない量のメールを毎日誰それとやりとりしていた。
街の歩き方も人との接し方もこなれてきた頃で、
まぁ最強だった。
いろいろ悩みはあっても
こわいものなし最強の毎日を過ごしていたから
思い返すと気分が上がる。
まだまだまだまだ未熟だったけど
未熟だったからこその最強なのだ。
それは満点が低いという意味なわけではない。
深遠を、奥行きを、先を知らないからというわけでもない。
熟す余地があるからというわけでもない。
あの頃、未熟の自覚はあっても最強の自覚はなかった。
これから成長していく確信はあった。
これから挫折していく未来も想定していた。
十年後の自分は今の自分を恥じるだろうという見通しも立てていた。
風がよぎるとほんのかすかに肌寒さを感じる五月のよく晴れた休日に、
ひとり自由が丘の街路に設置されたベンチで本を読んだ。
さして集中もせず、道行く人をぼんやり眺めたり
人目を気にして微妙に場所替えをしたり
雑感にまみれながら数十分を過ごした。
もうあんな幸せな時間は味わえないかもしれない。
今でもやろうと思えば同じような時間は過ごせる。
自由が丘に行ってベンチに陣取り本を読むくらいの予定は確保できる。
でも今の僕は、最強でなくなってしまった。
しかも未熟だ。


2021年04月20日(火) いらだつんじゃない

仕事で今日は印刷会社やら編集部やらと
メールのやり取りを何本かした。
うちはそういった外部交渉の一切を営業部が担当しているから
本来は現場が携わることじゃないのだけれど
いま属している部署は長年の経緯があり
直接メールや電話をする。
営業任せにするのと比べると一長一短だし
メール打つのは好きだからいっこうにかまわないが
上はやはりというか分化させたいらしい。
そもそもまともなメール書けない者が上に立ってるし。
でもあんたメールくらいは書けないと…と思うと、
学歴で人を計るなーって見方にも与したくなくなってくる。
うち程度のところだろうとさすがにメールくらいは…。


深夜のダメ恋図鑑最新刊読んだ。
もともとこの作家さんは好きだけど
この漫画はヘンな売れ方しちゃったから心配だったけど
トータルで見れば好きだけど
やはり行きすぎなところもある。
不動産のお話はうさんくさいなあと思ってたら
やはりというか担当編集からのお話らしい。
つまりネット上での「ありがちな」話なのだ。
多くの女性が、あるある、わかるわかる、としている。
でもそれって大体の人が、
そういう話を知ったからこれまで眠っていた獅子が目覚めたって話で、
純度がひくくて、
不健全な感じがする。


スーパーでまた遅いレジの人に一瞬いらだってしまった。
もたもたするなよ、と心の中で毒づいてた自分に嫌気。
いいじゃんね別に。
本人も一生懸命やってるんだろうし、
仮に一生懸命じゃなかったとしても、
別にいいじゃんね。
そう思っていきたい。
心にゆとりを!とか
人にやさしく!とかってより、
都市生活に支配されてる感じが嫌だ。


家帰ってすぐ飯の支度してちょっと休んで飯仕上げて
ちょっと休んで洗い物して
余りものでかぼちゃパウンドつくって洗い物して
明日の飯の支度してついでにローストビーフサンド作って
今日記書いてる。これから風呂掃除、風呂、そして読みもの進める。
今さら、やることやって偉いでしょう、というところはあんまりなく、
でも、ちゃんと休んでて偉いでしょう、という自負はある。
休むのは大事だ。


Twitterで前から気になっていた人がフォローしてくれた。
だいたいフォローくらいでどうとも思わないけど
今は延々読みもの投稿してるだけだし
本来ならフォロー減るような真似してるわけで
そんななかページ開いてちょっとでもツイート見て
フォローすることを選んだくれたのなら
それはとてもうれしいことだ。


いまちょっと目を横に向けたら
妻が飾ってる花瓶の花に蛾が止まっていた。
隣の部屋にいる妻を電話で呼び出すと
小器用にポリ袋でつかまえて外に放してやっていた。
蛾は嫌いだが生き物は殺したくないのだという。
しかし花に蛾か、ああなるほどなあと妙に実感してしまった。
部屋に飾ってある花は観賞用の花でしかなくて、
自然界においての虫の居所という現実と結びついてなかった。
そりゃそうだよねっていう。


2021年04月19日(月) 生きる意味、生きている意味


知らない土地にいって記憶を失いたい。
知ってるものが知らないもののように感じる、
ジャメビュ的感覚は好みだ。
あれも異化の一種だろうか。
難しいことはなくて、
たとえば旅先で食べるカップ麺は
知ってる味であるにも関わらず
新奇の意味が迫ってくる感じがする。
今、あれを欲してる。


NHKの逆転人生、
いつも番組構成のあくどさにイライラしてしまう。
嫌なら見るな
は正論でもなんでもない。
いろいろつつきようはあるけど
とりあえず
"嫌"で一くくりにまとめられるほど
ネガティブ感情は単純じゃないし。

今日は脱北者の女性の半生を追っていた。
脱北にあたってはそれを専業としている
ブローカーを頼るものらしい。
でもブローカーが道中で悪さを働いても露見しようがないし、
人身売買やレイプなどの危険は十二分にあるそうだ。
で、そういう恐ろしさを存分に紹介してから、
今回の彼女がその道中、メコン川を渡る際を振り返って、
「そのときブローカーは、
私たちを恐ろしいところへ連れ出そうとしていたのです」
と述べる。
こんな引きをされたら
ブローカーがどんな悪さを…と疑りながら見ることになる。
実際には、ワニがうじゃうじゃいるところを小舟で渡ると。
警備の目をかいくぐるにはそこしかないからと。
…別に全然ブローカー悪くないじゃん!(今回は)
それどころかはした金だろうに
ブローカーごと命かけて川渡ってるし。
つまり番組の都合で
そういう引きをさせたわけです。汚い。本当に汚い。
仮にそのつもりがなかったなら
単純に構成がへったくそだ。
でもそのつもりだったろうけど。
引きのためにやってた。確実。

その後彼女は韓国で、
北朝鮮出身の女性と韓国の独身男性を引き合わせる
マッチングサービスを開始。
意外にも韓国男性からの問い合わせは多かったそうだ。
ワールドカップのときの美女応援団が報道されて話題になってたとか。
でも実際に合ってみると、女性は第一声から年収をたずねる。
じっくり仲を深めていきたい韓国男性は面食らうとのこと。
それを彼女は説得する。
もう絶対にみじめな生活に戻りたくないからなのだと。

僕が面白いなと思ったのは、
きっと韓国男性は、北朝鮮女性を下に見て登録してきてるのだ。
下に見て
というのはつまり、
求める幸福の水準が低いだろうから
おれでも幸せにできるだろうとか、
おれでも優良物件扱いになるだろうとか、
そういう相対的な目で場に臨んでる。
で、蓋開けてみたら第一声から年収。
ここにはドラマがあると思った。


会社の引っ越し先を見学した。
真新しいオフィスだとか立地だとかはどうでもよくて
席だけが問題だった。
どうやらこれまでのように
後ろが壁
というわけにもいかなくなるようだ。
仕事を人の何倍かこなしてから
仕事中に仕事ならざるあれこれをするのが
この会社に居続けるメリットだったけど
それすらなくなりそう。
ウーン面白くない。

自分の引っ越し先は見つからない。
ゆるゆる2年くらい探してるし
この半年はかなり本腰入れてるけど見つからない。
なんとか石神井公園に住みたいのですが。
きれいめで広めの。


ローストビーフサンドうまい。


読みもののために
ならず者を列挙していきたいのに
自分が敵視するようなならず者って
もうあんまりいないみたいだ。
それなりに強くなったし
ならず者たちの事情も見通してやれるから
敵として純化しない。
でもその構造自体を主題にできるかな。どうかな。
憎み切れない連中でも憎んでいいのかどうか。
憎むべき連中を愛してもいいのかどうか。


オーオーオー。


あなたが生きる意味はと問われたら
即答できるつもりでいたが
よくよく考えてみればそれは
生きている意味
であって
生きる意味
とはまた別かもしれないと思った。
その違いは死を念頭に置くことで引き立つ。
生きる意味は
死を想定してみてやることで像を結びやすい。
生きる意味。
ありていにいえば、死に意味を与えるためと言えるだろうか。
よくいう話、死が到来したときには自分はもう無に帰している。
死は経験できない。
つまるところ、自分の死に意味を与えうるか以前に、
死は自分にとってのすべての意味を剥奪しうるのだから、
この答えは答えとして成立していない、と言えるかもしれないが、
死が自分にとって経験しえない事象であると前提しているからには、
それを語ろうとしている時点で、
生きている自分にとっての未来における死を仮想しているに過ぎないと
あらかじめ話題を限局しているわけだから、
その意味において、
今生きている自分にとって、
やがて到来する死に意味を与えてやれるという実感さえ達成できれば、
これは成立するのだと思われる。


2021年04月18日(日) やる気ない

昨日に続いてやる気が出ない。
本は一冊読んだ。
アフターコロナの都市計画。
そりゃそうなるよねって内容が語られてる本。

天気はめちゃくちゃよくて
洗濯ものも干して気分は上々。
ミュークルドリーミーは
これまでより子供向けになった気がする。
もともと子供向けなはずとはいえ
あの高度なギャグの数々が子供にわかるのか疑問。


ローストビーフサンド作ろうとか
にんにくを国産にしようとか
ちょっと贅沢にスーパー堪能したら
あっちゅーまに5000円いっとった。
贅沢こわ。

スーパー、コンビニ、ドラッグストアと
立て続けにレジで待たされ
こんなことでイライラしたくないなあと思った。

自分の前で店員さんとお客さんとが
ペチャクチャしゃべっていて
早くしろよという文句が一瞬頭によぎっちゃうとか。

買い物が、買い物だけを目的とした予定になってるから
そう思えてくるのだ。
たとえば中東圏では売値をふっかけてくるという。
客はそれを値切る格好で交渉が始まる。
それで結局は適正価格に落ち着く。
じゃあ初めから適正価格で売れと言いたくなるのが合理主義。
しかし店主は言う。
「あなたとお話できたからそれでいいのだ」
ここには買い物が単なる金銭と品物の取引という目的にとどまるのでなく、
生活、生きる営みの一部となっている。
本来自分が体感する時間のすべては
生きる営みと一致しているはずで、
そこに無駄はあろうはずがない。
それを好き勝手に、生きる営みを生活のための目的別に切り刻んで、
一つ一つをタスクとしてこなそうとするから
時間がもったいないとか無駄にしたとか思えてくる。
都市化ってそういうことだ。
しっくり腑に落ちた。
自分が体感する時間のすべては
生きる営みと一致しているはずなのだ。


図書館で青木淳吾借りた。
あと、またコロナ後の都市計画についての本を。
野方図書館のおかげで都市計画まわりの本読むようになって
本当に収穫だったとつくづく思う。
いずれなんらかのお礼をしたいとたくらんでいるくらいだ。
でも図書館員も公務員だから何一つ謝礼は受け取れないんだろう。
それでも何らかの礼はできると思うけど。

昨日見た
酔いどれ天使について妻とちょっと話した。
その中で思ったこと。
三船演ずる松永にとっては、任侠道は間違いなく美徳であったはずだ。
しかしそれは兄貴分である岡田、親分によって打ち壊されてしまった。
じゃあ岡田と親分にとっては任侠とは嘘っぱちだったのか?
というと、そうでもないんじゃないか。
つまり、武士道みたいなもので、任侠もまた
「これが任侠で、これが任侠じゃないですよ」とは成文化されていない。
成文化マニュアル化されていないから、
各々の信ずる任侠道があるはずだ。
それは大筋は合っていても、細やかな部分では統一はされておらず、
(そもそも"細やかかな部分"という見方自体がこの場合誤りだ)
各々にとって都合よく解釈されているはずのものだ。
コンプライアンスなんかとはまるで違う。
だから岡田と親分にとっても、それぞれの任侠道がある。
…というわけで、麻雀中の
「それにしたって親分、どうしてあんな死にぞこないを
あのシマでのさばらせておくんですかい」
「近々よその組と戦争がありそうだからな、
そのときにあいつを鉄砲玉にさせるんだ」
みたいな会話を松永に聞かれた二人が
取り繕えないのはすごくがっかりだった。
お前らなら取り繕えるだろう。
いやそれは取り繕いですらない。本心から言えるはずだ。
「松永てめえ馬鹿野郎。
そのままくたばっちまうんじゃ情けねえだろう。
てめえはてめえなりに、
死にぞこないは死にぞこないなりに、
死にざまで男を見せてみろってんだ」
この程度の啖呵をきってみせればそれで充分なのに。
大事なのは、これは逆切れでもなんでもないってとこだ。
彼らにとっては等身大の任侠、侠気で表せるはずって点だ。
これが、現代的なものの見方に縛られてるとなかなか行きつかない。
でもとてもとても大事なことだ。


エロネタでちょっと思いついた。
エロは とくに自分用のエロは
全く取り繕いのないマジのガチの
むきだしの好みが現れるはずだ。
どんなに本当の自分がわからないとか抜かしてる
モラトリアム野郎だってそこんとこはガチだ。
それを細部まで突き詰めていけば話になる。
ちょっと面白いかも。


2021年04月17日(土) おとこ女かくあるべし

朝なにげなくつけていたテレビに
氷川きよしが出ていて
女性寄りの中性的なその見た目に
妻が
この人こんなんだったっけ
と言うからここ数年の事情を伝えてやった。

僕も全然詳しく知るわけじゃないけども、
彼は
やれLGBTがどうの制度がどうの
などのメッセージは発しておらずに
ただ行動で示しているだけなのだろうと思われ
妻に伝えながら
実に素晴らしいことだと感じ入った。
妙ちくりんな層から
たわけた利用のされかたされないといいな。


雨でやる気が出ず
本もほとんど読まず
ものも書けてない。

ウェイバックマシーンで
キヨミズダイバー見て感慨にふけった。
ルビコンダイバーも。

黒澤を見た。
酔いどれ天使。
こんなに面白かったっけと首傾げるほど面白い。
今回初めて字幕つけてみた。
それで脚本のすばらしさを再認識。
そして三船敏郎のかっこいいことよ…
ちょっとした後姿、つぶやき、手の仕草一つ一つに
かっこよさがあふれてる。
他のどんな映画見るより真似しちゃうもんな。
態度でいうと
肺に穴空いてるってのに
久しぶりに会った兄貴分から酒を促されても
今病気あるから
とはすぐに切り出さない、切り出せないところに
今時分には失われた男気が垣間見えたようだった。
打ち明けない理由はいろいろ考えられるけど
単に男としてダセーからなんだと思いたい。
それは病気患っちまったこと以上に、
そんなことを言い訳にする情けなさ、
さらにはそれを口にすることの情けなさが
彼にとってはダセーのだ。

なんか久しぶりに性欲に支配された一日だった。
性欲邪魔だな。足かせだ。


2021年04月16日(金) コノヤローで済ませ

通勤途中
大通りの路肩にトラックが一時駐車されてるのを
ひんぱんに見かける。
今日は自販機かコンビニかの飲料品配送車両の中の
ダンボールが一部開けられてるのを見た。
缶コーヒーが何本か抜き取られてるっぽかった。

そんなわけはないだろうが、
運転手が途中でこじ開けて飲んでしまったのだ、
と想像してみた。
すると配達後、届け先から責められるわけだ。
配送業者としてはありえない過失で、
即座に会社へ報告され、深刻な事態となるだろう。

でもそんないけないことか?とも。
これが互いに会社を通さない、個人取引の商売なら、
各々の裁量で…というのも大げさだ、
そのときの気分次第で、
 「飲んじゃったよ。うまかったゼ!」
 「なにしてやがる。代金払って配送料まけろ」
 「アイヨッ!」
くらいのやりとりで済む話だ。

で、まぁ日本人が中韓とか中東圏で
なんらかの取引をしようとしたときに
よく聞く話だ、こういうのは。
こっちの文化こっちの常識では
到底ありえないようなことをする。
品物を業者が盗んだり、壊したりなくしたり…
で、揉める。
しかし、けど、でも、
それがそんなにいけないことか?
別にいいんじゃないの?
コノヤローで済ませれば。
コノヤローで済まないから社会病理がドンドン加速していく。
盗みが発生すること自体は社会病理なんかじゃないだろう。
これを許さず線引きしなきゃってんで、
成文化された契約やら法やらが整備されて、
それに従おうとして窮屈になって病んで
倫理や道徳を自ら考え抜く必要もなくなっておばかんなって
とまで書くと言いすぎですが。
こんなやり口は西欧とアメリカさんには妥当なのかしらんが
日本に適しているとは全く思えない。
コノヤローでいいと思うんですけどね。
実際問題、ここまで新自由主義が浸透しきった社会じゃ
今さら無理でしょうが。


暇さえあればパオンパオン言ってる。
中学のとき
 パオーン
というのが自分のなかで流行って
辛抱強く続けてたら
友達も気に入ってくれて
 まっちゃんアレやってアレ
とせがまれるまでになった。
 いくよ ヴヴン …      パオーン
という間が大事なのだ。

twitterに書いてる話は
これからガネーシャ像が絡みだすけど
パオン癖とか全く関係がない。

なんとなく辞書を引いていて
歓喜団
という見慣れない言葉が引っかかり
見てみると
菓子だということで
興味ひかれて調べだしてみたら
歓喜天という神にたどり着き
ちょっとおもしろいなと思って
読みもののギミックにこじつけることにした。

主題先行だけど
今回はギミックも凝ってやろうという野望がある。
素晴らしき日々の影響です。

いちおう
書こうとしている主題自体は面白いと思う…。
…"私"が他者と接するとき、他者は情報として扱われがちだ。
情報としての他者は"私"の中に住処をもつ。
作中の私は一部の他者のアドレスを爪に割り当てた。
その一部の他者とは、"私"が忌む敵だ。
社会的通念にとって悪とは限らないし、斟酌の余地もある。
だが"私"にとっては気にくわない。
そんな彼らを"私の地獄"に招待する。
"私"は日々がつらい。
そのつらさには妥当性がない。
社会的通念にとっては苦悩と見なされにくいものだ。
だが"私"にとってはつらい。
"私"の毎日は、心のなかで言い訳ばかりだ。
他人からどう見えようが、すべての行動に、"私"なりの理由がある。
おかしいと断じないでほしい。
"私"は必死で生きている。
それは"私"だけが知っている。
"私"の言語世界のなかでだけ成立している。
"私"の言語世界には言い訳が支配している領域がある。
そこが、"私"にとっての地獄だ。
ならず者たちは、その地獄のなかでどうか、
"私"の言い訳の嵐の中で、"私"の正しさに埋め尽くされてくれ。
その地獄へ落とす手立ては、
すべて"私"の中だけで完結する。
彼は情報として扱われるからだ。
彼自身がどう生きているかは、"私"には手に負えない。
そして…

で、結末につながっていくと。
主題にもかかわるし、場所性は大事にしたい。
住処、地域、サードプレイス。地獄。

主人公は27歳の女だ。
自分のなかで育ててきた女が、
かつては22歳の壁を超えられなかったが、
今はなんとかここまでたどり着いた。
30の大きな壁を前に、
一度、27歳を開放してみたくなった。
そしてまた、その苦悩も書き出してみたくなった。
正直なところ、男であるなら、
オトコである時点でその苦悩は乗り越えられてしまう。
オトコという物語によってだ。
それではその苦悩が現前しないから、女を媒体にする。

ちょっと思ったこと。
現代日本で少年少女のかかえる大抵の問題ごとは、
そりゃあもう押しなべてって言っていいくらい、
漫画で語られてる。
そして文学は必ずしも答えを示さないが、
漫画はなんらかの答えを、少なくとも方針を示す。
だいたい解決されてる。
青少年までいってもそう。
これが青年期までいくとそうでもなくなってくる。
「その頃回収されなかった苦悩」の描出も主題だ。

あとはなんだっけ…。
中途半端なところか。
善と悪、祈りと呪い、などなど二項対立の極端は、
「どちらとも言い切れない」と
「どちらの属性も併せて含有している」という
複雑怪奇な様相を示しがちだ、人間は。
論理の上では並立しないはずのそれらが、
しかし実際並び立つという実相を証明したい。
人は人を呪いながら祈れるし、地獄へ落としながら愛せる。

三千世界。
仏教のフィールドにおいては多種多様な世界がある。
その数は三千にも及ぶ。
自分はその世界のどこに属しているか考える。
しかしそれは逆である。
今ここでこうしている自分の、
一瞬でうつろうめまぐるしい心に、
すでに三千の世界があるのである。
三千の世界が及んでいるのである。
善意も悪意も、祈りも呪いも、
そうした相反し合う情念もひっくるめて、三千の世界が渦巻いている。
自分と関わり合った他者は、その三千の世界のどこかに置かれる。
そのひとつが爪のなかの地獄であるに過ぎない。
自分もまた、誰かの三千世界のどこかに身を配される。
Aさんの、Bさんの、Cさんの…。
そこいらに自分は割拠している。
それぞれの世界にはそれぞれの秩序、ルールがあるはずである。
それぞれの重力があり、それぞれの名付けかたがある。
この世界を…
うーん こんがらがってきた。
まだ整理しきれてないな。


2021年04月15日(木) 変わったとか変わんないとか

今は精神のすさみに自覚的でありたいという目論見があり
ここにはなるべくネガティブな感情を書き起こしてるけど
実際にはなかなか機嫌よく過ごせている時間が多い。
なにしろ春なので。
この空気の気持ちよさは何にも代えがたい。

日本は破産法が厳しく
比べるとアメリカは破産しても
前途が途絶えないので
リスクを負ってチャレンジしやすい、
だからスタートアップ企業が
果敢に市場に乗り込んでいく
といった話を仕入れた。フーン。

街並みが変わっていく。
飲食店はつぶれても再起するけど
本屋や古本屋は減る一方だ。
ネット商戦に押され
店舗経営縮小傾向にあるし
残るのは資本力のあるチェーン店ばかりとなり
街は個性を失って
似たような街ばかりになって
まったくもってつまらない。

だから下の世代をかわいそうに思う。
と、言い出すと
いかにも旧来の、老害という感じがする。
とりわけネット上ではありきたりな論調だ。

でも、その下の世代にとっての当たり前を尊重しようという
個人主義万歳の風潮は信用ならない。
いかにも正しいそうってだけで
突き詰めてみればあやしい。
それはそれで、安直な答えにとどまってる気がする。
放っとくだけでいいわけだし気楽なもんだ。
せめぎあいもいるだろう。



いやな流行り言葉。使わないようにしてる。
「雑」
「こんなに〜なことある?」
「アウトプット/インプット」
最近になって「言語化」もいやんなってきた。

さくばん入浴中
バンプの「K」を口ずさんでみたところ
青臭すぎてあまり好きじゃなかったなと妻が言う。
それに加えて、最近ナナナンキリコを読み返してみたら
やはり青臭くさが過ぎて
のりきれなかったという。
「でも昔はこういうの好きだったんだよなーって懐かしくなった」
と。
僕は僕でちょうど昔を振り返っていたので
「15、6、7、あたりの頃と、今の自分と、
あー何も変わってないなーって思うよ。
と同時に、
あー全然違うなーっとも思うよ」
と。

何にも変わってないなぁとも思うし、
全然違うなぁとも思う。
それは両立するものだ。
それも全体性としてだ。
変わった部分もあるし変わらない部分もある、ではなく、
全面的に変わってない
と同時に
全面的に変わった
が併存する。

妻は僕に、きみは変わったよねという。
昔はもっとちゃらかっただの詐欺師っぽかっただのと。
今は丸くなった、気難しくなった、
コミュ障っぽくなった、根暗だと。
一般論でいえば真面目な方がいいはずだが、
オトコとしての物足りなさでも感じているのだろうか。
くそくらえなので我が道を行く。
真面目も不真面目も併せ呑んで
唯一独自の道を切り開いていくのだ。
しかし誰になんと思われようが誤解されようが認められなかろうが
自分一人そのつもりで営業していくつもりであろうと
ただ妻一人にだけは理解されたいところもあったから
少なからずショックだった。
とりあえず
だいたい皆年を経るにつれて
自分はこういう人間なんだ
という無意識的な決めつけや意識的な決意をして
あちらこちらの観念をわが身に固定化させる。
あぁはならないぞ
でもならないと決めつけもまたしないぞ
というような話をした。


保坂和志の
小説のなんとかいう本を読み
ちっとも小説脳のない自分を見せつけられる。
青木淳吾また読みたいな。
日本語文の作用が変わる、
小説でしかなしえないあの味わい。

わかっちゃあいた
とはいえ 読みもの完全無反応はややつらい。
まだ2割も書けてないのだし
この程度でくじけちゃいかんのだけど。
反応ないままだとスゲーェやる気なくなる。
これはたしかだ。
わざわざTwitterで
タイムラインのお目汚しして
疎まれてるんじゃないかってのも
考えるだけで気が滅入る。
書いてるもののヘタさも目に余るし
あらゆる粗が様々な観点から照射されて
うめき声あげちゃう。
それでもやる、やりきると決めたから
やってやるんだけども。
うすぐらいモチベーションの一つに
フォロワーたくさんいる連中は
もうこういう勝手はできないだろう
フン
みたいな思いがある。
それ自体は悪くない。


2021年04月11日(日) 高齢のフィールド

ミュークルドリーミーみっくす、
あいかわらずに超高速テンポのよさに満足。
心の中の飢えが満たされていく感じする。
オープニングとエンディングはやはり前の方が良かったけど…。

高円寺から新高円寺にかけて散在している古着屋をいくつかまわった。
なにも買ってない。
聞いたことないブランドのデニムのコートがとても素晴らしいと思ったけど
5万して諦めた。
まぁブランド知らな過ぎてだいたい聞いたことないってなるんだけど。

図書館行って本の購入を申請。
正規の司書さんが呼び出されて申請書一つ用意するのに
大変あちらこちら走り回ってらした。ごめんなさい。

コンビニで
90過ぎと思われるおばあさまが会計にてこずってらした。
品物は10点ほど、カートを引き引き、
あとは支払うだけなのだが、
その支払いという行動がぴんとこないようで、
何かしなくちゃいけないはずなのはわかってるんだけど…
という様子。
店員さんも困ってらした。
かくなる上はとバッグを店員さんに預けて、
これでお願いしますといった旨を告げていた。
しかし
「バッグの中に財布が入っているからそれを取り出して会計をよろしく」
と明言されたわけじゃないから、
さすがに店員さんもバッグを開けかねて、フリーズしていた。
僕は隣のレジに通されてしまったから
ことの顛末は知らない。
あれは助けようにも助けられないし
せめて野次馬的に見届けるのだけは避けようと店を去ったので。

高齢化社会では接客業のありようも変わるのだなあと思った。
当のおばあさんと僕の間には80くらいのおばあさんがいて、
そちらの方が前のおばあさんを見やる目が印象的だった。
おそれと哀れみと苛立ちと情けがいりまじったような…。


他者について。
この世に顕在している他者と、
自分のうちに取り込んだ、記憶の住人としての他者がいる。
前者をA、後者をBと呼んでみる。
直接コミュニケーションをしているとき、それはAを相手どっている。
しかし直接でないとき、
その人を思い浮かべていたり、あるいはネット上で交流している間などは、
それはBだ。
その人を祝うとき、その人を呪うとき、やはりBだ。
直接、顔を見て接している時間だけがAだ。
それにしてみても、Bありきで接することとなる。
Bはつまり情報の集合体で、
いうなれば「私」の延長でもある。
Aは生き物で、何が何やらわからない未知の存在だ。
Aに危害を加えることは許されない。
しかし、Bに危害を加えることは、Aに危険をもたらさない。
それで「私」が救われることがあるのなら、
果たしてそれは罪といえるだろうか。
社会通念上は是としないだろう。
しかしBは「私」の内在にとどまる。表沙汰にならない。
とかなんとか。


2021年04月10日(土) 休日

西東京へ妻とデート。
青梅駅に降り立ち玉川を堪能。
妻は清流に足を浸した。
冷たすぎる、全然気持ちよくないと笑っていた。

川沿いには重要文化財の
なんとか邸という古民家があり
茅葺き風のがち古民家でやや尻込みしたが
縁側から眺める風景が素晴らしかった。
春の陽気と、そよ風というにはやや強い北風と、
緑と、勢いのある川の無遠慮な音と、鳥のさえずりと、
囲炉裏からはパチパチ炭の焼けゆく音。
部屋の中の畳のうえに座って眺める景色はなおよかった。
暗い室内は隅を見やれば黒々として
あぁこれが谷崎のいう陰影なのだなあとぼんやり思った。
管理人のおばさまが言うには
例年だと春先には花見客、暖かくなればバーベキュー、
夏には川遊びで一帯は大変にぎやかだそうで、
コロナ禍を嘆く様子だったけれど、
正直なところ喧噪よりは今日くらいの静けさがちょうどいい。
ささやかな自然音がよく通るくらいの。

喫茶店では緊急事態宣言の終了と
新たなまん延防止策について妻と語り、
政財界のシステムについて触れ、
僕は建築を領分としている人たちの三次元的認識が
有用なのではないかと持論を展開して、
グローバリゼーションへの憎悪につなげた。
アーモンドシュークリームはずいぶん深みのない味で、
ケーキ屋では決して出てこないであろう素朴さだった。

青梅駅のモスバーガーの入口には
「私は昨日羽村のチューリップ畑に行ってきました。」
から始まる店員さんの挨拶がブラックボードに書かれていて
なんと美しい日本語なのだろうと思った。
チューリップ畑に行ってきました。
こういう日本語だけで日々をまかなえたら
それはとても素敵なことだ。

奥多摩方面へ足を延ばす予定を翻し
立川で買い物。
コロナ禍でおとなしくしていた分
おおよそ一年ぶりの買い物となり
妻は時計を、
僕は靴とバッグとパンツとシャツをいっぺんに買った。
タケオキクチはもっと高いイメージがあったが
4点で4万ならかなり得だと思う。
さらには、ポーカーフェイスでメガネを試着して、
カラーレンズやサングラスに興味を持った。
気に入ったのが5万したので手は出さず。
しかしこうしてみると、
自分はこれまで財産の多寡で行動を左右されないつもりでいたし、
制限もかけてない自信もあったはずが、
実のところ衣服に関しては、我慢しているのかもしれないと思い至った。
たぶん、もっとずっと金があったら、
あれもこれも買ってしまいたいのだ。
それこそ桁の違う服を。あれもこれも。

服の面白いところは、着るのが自分だというところだ。
自分という無料のプレイヤーキャラクターを
好きに着せ替えて
自由に動かせる。
すごい。


電車移動の最中は
それ町を二人で読んでいた。

休日らしい休日。
帰り際、駅前の書店で本の取り寄せを注文した。
多元共生社会の構想がどうとかいう。
図書館で借りたものを浴室で読んでしまったばかりに
ページの一部が湿気てしまったから
確認するまでもなく買いなおすことにした。
経験上、ぬれずとも蒸気で湿気てしまう紙質の本は
30冊に1冊程度なのだけど
さすがにもう控えようと思う。
少なくとも借りものでは。


2021年04月09日(金) 交換可能性

新社屋のセキュリティキーだかカードだかを
見学しに行った同僚が紛失してしまったらしく
小さな騒ぎになっていた。
部署が違うから
当の彼女と接することはないけれど
心から同情した。
明日は我が身だ。
ああいうの、誰が他人事として責められるっていうんだろう。

それは数時間経ってから無事見つかった。
特命を任ぜられた別の同僚が見学場所から発見したらしい。
彼女は当面のあいだ彼に頭が上がらないだろうと思われるが
彼は別に彼を彼たらしめる人格の達成において
その手柄を得たわけじゃなく
たまたま役柄がまわってきただけだ。
この認識においては彼は誰とも交換可能な匿名者になり下がる。
別に彼が彼である必要はない。
なのになぜ彼女は彼に感謝し恩を表明していくことになるのか。

べつにその彼の名誉を貶したいのでなくって
思考の物種として
なかなか興味深いことだと思った。


どうでもいい話題。
ラズベリーキューブのオープニング曲がいい。
いかにもキャッチーで
音楽をよく知ってる人からすれば
 あぁこのパターンね
 そういうコード進行ね
 つくれるつくれる
みたいなこと言われちゃいそうだけど(偏見)
結局自分は耳肥えてないから
わかりやすくキャッチーな歌が好きというのはある。
作詞作曲が堀なんとかさんという業界では有名な人らしく
ニコニコあたりを出自とするそうで
ベースのうねりが気持ちいい。
でオープニング映像もちょっと中毒性がある。
いかにもオタク向けでございってかんじの。
まじめにフェミやってる人からも
不真面目なフェミからもあいてされなさそうな。
僕でさえエッきもちわるっ
と一瞬みがまえたくなるほどコテコテの美少女絵。
今や若い世代が旧世代に比べアニメ絵に抵抗なくなってて
いわゆる萌え絵みたいな絵柄ですら市民権を得つつある
という見識には否定的立場をとるつもりないけど
往年の美少女絵、ギャルゲーっぽい絵は
やはり今もってなお蔑視されてしまうと思う。
蔑視とまではいかなくとも軽視や無視とか。
そういった絵柄を先鋭化させたところにラノベ絵があって、
さらに洗練させるとソシャゲ絵になって、
ここまでくるとだいぶ市民権。というイメージ。


読みもの一章目を投稿し終えた。
頭んなかでごちゃごちゃイメージ膨らませる作業が一番楽しいかな。
整理していくのがその次で、
話に落とし込んでいくのがその次で、
成文化がいちばんめんどい。

レヴィナスの他者論、
都市学における場所論、
祈りと呪いなどの二項対立の超克、
錯誤、
コミュニケーション不能、
つまらない人間の筋合い、
言い訳(理由、根拠、正当性妥当性)、
あらゆる敵を愛してみよう。


れどれ |MAIL