世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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さっき、書きかけのままになっていたテキストをアップしました。 実に9月末日のやつだった。いやはや。
今日は仕事納めで(って、大晦日ですが;)7時半ごろ帰宅して蕎麦を作って食べました。 元旦と二日は休みなので、9月以降読んだ本のことをアップしようと思います。秋以降はけっこう続けて読みましたよ。15冊くらい?
先週、辻邦生「安土往還記」を読み終えて、近所の古本屋で三島由紀夫の豊穣の海四部作、文庫本で四冊ひもでくくって1050円だったのを買ってきて読み始めたところ。 そういえば、三島由紀夫って出生時刻がはっきりわかっているのですね。ネットで調べたら出てきた。しかも太陽星座、山羊座だった。意外(盲点でした)。 ホロスコープ作って読んでいたら、ドキドキするやらせつないやらで、長時間続けて読むのは無理でした。
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今年は、本当の意味でターニングポイントになった年。来年は勝負の年になると思うけれど、大切なのは、生きていて楽しいかどうかだと思った。 勝負なんていっても、生きていくために避けられない勝負のときもある、という意味の勝負でありまして。
欲望には忠実に。出来る限り嫌いなことはせずにすむよう、やっと正しく自分本位に生き始めた年でした、今年は。 それでは、みなさん良いお年をお迎えください。 新しい年も、よろしくお願いいたします。
いつまでも暑くて、やたら台風がきたこの9月。 15、16、17日の三日間、アメリカ人の心理占星術の先生の来日セミナーを受講した。
二日目、三日目とも朝、ものすごい雨と風。傘なんか全然役に立たない。 駅まで行くのも一苦労だけど、電車が動いているのか遅れはどうなのかなどなど受講以前から大変なことだった。
ところで、私はこのセミナーを一年以上前から楽しみにしていたのだけれど、それと同時にかすかな不安も感じていた。 それは、先生との相性。私はひとの好き嫌いが激しくて、特に先生(絶対的な存在)には小うるさく人格を求めるようなところがあるのだ。 自分で書いていても嫌な奴、そして、なんて子どもなんだ、と思う。
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占星術では修行や弟子入りは8ハウス案件といわれていて、この8ハウスというのは、一般的に「変容」や「死と再生」に関係するなどともいわれ、理解するのが難しい。
要するに、いちげんさんお断りで誰でも簡単に出入りできるわけではなく、さらに自分一人の思い通りにならない場所、自分ではなく他人のもの、ヒエラルキー(地位の高低をあらわす階層構造)等々はみーんな8ハウス。「下駄をあずける」という日本語があるけれども、いったんは自分を捨ててそこの掟に従う、そうすることで何かを得る場所が8ハウス。
だから、大企業も裁判も結婚/離婚問題も、さらにはセックスも(!)、全部8ハウス案件なのですよ。
そして。私は8ハウス問題を抱えている(8ハウスべた)という自覚が、少しまえからあった。なにしろ「下駄をあずける」のが下手。なので大きなものと衝突することになる。だってそこは元々私の場所(もの)じゃないんだから、戦っても、そして仮に勝てたとしても、結局あちこちに痛みが残るのはこちらなのにね。
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そういう8ベタ(←略した!)としては、直感的に不安を感じないこともない来日セミナーだったのだけど、その私の背中を、それならなおのこと、ぜーったいに行くべし!と押してくれたのが内田樹「死者と他者 ラカンによるレヴィナス」に出てくる、レヴィナスと彼のユダヤ教の師匠シュシャーニ師をめぐるエピソード。
ユダヤ教では、師を持たない独学者にはタルムード(教典)の解釈が許されていないそうで、「死者と他者」にはその理由について、次のように書かれている。
“独学者は己の声ひとつしか知らない。声と声が輻輳するときに初めて欲望が生成することを知らない。だから独学者はすべてを既知に還元し、テクストの意味を残りくまなく明らかにし、聖句に「正解」をあてがい、解釈の運動を停止させ、タルムードに「最終的解決」をもたらすことになる。独学者は呪われなければならない”
…だから、学ぶものは師を選び、下駄をあずけ倒す。レヴィナスは自分の師であったシュシャーニ師を回想して「ごく普通の人間たちの基準からすると、浮浪者に似ていなくもありませんでした」と語ったそうだが、その老人を恐るべき知者とみなすものにとって老人は恐るべき知者であり、浮浪者とみなすものにとっては浮浪者にすぎない、と、内田樹は言うのだ。
読んだ当初、痛いところを突かれたという気持ちはあった。そしてその痛い記憶がよみがえってきて、再読再思。結果、黙ってゲタ預ければいいじゃん!だって、たったの三日間でしょ!!ということになったのだった。
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優秀な通訳さん付きのセミナー第一日目を終えた夜は、脳みそパンパンで、疲れているのに寝付けないという状態に。 また予想通り、私の中の反抗心も、抑えても抑えても頭をもたげてきて、むーん、やっぱり!だったのだが、こうこなくちゃ勉強にならないし、成長もないですもんね。
そんなこんなで、結果的にはすごく良い経験ができた。占星術のことはもちろん、下駄の預け方や、自意識の持ち方やなにかについて。お高いセミナーで金銭的には目から脂汗がでたけど、行って正解だった。
しかしさ、独学者は呪われなければならない、て。 このメッセージの捨て身さ加減ときたらちょいと凄いじゃありませんか。 この捨て身に救われたんだな。内田さん、さんきゅー!!
| 2013年09月23日(月) |
ひとはそれを「政治」と呼ぶ |
矢作俊彦の「ロンググッドバイ」ですっかりいい気分になって、同じ作家の「悲劇週間」と「ららら、科学の子」を買ってあったのだった。続けて「悲劇週間」を読みかけたのだけれど、いつもの矢作作品とは調子も雰囲気も違っていたので、いったん後まわしにして「ららら、科学の子」を手に取った。
これは七十年代、学生運動の季節に、少しばかり考えが足りなかったがために警官を殺しそうになって、文化大革命下の中国へ逃げた(密出国した)男が、三十年の時を経て密入国の形で帰ってくるという話。 この主人公は長年、骨身に沁みこむような辛苦の日々を国外で暮しながら、パスポートもなければ飛行機に乗ったこともなく(!)、生まれた国へ帰っても長年の行方不明という理由から戸籍抹消されている。 携帯電話が鳴っても、それが何なのか、どういうことなのか、わからない。 リアル浦島太郎なのである。
いまや中年となり果てたこの男は、あのとき、あまりにも不注意だったのだ。この世の中に、目には見えないけれども厳然と存在する力学を甘くみてしまった。ひとはこの力学のことを「政治」と呼ぶのだろう。 広義の政治は、永田町や政治家とその周辺にある力学だけを指すのではない。職場や身近な人間関係の中、いわゆる「世間」のなかに不可侵の力学として「政治」の網は張り巡らされている。賢い人間というものは、意識的であれ無意識であれ、普通、その力学とは戦わない。正面から対決するのではなく、力の流れ方をみて「対処」するのである。
読みながらずっと、主人公の不注意、愚かさ、かなしさを、我がこととして感じずにはいられなかった。私が甘くみたものの正体を、この小説を通してはっきりと知ったと言っていい。これまで何度も読後感として「ビタースイート」という言葉をつかってきたけれど、これはそんなこじゃれた言葉では間に合わない。これほど舌に苦い読書があったとは。普通に本を読んで得られる経験を超えているよ…
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ところで、このまえ、矢作俊彦の「ロンググッドバイ」を読み終えるやいなや、その舞台である横浜と数十年ぶりに縁ができたと書いた。一度、横浜へ出かけたいと思っていたら横浜の方(横浜でお店を経営している女性)からお声がかかったのだ。
それだけでもびっくりなのに、この「ららら、科学の子」の主人公が密入国で三十年ぶりに帰ってくるのが、世田谷! 私は去年の春、長い間の念願かなって生まれてから五歳までを過ごした世田谷区へほぼ半世紀ぶりに転居して戻ったばかりなのだ。
「ららら、科学の子」の主人公は、みつからないように注意しながら実家がいまどうなっているのかを確かめに行く。小説の主人公が、実際に私が住んでいる場所の「近所を歩いている」という感覚。 さらに主人公が松陰神社のそばの世田谷区役所へ自分の戸籍がどうなっているのか調べにいくくだりを読むにいたって、なんだかクラクラしてしまった。去年、転居時に転入届と戸籍の移動のために、自分も同じ場所へ行ったときのことを思い出したのだ。
救いがあるのかないのか良くわからない小説だけれど、書かれてから十年後のいま読むからこそ、単純なハッピーエンドなんかあるわけないし、ひとからどう見られようと自分の人生の主人公である自分だけに、人生の分岐点における決定権があるのだということがよくわかる。
刊行時点でかなり評価の高かった小説と記憶しているけれど、当時の自分にはいまのような理解はできなかったと思う。あらゆる意味で、奇跡的に、ベストのタイミングで読むことのできた矢作作品。
矢作俊彦「ロンググッドバイ」という小説のことと、読後に起きたことについて書いておきます。
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昔は好きだったり、素晴らしいと思っていたものが、時を経て姿を変えたときに、それでもまだ変わらず好きだ、素晴らしいと思えることはまれだ。このごろとみに「悪く言う気にはなれない」から静かに目を伏せ、口をつぐむことが多くなった。
にもかかわらず、矢作俊彦の描く横浜はなぜ今も、特別な魅力を放ち続けているのだろうか。横浜のみならず、往事の活気を失った横須賀ドブ板通りでさえも、彼の物語の中では特別な空気、それでもここでは余所では起こらないことが起こる場所なのだと思わせる特別な空気に包まれている。
これはおそらく作家の脳の仕組みにかかわる話なのだろう。世の中をどのように認識するかということに関しては、人間は持ってうまれた自分の脳みそのパターンの奴隷なのではないかと、私はそう思っている。つまり、矢作俊彦にとって世界(横浜、横須賀)はこのようにしか見えないのだろうな、と。トシちゃんのロマンチック脳炸裂。
ところが、困ったことに(幸いにして?)私も負けず劣らずのロマンチック脳ホルダーでございましてね。すっかりワクワク、物語を楽しみ尽くしたあとで、これは一度ヨコハマへ行かねばでしょう!という気持ちになってしまった。横浜は長く住んだり勤めたりした場所だけれど、みなとみらい地区が出来上がりかけたころから疎遠になって、今のヨコハマのことはほとんど知らない。
それで、物語のラストシーン近く、母親の捜索を依頼した海鈴(若くて美しいバイオリニスト)が野外コンサートをするランドマークタワー脇のドックヤードガーデンあたりを一日散歩しに行ってみるか、と思っていた折も折、某所から仕事の依頼メール。そのメールには「×××プラザ×階のお店に出ていただけませんか。いえ、ぜひいらしていただきたいのです」と書いてあった。
…ちょっと待て、その×××プラザって、ドックヤードガーデンに隣接して建っている商業ビルとちがいますか。おい、おい、なんだこれ、おい!!
というわけで、いまでは月に6日ばかり湘南新宿ライン(こんな便利な電車むかしはなかったな)に乗って桜木町まで通っている。 海をバックにたつ大きな観覧車と、日本丸の帆柱を動く歩道の上から眺めながら、晴れでも雨でも、朝でも夜でも、絵になる眺めだなあと感心してしまう。
これで仕事がうまくお金に結び付くともっといいんだけど…、それは矢作俊彦「ロンググッドバイ」とは関係のないことでございましたね。
今日は久しぶりに買い物をした。 米や生姜も買ったけど、買い物というのはそのことじゃなくて口紅。
思えばこの夏は口紅も日焼け止めも買わないうちに過ぎていった。 口紅がなくなったのはたしか5月頃ではなかったかと思うのだが、メンソレータムのリップクリームでも全然いけるじゃんと思っているうちに数カ月が過ぎてしまった。
日焼け止めも、化粧下地にSPF15という表示があって、実際に太陽に当たるのは一日のうち自転車で駅までいく10分足らずがほとんどなのだから、なくてもそんなに困らなかった。
そのかわりと言ってはなんだけど、白ワインはたくさん飲んだなあ。 もう馬鹿みたいに暑くて、飲まなくちゃやってられなかった。で、ゲヴュルツだのソアヴェだのあれこれ飲んで、美味しかったのはお客さんにすすめて、たくさん売った。
ソアヴェは安ワイン(千円ワイン)みたい思われてるけど、丁寧につくられたものはめっちゃ旨い。千円でも美味しいけれど、千三百円を超えると旨さのレベルが一段階上がる。二千円以上なら至福の時が味わえる。
でも、もう(というか、やっとというべきか)日中の気温も27、8度になって秋の気配が濃くなった。これで、普通に食べられて、よく眠れるようになると思ったら、急に口紅がほしくなった。いったんそうなると、凄くほしい、いますぐほしい!となったのが面白かった。
数ヵ月ぶりに気に入った色の口紅を買って、サッカー日本代表もガーナに逆転勝ちして、ちょっと良い日だったな、きょうは。
朝起きてテレビをつけてみたら、東京五輪、決定していた。 東京開催の五輪、私は二度目だ。1964年のときも世田谷にいた。 選手村で外国人に抱っこされている写真(父が撮った)がある。 半世紀も生きているといろんなことがあるなあ。
首相は誘致を成功させたい一心で、んまあ、思い切った発言を。これで、自国民のみならず、全世界に言質とられたわけで。 もう発言以前には戻れない。このまま言いっ放しにはできない責任が生じましたね。
占星術の世界では、現在はトランスサタニアン時代の真っ最中。世界的に社会システムの書き替え期だそうだけれど、東京五輪は書き替え後の世界に明るさをもたらすものであってほしい。
でもなあ。私が何より気になるのは地震。首都圏に直下型の大地震が必ず来ると言われていて、でもそれがいつなのかはわからない。 わが家の玄関には、五輪開催の有無にかかわらず、以前から非常持ち出し用のリュックサックが置いてある。
これから五輪開催までの7年の間に、どのタイミングで大地震が来たとしてもあらゆる意味でかなり困ったことになると思うのだけど。 その件については国内外のみなさんはどのように考えたのだろうか。
| 2013年08月26日(月) |
2013年8月に読んだ本 |
本を読む習慣が静かに、少しずつ戻ってきた。 経済的な理由から新規購入は極力ひかえ、忙しかったころに買って、持ち歩きに不便という理由から長らく積ん読になっていたハードカヴァーを読んだりしていた。 それがなかなか楽しくて、矢作俊彦の「港の永爾ヨコハマ、ヨコスカ」なんか寝食忘れるくらい夢中になってしまった。酷暑のワクワク本4冊。
「異国の客」 池澤夏樹(集英社文庫)
池澤夏樹が家族を連れてフランス、フォンテーヌブローに住んでいた間の覚書的著作のうち、最初の一年間の報告書が「異国の客」、その後の二年半をまとめたのがこの前に読んだ「セーヌの川辺」。読む順番が逆になってしまった。 その「セーヌの川辺」が問題提起に満ちた、ややしかめつらしい内容だったのに比べ、こちらは新しい暮らしの新鮮な楽しさをストレートに伝えていて楽しかった。
ところで「セーヌの川辺」には清水徹という人があとがきを書いていて、この清水さんというひとがどういう人なのかわからない。あ、バレリーナの…と思ってから、それは清水哲太郎さんの間違いだと気がついたり。ネットで調べればすぐにわかるだろうに、なんとなくそのままにしていたある日、エアコンの付け替え業者さんがやってきたのだった。そして工事が終わりお茶も飲み終わり、部屋を出る段になって、壁の書棚の前に立ってじーっと一点を見つめていたのですね。
私はなんとなくもじもじしてしまった。おじさんの見ているのがちょっと恥ずかしいタイトルの本の背表紙だったりしたらどうしようと思って。たとえば「おとこくらべ(嵐山光三郎)」とか「ホモセクシュアルの世界史(海野弘)」とか…。それで、業者さんを玄関まで見送ったあとでおじさんの見ていたあたりを確認してみると、そこにはみすず書房刊「吉田健一 友と書物と (清水徹 編)」というアンソロジーの背表紙が。
おじさんがその一冊の背表紙をガン見していたのかどうかは定かでないけれど、おかげで清水徹さんが仏文学者であることがわかったのだった。まさか、自分の家の中に清水さんの編著があったとは(しかも吉田本の)。あー、びっくりした!
「僕はいかにして指揮者になったのか」 佐渡裕(新潮文庫)
レナード・バーンスタインと小澤征爾を師にもつ指揮者、佐渡裕の自叙伝です。指揮者として正式な教育を受けていない、自称「雑草」、謎の新人が海外のコンクールに勝ち抜いて世界的な指揮者へ近づいていくストーリーにワクワク。やっぱり世界で活躍するようになるひとは、そこへ至るまでの決断と行動力がすごい。
それと、バーンスタインとの師弟関係について書かれた部分が面白かった。世界的なマイスターに対する、無名の佐渡裕の意地と根性。ただ技術的に優れた「良い弟子」であるだけではだめなのだな云々。色々と考えさせられたのでありました。
「三島由紀夫 神の影法師」 田中美代子(新潮社)
意図したわけではなかったけれど、あともう少しで読み終わるというタイミングで終戦の日が来てしまったのだった。今年のその時期、なぜ戦中派は8月15日を「終戦」ではなく「敗戦」と呼ぶのかということを考えていて、なぜなら、死んだ父親も「終戦」という言葉をつかったことがなく必ず「敗戦」という言葉をつかっていたから。
そして今年、この三島に関する本やなにかを読んだりしながらひとつわかったのは、戦の勝ち負けにこだわって(アメリカに負けたから)「敗戦」なのではない、それは、天皇がある日を境に「人間」になったことと関係があるのではないか?ということだった。三島に関する本を読むと、どうしてもこのあたりをウロウロすることになる。気がつくと必要以上にシリアスになっちゃってたりして困るな。
この著者の書いた本で、読み物として面白かったのは「小説の悪魔 鴎外と茉莉」の方だけれど、これは、三島関係本となるとシリアスになり過ぎてしまう読み手側の問題なのかもしれない。
それから、この本を読んでいるあいだ中、ずっと頭の一部で響いている声があって、それは「三島の貰わなかったノーベル文学賞をどうして村上春樹が貰えるわけがあるんだよ」という自分の声なのだった。こいつがなかなかうるさくて、閉口した。
「ロング・グッドバイ」 矢作俊彦(角川書店)
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