舌の色はピンク
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2020年04月10日(金) 映画ベスト50 [50-26]

僕個人独断による好みだけで順位づけています。
ジャンルはほぼヒューマンドラマ。英語の映画はめったに観ません。


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50.アンダルシアの犬[ルイス・ブニュエル]




スペインの鬼才ルイス・ブニュエルが画家のサルバドール・ダリと共同制作したことで有名な映画で、なにしろダリだから、やってることはシュールレアリスム。
はじめからそのつもりで鑑賞していてもなお、何が何だか、頭が狂わされていく。
実験的とも芸術的ともとれる突飛な映像の数々は、たんに映画をおもちゃに遊んでいるのだと捉えれば、理解不能と一蹴せずにするやもしれない。
荒唐無稽ともとれるあらゆるアイデアをぎりぎり映画としてつなぎとめるために、男と女を配置しているのが面白かった。
なんであれ、男と女さえ置いておけば映画の体裁にはなるのだ。


49.たかが世界の終わり[グザヴィエ・ドラン]




観る気の失せるどーしようもない邦題だけどほぼ直訳のようだ。
死を間近に控えた主人公がそれを告白しようと数十年ぶりに帰省した実家で、家族は延々ずっと意味のないような話をし続ける、という劇像がこの映画の見どころ。
怒れる兄のいかれたような怒涛のセリフまわしが秀抜で、心に残ったのはほとんどここくらいだけれども、このワンポイントだけで戦えるほどよかった。
景気よくまくしたてるフランス語が耳に心地いい。言ってる内容は苛烈なんだけれども。


48.田舎の日曜日[ベルトラン・タヴェルニエ]




話らしい話が何一つない、田舎の日曜日、としか言いようがないフランス映画。
片田舎の老人の哀歓なんぞいくらでも味付けできるだろうに、安直な色気に誘われず終始平熱で描いてくれていた。
癒されるといえば癒されるし、しみじみしながら考えさせられもする。
威圧はされない。ただ緩やかに圧倒される。
老人が元画家という設定もあいまって、日光や緑のみずみずしい印象派絵画を想起させられる映像美は、是非ともブルーレイで堪能していただきたい。


47.トスカーナの贋作[アッバス・キアロスタミ]




舞台はイタリア、仏伊英の三か国語を操るジュリエット・ビノシュを主演に描かれるラブロマンスと見せかけて、プロットは至ってややこしい。
美術館の案内をしていたところカフェの店主から夫婦と間違えられた男女が、それを否定せず夫婦関係を演じてみせる。これがカフェを出てからも続く。
二人の関係や語られる思い出話は、何がどこまで真実なのか疑わしいまま話が進んでいく。
節々に芸術論めいた印象的なセリフがあったはずだが思い出せないのが惜しい。
小説ならばページに折り目をつけるし、漫画ならすぐ探し出せるのに、映画はこの点つくづくもったいない。
再鑑賞の楽しみが用意されているのだと思っておこうか。


46.嘆きのピエタ[キム・ギドク]




ただでさえ不穏なノワール映画の多い韓国映画のなかでもとりわけ胸糞展開に定評のあるキムギドクの代表作。2012年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞。
天涯孤独らしい冷酷な借金取りが、自分の母を名乗る女が現れてから生き方を揺さぶられていくさまは、まあそこまで迫ってくることもないのだけど、ひもじい工場の色のなさやら、生の実感が希薄なアパートの部屋模様だとかの映像がいちいちよかった。
ラストシーンがきわめて美しく、あの画に辿り着くためにシナリオが書かれたのではないかと勘ぐってしまう。


45.トリコロール/青の愛[クシシュトフ・キェシロフスキ]




ポーランド出身の監督が、フランスから依頼されて製作したらしい三部作の一作目。
自由、平等、博愛を象徴するトリコロールの、自由が本作の主題となる。
その自由は孤独と背中合わせで、アパートの階段につましく座り込むジュリエット・ビノシュが言葉より多くを表現していた。
タイトル通りの、青を基調とした画面の美麗さにひたすら感動されっぱなし。
ちょうどこういう鉄面皮な映画が観たいタイミングであったこともかち合って背筋に快感物質ほとばしった、と当時の感想メモに残っていた。


44.ありふれた事件[レミー・ベルヴォー, アンドレ・ボンゼル, ブノワ・ボールヴールド]




どこにでもいそうなスーツ姿の男が当たり前みたいに殺人を犯していく日常を追ったベルギー映画。
登場人物がカメラで彼を撮り続けているというフェイクドキュメンタリーの体裁。
暴力描写が映画的なアクションでなく、ありのままの暴力が振るわれているようで、こたえる。
登場人物が撮影した映像をそのまま映画として見させられているわけなので、緊迫したシーンでカメラが地べたへほっぽかれると、ただ静止した背景を映し出しながら、遠くから叫び声が聞こえてくるという演出となり、想像力がぞわぞわ働かされる。
この映画を観ることは鑑賞というより体験に近かった。


43.セリ・ノワール[アラン・コルノー]




これまたノワール映画。話よか、おフランスの小汚いアパートの描写が印象的。
そして主演役者のすばしこい動作しぐさがとてもとても好き。
カメラも脚本もまるで彼の魅力を喧伝するために練られたかのごとくで見ごたえある芝居。
あの人コントローラーで操作できたら楽しいだろなと夢想せずにはいられなかった。


42.エリザのために[クリスティアン・ムンジウ]




「4ヶ月3週間と2日」がルーマニア当時の独裁政権下の実情を怖気だつほど容赦ないリアリズムで見せてくれたから、社会派の期待が背負われるままに「汚れなき祈り」も「エリザのために」も、同じ地平から評価が定まってしまわれそうなのをグッとこらえて、いや「エリザのために」は違うんじゃないか、脱社会派なんじゃないかと思われた。
というのも主人公である父役が今作では何かと国家の政情を言い訳に仕立てて憚らないから。父(父権)と国家は権威的な主題になりがちだが、彼を取り巻く構造を紐解けば、娘/妻/母/浮気相手と、人生の熟した男に隣り合う"恐るべき女たち"のひと揃いは、並べて国家と対立させられていない。
ロンドンに留学さえすれば何もかもが好転する、リスのほっぺをつねる御伽話のような生活が待っているとおそらく本気で信じ込んでいるこの父役の滑稽さには、ルーマニアのどうやらたしからしい不安定さを差し引いてなお、逆説的に"まだ全てを国のせいにしているの?"という軽侮が呼びおこされる。
こうなると、次回作はいよいよ、国家批判みたいな壮大さとは切り離された純粋な空き地から淡々と人間ドラマ描き出してくれるのではと期待も高まってくる。4ヵ月…ではそんなところからばっかり魅力掘り出して脳みそ揺さぶられていたしていた手前、どうしても願ってしまう。
だいたいが、ルーマニアこんなに大変なんですよと訴えられても、壁もガラスもペンキも引き出しも床もラグも時計も椅子もひび割れた小物も控えめの街灯もあれもこれも映像に収められたことごとくが人を悠々うっとりさせるに足る趣きなのだから本心から気の毒がれやしない。きゃあ、かわいいね、となる。
(鑑賞直後当時の感想メモから抜粋)


41.ラブレス[アンドレイ・ズビャギンツェフ]




薄い雲に陽の光を遮られっぱなしのロシアの寒空がびしばし肌に伝わってくる。
話は救いようがなく陰鬱だけれども、不遇からスタートした話が、順当に進展していくだけともいえる。露悪的に不幸を描いてやろうとするような煩わしさはない。
ただこの世界、別に普通にこういうこともあるよねという感じ。
この監督はそこんとこほんと上手で、いつもたらふくご馳走さまです。


40.悲しみのミルク[クラウディア・リョサ] 




動ける写真集、物言う写真集。
母親の体験した苦しみが母乳を通して子供に伝染する“恐乳病”という、ペルーの言い伝えなんだか作り話なんだかが題材。
映像美と、残虐なアイデアの数々にうたれた。
ジャケットに採用されている一コマは筋書き上重要でないシーンながら鮮烈な印象をたたきつけてくる。
こういう芸当が映画ならではの強みで、かけがえない味わい深さ。


39.ドッグヴィル[ラース・フォン・トリアー]




だだっぴろいスタジオに家具やドアを配置して線引いて役者置いて動かして、これを舞台とし村だと設定する、異色の手法で撮られた映画。 
かつてないような画面のなか意地の悪いドラマが繰り広げられていく。
ラース・フォン・トリアーのファンは人間の本質が〜などといかにも深長な評しかたをしている気がするけども、むしろ人間の表層によっていかに悲劇がうまれるかとか、上っ面のほうに着目した方が興味深いよう思える。どこまでも上っ面が面白いので、本質とやらは他に任せましょう。
気がるに見始めて、だんだんギョッとしてくる心地がたまらないので。


38.めざめ[デルフィーヌ・グレーズ]




幾人かの女性を主人公として、闘牛を軸に彼女らの因縁が絡まり合っていくフランス映画。
全編に渡って右脳開きっぱなしの映像。
大胆で挑発的で好戦的なつくり。監督は女性だそうで、この映画を見た後しばらく女性監督作品をあさった。
脚本もよかった。
始終暗示の網が密に過ぎるきらいはあれどあざとくもなく、急所では鋭利な台詞で突き刺してくる。
"いいもの観た。すぐさまもう一度観れる"と、鑑賞直後の感想メモには残っている。
しかし悲しいかな、近所のレンタルDVD店からは姿を消してしまった。買わな。


37.哭声(コクソン)[ナ・ホンジン]




ある村で一家皆殺しの惨殺事件が立て続けに起こる、その真相を追うという韓国映画。
これはホラーにあたるのか? サスペンスホラーかサイコホラーとでも呼ぶのか。
これまでに見た映画のなかではもっとも恐怖した。
息をするのもためらわれる恐怖は、想像によってもたらされる。
凄惨な殺人現場は結果だけを示すにとどまり、決定的瞬間は映し出さず、ひたすらに不穏さを放ちっぱなし。
しかし鑑賞者は何が起こったかなど想像するひまなく、次の事態に備えなければならない。
次に何が起こるのか、何が起こってしまうのか、延々想像を強いられストレスを過大に負わされる。
事態の真相をめぐって、終盤には幾人かの証言がまとまってくるが、どの説をいかに採用しても"矛盾を起こすこととなる"脚本は圧巻。
韓国映画の本気という感じ。とはいえこの映画のせいで、他の韓国映画が霞んでしまってもいる…。
 

36.フランケンシュタイン[ジェームズ・ホエール]




まごうことなき名作。製作公開は90年前なんですって。
余計な贅肉が削ぎ落された、見どころしかないシナリオ。
怪物を狩りに夜な夜なぞろぞろ農具持って繰り出していく村人たちのパレード感が素晴らしかった。
全員に共有されることとなる思い出の夜という感じで。
あの行軍に加わりたいと願わされてしまったし、加わったような錯覚に陥りもした。
そんな楽しみかたは稀かもしれないが、おそらくは誰しもが数多の観点からいかようにも楽しんでしまえる名画。
 

35.カノン[ギャスパー・ノエ]



 
なんとかっこえージャケットなのか…。
娘に倒錯した愛情を抱いている馬肉屋のおっさんが主人公で、笑いもしないししゃべりもしないが、罵詈雑言だらけのモノローグはとめどない。
不満、怒り、不満、怒り、不満、怒り、不満、怒り…。
ひたすら鬱屈としたおっさんを嫌悪させられながら、なおも惹きつけられることとなる。
同監督「カルネ」の続編。僕は「カルネ」の方が好きだけども、あっちは短いから、「カノン」の方が映画的には楽しめる。


34.アモーレス・ペロス[アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ]




ある交通事故を因果の基点として3人の運命が描かれるメキシコ映画。
立体交差したいくつもの物語筋が絡まりほどけていく快感。
150分あるとはいえ、娯楽映画の調子もあってすんなり観れるから、誰彼問わずお勧めできる。
ただし壊れゆく男女仲の描写は生々しくかなりつらい。
なんちゃって、映画は生々しくてなんぼですから。素晴らしい生々しさだった。
その容赦のなさにどうぞ胸を締めつけられていただきたい。


33.殺しの烙印[鈴木清順]




"男前ーの 殺し屋はー 香水の匂いーがーした〜"という稀代の名曲から始まり、人を食ったような場面を挟みながら、殺し屋のお仕事が描かれてゆく伝説的な日活アクション。
かっこいいんだか笑わせるつもりなんだか、理解不能な狂った場面が多く、よくわからないまま脳がふつふつ沸騰させられてしまう。
最近、脳、沸騰していますか?
脳はたびたび沸騰させてやらなければゆっくり死んでいってしまうので、この映画には医療的効能もあるといえる。いえてしまえる。


32.トリコロール/白の愛[クシシュトフ・キェシロフスキ]




トリコロール三部作の二本目。
幕間的な位置づけらしく、男女の愛憎劇という筋立ても明確で、いわゆる難解な芸術映画とはちがい取っ付きやすい。
僕にとっては、シナリオよりも映像と、そして音が好みでたまらなかった。
前作でも感じた音への拘りがより執念的に覚醒しきり鬼気となって襲いかかってくる。
冒頭2秒で催眠にかけられる。
床の軋み一つとってもまじないじみているのだから手に負えない。その美術の御業にひたすら酔いしれてしまった。


31.居酒屋[ルネ・クレマン]




エミール・ゾラの小説が原作の白黒映画。 
快活で大声張り上げっぱなしのフランス語が耳に心地いい。
製作公開は1950年代だそうで、この時代はどの国の映画も人物がみんな元気でびっくりする。
今作は主人公の人格がたくましく、鉄火肌で、まさに烈女と呼ぶにふさわしい。
貧しいけど、大変なことも多いけど、くじけないで頑張っていこう。
という目で見ていると危ういかもしれない。
タイトルが抜群で、お話とは因果を描くものなのだなあと感慨にふけった。


30.裸足の季節[デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン]




封建的観念から家に閉じ込めれる女性たちという因習を悪し様に描ききったトルコ映画。
いささか女性側に寄りすぎていていまいち主題にはのりきれない。
問題提起するならば公平である必要はなくとも公正さは不可欠ではないかと、身構えてしまう。
とはいえそれらを差し引いても十分に楽しめる。
のっけから制服姿の美少女たちが海でキャッキャし始めたのには心配したが、話が進むにつれて彼女ら姉妹のキャラクターや関係性に通底する透明なところにドンドン惹かれていった。
イスタンブールに行きさえすれば何もかもが解決するというような夢物語を胸にしたエクソダスの行方は、クライマックスで、その映像に託される。
あの美しい映像を、そこから引き起こされる夢のようなイメージを多くの人に体感してほしい。


29.第七の封印[イングマール・ベルイマン]




ペストはびこる中世を舞台にしたなんだか哲学的なスウェーデン映画。
聖書を背骨とした解釈によってベルイマン独自の死生観を紐解くのが本来望まれる見方かしれないが、ジャケットひとつとってもわかる通り、ビジュアルだけでも楽しめる。
なにしろ騎士が死神にチェスを挑むのだ。
そこにはシナリオとしてよりいっそビジュアル的な快感がある。
難解だ、で済ませてしまってはもったいない。
全ての寓意を読み取って組み立て直し立体図を描いてやろうなどと無理しないで、豊富に配置された妙趣を点のまま楽しむだけでも十分だと思う。


28.セールスマン[アスガル・ファルハーディー]




フランス住まいのイラン人夫婦が主役。
引っ越したてのマンションで妻が何者かに性暴行される。その犯人を夫は捜索し…
とまとめるならばちょっとシリアスサスペンス映画なのだが、そこはアスガル・ファルハーディー。ただではすまさない。
この監督は現実(の過酷)を見つめる視力が常軌を逸しているようなところがあり、それを見事に映画におとしこめるのだから参ってしまう。疲弊なしには付き合えない。
たいへん理知的で浮つかず地に足がついている。ただしずっと1.5Gの重力をかけられている。
人間と人間が接するにあたっての深刻な悶着をフィクションで味わいたい層にはうってつけの作品。 


27.ヴェラの祈り [アンドレイ・ズビャギンツェフ]




"子供ができたの。あなたの子供ではないけれど"
ゆったりと重苦しく、静かで美しいロシア映画。
タルコフスキーの系譜を思わせる映像美は、しかしタルコフスキーよりずっと柔軟で簡明、好みのツボのことごとくを揉みしだいていただいた。
好みのツボというものは時に譜面の音符みたいに配置されて感覚器官の正常を試してくる。今回、映画の進展に合わせて的確な音楽が打ち鳴らされていった実感があった。
また、車をいかに走らせるか、車をカット割にどう組み込んでくるかって、映画監督各々に千差万別の個性があるなと、今作で初めて意識した。
何気ないけど独特の呼吸があるんですね。それがやけに心地いい。


26.裁かれるは善人のみ [アンドレイ・ズビャギンツェフ]




ロシアの片田舎に住む修理工が、市長にその家を奪われるかどうかの瀬戸際でもがき、苦しむ。
国家-町-家庭-個人と、マクロからミクロまでが一脈に見通せるような仕掛けでドラマを描ききっている。
人間が人間として生きるにあたり避けられない重苦しいところをほじくってくるやり口はズビャギンツェフさすがの手並み。
しかし社会問題、倫理観、宗教観による要請はあるにせよ、やはり単純に、好きなんだと思う。
不遇で辛辣な人間模様を描くのが。この監督は。好きこそものの上手なれ。上手です。素晴らしい。
そして相変わらず映像は美麗。
衝撃的なジャケット写真として採用されたその場面は、たいそう清らかで、おごそかな救済の力学まで見受けられ、大事にしたいと思った。


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次の記事に続きます。


2019年12月31日(火) 夢見るキリンの足を払う

あの到底受け入れがたい事件から5ヶ月あまりが経った。
今も全然受け入れられずにいる。
あれっきりアニメは観れていない。
被害者の方々を思えばただただ悲しくなる。
そろそろ個人的な惑乱については整理できるだろうか、おそるおそる試みてみる。

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ルール違反だ、

と思った。
子供じみた深刻さのない言葉選びだが、事件直後に僕を覆った実感はこの一語に凝縮される。ルール違反だ。
当然言うまでもなく、ルール違反どころではない。
理屈を並べ立てても理屈を抜きにしてもルール違反どころではない。
事実は小説よりも奇なりと言う。
当然だ。小説には、虚構の物語にはそれなりの縛りがある。
物語でやったら当然許されないようなくだらない展開を、現実は軽々しく実現してみせる。
だが一方で非現実には超越性がある。時空の尺度は無用だ。
たとえば、これまで描かれてきた数多の非現実の世界による人物の数を足してしまえば何兆人になるだろう。
「その星には人間が百兆人いた。」
これだけで今その数に百兆が足された勘定になる。
ところで現実にいる我々はその百兆人に手出しができるだろうか。
できなくはないだろう。
「…と思われたが勘違いだった。」
とでも一文足してしまえばいいのだ。
これがルール違反かと問えば、当たり前だと憤慨する層もあるだろうが、
フェアでないだけでルールには則っていると僕は思う。
非現実の世界に文法という手立てで干渉しているに過ぎず、秩序を乱してはいないからだ。
成文している時点で成立している。
しかし現実世界の全人類を皆殺しにでもしてしまえばどうだ、
創作者も観測者もいないのだから、このとき虚構の世界も死滅すると言えるだろう。
これが、ルール違反だ。
僕には思いつかないやり口だったけれど。

折しもあの時期僕は漫画の案を練っていた。
その漫画では、虚構と現実とを転倒させる手品を理論立てて仕掛けねばならず、
だけれどメタフィクションの手法には頼るわけにはいかず、
現象学やら、ウィトゲンシュタインやらの論法をこねくりまわして、
なんとかどうにか正当に越境できないものか、
昼には小難しい本とにらめっこ、夜には中高生向けの思想入門書を洗い直し、
あぁでもないこうでもないと大渦に溺れて、数日間煩悶としていた。
何に追われてもいない趣味の領域だけにいかにも楽しい戯れで、まったく一筋縄ではいかねえやと、お悩みを弾ませ蹴飛ばし転がしていた。
一瞬で木っ端微塵になった。

ああなんて無力なんだろうと思った。
非現実は現実よりも広大で、膨大で、強大であるはずなのに。
世界の摂理を容易くひっくり返せるはずであるのに。
現実世界からルールを違反されてしまえば無力化するのか。
そんなんありか。
悔しさで神経が焼き切れた。
ありなわけないだろう。
でもどうやらありえたらしい。

悔しくて悔しくてたまらない。
大半の趣味人の声に反し僕はいわゆる表現規制に異議をとなえるつもりはなく、
その考えの背景はさておき、極端なところ焚書でもなんでもしてみせろとすら言ってしまえる。
創作物なんて後ろめたいものだ。
であるのに絶えないところに尊厳がある。
砂にだって絵は描けるし、口が利ければ物語れる。
誰だって夢を見る、その夢を他の誰かと共有する術もある、
ありもしない夢を創出だってしてやれる。
どれだけ規制されようが、弾圧されようが、にらまれようが、
こけにされようが、ふみにじられようが、冒涜されようが、
忌まれようが貶められようが吊るしあげられようが、
物語は絶えず生み出されていく。
そう信仰していたから、悔しくて悔しくてたまらない。

整理しようと努めてみたところでなんの結論も導けはしなかった。
決して侵犯されえないはずの夢の世界だって聖域には程遠いのだと知れた。
悔しい。たぶんこれから先もずっと悔しい。


2016年05月08日(日) 踏切が叶える住みよい街づくり

隣町にいわゆる「あかずの踏切」というのがあって、
つかまる度に、さぞ周りも苛立っていることだろうと様子を伺うと
地元住民らしき方々はちっともじれていない。

当たり前だけど彼らはこの踏切に慣れきっている。
というか、馴染めない人間は淘汰されていくはずだ。
僕はせっかちの性分であるからそもそもこの街に住もうとすら思わない。
この街に住み続けているのは、
踏切に5分や10分待たされた程度で気分が乱されたりしない、
心にゆとりのある、おおらかな、優しい優しい、
洗練尽くされた紳士淑女だ。

そこに門外から、街の秩序をわきまえない僕のような粗忽者が現れるから
だんぜん話がややこしくなる。
こういうやつが踏切でひとり勝手に苛立って
全く罪もない前の人を突き押したりするんじゃないのかとすら思う。
心優しい住民が走る電車の餌食になるのだ。
しかしそんな事態になっても周りはなお慌てたりしない。なにせおおらかだ。
粗忽者はエイヤエイヤと次々に電車に向けて人を投げ込み続ける。
あかずの踏切はあかない。
みんなが笑ってる。
おひさまも笑ってる。
ルルルルル。今日もいい天気。


2016年03月13日(日) ガールズ&パンツァーについて一考

遅ればせながら、
このたびTVシリーズに加えOVAならびに劇場版までをいっきみしました。
すばらしかった。いいぞ。ってやつですね。

の一言で済ませてもいいんだけど自身の覚え書きもかねて、
個人的な見方を以下に記してみます。



とにもかくにも戦車道という題材が抜群に魅力的でした。
かねてより、戦争を扱った作品にはいちいち悲壮感だとか教訓だとかの
野暮ったらしい後ろめたさがつきものであるのに辟易してまして、
時代劇での「戦」がちっとも不謹慎でないのと同じ地平に立つには
あと何十年待てばよいものかと、僕はやさぐれていたのです。

戦争そのものは悲惨である、忌避すべきである、
肯定せざるべきものであるのは自明だとして、
「それはそれ」としてみれば、戦争には面白みのある要素が、
消費者を楽しませる娯楽的材料が盛りだくさんなんですよね。
それらはフィクションの作品で描かれる分には問題ないはずなんです。
だれも時代劇の戦を不謹慎だなんて叩きません。
SFも同様ですね。日本にあってはロボットアニメで顕著です。
しかしこれがWW2を扱ったとなると途端に大人たち、身構えてしまいます。
作品の送り手だけならまだしも、受け手にしてみても
「これを楽しんじゃっていいのかな」という気負いが発生してしまうものです。
ずっとそう縛られ続けているんです。


そこでガルパンです。戦車道です。
戦車といえば戦争の兵器である、
この連想はそうそう断ち切れないことでしょう。
しかし作中のセリフにもあるとおり、
「戦車道は戦争とは違う」のです。
殺傷のための剣術が武芸としての剣道へ化けたのとまるきり同じ論法で、
殺し合いからは切り離されて独立して、
一側面においてのみとはいえ大げさにいえば
「脱・戦後」を果たしているんです。すげえよ。
ガルパンには押し付けがましいメッセージなど皆無で、
物語は明るく健全で、キャラクターも前向きで、後ろめたさがまったくない。
その清澄さが、これまで余計な気負いに縛られていた人々の魂を解放してくれた、
フィクション作品のいちジャンルが自由な未来を歩める手続きを済ませてくれたのだと、
ごくごく個人的な小さくか細い声ながらも、偉大さを讃えたいわけです。


で。今後現れやすくなるのであろう「解放された作品」の最適な好例を、
ほかでもないガルパンそのものが、劇場版で示してくれた。
きもちよかった。びっくりした。
それだけでも泣きそうになるくらい感動したのです。


何より、以上の見方をまるごと全てのけても、ガルパンはすばらしい。
あの作品をかこむ全ての人間が好循環の幸福を楽しんでいるような、
そう見える現象もてつだって、ただひたすらに味わい尽くしています。


2015年04月09日(木) 垂涎

冬がきてる。
周囲は冬に戻っただのもう冬かだの
やんややんやしてるが僕はうろたえない。
わかっていたから。
これから先ずっと終わらない冬と付き合っていくのだと
はじめからわかっていたから。

/

身体の部位をひとつ増やせるとしたらどうだろう。
やはり目だろうか。
背後に視角とれたらあらゆる場面で有利だ。
しかしどこに…。どこにその目をつけたらいいのか…。
人の目に触れず、なおかつ視界は確保できるといったら
髪に隠した後頭部くらいしかないんじゃないか。
けど急所でもあるし。
美容院行こうものならカット中何度も指で押さえつけられてやばい。
悲鳴(×2)。そして店長呼ばれること必至。
ていうか美容院以前に寝れもしないか。
横になるやずっと目が潰されるわけで。
無理だ。目は。

前提に無理があった。
利き腕だってもう一本欲しいが隠せたもんじゃない。
脳だって欲しいが酸素供給量足りなくて結局脳死(×2)。
増やすんじゃなくてストックだな。必要なのは。
だったら頭蓋骨かな。
代替物としてじゃなくコレクションとして。
自分の頭蓋骨持ってたら超カッチョよくねぇ!?
考えただけでヨダレでちゃう。


2015年04月05日(日) 売and買

オークションしたことない。
オークションしてみたいし、されてみたい。

僕が壇上に登って値段つけられていく。
一度値段つけられたらそれよりもう下がらないってのが
幸福しか生まないシステムですよね。自信もらえる。
問題はどこまでを売るか。
魂まで売るのか。否か。
なんでもアリにしちゃうと競り落とされた挙句
犯罪行為に加担させられかねなかったり危険もいっぱい、
なにより折角人生を賭して値段つけてもらったのに
正しく自分が評価されてないようでよろしくない。
オークショナーに配布されるカタログに
「なにもしません」と予め銘打っておく必要がある。
あなたのためにはなにもしません。
食って寝て歌って踊って生活します。
それで値がつけられてこそでしょう。

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『夏の遊び』鑑賞。
おもしろかったあ…。
男と女の機微が機微のまま描かれていたり
誇張されて戯画式のメロドラマしてみたりで
ちっともシャープな切れ味なんか目指してなくって
ただただ模様を見せられた感じ。包み込まれた。
あと久しぶりに画面のなかの犬が邪魔じゃなく可愛らしいと思った。
エクセルサーガ以来かもしれない。

/

最近のACIDMANはどうなんかと
アルバム一枚かりてみたらひどかった。
目も当てられない。
もともとファンでもなんでもないけど
音の音のゆらぎにたゆたう緊張感だとか
単にメロディーの美しさとか面白さとか
子供だましながら曲調に上手く乗せてはあった言葉並びとか
なんやかやはすっかり影を潜めて
耳を讃えるは演奏一本かと思われきや
あろうことかオーケストラみたいな真似事まで…かんべんしてくれ…
2ndアルバムが好きです。というかほとんどそれしか聴いてない。
もう一枚くらいは借りてみようかな。


2015年04月04日(土) 冷蔵庫の開け方一つにも作為を込めるのだ

休むつもりで休んだ。
飯作って駅前出てスーパー行って帰宅。
夜散歩キメたらかんぺきだった。
曇天につき皆既月食は見れず。

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そういえばタコ焼き屋がオープンしたんだった。
もったいぶっただけにオープン直後は行列が絶えず
今ようやっと落ち着き始めたというのに
こちとら数日前の昼のトラウマでしばらくタコ焼き食べたくない。
というかタコ焼きをはじめとする口の中モッチャモッチャを避けたい。

/

レンタルコミックに手を出す。
ライアーゲームを借りて読んだ。
福本伸行のまだるっこしさを漉して
面白さだけを抽出したような化学調味料的うまみ。
プレイヤーの立ち回りに際しての
事務局勢による「おぉーっ」だとか「すごい」だとかの
素直なリアクションが楽しい。
事務局勢に感心してもらえるように書いてる気すらする。
きっと話作りのモチベーションになってる。
あれ読んだら日常生活の端々で
どこかからか監視している事務局勢を意識してしまい
いちいち感心されたくてしかたない。張りが出る。


2015年04月03日(金) シンメトリー

身体のバランスってたいせつ。
右脚に一生残る傷できたら
左足にも同じ傷をつけなければならない。
俺が山賊だった頃はそうして過ごしてたね。
ちょうど今ぐらいの春だったかな。
八日ぶりに麓まで降りてみたらさ、
国道すぐそばの垣根に物干し竿が落ちてたわけ。
おや、と思わず拾い上げてみたんだけど、重いの。
俺筋力には自信あったんよ。猪とか持ち運ぶからね。
それが猪より重いんだよ。
なんでかなーってよく見たら、竿の先端からワイヤーがのびててさ。
ワイヤーの先を目で追ってみたら土の下に埋もれてたのね。
あコレやばいって思って。
山で生き残るにはさ、やっぱり危険察知能力あるかないかだから。
コレは絶対やばいって思った。
咄嗟に落としたんだよ。手にとった物干し竿。
そしたら地面が揺れたの。
偶然にしてもできすぎなんだよ、
そのくらいぴったしのタイミングで地震起きたの。
けっこう揺れたよね。
でも国道バンバン車走ってるから、垣根から落ちたら危ないじゃない。
俺そんときの見た目いかにも山賊でございって格好だしさ。
車に轢かれなくっても危ないよ。うかつに人目に触れたら。
だからしがみついたの俺。落とした物干し竿に。
地面は傾斜もなかったしさ。
これだけ重けりゃ大丈夫かなって。安易だよね。
案の定ワイヤーの先が引っ張り出されてさ。
重いわけだよ。土の中に金塊埋まってたの。
パニックなったなー。
地震続いてるわ落ちそうだわ金塊発見しちゃったわで。
なりふり構わず叫んじゃったもん。
でも頭のなかどっか冷静でさ、ほら危険察知能力働いたの。
これ誰かが隠したものじゃない、
山の神様のものだって。直感的にね。
手元に寄せたらヤバイ!って。
で、もっかい落としたわけ。
そしたら地震止んだから、あーよかったーって安心して、
ふっ、て振り返ったらいるんだよ。ヤマンバみたいのが。
包丁なんか持ってないよ。物干し竿持ってるの。
ウワッてたまげて、
俺が取ったり落としたりしてた物干し竿もう一度見たらさ、
片方の先端のワイヤーは金塊と繋がってるけど
もう片方からもワイヤーのびてて、
そっちはヤマンバの持ってる物干し竿と繋がってたわけ。
で、もう頭んなかぐっちゃぐちゃなんだけど
気づいたらヤマンバ目の前にまで来ててさ。
顔になんか見覚えあるの。
そいつ8日前に俺が襲ったやつだったんだよ。
ちょうど目の前の国道で、
車エンスト起こしてるところを派手に脅かしてみたら
荷物置き去りに逃げてったから、
こういうやつのおかげで俺食えてるんだよなーって、
もう一回会ったら感謝してやりたいくらいだなーって思ってたの。
俺もう声も出なかったよ。なんにも身動き出来なかった。
ヤマンバは動けない俺の口元に飴つっこんできてさ。
その飴がね、これまたワイヤーに繋がれてて。
いま考えるとどうやって繋がってたのかわかんない、
でもたしかに飴にはワイヤー垂れ下がってて、
ヤマンバの物干し竿のもう片方に繋がれてた。
んで顎をバン! って閉じられて、後頭部はたかれて、
飴玉飲み込んじゃったのよ。
そのままヤマンバは何も言わず立ち去って、俺、動けない。
叫べもしないよ。這いつくばってるしかないの。
っつってももうヤマンバもいないしさ。
動けないったって、飴玉が胃液で溶けるの待ってればいいんだよ。
一時間くらいかなー。時計ないから適当に待って、
そろそろかなって、口からワイヤー引っ張り出してみたのよ。
わりとあっさり抜けたんだよね。拍子抜けするくらい。
でもワイヤーはワイヤーじゃなかった。
鋼線に見えるだけで、幾重にも織り込まれた白髪だったの。
物干し竿も物干し竿じゃなかった。
なんかのでっかい動物の骨みたいなさ。ぶっといの。
今更怖さとかはなくってさ。
むしろ段々怒りが湧いてきてさ。
あのばばぁ手の込んだ悪戯しやがってって、
やる気まんまんだったよ。
こんなもんでびびってて山賊やってられるか。
金塊も俺のもんだ。
ちょっと重いだけで、落ち着いてみれば十分運べる荷物だから。
どうせだったら骨に括りつけてあるままの方が運びやすいし
引き摺る要領で持ち帰ろうとしたんだよね。
で下見たら飴玉落ちてる。たくさん落ちてる。
ずーっと先まで続いてるから、
これ辿ったらばばぁに会えるの間違いないじゃん。
金塊引き摺って追ったよ。
俺も職業柄強欲なところあるからね。金も復讐も諦めない。
だけど10歩も進んだ時点でまた地震だよ。今度はこけた。
こけて、目の前の飴玉アップで見るとね、やけに小っちゃいの。
しかもドロドロ。まるで溶けかけみたいなさ。
次の飴玉も次の飴玉もそう。
振り返ったら二本だったはずの骨も十数本に増えてるの。
なんかだんだんわかってきちゃったよねー。
あっというまに体が重くなってきて、息は止まって、
そのままゆっくり土に沈んでったよ。


2015年04月02日(木) 桜の季節

昼に靖国神社に行った。
ドネルゲバブと、あと連れが買った広島焼きと
焼きそばとタコ焼きをたいらげた。
食べてるときはワーイだったけど
考えてみると全部小麦粉だし
広島焼きって焼きそばとタコ焼き合わせたような食べ物だしで
後半だいぶ辛かった。

桜は綺麗だったようなそうでもなかったような。
そうでもなかったな。
そうでもなかった。
あの雰囲気に惑わされるんだよな。
しかし人はあの雰囲気に惑わされに行くんだ。とうとい。

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スーパーの食品が値上がりしたらしい。
ニュースで見たから間違いない。
が実際スーパーに行ってみると値上がりを実感できなかった。
はじめだけ頑張ってるんだろうか…
ウチの店は屈してませんから的な?
なにしろニュースで見たから絶対値上がりしてるはずなのに
あれもこれも全然値段変わってないんだものニュースで見たのに。
納得できないよ。

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ユリ熊嵐終了。
壮大な百合の話だった。
ピンポイント22歳向けのアニメだと思う。


2015年04月01日(水) 判定文

序文
 本文書は、2014年12月に応酬された手紙の一通目送り主(以下先手)と受取人(以下後手)の約4週間に及ぶやりとりから、どちらに優勢が認められたかによる勝敗の判定とその論拠を述べるものである。なお本文執筆者は判定人と呼ぶ。


定義
 まず何をもって勝敗を分かつかを定義する。そもそも手紙の応酬に勝ち負けを持ち込もうなどとは尋常ならざる所業であるが、先手による手紙一通目の送致これ自体が余人には解し難い逸脱行為であった。手紙を送るとは一般に、情報伝達・用件の明示・所信の開陳等を目的として宛名もとへ送達する行為であり、すなわち宛名に記される貰い手の存在が不可欠である。しかしながら本件では、先手はほぼ他人の立場である後手へ、自らの身分を明らかにしないまま、かつは先方の社会的人格を看過し、剰え第三者にまつわる挿話を主軸に文をしたためた。返す刀の後手もこれに倣い、同じく自らの身分については触れずに応えた。斯くして互いの存在を虚像に据えたまま、手紙は送受されたのである。ここには、本来手紙のやりとりというコミットを成立させるための人格の了解が一切なされていない。あるいは隠されている。後手は返信において先手の人格を暴くかのごとく分析を重ねてはいるが、それも後手が書き示したとおりあくまで仮初虚構の人工的人格であり、先手の存在を決定するものではない。したがってこれらの手紙を支配する主体は対象の某かとはなりえず、常に書き手の自意識そのものである。したためられた文は自意識の延長である。そこでは文意は足場なく虚構の域を逸しえず、文体のみが実体を証明する手がかりである。したがって文意はその諷示または徴候に限るとみなし、自意識の拡張がより滑らかである方を強盛、および文体の妥当性および均一性がより整っている方を優勢として、以上を判定の基準と定義する。

細評
<一通目>
 先手による手紙。冷蔵庫の暗喩から手紙を送りつける動機付けを述べたのち、残る記述のほとんどを問わず語りの挿話が占めている。これを以て「フィクションです」の一言にまとめあげ、前文を浚い、対象を顧み、幽霊と名付けて結んでいる。それらはさも平叙されているかのような筆運びであるが、文勢は情操が豊かに、言い換えれば感情的に修飾してあり、訴えの色彩を強めている。
 結びにサルトルを呼び出してある通り、全体像として「実存」の観念を抽出している様態である。彼の思想の要軸、「実存は本質に先立つ」を真っ向から鵜呑みにすれば、先手の主題の一つ「私は何者であるか」への答えは、本質を未来に投企し……と机上の哲学的言辞を導けるのであるが、「人が物を消費するとき、人は物に消費されます。」の一文から、それで甘んじない心構えがよく現れている。
 近代思想はデカルトによるコギトの題目から自我を発見し、歩み始めたとされる。しかしデカルトの思考体系にはなお中世的教会信奉の支配が根強く、主体とは魂と換言できた。その形而上学をカントは「実体論的誤謬推理」と批判したのである。これは主体の在処を特定するものでこそなかったが、探るにあたって有力な道筋を示した。つまるところ、思考とは言語の縛りから脱し得ない文法上の仮象である。文法上に主語および人称が現れたといって、イコール実体とはならない。カントによれば自我の実体とは不可知のものである。一方サルトルは、<自我が、形相的にも質料的にも意識の内部にはないということ>(『自我の超越』より)、即ち自我とは意識の外の「ある意識にとっての対象」だと説いた。
先手にとって、「自部屋の諸々の物品」は「私の"意識される"成分」であり、「私そのもの」なくして不在のままただ「扉が開けられた」のである。「私」は形而上の領分を肯んぜず、血の気の通った、ナマの、有機的な止揚を要求している。

<二通目>
 後手による手紙。先手への牽制から始まり挑発に終わる。自身について一切触れない一方、その正体に接近させる仕掛けは行間の端々に見て取れる。分析され得る余地を自ずから披露せしめ、探りの手法を教示することで却って手管の広がりを縛り、後手の頭脳を支配しようとする腹は、隠されるまででもなく寧ろこれ見よがしに埋め込まれていよう。
先手の手紙に対してはその文に旺盛であった情操を嘲るかのごとく、息を荒らすことなく冷静に見つめており、尚且つ極めて意識的に、客観的観察による分析論というより主観的目撃による印象論に基づき、幽霊の襟ぐりを掴むことに成功している。まさしく主観の力によってのみ達成しうる越境である。奇しくも彼岸の渡り賃は三通目にて先手も指摘するところの批点と化して、いわば不良債権を負ってもしまうことになるのだが、これは後に詳述する。
 さて、文意に着目すると、先手のバルネラビリティと四つに組み、難詰している格好である。冷蔵庫の扉の例えを引き取って、最奥部に「私」の潜伏を発見していると暴きだす。「私そのもの」は手紙の上に文によって象られたという。いわゆる自己紹介に類するような明文化なぞなくとも、言葉の連なりに「私そのもの」は現れているのだと。これはまさしくドイツの文学研究者ヴォルフガング・イーザーの述べるように<語られた言葉は、語られぬままになっていることに結び付けられて、初めて言葉としての意味をもつように思える。だが語られなかった言葉は、語られた言葉のもつ含意であって、意味に形や重みを与える言述ではない。ところが、語られなかったことが読者の想像力の中で生み出されるようになると、語られた言葉は、初めに想像したよりも遥かに大きな意味の幅をおびてくる。>(『行為としての読書』)のであって、後手の想像力が、文の上の「私」を膨らませ、「己が脳内の他人」として巣を与えたのである。流動的な自我、浮動的な意識と比して、今ここに想像力は一定の方向性をもつ無尽蔵の動力源として十全に一大勢力である。その想像力を以てして、「Eは」「Sは」とのべつ幕なしまくしたてる。
 極めつけが添付の似顔絵で、オブセッションの成れの果てとも印象づけられる、いかにもおどろおどろしいタッチでの描画である。言語作用を糸口に想像力の竿で釣り上げた獲物を俎上に乗せてみせたかの如きこの一枚は、しかし逆説的に観念を開放している。「返事は要りません」とは、後手はもはや土俵を想像力の領分に限定し、意識の交流の断絶を図っているのであるが、なおも手紙を受け取り読む主体の存在を否定してはいない。なればこそ観念を閉じ込めるのならば、絵に具現させてはならない。というのも、目に見える形に落としては想像力の射程を限局させてしまい、それは新たな観念を呼び起こす。主体の存在自体を肯定するがゆえに「己が脳内」に硬直させておくべきであったひとつの実体は、姿を得て次なる手紙の発送を見つめ出した。

<三通目>
 先手による手紙。テロルの告白。自らを台風の仕掛け人と称し、後手による手紙を復讐と名付ける。後手の筆勢を狂言とみなし、私についてなどでなく貴方のことを書き綴れ、どうにかして私の感情を揺さぶれと宣う。一通目よりも情操は加速して、理念理屈を敢えて捨て置き、あるがまま自我の領土を保守している。
 「世界はとても美しい。そこに私はいません」より後に語られる夢想劇は、デリダの唱えるロゴス中心主義の極北である。ロゴスとは古代ギリシャにおいての論理や理性や言語の統一表現である。西欧形而上学では日常世界に潜む絶対的真理はロゴスによって支配されているという前提に永らく立ってきた。その前提への批判は20世紀になって漸く求められ、名だたる傑物が克服に寄与している。深淵のくだりの発言者であるニーチェの「神は死んだ」にしても、キリスト教における神を中心とした価値観から脱し、相対的な真理を探ろうとする号令である。だが先手の続く文言は、ロゴスそのもの、神そのものへの昇華を訴えている。「心は自由です」とは神の体感にほかならない。ここでいう神とは超越者でもなく創造主でもなく、絶対者でも全能者でも定言命法の主体でも不可知の象徴でも精霊でもなく、強いて挙げるなら梵我一如と呼ばれる到達点である。客体としての宇宙の根本原理は、自我の気息と一体化したとき、もはや「死」せることはない。ロゴスの限界は、神への昇華によって止揚された。「目に見えるもの」とは神の庭であり、「目に見えるものだけが全て」とは庭先から神の意識を汲み取るなという法律である。したがって「復讐は貴方が行うものではありません。私が行うものです。」より続く文句は、侮辱されたロゴスを引き合いにしての制裁、報復、意趣返しの段取りの総括である。想像力との絶縁、神との通電。自我と意識への回帰。一通目に埋め込まれていた、ナマの命題への再訴求。「貴方と私は非常によく似ている」のならば、「貴方にとっては幽霊の、私にとっては神の私」のとき「私にとっては幽霊の、貴方にとっては神の貴方」であるはずだ。先手がしたいのは幽霊の与太話ではなく神の証明である。その手続きが「貴方のドラマ、物語」の叙述ではないのか。世界にいない私とただ私でしかない私の相克は、日常から足を踏み外したところで、言葉遊びに興じている。台風の暴風圏に片足だけしか置いていない後手への「狂って」という叫びは悲しみに満ちている。 

<四通目>
 後手による手紙。詩情の宴。物語仕立てのシークエンスが続き、語りを引き受けた締めは先手への論駁で構成されている。先手の要求に則っての語りは二通目の文体と打って変わって情感に満ちている。論駁は二通目の文勢と似通ってはいても、しかし五枚に渡る語りが前口上の機能を果たして、言葉の重みが躍動に溢れ生き生きと伝わる。
 「夕子と麻菜」の物語は先手にとっては主題たりうるが後手にとっては前置きに過ぎない。あくまで向き合う相手は手紙の受け取り主であって、自己ではない。この皮肉の構造はアイロニーよりもサーカスムに近く、自分語りに枚数を割いているだけに効果的である。論及の焦点は「真実」である。虚構と対置してのそれは、後手によれば「語り継ぐ類いにおいて」「証明不可能であり」「しかし人は追い求めもしてしまう」ものである。観測対象となる真実は手垢(それは例え中身が空であろうとも!)の付着を免れえず、認識は判断に制御され、ここに虚構と同位の像を結ぶ。如何に肉薄しようとも辿り着けない真実は、虚構とトートロジーであって、疑念は意を為さないのだと。後手は尚も畳み掛ける。虚構の扱いについての指南は、自身の二通目の手口を自ずから明示して実践を促している。幽霊は幽霊でしかない。虚構かもしれない「私」も「貴方」も共存できるのなら日常もまた破壊され得ない。先手の企図を圧倒しているようである。
 結びは肉感で締められている。二通目の、言語から逸脱して描画した絵は想像力の視覚的産物であった。今回は産物ではなく現物への触覚作用である。「舐める」「触れる」といった行動についての記述は無論後手が直前に言及している「嘘」の見方への演習であるが、それ以上に、確実に現存する紙とインクに着目した点こそが返す刀の骨頂である。ここまで意識や認識といった実体の不確かな概念ばかりを取り沙汰してきた挙句の、言うなればロゴスの圏外への脱出である(当然方法的懐疑論などを持ち込めば触覚も認識の一つに過ぎない故に非確実性は否めないが、手紙に現出するものだけに単位を特定して論ずる当文ではこれに触れない)。更にはことの発端となる「部屋の物色」にも回帰する。主体により知覚されれば即時その媒体は無数の糸口を放つのだと、正気と狂気を横断する後手の息遣いには乱れがない。

判定
 先手と後手には度々論点に齟齬がみられる。解釈の仕様もあれば故意の感もある。三通目四通目は、それぞれ一通目二通目の補いともいえる。目を見張るべきはやはり自意識の喝采で、互いなりのすべで「貴方」を摘出しながら「私」に闖入させはしなかった。だが、先手の「貴方への希望」(三通目)をみごと正面から受けきってなお自意識を保った後手(四通目)には分があるといえよう。文体は三通目まで先手優勢であった。情操と論理のせめぎ合いが反立せず文の外に差し置かれている安定はロラン・バルトのいう<テクストそのものを自由に解釈する快楽>を満たすものであったし、それでいて解釈の余地を許さぬ意志的断定は文脈に担保されていた。ただ後手の四通目は先手の詩情を横領する如き筆勢であった。五通目以降がないからには、この一通の文体強度は先の三通に相当するとみて、分けとみなす。
 以上をもって、判定の基準と照らし合わせ、後手の勝ちとする。

/

昨年末に恋人が、会ったこともない僕の同僚に手紙を充てて
これまた同僚が返事をしたものだから勝負っぽくなってしまい
僕が勝敗を判定する係となったのだった。
で、だいぶ遅れたものの判定の文を書き上げた。
双方から「何を書いてるのかわからない」と言われた。
何を書いてるのかわからないのはだめだと思う。
何を書いてるのかはわかるように書くべきだった。


れどれ |MAIL