プラチナブルー ///目次前話

ウィンクと裏拳
April,24 2045

11:25 ローゼンバーグ総合大学 試合会場


「汚い真似しやがって…」

ブラッドが怒りまかせた勢いでその場で立ちあがると、左に座っている男の胸倉を掴んだ。
すぐさま壁際に座っていた係員達が卓に駆け寄ってくる。

「いかがなさいましたか?」

ブラッドは男の胸元から手を離すと、その手で左側で仁王立ちしている女を指差した。

「この女が現れたせいで…落ちた牌をロンと宣言したんだよ!部外者の卓上への口出しはありなのかよ!」
「あら、随分と酷い言い方ね、牌を河に置いたのは、そちらの不注意以外の何ものでもないでしょう?」
「ふざけるな!」
「まあ、乱暴な生徒さんをお持ちのようね・・・ファンデンブルグ助教授」

矛先を混乱させるかのように、話題を摩り替えようとしたチェン教授の言葉を、ヴァレンは無視した。
係員の男達2人は、二、三言ボソボソと会話をした後で、誰に伝えるでもなく言葉を発した。

「いかなる理由があろうと、場を差し戻すことはできません。
河に置いた牌を戻せないというのは、正式なルールでございます。このまま続行願います」

「おい!」

怒りの収まらないブラッドが、係員に詰め寄ろうとした瞬間、

「ブラッド、座って・・・」

と、ヴァレンがいつもの口調で微笑みかけるようにブラッドに言葉を投げかけた。
ブラッドが、納得できないといった様子で渋々と席についた。

「チェン教授は、あちらの席へ、ご案内いたします」

係員の男達が、部屋の左奥の椅子に向かって手の平を向けた。
チェン教授がポーチからドリングの瓶を取り出し眼鏡の男のサイドテーブルに置くと、男に耳打ちをした。
そして、係員の指示に素直に従うように部屋の奥の椅子に腰を降ろした。

東2局 
東家 眼鏡の男 23,300点
南家 ブラッド 19,900点
西家 狐目の男 19,900点
北家 ヴァレン 36,900点


眼鏡の男がサイコロを振り、全員が配牌を取り出した。
親の眼鏡の男は一打目の牌を切る前に、サイドテーブルのドリンクの蓋を開け一気に飲み干した。

「おお、これはこれは・・・牌がよく見える…」

独り言を呟くと、ブラッド、狐目の男、ヴァレンの手元を順番に見渡すと、
それぞれの13枚の手牌の背中を見て不気味に笑った。

6順目に一向聴を迎えたブラッド。

東2局 6順目 ブラッド


ここに6ピンをツモり、ペンチャンの8-9ソウ落としを目論んで、8ソウを河に捨てる。
次の順目に親が6ソウを切ってリーチを宣言した。

「リーチ」

ブラッドはツモ山に手を伸ばし、恰好の五萬をツモってくると、迷わず9ソウを横に向けた。

東2局 7順目 ブラッド


「リーチ」

「ロン…リーチ、一発は3,900点。裏ドラは…六萬か…」

東2局 眼鏡の男のアガリ形




眼鏡の男は裏ドラを開くこともなく手牌を倒し、点数を申告した。

「追っかけリーチは、2-5-8萬待ちですか…」

ブラッドは眼鏡の男に待ちを言い当てられたことよりも、倒した手牌を見て首をかしげた。

(6ソウではなく9ソウを切れば、4-6-7待ちの3面待ちじゃないか…何で9ソウ単騎なんだ? ペンチャン落としを狙われたのか?)

男が裏ドラの表示牌を捲ると五萬だった。裏ドラは男の宣言通り六萬。
ブラッドは、上家の男が適当に牌を言っているだけだと、深くは考えずに点棒を支払った。

東2局 一本場
東家 眼鏡の男 27,200点
南家 ブラッド 16,000点
西家 狐目の男 19,900点
北家 ヴァレン 36,900点


7順目、絶好のカン五萬を引くと、ブラッドは字牌を横に向けリーチを宣言した。

東2局一本場 7順目 ブラッド 


「ふ〜ん。3-6ソウね〜果たして山にあるのかな・・・」

ボソボソっと上家の男が呟いた。

(なんだ?コイツ・・・)

ブラッドが眼鏡の男の言葉へ不快に反応し、山を見渡す男の目を見た。

(コイツ・・・瞬きをしてない・・・目が血走ってるじゃないか・・・薬か?)

明らかに、ドリンクを飲んでからの男の言動と顔つきは別人のように変わっている。
3-6ソウ以外の牌を惜しげもなく、切り落としてきた。

その男に呼応するかのように、下家の狐目の男もいかにも危険そうな牌を切り続けた。
結局、ブラッドはツモルことが出来ず、流局した。
上家も下家も聴牌形を晒し、一本場はヴァレンの一人ノーテンだった。

「左から5枚目の牌を差し込めば良かったのに・・・」

眼鏡の男は相変わらず瞬きひとつせず、ヴァレンの見えないはずの手牌に語りかけた。
ヴァレンは、男の言う5枚目の牌に視線を移すと、男の云った通り、その牌は6ソウだった。

東2局 ニ本場
東家 眼鏡の男 28,200点
南家 ブラッド 16,000点
西家 狐目の男 20,900点
北家 ヴァレン 33,900点
流局 リーチ棒 1,000点


「いい加減なことをベラベラと語ってんじゃねえよ」

ブラッドは苛立ちを隠すことも無く、無造作に山を崩すと次の局の準備を始めた。

「くっくっく・・・あっはっは」

突然、眼鏡の男が笑い始めた。

「全ての世界が透き通って見える・・・」
「は?・・・頭がイカレてるのか?お前」
「イカレているなんて、とんでもない・・・」

眼鏡の男は勝ち誇ったような表情でブラッドに笑いかけると、牌を取り出しながら呟き続けている。

「ほほう・・・黒い下着ですか・・・これは色っぽい・・・おや?左胸にキスマークが2つ・・・濃密な夜をお過ごしのようで・・・」

男に胸元を見透かされたような視線を感じたヴァレンは、咄嗟に両腕で胸を隠した。

「お相手は、こちらの彼かな?・・・おやおや、違うようだ。お気の毒に・・・」
「いい加減にしろ、てめえ!」


「ぐわっ」

ブラッドの左手の裏拳が、眼鏡の男の鼻先にめり込んだ。
男はピンポン玉のように、後方の壁に向かって規則正しく3度跳ね、壁に頭を打ちつけると大の字にのびた。

「ルールブックに裏拳禁止ってのは、確か無かったよな」
「至急確認いたします」

駆け寄ってきた係員に、平然と尋ねるブラッド。
先程の2人組みの係員はオロオロと会話を交わし、ルールブックを捲ると、

「ルールブックに禁止事項の記載はございません・・・」

と、返事をした。

唖然としているヴァレンに、ブラッドはウィンクをしようとしたが、片目ではなく、両目を瞑ってしまった。

それぞれの光
April,24 2045

11:35 ローゼンバーグ総合大学 試合会場

眼鏡の男が大の字にのびてしまい、試合が中断されていた。
例の係員達2人が、壁際で慌しく協議をしている姿が見える。
ブラッドは、待たされている時間に煙草に火をつけ、目を閉じていた。
睡眠不足のせいか、時間の経過とともに体がどんどん重くなってくる。

「フォンデンブルグ助教授・・・大変申し訳ありませんが・・・」

ヴァレンの隣で、係員が腰を低く落とし状況を説明している。

「そう、わかったわ・・・1時? それなら2時からにして・・・食事を済ませておくわ」
「かしこまりました。2時再開ということで、よろしくお願いします」

立ち上がった係員が深々と頭を下げると、ヴァレンは席を離れ、ブラッドの隣で立ち止まった。

「2時から再開よ・・・ 一度、研究室に戻りましょう」
「はい」

ブラッドは、半分吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて消すと頷いた。

研究室へ向かう廊下に出ると、対戦相手の予備要員を補充するのに時間がかかる為、
午後からの再開になるとヴァレンがブラッドに説明をした。

ブラッドは、自分の左手を上下に2度ひっくり返し、顔の前に近づけた。

「見事に決まっちゃったわね。貴方の裏拳」
「あはは、つい手が出ちゃいました。すいません」
「いいのよ・・・でも、驚いたわ、穏やかな貴方があんなに怒るなんて」
「・・・すいません、昨日余り眠れてなくて、イライラしてたもので・・・」

ブラッドの二重瞼が目の奥にくぼみ、何度も瞬きを繰り返している。

「あらあら、遅くまでアンジェラとミーティングをしていたの?」
「いえ、打ち合わせというよりも・・・雑談で遅くなってしまって」

ブラッドは、アンジェラとの昨日の夜の出来事をヴァレンに伝えようかと迷っている間に、
大きな欠伸がブラッドを支配し、頭に浮かんだ昨夜の残像を揉み消した。

2人が、試合会場の校舎と研究室のある校舎をつなぐ渡り廊下まで来ると、

「ヴァレンティーネ様・・・2時まで中庭のベンチで横になってきます」

ブラッドは、ヴァレンに一礼をして、中庭の緑の中に姿を消した。

ヴァレンは研究室塔のエレベーターホールに出ると上階へのボタンを押した。
エレベーターが一階まで降りてくるのを待っている間に、トッティの電話を左腕の携帯端末で呼び出した。
3コールを鳴らしたところで、エレベーターのドアが開いた気配を感じ、携帯端末の蓋を閉じた。
顔を上げ、一歩前に踏み出そうとすると、中から、黒服の男達が4人降りて来て、ヴァレンを取り囲んだ。

「ファンデンブルグ助教授、少々お時間を頂きます」

声を掛けてきたサングラスの男は、トッティの店でチェン教授と同行していた男だった。




11:35 ファンデンブルグ研究室

「・・・アンジェラ、それは重度の恋煩いね」

ベッドの上に横たわっているアンジェラの傍でトッティが大きなため息をついた。

「好きになんて、ならなきゃよかった・・・」
「・・・と言っても、心のアクセルもブレーキも壊れちゃってるんでしょう?」
「わかんない…。寝ても醒めてもアイツのことばっかり考えてるの」
「いい子だからね、彼は。アナタが好きになるのも無理ないわ」

布団に潜り込んだまま、アンジェラは鼻から上だけを外の世界に晒している。
トッティは、昨夜のブラッドとアンジェラの出来事を聞き入っていた。

「でも、アイツ、お姉ちゃんのことが好きだっていうの・・・」
「それは、アンジェラが尋ねたからではないの?」
「うん・・・そう、アタシが訊いたの、訊かなかったほうが良かったのかな・・・」
「どっちが良いかは、解らないわね。それに、スキじゃないって云っても、アンジェラは信じないでしょう?」
「うん、信じない・・・でも、どっちもスキだなんて・・・ズルイわよ」

トッティは、一呼吸おいてアンジェラに言葉を返す。

「アンジェラもヴァレンも素敵なんだから、しょうがないわ。アタシだって2人のこと大好きだもの」
「・・・でも、トッティの好きは・・・やらしくないもん」
「あらあら、アンジェラ。年頃の男の子なら、女の子にキスされれば、誰だって舞い上がるわよ」
「・・・で、許可無く、胸を揉むの?」

率直なアンジェラの質問に、トッティが苦笑いをしている。

「う〜ん、というか、よく、そこで止まったわね。勿論、揉んでいい?なんて尋ねる男もいないわよ」
「・・・そんなこと・・・訊かれても、困るけど・・・」
「キスまでよ、胸までよ・・・なんて話を、事前にするほうが不自然だと思うわ」
「あ〜〜〜もう!」

トッティが呆れたように笑っていると、アンジェラは、不貞腐れたように布団を頭まで被った。
携帯端末をトッティが開くと、着信を知らせる青いランプが光っている。

「あら、ヴァレンからだわ、試合が終わったのかしら・・・」

ボタン操作をしてヴァレンの居場所を探る画面を呼び出すと、赤い光が4つヴァレンを取り囲んでいた。

「大変・・・」

トッティは慌てて、部下のシルバーの番号を呼び出した。

フェイス
April,24 2045

11:40 ローゼンバーグ総合大学 東広場

試合会場と研究室の二つの校舎に挟まれるように緑の生い茂っている東広場。
太陽の位置は丁度、南中している。

南側から射している陽射しが、二つの塔を繋ぐ広場の北側の窓ガラスに反射して、
その光が木々の合間から木洩れ日となって降り注いでいる。

そんな中のひとつのベンチに、ブラッドはおもむろに横になると右腕を顔の上に置いた。
光と闇の二つの世界が、ブラッドの右腕の上と下とで分かれている。

睡眠不足のせいか、すぐに睡魔が忍び寄ってきて、眠りに落ちる前の幻想をブラッドの脳裏に映し出した。
うたた寝の世界の夢を映し出す頭の中のスクリーンには、面子選択の悩ましい手が揃っていた。



「一気通貫か…三色同順か…」

ブラッドは迷っていた。

「9ピンかな〜、でも四萬や4ソウを引くと平和だけだし…
かといって、マンズかソウズのメンツを外して、引いてくると頭にくるし…」

ブラッドが夢の中で迷っていると、円香がブラッドの横で牌を見て微笑んでいる。

「シーナ先生、イッツーと三色、どっちを狙ったほうがいいんですか?」
「それは好みの問題よ。どちらも2翻役だからね」
「ええ…」
「融通の利く手は三色の方だし、頑固な人はイッツーを狙うって良くいうわね」
「9ピンかな〜」
「そうね、絶対に正解ってわけではないけど、無難ではあるわね」
「無難か〜、そういえば、調子のいい時は迷わない入り方をするのに…」

円香は答えをブラッドに教えるわけでもなく、ブラッドの意思に任せている。

「調子が悪く感じるときは、5.6のメンツを外した後に、誰かからリーチが入って…」
「3とか6を引かされて振り込むんでしょ?」
「ええ」
「そういう時は、切っちゃ駄目よ。まず当たるわ」
「…ですよね。何度悔しい思いをしたか…」

ブラッドが、牌の選択を決めかねていると、ヴァレンとアンジェラが登場してきた。

「そこは、9ピンを切って、柔軟に受けるといいわ、三色も見えているし」

ヴァレンがブラッドに微笑みかけた。

「やっぱりそうですよね」

ブラッドが、9ピンに手をかけた瞬間、アンジェラが、ブラッドの右手を掴んだ。

「切っちゃ駄目。その手は不確定な三色よりも、食い仕掛けもできるイッツーを狙おうよ。雀頭がドラだし」
「なるほど、確かに、4ピンが出れば、仕掛けてもいけるな〜」

「何いってんのよ、それは9ピンよ」
「いいえ、イッツーです」

いつの間にか、ヴァレンとアンジェラが言い争いをし始めていた。
うたた寝の中でブラッドは呆然としている。

「アタシの言う事が聴けないわけ?」
「どうして、ブラッドはいつもいつもお姉ちゃんを選ぶのよ」

二人の怒りの矛先がとうとうブラッドに向けられた。
円香は、ただその様子を見て笑っている。

「うう…ヴァレンティーネ様かアンジェラか? そういう問題じゃないのに…」
「あら、そんな簡単なことも選べないわけ?」
「そういう問題? ここは選んで貰うわよ! ブラッドはいつも優柔不断なんだから」

突如、舞うような風が東広場の木々を揺らした。
その風の遥か上空では、ヘリコプターが東校舎に下りようとしている。
プロペラの旋回する音と、機体から聞こえる機械音とが激しく校舎の谷間で反響し、
その大きな音のために、ブラッドは夢の世界から現実の世界に引き戻された。

「…夢?」

木洩れ日から微かに覗く光さえも眩しく感じたブラッドが目を細めた。

「ああ、生きて帰れた…」

大きな音が、ブラッドの左腕の携帯端末機の着信音を掻き消していた。




11:45 ファンデンブルグ研究室

布団を頭の上まで被ったアンジェラに、トッティは出かけてくると告げ、研究室の外に出た。

「ブラッドったら、この一大事にどこにいるのよ」

トッティは、ブラッドの留守番電話に至急、研究室に戻ってアンジェラの看護をするようメッセージを吹き込んだ。

「シルバー、今、どこに居るの?」

トッティは、ヴァレンの護衛のリーダーであるシルバーに連絡を入れた。

「東塔の屋上に向かっています」
「屋上?」
「はい、既に、外部にでる東門と南門には、2人ずつ配置しております」
「門のところは分かるけど、何で屋上?」
「東塔の屋上にヘリコプターが先ほど降りてきましたので、万一に空に飛ばれたらお手上げです」

トッティが、シルバーと会話をしながら、画面を見つめている。

「そうか、これ、立ち止まってるわけじゃなくて、上の階に移動してるのね」

トッティが独り言のように呟き、シルバーの機転に感心していた。

「上出来よ、アタシも、すぐに行くわ」
「了解、ボス。接触したらすぐに奪還のミッションに移行してもいいですか?」
「相手はヴァレンの周りに4人、ヘリの中にも数人いるはずよ、足止めしてて…できる?」
「勿論です!お任せください。ヴァレン様は、リストバンドをつけている模様、危害は及びません」
「そう、クラゲモードのスイッチを遠隔操作でオンにしておくわ、ヴァレンに触れたら感電するわよ」
「あはは、了解!」

トッティの顔つきが、精悍な男モードに切り替わった。

作戦Bとデニス
April,24 2045

11:55 ローゼンバーグ総合大学 東広場

東広場のベンチの上で、束の間の休息を取っていたブラッドの頭上では、降り注ぐ光を遮るように覆っていた木々が大きく揺らめいている。
ヘリコプターの降下の影響で、吹き降ろしの風が一層強くなっていた。

「うるさくて、眠れねえよ・・・」

ブラッドが文句を口にして上半身を起こすと、ほぼ同時にプロペラの旋回音が小さくなり、やがて消えた。
ダウンウォッシュによる風が止み、緑一面の天井が静けさを取り戻すと、鳥のさえずりが、どこからともなく辺り一面に少しずつ広がっていく。

ブラッドは左腕の青い光を放っている携帯端末機に気づくと蓋を開けた。

「昼食のお誘いかな・・・今日は珍しく腹が減ってないんだよな・・・というか眠い・・・」

呑気な気分を吹き飛ばすような真顔のトッティが現れ、その下にメッセージがスクロールを始めた。

「アンジェラの看護?具合が相当悪いのかな・・・オレ、整形が専門なんですけど・・・」

独り言を携え、渡り廊下から東塔のエレベーターホールに入ると、上階へのスイッチを押す。
無意識に視線を上げた先には、5階で停止しているランプが点灯している。
ポケットに手を突っ込み、じっと待っては居るものの、エレベーターの籠は一向に降りてくる気配もない。
待っている数秒の間に、ブラッドに睡魔が容赦なく襲い掛かり欠伸を誘発した。

「早くしろ〜」

咄嗟に口走り、ドアに蹴りを入れた。
その瞬間、ブザーが鳴り、停止中の赤いランプが点滅を始めた。

『振動を感知しました・・・停止します。復旧の為の緊急連絡先は・・・』

「げ、やっちまった・・・誰か乗っていたら、ごめんなさい」

ブラッドは、エレベーターのドアの上から流れる録音されたアナウンスに向かって謝ると、左手にある階段を勢いよく掛け昇リ始めた。


11:55 東塔 5階

東塔の構造は、1階は180名と240名が収容できる大講義室、2階は50名程度収容の一般講義室が南北に8部屋、
3階、4階に助教授の研究室、5階が教授室と、それぞれのフロアーが分かれている。
屋上へは、最上階の5階でエレベーターを降り、非常階段で昇る構造だ。
屋上に繋がる非常階段は、中央付近と北側外壁とにあり、ヘリポートは建物南側に設置されていた。

ヴァレンに声をかけた男を、『デニス』と、周りの男達が呼んだ。
黒服にサングラス、髪は茶色で長髪、エレベーターに乗るようにと言葉を発っしてからは無言のままだ。
他の3人の男達も同様に黒服とサングラスをかけているが、髪の色は東洋系の黒髪だった。

東塔5階でエレベーターのドアが開くと、デニスは先頭に立ち一歩踏み出した。
男が左右を見渡してから振り返り、中から出てくるよう手招きをした。
全員がフロアーに出ると、デニスは、一人に屋上へ行くよう指示を出す。
続いて、他の2人にも、エレベーター前と非常階段前で、待機の指示を出した。

3人の男達が指定された配置へ移動すると、デニスは南側にある喫茶フロアーに歩を進めた。
オープンキッチンになっているその一角に座るように、デニスが無言のまま椅子を引き目配せをした。
ヴァレンは、その木目調の椅子に腰を下ろすとテーブルに両手を置いた。

ヴァレンの向側に男が座ると、両肘をつき、身を前に乗り出して口を開いた。

「ファンデンブルグ助教授。黙って聴いてくれ」

ヴァレンは頷く代わりに男に顔を向けた。

「オレの名は、デニス・T・ヴォルフガング・・・率直に言おう。アンタと取引がしたい」

ヴァレンは、無表情のままサングラスに反射している自分の姿を睨みつけた。
デニスは、取引の内容を一方的に話し始めた。

一通りの条件を男が話し終えると、ヴァレンは無言のまま小さく頷いた。

「OK!取引成立だ」

そう云って、デニスが立ち上がると、20m.程離れているエレベーター前に居る男の場所へ移動した。

「これからは算段通り、12:00に作戦Bに移る。」
「はい」
「ヘリが飛び立つまでは油断できない。失敗は許されないから、お前とアイツはここで待機だ」
「はい」
「ヘリが飛び立ったら作戦は成功だ。教授への連絡はオレが入れる。任務はそこで終了だ。以上!」
「了解!」

デニスは、階段の前で見張りをしている男にも同様の指示を出すと、ヴァレンを呼んだ。
ヴァレンがデニスの近くまで来ると、二人は階上へ向かって歩き始めた。

鎖骨と水滴と
April,24 2045

11:58 東塔 屋上

東塔北側にあるファンデンブルグ研究室から屋上へは、建物中央にあるエレベーターを使うよりも、
非常口の扉を開け、外壁に螺旋状にデザインされている階段を使うほうが早い。

トッティは、シルバーとの連絡をオンラインにしたまま、非常口から北側階段を昇っていた。
西側から吹きつける偏西風が、この季節にしては強く吹いている。
ステンレスとガラスで組み上げられている階段は、頭上を見上げると青い空に雲が流れているのが見える。

トッティが屋上まで登り360度の視界を見渡すと、大学の北側と東側との塀際に緑色の樹木が一列に並んでいる。
その向こう側には4車線の道路に車がまばらに往来しているのが見える。
南側と西側は、その端が見えず、この大学が広大な敷地に存在しているということがよく分かる。

試合会場のある中央塔と、その向こう側にある西塔の高さはほぼ同じで、それぞれの塔の屋上南側には、
赤十字のロゴの入ったヘリが一機ずつ停まっていた。

西塔は、普段、アンジェラやブラッドがローゼンバーグ教授の授業を受けている医学部塔だと聞いていた。
医学部塔の屋上には白衣を着た人の姿が数えるほど見えるが、中央塔とこの東塔の屋上に人影はない。

トッティは一度後ろを振り返り、尾行の有無を確認してから屋上中央に歩き始めた。
視線の先にある東塔南側には黒塗りのヘリが停まっている。
左耳につけているワイヤレスマイクでシルバーの名を呼ぶと、すぐに応答が返ってきた。

「ボス、中央階段を囲む建て物の西側にいます」

トッティが西寄りに進路を取ると、コンクリート造りの構造物の壁際にシルバーの後姿が見えてきた。
シルバーの報告では、今トッティが昇ってきた北側階段から到着し待機を続けているものの、
ヘリのプロペラが止まってから動きが全くないということだった。

「そう・・・。一体どこで道草しているのかしら・・・」

トッティが左腕の携帯端末機を開くと、5階エレベーター前、5階中央階段前、
そして、このコンクリートの構造物の南側に、1人ずつの存在を示す赤い光が点灯している。
ヴァレンの位置を示す青い光は、もうひとつの赤い光と共に中央階段を南方向へ移動している。

トッティが、背後のコンクリートの壁を肩越しに右手の親指で示した。
シルバーは黙ったまま頷いた。

まもなく、背後のコンクリートの構築物の南側で、青い光が1つ、赤い光が2つ合流した。
ものの数秒も経たないうちに、赤い光が1点、建物南側に向けて移動を始めた。

黒服の男が一人、ヘリに向かって駆け出したのが、トッティとシルバーの視界に入る。
ヘリまでの距離は、目測でおよそ250m.

「敵が一人なら・・・殺れますね・・・」
「ヴァレンの安全確保が第一よ」
「勿論、心得ております」
「あの男の距離がもう少し離れたら指示を出すわ」
「はい」
「シルバー、貴方はこの構造物の東側に廻って頂戴」
「了解!」

30秒程で、黒服の男がヘリに乗り込むと、ゆっくりとプロペラが回転を始めた。
トッティは足音が聞こえなくなる位、機械音とプロペラの羽音が大きくなるのをじっと待っていた。

再び見上げた空は、西側から流れてきた雲が太陽の姿を遮り、光と陰の2つの世界をひとつにした。

「これで忍び寄っても、南側に影は伸びないわね・・・」

額から落ちてくる水滴がトッティの鎖骨に泉を作った。


12:00 ファンデンブルグ研究室

ブラッドがジーンズの後ろポケットに突っ込んでいた財布から、カード式の学生証を取り出すと、
研究室入り口のカードリーダーに通した。

認証が終了し、自動で開いたドアから中に入ると、研究室の中はひっそりとしていた。

「ヴァレンティーネ様とトッティは、お出かけ中か…」

ブラッドは、まず自分の部屋に入ると顔を洗い、手に取ったタオルを首に引っ掛けると冷蔵庫を開いた。
冷えた飲み物を両手にひとつずつ持つと、体ごと冷蔵庫の扉を閉めた。

隣のアンジェラの部屋をノックしたが、中から応答はない。

(眠っているのかな…)

部屋の奥に進むと、予想通りアンジェラはベッドで眠っていた。
ブラッドが窓際に回りこみ、ブラインドを静かに下ろそうとすると、屋上から飛び立ったばかりのヘリコプターの後姿が見えた。

防音対策がしっかりと施されているのか、先ほど感じた喧騒さは全くなかった。
黒塗りのヘリの姿が小さくなるのを見届けて、ブラッドはブラインドの角度を変え、明るさを半減させた。

体を翻し、ベッドの入り口側に移動しようとした時、床に這うコードに足が引っかかった。

「うわっ」

突如バランスを崩したブラッドは、前のめりになり床の上にうつ伏せに倒れた。

「痛た…」

ベッドの下方の手すりを持ち、体を起こすと同時に、落ちていたタオルを拾って顔を上げた。
不意に、ベッドの上でこちらを見つめているアンジェラと目が合った。

「すまん、起こしちまったな…」

アンジェラは瞬きするわけでもなく、こちらを見つめている。
ベッドの横までくると、サイドテーブルに置いた飲み物を手に取り、アンジェラに差し出した。

「飲むか?」

アンジェラが、布団の脇から左手を出し、冷えたアルミ缶を受け取った。
手渡した後で、その体勢では飲めないことに気づいたブラッドは、上半身を起こそうとするアンジェラの背中を支えた。
Tシャツ越しに伝わる体温は、午前中に抱きかかえ運んだ時よりも、幾分下がっているように思えた。

「どうだ?具合は…」

アンジェラが左手に持っている缶を、ブラッドが片手で添えるようにして、もう一方の手でプルトップを開いた。

「アタシを運んでくれて、ありがとう…」

小さな声でアンジェラがお礼を伝えると、その口に缶を運んだ。
アンジェラの喉越しを通過した液体が、2.3度彼女の喉を膨らませた。

寝ている間に汗をかいたのか、アンジェラの鎖骨のあたりに水滴が光っていた。
アンジェラは、ブラッドの首にかかっていたタオルを手に取ると、自分の首に巻き端を顔に当てた。

「ブラッドの匂いがする…」

ブラッドは、静かに左手を伸ばしアンジェラの頭を撫でた。
アンジェラが半日ぶりにいつもの笑顔で応えると、張り詰めていた空気を一瞬で入れ替えたような風が、ブラッドの全身を包んだ。

選抜大会2回戦
April,24 2045

14:00 ローゼンバーグ総合大学 試合会場

2回戦 東2局 二本場 ドラ八萬
東家 眼鏡の男 28,200点
南家 ブラッド 16,000点
西家 狐目の男 20,900点
北家 ヴァレン 33,900点
供託 リーチ棒 1,000点


「それでは、午前の点棒を確認の上、始めてください」

午前中、東2局二本場で中断された試合は、係員の男の発声により、牌の取出しから始められた。
ブラッドの対面には、ヴァレンではなくアンジェラが座っている。
上家と下家は、相変わらず同じ顔ぶれだ。
朝と違うのは、『上家の男の挑発的な眼つき』と『チェン教授の姿』の両方が消えていた。

東2局 4順目 ブラッド


4順目の四萬ツモで、ブラッドはノータイムで9ピンを外す。
イッツーと三色の両天秤から、タンヤオでも平和でも捌けるように受けた。
6順目には7ソウをツモり、三色の聴牌を逃したブラッドは、円香の言葉を思い出していた。

東2局 6順目 ブラッド


「手変わりを待っている間に、アガリを逃すことは本末転倒よ」

ブラッドは円香から、高目、安目の点数の設定を3飜3,900点とマンガンの8,000点を境界に考えること、
1ピンが高目になるなら闇、1ピンが安目になるならリーチでカバーするようにと教わっていた。

「リーチ」

東2局 7順目 ブラッド


ブラッドは、8ピンを横に向け聴牌を宣言。
そして、11順目にあっさりと7ピンをツモる。

「ツモ! メン・タン・ピン・ツモ・ドラ2 3,000-6,000の2本場・・・3,200-6,200」

リスタート後に早々の大物手を獲て、ブラッドは肩の力を抜くように息を吐き出した。



東3局 東家 ブラッド ドラ4ピン
東家 ブラッド 29,600点
南家 狐目の男 17,700点
西家 アンジェラ 30,700点
北家 眼鏡の男 22,000点


前局のハネマンを象徴するかのような好調な配牌とツモで、6順目には一向聴を迎えていた。
そこに持って来たのがドラ傍の5ピン。

東3局 6順目 ブラッド


イッツーも見える手で、どの5を落とすかを迷うこともなく、五萬を手出しで切り出した。
配牌からピンズが一枚もない状態に少しの違和感を覚えると、そのタイミングで上家の仕掛けが入った。

7順目 上家
「ポン」

8順目 上家
「チー」

アンジェラのペンチャン落としの9.8ピンを続けざまに喰い仕掛けてきた。
ドラがピンズであることを考えると、完全無視というわけにもいかない。


東3局 9順目 ブラッド


上家の仕掛けと河を見ながら、ブラッドがツモってきた牌は5ピン。

(最悪の入り目だ・・・)

4人の河には九萬と5ピンが一枚ずつ切られ、4枚目の5ピンはドラ傍の牌だ。
ドラ面子も、一気通貫も消えてしまう牌勢に、ブラッドは九萬をトイツから1枚外し一向聴に戻した。


11順目 上家
「チー」

上家 眼鏡の男


3回目の鳴きが上家から入ると、九萬のトイツ落としの2枚目と入れ替わった牌は4枚目の九萬。

(あらら、アガリを逃してしまった。危険信号だな・・・)

トイツ落とし2枚目の九萬を、手の内から河へ置きながら、ブラッドが河の字牌とピンズの枚数を数えた。

(東南北が3枚切れ・・・中は4枚切れ・・・西が2枚、發が1枚、白は見えていない・・・捨て牌は・・・)

上家の河


13順目、初牌の白を掴むと本来アガリ牌だった九萬を切った。
そして、上家の男がドラの4ピンを手の中から切り出すと、ツモってきたのは4ソウだ。

東3局 14順目 ブラッド


「調子の良し悪しのバロメーターは、トラップ系のツモに惑わされないことよ」

講義を受けていた時のように、何度も繰り返し聴いた円香の声が脳裏のスクリーンに登場した。

結局、ブラッドが初牌の白を抱えたまま、場は流局し、親番が終わった。
聴牌宣言をした男の手は、白と西のシャボ待ちだった。


流局 上家の聴牌形



「ん・・・」

ブラッドは、上家の手牌を確認すると下唇を前に出し2,3度頷いた。
そして、左手でノーテンの1,000点を卓上に置き、次局への洗牌を始めた。

東4局 流れ一本場

東家 狐目の男 16,700点
南家 アンジェラ 29,700点
西家 眼鏡の男 25,000点
北家 ブラッド 28,600点

折り返し地点
April,24 2045

14:15 ローゼンバーグ総合大学 試合会場

東4局 流れ一本場 ドラ6索

東家 狐目の男 16,700点
南家 アンジェラ 29,700点
西家 眼鏡の男 25,000点
北家 ブラッド 28,600点


前局の親で、ブラッドが上がりを逃した後の配牌は予想通り冷えていた。
(酷い配牌だ…)
東4局 配牌 ブラッド


東4局 6順目 ブラッド


6順目にようやく字牌を整理できたものの、相変わらず凸凹なツモが続く。
アンジェラの手元と顔色を伺うが、親を蹴れるほど軽い手は入ってなさそうだ。
ブラッドは、7順目にドラ表示牌の5索をアンコにすると、喰い仕掛けを試みた。

「ポン!」


その後の4順で牌の出し入れを行っていく。
東4局 11順目 ブラッド



ツモってくる牌は内側に寄っていくものの、シュンツとして横に伸びず縦に重なっていく。
11順目、親の狐目の男の切った七萬が横に向いた。


下家(親)狐目の男の捨て牌


「リーチ」


中を手出しでトイツ落としをしての聴牌形は、おそらくメンタンピンの手。
『役牌のトイツ落としの後のリーチは、役牌待ちよりもいい待ちになっているから注意が必要よ』
円香が画面を指示棒で叩き、注意を促した講義のシーンが、ブラッドの脳裏を横切る。
(ちっ、鳴きで親に聴牌を入れちまった・・・)



上家 眼鏡の男の捨て牌


「リーチ」


続けざまに上家の眼鏡の男が、7索を横に向けリーチ宣言をした。
ブラッドは、3人の河を一通り見渡し、アンジェラの河を見て、ピンズの下のほうを固めてくれと祈った。
(どこだ? こちらは・・・5-8索か6-9索待ち辺りか?)



アンジェラの捨て牌




「チー」

宣言牌の7索を喰い、親の現物で、4枚見えている5索の壁で3索を落とす。
13順目に親が5ピンをツモ切りすると、上家のツモ切りは四萬。

東4局 13順目 ブラッド



「ポン」

東4局 14順目 ブラッド


ブラッドは四萬を仕掛け、上家の現物、下家の筋牌の2ピンを捨てた。
ここまで50枚余りの牌が河に棄てられているとはいえ、
自分の手牌と合わせても136枚のうちの半分が見えているに過ぎない。

あれこれと思いは巡るものの、『既に相手も手変わりができない状況なのだ』と自分に言い聞かせ、
一枚一枚ツモって来る牌を、河と照らし合わせながら切り飛ばしていく。

東4局 15順目 ブラッド


『聴牌が入っても、嫌な予感がする牌をツモってきたら回ることもひとつの手段よ』
円香のそんな声が聞こえてきそうな牌を掴んだ。
五萬は親には無筋だが、上家の男が一枚外しており、ブラッドのイメージでは
6779の形からの97落としと、6679の形からの97落としの2パターンが映し出された。

(6779なら、97と連続で落としてはず…六萬が雀頭か…5-8索とピンズの上筋6-9の2点は切れない…)

東4局 16順目 ブラッド


この状況で最悪なのは、4枚使いの5-8索、ドラ筋の6-9索での放縦と、ピンズ打ちのダブロンだ。
幸か不幸か、次順、ブラッドがツモって来たのは先切りしていた7ピンを引き戻し聴牌が復活した。

東4局 17順目 ブラッド


(よし!うまくいく時はこんなもんだ…5-8ピン出てくれ!)

ブラッドの強い想いが叶ったかのように、目の前に、下家から8ピンが零れた。


「ロン!」

東4局 残り8枚 ブラッド


ブラッドは、リーチ棒2本を片手で順に拾い上げると、下家の投げ出した2,300点を箱に仕舞った。
全3回戦の丁度半分が終了し、勝負は後半戦に突入した。

南1局 

東家 アンジェラ 29,700点
南家 眼鏡の男 24,000点
西家 ブラッド 32,900点
北家 狐目の男 13,400点


エアーポケット
April,24 2045

14:25 ローゼンバーグ総合大学 試合会場

南1局 東家 アンジェラ ドラ5索

東家 アンジェラ 29,700点
南家 眼鏡の男 24,000点
西家 ブラッド 32,900点
北家 狐目の男 13,400点


点棒をヴァレンから引き継いだアンジェラの親番。
午前中の具合の悪さに比べれば、体調は幾分マシになっているものの、
アンジェラの意識は断片的に記憶が途切れていた。

本調子ではないアンジェラは、失点こそないものの、小さなミスでアガリを逃し続け南入を迎えた。

南1局 配牌 アンジェラ


風牌とドラが2枚ずつの好配牌に、アンジェラは肩で呼吸をするように背筋を伸ばし西から切り出した。
序盤は、急所を引くわけでもなく、ツモ切りが続いた。

6順目にブラッドが南を河に捨てた。

「ポン!」

アンジェラは右端の2枚を鳴くと、9ピンを切った。

南1局 7順目 アンジェラ


上家の狐目の男は、親のアンジェラに対して牌を絞るわけでもなく、ツモ切りと手出しを繰り返している。
下家の眼鏡の男も、ツモが好調なのか、さかんに手の中から余剰牌が零れている。

アンジェラがツモ切りを3周続けたところで、右側の男の手が一瞬止まった。
(そろそろ、一向聴ってところなのかしら・・・)

バラ切りされた字牌、端牌の順で捨てられている河は平和系の手造りが窺えた。
対面のブラッドを見ると、眉をひそめて面子選択に苦労しているようにも見える。

11順目に上家から7ピンが切り出された。

「チー」


南1局 12順目 アンジェラ 


役牌ドラ2(5,800点)の一-四萬待ちの聴牌。
アンジェラが河を見渡すと、マンズの下は比較的で誰も使っていない雰囲気だった。
北家の河を見ていると、南家の眼鏡の男が、リーチ棒を卓に置いた。


「リーチ」



南家のリーチに対して、ブラッドが四萬をツモ切りした。
アンジェラは、この半荘はブラッドからの当り牌を全て見逃していた。

ブラッドの捨てた四萬には反応せず、上家のツモと捨て牌に視線を移した。
上家は、ブラッドの四萬をちらりとみると、13枚の牌の左端から一萬を切り出した。

(あん・・・もう、同順だからロンできないじゃない・・・)

そんな恨めしそうな思いを表情には出さず、アンジェラが山に手を伸ばした。
ツモってきた牌は、9ピン。アンジェラの動きが止まる。

(上家の彼は、一萬のトイツ落としだと思うんだけどな・・・)

アンジェラは意を決したように、9ピンをツモ切りした。
南家の男は、声を出すわけでもなく、ただ河に置かれた9ピンをちらりと確認すると、山に手を伸ばした。

そして、不要牌をそのまま河に並べる。
ブラッドは続いて、またも四萬を捨てた。

(ちょっと、ブラッド・・・待ってよ)

喉まで出掛かったロンの声をアンジェラは封印した。
案の定、上家の男も一萬のトイツ落としをし、さらに、その一萬を横に向けた。


「リーチ!」





(もう!・・・でも、きっと一萬は山にあるわ・・・)

アンジェラが山に手を伸ばしツモって来た牌は2索。
無筋であることは、分かっている・・・が、アンジェラは強打するわけでもなく、いつも通り河にそっと置いた。


「・・・ロン」
「ロン!」

下家が牌を倒すと、少し遅れて上家も手牌を倒した。
裏ドラは下家の男がめくった。

「メンピン裏・・・3,900点」
「リーチ・一発・ピンフ・裏・・・8,000点」


「うわっ! ダブロンかよ・・・」

ブラッドの声が卓上に発せられたが、アンジェラは無言のまま二人に点棒をそれぞれに渡すと、天を仰いだ。


南2局
東家 眼鏡の男 28,900点
南家 ブラッド 32,900点
西家 狐目の男 20,400点
北家 アンジェラ 17,800点


両チームの持点が、50,700点対49,300点と拮抗した状態になった。

ツキの行方
April,24 2045

14:30 ローゼンバーグ総合大学 試合会場

南2局 北家 アンジェラ ドラ七萬
東家 眼鏡の男 28,900点
南家 ブラッド 32,900点
西家 狐目の男 20,400点
北家 アンジェラ 17,800点

南2局 配牌 アンジェラ



楽勝ムードだった東場から、拮抗した状態になった南場に入り、
アンジェラの牌勢は見た目通り下降気味だった。

配牌から、目指す最終形のイメージをマンズの一気通貫に照準を合わせ、
アンジェラは牌の出し入れをする。

牌を山から取り出しながら、不要な牌を捨てる。
シンプルな作業を繰り返しつつ、アンジェラの思考は別の事を考えていた。

ブラッドとアンジェラが、円香の講義を受けていた時のシーンを思い出していた。

「また、当り牌を掴んじゃったよ。ツイテないな〜。オレも聴牌してたのに…」

円香がブラッドによく話をしていたのは、
自分の配られた牌を使いアガリを目指すのが第一のステップ。
それを同時に4人が行っているということ。

自分よりも聴牌の早い者もいれば遅い者も存在する。
聴牌を一番最初にしたからといって、必ず最初にあがれるわけではないということ。
つまり、他人のアガリ牌への対処が第二の作業。

「ツイテないと感じる現象に対して、きちんと分析をして、
次回からの対応策を自分なりに答えを用意すること。明日までの宿題よ」


円香に毎晩宿題を出されていたブラッドの様子を思い出し、
アンジェラは思わず笑い出しをしそうになった。

「例えば、ブラッドが観戦をしていた時に、『何でその牌を切るんだ?危ないだろ?』
という感覚は、打っている本人よりも、観戦している人のほうが当然冷静に見えるわけでしょ?」
「ええ、そうですよね。観戦をしていると全体が見えるから…」
「そうよ、その全体を見渡す感覚というのがとても大事よ」


そういった客観性を持って常に打つというステップを、円香は第三の課題として講義に取り入れていた。
アンジェラは、そんな話を思い出しながら、前局の2索打ちが正しかったのかどうか考えていた。

南2局 8順目 アンジェラ


8順目にドラの七萬をツモったアンジェラは、9ピンを横に向けた。

「リーチ」


「一番大事なのは、その聴牌に対して、アガリ牌が山にあるかどうか読みきること。
そして、相手がその牌を不要としているかどうか、きちんと判断できること。
それが、第四のステップよ」


(アタシは、この三萬が、山にあるかどうか読めない。他人が使えないかどうかもわからない…)


アンジェラは、リーチ宣言をした自分に、円香が語りかけて来たような気がして、
心の中で、このリーチが正解なのかどうかを迷っていた。

私の答えは、『敵が三萬を掴んだときに、それを止めたならツイテいない。ではなく、
相手が真っ直ぐ打っていて、使えないはずの三萬を掴まなかった時にツイテいないと感じます。』

『上がれても、上がれなくても、結果よりもプロセス大事よ。
振り込みを恐れて上がりを逃すことのほうが、振り込むことよりも時として悪いこともあるから』


…という円香の言葉に自分を納得させていた。

南2局 流局


ブラッドがハイテイの牌を河に置くと全員が聴牌をしていた。
三萬は、ブラッドが一枚。
上家と下家は、三萬が使えない形だったが、持っていなかった。

(三萬の残り3枚が、王牌の中って…ツイテないわ…)


「アンジェラ…最終形まで努力しても100%上がれるわけじゃないのよ、人間相手だから。
だけど、最終形までの努力を全くしなければ、一度だって最終形で上がれることは無いの。
努力を続けている限り、報われるときは必ず来るから、諦めずに頑張って」

アンジェラは自分に言い聞かせるように、南2局一本場の配牌を取り出した。

南2局 一本場 北家 配牌 アンジェラ ドラ8ピン


(この手の最終形はトイトイドラ2…ううん、鳴かずに三暗刻を目指そう!)

アンジェラは、滅入った気分を払拭するように顔を上げた。
すると、他の三人は、難しそうな顔でそれぞれ自分の手元を見ていた。

(苦しいのは自分だけじゃない…そんな風にも見えるわね)

アンジェラは、いつの間にか熱が下がり、頭の中がスッキリとしている自分を感じていた。

駆け引きのタイミング
April,24 2045

14:40 ローゼンバーグ総合大学 試合会場

南2局 一本場 南家 ブラッド ドラ8筒
東家 眼鏡の男 28,900点
南家 ブラッド 32,900点
西家 狐目の男 20,400点
北家 アンジェラ 16,800点
供託 1,000点


南2局が流局し、アンジェラの出したリーチ棒の1,000点差で、両チームの順位は逆転していた。

(このまま、トップを獲れれば、ボーナスの10,000点加算で勝てるけど・・・
微妙な点差だから、中途半端にアンジェラに差し込むのも危険か・・・)
 


思わず失望の溜息が出てきそうな配牌に、ブラッドは一抹の不安を抱えていた。

南1局 一本場 配牌 ブラッド


『南場に入ったら、オーラスを見据えて点棒のやり取りを考えること』

マンガンツモで移動する点棒は10,000点。トップ目が親なら、12,000点が移動する。
トップが狙える順位にいる時には、南4局までに10,000点差内に追いつくこと。
また、自分がトップ目なら、10,000点以上の差を開けられるような手作りを南場ではすること。

円香の講義で点差を考えた時の手作りの練習を幾度も練習したブラッドは、2位との点差4,000点の状況で
仕掛けても、せいぜい2,000点しかイメージできない配牌に、今、自分が何をすべきかを必死に考えていた。

4順目までの全員の河には、ピンズの上は一枚も切られていない。
ブラッドの手の中に、ドラの8ピンが無い以上、誰かのところに面子になっていると考えたほうが自然だ。

南1局 一本場 4順目 ブラッド


引いてくる牌は縦に七萬・4ピン、そして外側に広がる9ソウと、
配牌時の不安は、やがて失望に変わっていく。

チャンタのふりをして字牌を切りにくくするか
染めているふりをして親に神経を使わせるか・・・

ブラッドはあれこれと考えてはみるものの、どれもこれも効果的では無い気がして
ひとまずは、受け優先で、字牌を止め親の現物を集めることにした。

「リーチ」

突如、対面のアンジェラからリーチが入る。
前局アガリを逃してたアンジェラからの聴牌宣言にブラッドは顔を上げ、河を見つめた。

南1局 一本場 6順目 アンジェラの捨牌


早いリーチだけに、どこで待っているかは全くわからない。
状態が余り良くなさそうだから、愚形のリーチで追っかけられなきゃいいけど・・・
アンジェラのリーチに対して、親の眼鏡の男も、下家の男も、一発目から無筋を切ってくる。

初牌を切って、敵を楽にするようなことはしちゃいけないな。






こんな形からの四萬なら、八九萬よりも先に切るよな・・・
とりあえず、ブラッドは、マンズ待ちは無いだろうと一萬、三萬と落としていく。

10順目までの状況は、親は真っ直ぐに不要牌だけを切っているようだ。
上家の男は、3ソウや3ピンが固まっているのか、2ソウ、2ピンと続けてトイツ落しをしている。

ブラッドはマンズの1-3を落とした後、南、西をツモ切りした。

「リーチ」

11順目に親から、追っかけのリーチが入る。

11順目 親の捨牌


まずいな・・・じっとしていると、ツモられるかアンジェラがロン牌を掴みそうだ。
役は無いが、7ソウを鳴いてズラしてみるか・・・

ブラッドが、親のリーチ宣言のところで動きが止まると、下家の男がそれを察知したのか、

「ポン」

と、7ソウを仕掛けてきた。
吉と出るか、凶と出るかはわからない下家の動きに、上家の親は不満そうな顔で、狐目の男を睨んだ。

(なるほど・・・一発ツモの自信でもあったのだろうか、連携エラーなわけだ)

親に差し込むつもりなのか、下家の切り出したのは無筋の4ピン。
しかし、親からもアンジェラからも声はかからない。
むしろ、4ピンのトイツ落としの猶予を与えられたブラッドに有利な展開になった。

ブラッドの目の前に積まれている山に、対面のアンジェラは前屈みに手を差し出した。
親指が牌の裏側に触れた瞬間に、手を伸ばしたまま、上目遣いでこちらへ微笑んだように見えた。

アンジェラは、積もった牌を右にそっと置くと、その牌はドラの8ピンだった。

「ツモ」

「おお・・・」
「ちっ!」

思わず声の出たブラッドの左耳に、親の眼鏡の男の舌打ちが心地良く聴こえてきた。
アンジェラは、手元の13枚の牌の両端を持ち、ゆっくりと倒した。


アンジェラの手牌


決着のその後
April,24 2045

20:00 トッティの店

「乾杯〜!」

幾つものジョッキがぶつかり合い、泡の飛沫が波打ちながら宙に舞う。

「お疲れ様〜」
「お疲れ〜」

カウンターには3つの笑顔が並んでいる。

「頑張ったわね、2人とも」

ヴァレンがブラッドとアンジェラの頭を交互に撫でる。

「えへへ・・・」

体調もすっかり元に戻ったアンジェラが嬉しそうに笑っている。

「終わってみればアンジェラの3連続トップだもんな。俺は眺めてただけだったよ」
「あはは、でもブラッドは場外で活躍してたじゃない」

「そうそう、聞いてくださいよヴァレンティーネ様」
「なになに?」

「俺の隣の眼鏡の男、3回戦もあの怪しいドリンクを飲んで・・・」
「うんうん」
「アンジェラに・・・
『ほほう・・・黒い下着ですか・・・これは色っぽい・・・
おや?左胸にキスマークが2つ・・・濃密な夜をお過ごしのようで・・・』
・・・とか言ってるんですよ。」
「ぷぷぷ・・・あははは・・・」

ヴァレンが思わず噴出しそうになり、体を前屈みにカウンターを手で叩いた。

「私、黒い下着なんてつけてないもん・・・はぁ?って言ってやったわよ」
「俺なんて可笑しすぎて、思わず、アイツの肩を叩きそうになったよ」
「結局、あのドリンクは効いてなかったってこと?」

「どうなんだろう・・・確かに手牌はピタリと言い当てられてたけど・・・」
「うん、でもその割には、当り牌も切ってたけどね」
「そうなんだよ〜不思議な奴だったな・・・」

ヴァレンが、微笑みながら2人の会話に頷いている。

「それで、心配してた停電は起きなかったの?」
「いえいえ、心配って云うか・・・予想通り来ましたよ。停電タイム!」
「そうそう、ヴァレン。ブラッドったら酷いのよ・・・」
「なになに、どういうこと?」

ヴァレンが好奇心に満ちた瞳でアンジェラの話に食い付く。

3回戦の南3局に停電が起こり、電動の卓が止まってから手積みのルールに変更になると、
眼鏡の男が、サイドテーブルに置いてあった2本目のドリンクを一気に飲んだ。

「私が、オーラスに白待ちの聴牌で、どこから出てもトップだというのに、ブラッドったら出してくれないの」
「だって、俺も白待ちの聴牌だったんだぜ?」
「あら、2人共が白待ちだったのね」
「ええ」

天井のライトが消えた後、代わりに非常灯の点灯した薄暗い部屋で、
眼鏡の男があと3枚で流局という状況で、ノータイムで初牌の白を切った。

『ロン』

南4局 ブラッド



『あ、私の下着の色だ・・・ロン』

南4局 アンジェラ


「アイツ、牌は透けて見えたんだろうけど、停電のせいで暗くて見えなくなったんだろうな」
「きっと、そうよね。あそこで白が出てくるなんて、暗くて牌を裏返しに置いたのかと思ったわ」
「きゃはは、アンタ達最高ね」

ヴァレンは涙を流しながら笑っている。

「あら、おめでとう、アンジェラ、ブラッド」

カウンターに、トッティが奥から出てきてねぎらいの言葉を掛けた。

「ありがとう〜トッティ。あら?」

トッティの顔は殴られたように腫上っている。

「どうしたんですか?その顔」

驚いた顔でブラッドがトッティに尋ねた。

「どうしたもこうしたもないわよ・・・お昼休みにヴァレンがさらわれちゃってね」
「ええ〜?誘拐??」

アンジェラとブラッドが顔を見合わせて驚いている。

「そうよ、で、アタシがヴァレンを助けようと思って追いかけたらこのザマよ」
「あらら、だってトッティ・・・喧嘩なんて出来るの?」
「あら、こう見えてもアタシ、空手の黒帯なのよ」
「リストバンドは?」
「ちゃんとしてたわよ・・・ああ、折角の顔に傷がついてお嫁にいけないわ・・・」
「あはは・・・」

同情しながらも、トッティの会話についついブラッドは笑ってしまった。

「だけど、一体誰にやられたの?」

アンジェラが心配そうにトッティに尋ねると、
トッティはカウンターに立ったまま、3人の後方のテーブルを顎で示した。

アンジェラとブラッドが振り返ると、奥のテーブルに黒い服にサングラスを掛けた男の後姿があった。

「アイツにやられたのか? 仇を討たなきゃ・・・」

ブラッドが席を立とうとすると、ヴァレンがブラッドの膝に手を置き制止した。

「待って・・・ブラッド」
「何で止めるんですか・・・トッティが悪かったんですか?」
「ううん、そうじゃないの・・・説明すると長くなるから・・・」

ブラッドは、ヴァレンに止められ渋々席に着き、上半身だけを捻って後方の男に睨みをきかせた。
カウンターでは、首が痛むのか、トッティが首を押さえて頭を左右に振っていた。

「全く・・・ヤラレ損よ・・・ヴァレンたら・・・」
「ごめんね〜トッティ」

ヴァレンが手を合わせて、トッティに侘びている。
その様子をアンジェラもブラッドも首を捻って不思議そうに見つめていた。


麻薬捜査官
April,24 2045

20:15 トッティの店

ヴァレンが、奥のテーブルに座っている男に向かって歩いていく。
身振り手振りを交えての短い会話が終わると、男が立ち上がった。
ブラッド並みの背丈の男は、スーツの胸の辺りを叩いてからカウンターに近づいてきた。

「紹介するわ…」

ヴァレンが男の前に手のひらを差し出すと、アンジェラとブラッドが体ごと振り返った。

「こちらは、デニス・タツミ・ヴォルフガングさん。ICPOの刑事さんよ」
「こちらが、ブラッド・エアハルト君と、妹のアンジェラ」

ヴァレンがそれぞれを互いに紹介すると、男はサングラスを取り、軽く会釈をした。
怪訝そうな顔をしているブラッドとは対照的に、アンジェラは、手を差し出し握手を求めた。

「ICPOって、銭形警部のいるインターポールって所?」
「ああ、銭形警部はテレビの世界の人間だが…、ICPOはそういう風にも呼ばれている」

男は、差し出された手を握り返し、手のひらにキスをした。

「素敵な妹さんだ。よろしく」

ごく自然な男の紳士的な仕草に、アンジェラは驚き紅潮した。

「よろしく、アンジェラ・クルツリンガーです」

男は微笑みながら手を離すと、次にブラッド向かって手を差し伸べた。
見た目はブラッドよりも一回りほど年の差があるだろうか、
余裕のある大人の男の立ち振る舞いに、ブラッドは苛立ちを隠せなかった。

「ブラッドです。よろしく…で、なんで刑事さんがここに?」

ブラッドは、男の右手を強く握ると、一層力を込めて語りかけた。
デニスは、握られた手をふわっと上空に持ち上げると、ブラッドの頭を通り過ぎ、
フォークダンスを踊るようなポーズでブラッドの右手ごと背後に回した。
思わず、倒れそうになったブラッドは尻餅をつきそうになり危うく椅子に腰掛けた。

「まあ、話せば長くなるから、細かいことは抜きにして、今夜は君たちのお祝いだろう?」

デニスは、ブラッドとつないだ手を離すと、ブラッドの右側の椅子に座った。
それを見て、ヴァレンもブラッドとアンジェラの間に座った。

事の経緯を昼間聞いていたトッティは、デニスが椅子に座ると、飲み物をカウンターに置いた。

「じゃあ、改めて乾杯しましょう」

トッティの掛け声で、再びジョッキが重なる音が店に響き渡る。

「なんでメデタイ席に刑事なんかがいるんだよ」

ブラッドは不満を呟き、左手に持ったジョッキを一気に飲み干した。

「ほら、ブラッド。機嫌を直しなさいよ。今、説明するから…」
ヴァレンが、ブラッドの頭を慰めるように撫でている。

ヴァレンは、昼間の出来事をブラッドとアンジェラに説明し始めた。




(約8時間前)

11:58 東塔 5階

5階のロビーから屋上までの階段を登る途中。
ヴァレンはデニスが胸から取り出し開いた手帳を覗き込むように見た。

「ICPO…麻薬捜査官?」
「ああ。エイジアからシルクロード経由で流れ込んできている薬物のルートを追っている」
「それって…この大学が疑わしいの?」
「ああ…おっと、ファンデンブルグ助教授。詳しい話は後だ…」

階段を昇りきると、先ほど指示を受けた男が一人、屋上の入り口に立っていた。

「ご苦労。ここから作戦Cに移る」
「Cですか?作戦Bではなく…」
「ああ、Cに変更になった。お前はそのままヘリに乗り、ポイント305に向かえ」
「了解」

デニスに命じられた男が、ヘリに向かって駆け出した。
二人の会話がその男に聞こえなくなるくらい距離が開くと、男がヴァレンの腰に手を回した。

「ヘリのプロペラが回り始めたら、屋上に出よう。ここでは階下に声が響く」
「ええ、いいわ」

やがて、プロペラの浮力で機体が宙に浮くと、二人は建造物から屋上に出た。
降り注ぐ光が眩しく、ヴァレンは思わず、目を細めた。

その瞬間、左右から男が二人、飛び掛ってきた。
デニスは左から飛び出した男の蹴りを左腕で難なくさばくと、足払いで倒した。
そして、倒れた男のみぞおちに拳をのめり込ませた。

「うう…」

男はうめき声と共に体を海老のように折り曲げ意識を失った。
続いて、右側からの男の蹴りも同様に受け止めると、足を抱えたまま、階段に体ごと放り投げた。
踊り場まで転げ落ちた男が同様に倒れたまま動かなくなった。

「ちょ…ちょっと、シルバーじゃない。」

目の前に倒れているのはトッティの部下のシルバーだった。

「ってことは…」

階下の踊り場を見ると倒れているのはトッティだった。

「この二人はアタシの友達よ?! なんて事をするの…」
「すまん、すまん…咄嗟のことで…」

デニスがスーツの埃を払いながら、シルバーを起こし、気付に背中へ膝を入れる。
すると咳き込みながらシルバーが意識を取り戻した。

ヴァレンが階下に急いで駆け降り、トッティの体を起こす。

「ちょっと、トッティ…大丈夫?」
「痛た…体は…リストバンドのお陰で大丈夫だけど、顔をぶつけちゃったわ」

モデルのようなトッティの美しい顔にアザが二つほどできていた。
ヴァレンがトッティの手をひっぱり、体を起こすと二人は屋上に再び向う。

「何者なの?あの男は…」
「うん、ICPOの刑事さんなんだって…」
「あらら…アタシったら、なんてことをしちゃったのかしら」

屋上にヴァレンとトッティがたどり着くと、シルバーが膝を投げ出して座っていた。

「すまなかった。ファンデンブルグ助教授の御友人達」
「いえいえ、こんなにあっさりとヤラレタのは初めてだわ」

トッティが苦笑いで、顔の腫れを抑えていると、デニスがポケットからスプレーを取り出し、
おもむろに、トッティの顔目掛けて噴きつけた。

「ちょいと乱暴だが、痛みはすぐに消えるだろう。腫れは残るかもしれないがな…」

同じように、シルバーの腹部にもスプレーを噴きかけた。

「ふ〜」

と、大きな息を吐き出してシルバーもようやく正気に戻った。
デニスは、左手の携帯端末を開くと、5階階段前に待機している男に指示を出した。
同様にエレベーター前の男にも解散の指示を伝えた。
そして、デニスは最後に、雇い主のチェン教授に連絡を入れる。

「作戦B、完了。これで私の任務は終了。御機嫌よう。チェン教授」

デニスは各方面に連絡を入れたあと、胸のバッジを外すと、足元に落とし踏みつけた。

「これで、晴れて私はフリーになったわけだ」

足元の発信機のようなバッジは粉々に砕けていた。

「さっきは作戦Cに変更…とか言ってたじゃない」
「あはは、作戦Bは君を誘拐して、試合に出られないようにすることなんだよ」
「あら、それなら、私をヘリに乗せなくて良かったの?」
「ああ、チェン教授の部下として組織に潜り込んで今日で3ヶ月、本来の目的にたどり着いたからな」
「さっきの麻薬の話?」
「そうだ。先ほどの試合で、薬物の入った瓶を君も見ただろう」

ヴァレンは、眼鏡の男が飲んだドリンクの作用を思い出していた。
本来の人間の視覚能力が、ありえない形で露呈し、その効用を目の当たりにした。

「…ええ。」
「それを君が証言してくれれば、取引は完了だ」
「…それって、あなたがチェン教授を裏切ることになるんじゃないの?」
「まあ、そうともいうが…潜入捜査に裏切りもあるまいって…」
「二重スパイってわけね…なんだか、映画みたいだわ」



20:30 トッティの店

「…とまあ、そんなわけなのよ」
「すげえ〜」

ヴァレンの話が終わると、ブラッドは映画に感動した少年のように興奮していた。

「まったく、すぐ影響されるんだから、ブラッドは…」

アンジェラが呆れたように笑う。

「でもさ〜俺もそのドリンク飲んで、ヴァレンティーネ様にキスマークが本当についていたのか、
こっそり確かめようと思ってたんだよな〜」

そう云うと、ブラッドはズボンのポケットから、くすねた瓶を取り出しカウンターの上に置いた。

裏切り
April,24 2045


20:30 トッティの店

「ヴァレンティーネ様、ジパングへの出発は何時頃なんですか?」
「当初の予定では6月1日だったの。変更がないか、ローゼンバーグ教授に確認しておくわね」
「はい・・・楽しみだな〜どんな国なんだろう」
「大体ブラッドは、東洋がどこにあるかも知らないんでしょう?」
「あはは、そうなの?ブラッド」

アンジェラが、ブラッドを冷やかすと、つられてヴァレンも笑った。

「し・・・知ってますとも…」

ブラッドがしどろもどろになりながらも、ヴァレンに向かって意味不明な身振り手振りをしている。
ヴァレンは席を立つと、入り口の横の壁に貼ってある大きな地図の前に歩き出した。

「ここよね?ブラッド」

ヴァレンがしゃがんで地図の右下辺りの大きな大陸を指差した。

「そ、そうですとも・・・その大きな国こそがジバング!」
「何云ってるのよ、ブラッド。そこは、カンガルーの国シドニーよ」

アンジェラが呆れたようにブラッドの後方から頭を叩くと、
ヴァレンはしゃがみこんだまま笑いで体を震わせている。

「げ・・・ヴァレンティーネ様・・・ま、まさか・・・」


ブラッドが未だ見ぬ東洋の国に思いを馳せ希望と失望とを織り交ぜていると、店の入り口の扉が開いた。
乱雑で不規則な足音に、カウンターに座っていた3人の視線が入り口に集まる。

「なんだよ、試合が終わったってのに、またアイツラかよ・・・」

ブラッドが煩わしそうに呟いた。
見慣れたサングラスに黒服の男が3人先に入り、ドアの両側に並ぶと、
チェン教授がいつにも増して凄い形相でズカズカと入って来る。

チェンはカウンターに座っている3人が視界に飛び込むと、立ち止まることもなく一直線に歩いてきた。
その視線の先は一点を見つめている。

入り口に一番近い席に座っているデニスの横でチェンが立ち止まった。
そのすぐ後に男が3人控えている。

「デニス!勝手に作戦を変更して・・・どういうつもりなの」
「悪いな。俺、ヘリに乗る瞬間に高所恐怖症だったのを思い出したんだ。で地上で待機してたわけさ」
「命令違反の上に・・・試合までぶち壊して・・・契約金は支払わないわよ!」
「おいおい、試合は、アンタの希望通りの面子だっただろう?結果までは俺の契約外のことだぜ?
怒りの矛先は、そっちの使えない部下にぶつけたらどうだ?」

デニスはとぼけた口調で後にいる男たちを指差し返答した。

「・・・何でアンタがコイツラと一緒にいるんだ?この裏切り者!」

後ろに控えている男の一人が叫んだ。

「酷い言われようだな・・・あちらが俺の新しい雇い主だ。紹介が必要か?」

デニスが、入り口の横の地図の前に座っているヴァレンを右手で指し示した。

「てめえ!」

黒服の男達が、身を乗り出しデニスを取り囲む。

「アタシの店で騒ぎはやめてね」

トッティがカウンターの奥でグラスを拭きながら静かに語りかける。

「うるさい!オカマはすっこんでろ!」
「まあ・・・地雷を踏んだわね・・・」

そういうや否や、トッティが手を伸ばし男のネクタイを手前に引いた。
その勢いで男はバランスを崩し、カウンターの上に両手を突いた。
トッティの振り下ろしたアイスピックが、男のネクタイに突き刺さり、
身動きできなくなった男の目の前でアイスピックが小刻みに左右に揺れている。

「全く・・・最後の娑婆の夜を楽しく過ごせないものかね・・・」
「どういう意味よ・・・」

デニスの言葉にチェンが反応する。

「アンタ、麻薬製造の疑いがかかってるんだろ?明日にでも令状が届くんじゃないのか?」
「何ですって?」

ブラッドが言葉を呟いた瞬間、チェンは目の前で揺れているアイスピックを引き抜くと、
突如身を翻し、入り口横に座っているヴァレンを羽交い絞めにした。
ヴァレンの喉元には銀色のアイスピックの先が妖艶に光を放っている。

「おいおい、落ちつけよ教授」

飛び掛ろうとしたブラッドを右手で静止しながら、デニスが興奮したチェンに話しかけた。

「坊やは黙って座ってろ!」

デニスが立ち上がり、ブラッドの両肩を掴むと、チェン達に見えないようにウィンクをした。
ブラッドは、元の椅子に座り様子を傍観せざるを得なかった。
アンジェラの手がブラッドの背中に触れ、震えているのがわかる。

「どういうことなのか説明して頂戴!デニス!内容によっては、この女の喉を掻き切るわよ」
「おいおい、フォンデンブルグ助教授は関係ないだろう・・・」

既にチェンは極度の興奮状態で正気を逸脱していた。
手に持ったアイスピックがヴァレン喉元に食い込んでいる。

「デニス!契約金を2倍払うわ!その代わり、麻薬製造をこの女のせいにして頂戴!」
「アンタ達、アタシの研究室の道具一式を、今夜この女の部屋に運んでおきなさい!」

怒鳴りつけるようにチェンが男3人に命令すると、そのうちの一人が店を走り去るように出た。
残りの男2人は、チェンに代わり、2人がかりでヴァレンの両腕を壁に押しつけた。
チェンはヴァレンの白銀の髪から青白い光が輝いているのに気づくと、手に持ったアイスピックで、
ヴァレンの髪をかきあげ、左手でピアスを掴んだ。

「これは東洋の秘宝、プラチナブルー・・・アンタには勿体無いものだわ・・・」

チェンが、アイスピックの先をピアスに通すと、そのまま勢いよく下に振りおろした。
ブチっという音と共に、ヴァレンの左側の白銀の髪がみるみる赤く染まっていく。
続けざまに右の耳朶からも手でピアスを引きちぎった。

チェンの手元のアイスピックの先にはピアスが2個、妖艶に蒼白く輝いていた。

「わかった・・・取引をしよう」

デニスが、両手を開いて半歩前に出た。

「テメエ!裏切るのかよ!」

ブラッドは、思わず立ち上がり叫んだ。それと同時に先ほどのデニスのウィンクを思い出していた。
アンジェラも震えながらブラッドの背中越しに服を掴んでいる。

デニスは、ブラッドとアンジェラのほうを振り返ると、再び笑顔でウィンクをする。

「ああ、俺は条件のいいほうに転ぶロクデナシだからな・・・」

「ふふふ・・・あっはっは!」

気がふれたような笑い方で、チェンはアイスピックの先からピアスを指に転がすと、
自分の両方の耳にプラチナブルーのピアスをつけた。
そして、手に持ったアイスピックを壁に押し付けられているヴァレンの頭上に突き刺した。

ビーンと音を立てたアイスピックが、地図上のジパングの上で左右に激しく揺れた。

「じゃあ、取引は成立だな。お前達、その女性から手を離し、車を下に用意しろ」
「はっ」

男2人はデニスを慕っていたのか、素直にデニスの指示通り、ヴァレンから手を放した。
男達が店から出た後も、チェンは一人で狂ったようにフロアーで回り続けている。

「ああ、プラチナブルーのピアス。まさか生きている間にお目にかかれるとは思わなかったわ」



『オリエンタルブルーに輝くプラチナ製のピアスは、その手を離れた時に災いをもたらすといわれてるの。
だから、一度手を離れると禍(わざわい)に変わるから決して追っては駄目よ。』


カウンターの中で静かにトッティが呟いた。
無意識にブラッドとアンジェラがトッティに振り向いた。

次の瞬間、ボン!と云う音がホール中央で続けて2回鳴った。

「ああ!あたしの耳が・・・ああ!何も聴こえない!・・・あたしの声しか聴こえない!」

チェンが自分の両耳の辺りを手で押さえているものの指の間から血が噴き出している。
足元には、チェンの耳らしき肉の破片が飛び散っていた。

「ああ・・・何故プラチナブルーのピアスがここに落ちているの?」

チェンが両膝を床についてピアスを拾い上げようとした瞬間、
今度は指が吹き飛んだ。

「あらら、指が無くなっちまったら、契約書も書けないな・・・悪いが契約は破棄だ」

哀れむような声をデニスはチェンに投げかけ、近づいた。

「アンタの身柄を拘束する・・・といっても、この声も聴こえないか・・・」

デニスは後ポケットから手錠を取り出すと、指先のない右手の手首にそれをかけた。
蒼白く輝く手錠は、主を失くしたプラチナブルーのピアスの光と同じ輝きを放っていた。

プラチナブルー 外伝 第1章【起源】
August,1 2030

プラチナブルー 外伝.1

ルーツィエ・フォン・ローゼンバーグ
Lucie Von Rothenberg 

2030年 夏 エリッヒ・フォン・ローゼンバーグ邸

 プロイセン東部の古都、ライプツィヒ。その都市の西部地区にあるフォンデンブルグ教会の一角にローゼンバーグ邸はあった。
同邸宅のゴシック調外壁の小窓に降り注ぐ黒い雨粒が、ガラス面を蛇行しながら静かに流れ落ちていた。その様子をアンナと呼ばれた初老の女は病床のベッドから見つめていた。

「お祖母ちゃん見て。ほら、パパとお祖父ちゃんがテレビに出ているよ。」

ノックをせずに部屋に飛び込んできた子供は、雨の滴るスカートで濡れた手を拭き、祖母の傍らにあるフォログラムのスイッチを押した。

『…2029年度のノーベル医学・生理学賞には、我がプロイセンのエリッヒ・フォン・ローゼンバーグ博士が選ばれました。氏は鉱物と人工生命体との融合理論の研究において…』

「まあ、本当ね。」
「うんうん、ねえねえ、これは何のメダルを貰っているの?」
「これはね、ルーツィエ。人の役に立つ研究や発見をした人が貰える栄誉ある賞なのよ。」
「へ〜。」

ルーツィエと呼ばれた少女は、燦々と輝く瞳を大きく見開き、フォログラムに投影された祖父と父の姿を誇らしげに見つめていた。

「あら、ルーツィエ。あなた頬から血が出ているわ。こちらへいらっしゃい。」
アンナは枕元に置いてあったタオルでルーツィエの頬の傷をそっと拭い、そして濡れた髪をやさしく梳かした。
「痛い?」
「ううん、平気よ。ヴァレンにまた引っ掻かれたの。もうあの子ったら、トッティのことをからかうとすぐに怒るのよ。今日もね・・・」
「あらあら、あなたももうすぐ10歳でしょ?顔に傷をつくる喧嘩なんておよしなさい。」
「だってねだってね。アタシがトッティのこと好きなのでしょう?ってヴァレンがいうのよ…何度も違うって言っているのに!」
興奮気味に語り始めたルーツィエを諭すように、アンナは微笑みかけタオルで髪を拭い続けた。
「トッティはとても優しくていい子よ。おばあちゃんも大好きよ。それにヴァレンも教会に来て間もないけど…」
「それはそうだけど…でもでも…。」

アンナは深い皺のある口元に笑みを浮かべ、ベッド上部に備え付けてある引き出しから取り出した小さな箱の蓋を開けた。そして、その中から青く光る水晶のようなものを手に取り、ルーツィエの頬にそっと当てた。
すると、頬の傷は光の中へ消え、やがて痛みも消えた。

「不思議な石ね〜これ。ありがとうお祖母ちゃん。」
痛みが消えるとルーツィエは満面の笑みを、タオルに包まれたボサボサの髪の中から覗かせた。
アンナは小さく首を振ってから咳き込んだ。
「大丈夫?お祖母ちゃん。この青い石でお祖母ちゃんの病気も治るといいのに…」
「そうね。優しいのね、ルーツィエは…。でもこの石はあなたにしか効かないのよ。」
「そうなの…。」
「だから、あなたの痛みはすぐに消えるけど、あなたが引っ掻き返したヴァレンちゃんは痛いままだから、もう誰かを傷つけちゃだめよ。」
悲しそうな目をした祖母の瞳に直視されて、ルーツィエは、無言で渋々頷いた。
「じゃあ、私の病気が移るといけないから、もう行きなさい。教会のみんなと仲良くね。」
そういうと、アンナは横になり目を瞑った。

それから、3日後。家族が見守る中で、アンナはそのまま息を引き取った。
「お祖母ちゃん、お祖母ちゃん!」
ルーツィエは右手に青い石を握り泣き崩れた。そして疲れ果て眠りにつくまでベッドの脇を動こうとしなかった。
その2年後、祖母の後を追うように祖父のエリッヒが亡くなった。
父フリッツは祖父の意志を受け継ぎ、教会の司祭になった。普段はローゼンバーグ大学で研究に没頭し、週末は教会での仕事。ルーツィエの自宅で父の姿を見かけることが無くなってから3年ほど経った頃、両親は離婚した。ルーツィエは母に連れられ家を出たが、その母もまたルーツィエが18歳になると家に帰ってこなくなった。

August,4 2038


2038年 夏 フォンデンブルグ教会

祖父の葬儀以来、ルーツィエが6年ぶりに訪れたフォンデングルグ教会。7月第二月曜日だったため、父の姿は無かった。祖父母の住んでいたローゼンバーグ邸と教会とをつなぐ中庭に、菷を持った使用人が数人、忙しそうに掃除をしている。ルーツィエがふと、その見覚えのある背の丸まった女を見つめていると、女は、軽く会釈をし、こちらにゆっくりと向かってきた。
「ルーツィエお嬢様? すっかりと大きくなられて・・・嬉しゅうございます。」
祖父母に仕えていたマリアだった。
「お久しぶり。マリアもお元気で、あたしも嬉しいわ。」
「ええ、本当にご立派になられて・・・あの頃は、あの子達と同じ背丈くらいだったかしら」
マリアは、中庭でサッカーボールを蹴って遊んでいる少年たちを見て微笑んだ。

「どこに蹴っているんだよ。マリー!」
「何だよ、それくらいとってよ、シルバーのへたくそ」
教会敷地内にある孤児院の子供たちが蹴った古びたボールは、ルーツィエの足元へ数回バウンドしてから、ころころと転がってきた。ボールを追い、こちらに駆け出した3人の子供達の背丈はルーツィエの胸元あたりで、彼らは見慣れぬ女性を物珍しそうにきょろきょろと見つめて、思い思いのことを口にしている。

「みんな、楽しそうね」
ルーツィエがボールを拾い上げ差し出すと、赤い帽子を深めにかぶったシルバーと呼ばれた少年が嬉しそうに受け取った。

「うん、すごく楽しいよ。一緒にやる?お姉ちゃんもここに居た人なの?」
「えーっとね。あたしはね・・・」
一瞬言葉に詰まったルーツィエは、無意識に教会横の祖父母が住んでいた邸宅を見つめた。

「この方は、神父さんのお嬢さんなのよ。それに・・・あなたたちの大好きなトッティ君やヴァレンちゃんのお友達よ」
「えー親分の?」
マリアがルーツィエを子供たちに紹介すると、3人の子供達は顔を見合わせ驚きどよめいた。

「じゃあ、親分が言っていた、『おいしい料理を食べさせて元気になってもらうんだ』って人?」
「絶対そうよ、だって凄く綺麗な人だもん。親分のハニーに間違いないわ」
「うんうん」
3人の子供は輪を組むようにして、興奮気味に小声で話しては、ちらちらとルーツィエの顔を見て口元を動かし続けた。

「あら、トッティ君をみんな知っているんだ。もっと話を聞かせて」
ルーツィエは、中庭東側にある大きな木の下の木陰に腰を下ろすと、子供3人にバックから取り出したガムを手渡した。3人は慌てたようにガムをほおばると我先にとその口を開き語り始めた。
〜葬儀以来、すっかりふさぎこんで教会に来なくなった女の子を励ますためにみんなであれこれ考えたこと。親分と慕うトッティが、みんなの食事を作る手伝いをし続けたこと。2年前に北欧でレストラン経営をしている夫婦が、養子を探しに孤児院に来た時に志願し、料理の腕前を披露したことが認められ、その話が子供たちにとっての憧れのサクセスストーリーであること。シルバーとマリーが18歳になったら、一緒にお店を手伝えると約束してくれたこと。そして他でもなく、ルーツィエ自身のために彼がそれを望み行動したこと。〜
 子供たちが熱く語るトッティの人柄に、相槌や、驚きを織り交ぜなら聞き入っていたルーツィエの頬に、優しくそよぐ偏西風に舞う木々の葉が当たり止った。葉を手に取り頬に触れ濡れた指先から、祖母に頬を拭って貰ったシーンを思い出していた。

「そういや親分、今度ロサンゼルスに店を出したんだって」

プラチナブルー 外伝 第1章【起源】第2話
August,5 2038

プラチナブルー 外伝.2

ルーツィエ・フォン・ローゼンバーグ
Lucie Von Rothenberg 

2038年 夏 ローゼンバーグ研究室

 8年前に『鉱物と人工生命体との融合理論の研究』を発表してから、当研究室への仕事の依頼が殺到していた。
ノーベル賞を受賞したエリッヒの後継者である息子のフリッツは、プラチナブルーと呼ばれた鉱物とヒトの遺伝子の融合理論を発表し、一躍時の人となった。
その後、タツミ財団より鉱物プラチナブルーの無償提供と資金援助を受ける見返りとして、タツミコーポレーション主管産業でもある、オンラインカジノの人工知能部門の開発に協力していた。

人物本人を映写して投影する、本来のビデオカメラのような手法とは別に、フォログラムの中に人工知能とあらかじめプログラミングされた外観を組み合わせて投影する手法が、現在の主流になりつつあった。
膨大な人件費の削減を目的としたグローバル企業体と、環境汚染の少ないウェブ上での商取引を励行した国家の思惑と、そして生物・植物以外の有機体機能を持つ鉱物への人工生命体の融合研究を進めていた当研究室とのコラボレーションは、この10年間でヒトや物、金の流れを大きく変化させ進化させてきた。
フリッツ・フォン・ローゼンバーグはこの研究の先駆けとなる土台は築いたものの、実際の運用は、助教授や主任に任せており、フリッツ本人は、鉱物とヒトの遺伝子の融合理論の研究に没頭していた。


「おはようございます。デニス主任、アルバート主任」
「よう、グレッグ、今日は早いな」
「ええ、そりゃ今日は例の特別な日じゃないですか」
「うん? ああ、そうか今日は月に一度の、ルーツィエお嬢さんの来る日か…」

グレッグと呼ばれた新人の研究員は、脇に抱えた袋から7人分のコーヒーを取り出し、そのひとつをデスク隣のアルバート主任のテーブルに置いた。
同郷出身のデニスには直接渡した。

「あれ?教授は?」
「ああ、今朝もあっちだ」

アルバートは椅子にもたれながら、親指を立て奥の実験用の部屋を指差した。

「熱心だなあ、教授は…」
グレッグは右手に2つコーヒーを持ち、ドアのガラス部分から中を覗いたまま、右手でガラスをノックした。

「あら、まだ来てないのか、愛しのルーシーちゃんは…」
残念そうにドアから振り返ったグレッグは、ドア越しに教授に挨拶をしてから他のテーブルに残りのコーヒーを不規則に置いて回った。

「ルーシーって、お前まだ、ルーツィエの、ツィエの発音ができないのか」
「だって、アルバート主任、舌を噛みますよ、プロイセンの発音って。ほら、見てください」

そういうとグレッグは自分の舌を出した。

「なんだ? 無傷じゃねえか」
アルバートは苦笑いしながら乗り出した身をまた椅子に沈めた。

「あはは、だってオレ、面倒な努力は嫌いですから。それにルーシーのほうが呼びやすいでしょ?デニス主任」
「・・・そうだな」
悪戯っぽく笑ったグレッグが、もう一度舌を出して笑いを誘った。
グレッグとデニスはAD2032年に独立したロサンゼルス連邦共和国の出身だ。

コンコンコン。

不意に、研究室のドアをノックする聞き覚えのあるリズムが鳴り響いた。

「あ、この3連譜のリズムはルーシーちゃんだ」
兎のように飛び跳ねたグレッグがドアを手前に引いた。



「おはようございます。」
「おはよう、ルーシーちゃん・・・あれ?今日は旅行バッグもって…」
「おはよう、グレッグ。おはよう、デニス。おはよう、アルバート。」


ヒールの音を床面に5回鳴らしたルーツィエは、アルバートの引いた椅子に腰を下ろした。
グレッグは大きなバッグをその椅子の左側に二つ置き、コーヒーを手渡した。

「ああ、ありがとう、グレッグ。これお土産のドーナツね。」
「おお、朝飯食ってなかったんだ。助かるよ。」
グレッグは袋から二つ取り出し、ひとつを口に咥えたまま、袋をアルバートに渡した。

「おう、お嬢さん、夏休みのバカンスにいくのかい?」
普段とは違う格好のルーツィエに、苦笑いしながら袋を受け取ったアルバートが尋ねた。

「ん〜。旅行の準備して来いってパパに言われたの。バカンスなんて今まで行ったこともないわ」
「ああ、そういえば…教授がこの部屋を空けたところを見たことがないもんな。」


グレッグが咥えたドーナツを食べ干した時に、実験室のドアが開き、中から白衣姿のローゼンバーグが現れた。
「おはよう、パパ。」

ルーツィエが、青い石の入った小袋をいつものようにフリッツに渡した。
フリッツは小さく頷くと、ルーツィエに奥の部屋に来るよう促した。

「教授、ルーシーちゃんと旅行にいかれるんですか?」
グレッグが二つ目のドーナツをかじりながら、あっけらかんと聞いた。

「うん?一緒に行くのはワシではなく、デニス君が同行する」
コーヒーを飲みながら、デニスが小さく頷いた。

「ええ? デニス主任。まさかボクを出し抜いて、ルーシーちゃんと恋路を?!」
「あはは、そうじゃないさ、オレは夏休みの里帰りだ。」

タツミコーポレーションの会長からの指名で秘書を二人送ることになった経緯をローゼンバーグが説明した。
デニスが会長の孫であることを、ルーツィエもグレッグも初めて知って目を丸くして驚いた。

2時間後、グレッグとアルバートに見送られて、ルーツィエとデニスが部屋を後にした。
ルーツィエの耳には、加工されたプラチナブルーのピアスが青白く輝いていた。

フリッツは実験室のテーブルで額に右手をあててうな垂れていた。

「人工生命体の寿命は20年…ルーツィエ…」


プラチナブルー 外伝 第1章【起源】第3話
December,23 2038

プラチナブルー 外伝.3

ルーツィエ・フォン・ローゼンバーグ
Lucie Von Rothenberg

2038年 冬 ロサンゼルス連邦共和国 タツミコーポレーション本社ビル秘書室

「おはよう、ルーツィエ。どう?具合は」
「おはよう、円香。大分よくなったわ。体が少し重いけれど…」

 週末に体調を崩し、病み上がりの朝に声をかけてきたのは、タツミコーポレーション社長の長女、辰巳円香だった。

円香の開放的な性格がルーツィエにとって心地よく、同年齢ということもあってか、人見知りの激しいルーツィエには珍しくすぐに友達になった。

「でも、本当に大丈夫? 3回目よ。一度検査を受けてみたほうがいいんじゃない?」
「ん〜。ありがとう。明後日のクリスマスにはパパも来るらしいので、その時に見てもらおうかしら」
「うん、そうね。それがいいわ。午前中はウェブ会議でルートアクセスの案件だけだから、アタシのほうで済ませておくね」
「うん、いつもごめんね。迷惑ばかりかけて…」
「あら、いいのよそれは気にしなくて、具合が良ければ12:00になったらランチにでかけましょう。お勧めのところを探しておいてね」
「OK」
「ルーツィエのお勧めに外れはないから、楽しみにしてるわ」
「きゃはは。」

 本社の秘書室は3ルームあり、それぞれに12人ずつが配属されていた。この日、普段よりも1時間遅れで出社したため、円香が出かけた後は、ルーツィエひとりになった。ルーツィエは何気にデスク中央に常時電源の入っているパソコンのパネルに触れ、ランチ情報を検索した。

「お勧めのランチ・・・あら、今週もたくさん新店が出てるのね。・・・北欧料理・・・そういえば、トッティも修業してるんだっけ…」
ルーツィエは思いつくまま独り言を奏で、パネルを指で送りながら北欧料理店の新着情報を開いていた。
「やだ・・・嘘・・・あれほど探して見つからなかったのに、・・・こんなことって・・・」
紹介欄には、紛れもなくトッティ本人の料理を振舞っている姿が映し出されていた。少年の頃の強い意志を持った瞳に、変わらぬ笑顔。精悍になった顔つきが6年間の時の流れを感じさせた。紹介記事は、評論家から来店した客の声まで、さまざまな人の感想がリアルタイムでパネルに増え続けている。ルーツィエは画面をスクロールし、読み進めていくほど胸に熱い思いがこみ上げてきた。

「会いたい・・・。」

2038年 冬 ロサンゼルス連邦国際空港

 フリッツ・フォン・ローゼンバーグはプロイセン国発ロサンゼルス連邦空港行きの機内から降り立った。
到着口のゲートから出ると、デニスが出迎えに来ていた。
「教授、お久しぶりです。」
「うむ。」
デニスは、フリッツから手荷物を受け取ると、用意した車の方向を告げ、足早に歩き始めた。
「車には、会長ご夫妻がお待ちになっております。」
「そうか・・・。」

フリッツが出迎えのリムジンの後部座席に乗り込むと、デニスの運転で車はゆっくりと走り出した。
「遥、こちらがフリッツ・フォン・ローゼンバーグ博士。この方の父上、エリッヒ氏が円香に命を授けてくださった方じゃ。」
タツミコーポレーションの辰巳直樹会長に婦人を紹介されたフリッツは、握手を交わしたその右手を、遥と呼ばれた婦人の前に差し出した。
「初めまして。会長ご夫妻のお陰で、今こうして研究を続けていくことが出来ております。感謝の言葉もございません」
「お父上が亡くなられて、もう6年にもなるんですね。偉大な方でしたわ」

一通りの挨拶を交わした後、遥が庫内から取り出したワインをグラスに注いだ。
「博士。今回の来訪は、娘さんの容態についてと伺っておるが・・・」
「ええ、ルーツィエが3度目の発作を起こしたと、デニス君から連絡を受けまして」
「確か父君の話では、プラチナブルー鉱石との融合とリロードで寿命が20年延命できると聞いていたのだが・・・」
「はい、円香お嬢様のようなケースで、誕生後に術式を行った場合は、20年間は発症を停止することができます。寿命が延びるわけではなく、あくまでも発症を停止できる期間です。」
「うむ」
「そして、万一、発作が起こったとしても、術時13歳の時の遺伝子情報がプラチナブルー鉱石にコピーされており、生命体本体にリロードした後、時間をかけて、プラチナブルーからゆっくりと記憶を取り戻していくことができます。・・・ところが、ルーツィエのように誕生前に術式を施した場合・・・」
「記憶を持たぬ、真っ白な遺伝子のみのリロードになると?」
「おそらくは・・・何分前例がないもので・・・ただ、はっきりと申し上げられるのは、円香お嬢様の場合は、誕生後、常にすべての関連事項がプラチナブルーとの間で情報交換されておりますので、事の際にも100%円香お嬢様自身の人格を再リロードすることが可能です。たとえ、肉体のほうが別のものであったとしても・・・。そしてルーツィエの場合は、本体はルーツィエ自身ではなく、プラチナブルーからのリロードのため・・・」
「つまりは、同じ人格でありながら、過去の記憶を持たぬ存在であると・・・」
「おっしゃる通りでございます。ルーツィエの鉱石には治癒能力に長けた細胞の存在を確認しておりますが、記憶に関するブロックの成長をいまだ見つけておりません」
「そうでしたか…」

神妙になった男同士の会話に、空いたグラスの置かれたサイドテーブル。
まもなくして、デニスの運転する車が辰巳家の車庫の前で停止した。

「難しいことはわかりませんけど、人が進化するように、その青い石もきっと進化するのだと信じましょう。」
言葉を失っていたフリッツが、遥の言葉に顔を上げると、辰巳家北側にある教会の鐘の音が吹き降ろす風に鳴り響き、昼の刻を告げていた。

2038年 冬 ロサンゼルス連邦共和国 タツミコーポレーション本社ビル秘書室

「ルーツィエ。いいお店は見つかった?」
「うん。ここなんてどうかしら・・・ううん、ここにしましょう」

ルーツィエは、デスク前の液晶画面を指差しながら円香に答えた。

「どこどこ?」
円香は手荷物を無造作にデスクに置くと、深緑に近い黒い髪を右手で梳かしながらルーツィエの指先が離れたパネルを覗き込んだ。

「ダウンタウンにできた新しいお店ね。でも、北欧料理なんてあたし初めてだわ。」
「いい?じゃあ行こう」
ルーツィエは店の住所をもう一度確認してから席を立つと、円香の手を引いて歩き出した。

「どうしたの、ルーツィエ。そんなに急いで」
円香は、平素おっとりとした印象のルーツィエが、何かに駆り立てられたような雰囲気に変化していることに戸惑いながらも、質問せざるを得なかった。

「・・・円香。実はね、」
ルーツィエは意を決したように、これまで胸の奥に秘めていた想いを止め処もなく円香に話した。オフィスから店までの20分間、円香はただずっとルーツィエの声に聞き入っていた。
「いい話じゃない、ルーツィエ。・・・いよいよね。」
「うん、・・・でも円香、アタシとっても胸が苦しい・・・。」


プラチナブルー 外伝 第1章【起源】第4話
December,23 2038

プラチナブルー 外伝.4

ルーツィエ・フォン・ローゼンバーグ
Lucie Von Rothenberg

2038年 冬 ロサンゼルス連邦共和国 辰巳邸

「今日はとっても美味しかったね。さすがルーツィエの選んだ店だわ。」
「うんうん。」
「それに、お目当ての彼にも会えたしね。」
「うん。」
「連絡先は伝えた?」
「うん。それでね、さっき、明日のクリスマスイブの夜に会えないかってメールが来たの。」
「よかったね〜。・・・じゃあ、明日の夜はアタシと夜通しパーティにいってることにしておくから、ゆっくり遊んでらっしゃい。」
「え?・・・うん。ありがとう。円香」
「うん、じゃあねルーツィエ。おやすみ。ゆっくり休んで」

 円香が隣の部屋に挨拶を交わして出て行くと、ルーツィエは南側の窓のカーテンを開けた。ビバリーヒルズの高台にある屋敷の2階の窓からは、クリスマスのイルミネーションで散りばめられたカラフルな光の世界が遠く海まで広がっていた。ルーツィエが窓を少し開くと、海からの冷たい風がルーツィエの白銀の長髪を靡かせた。

 翌日、友人たちとのパーティの最中、円香の携帯が鳴った。
「あら、もうこんな時間なのね。」
深夜2時を少し回ったことを左腕の時計で確認した後、円香はハンドバックから携帯端末を取り出し膝の上においた。
「どうしたの?ルーツィエ。こんな時間に。」
「あのね、円香。アタシこのまま彼の部屋で一緒に住もうと思うの。いいかしら・・・」
「・・・良いも悪いも、そんな幸せそうな顔で聞かれたら・・・」
「きゃはは、ありがとう。彼、3ヶ月後の春にはプロイセンに帰国して店を出すんだって。」
「じゃあ、大きな荷物はいらないわね。必要なものがあったら言ってね。届けるわ」

March,30 2039


2039年 春 ロサンゼルス連邦共和国 セントラルメモリアル病院

 18階建ての病棟の最上階にある南向きの一室の入り口には、ルーツィエ・フォン・ローゼンバーグの名札がかけられてあった。ルーツィエがトッティの帰国の途を見送った昨日の夕方、3ヶ月ぶりに戻ってきた辰巳邸で彼女が倒れ、円香はそのまま病院に連れ添った。集中治療室にルーツィエが運ばれてから20時間が経過したが、ドクターから病状の経過は伝えられることもなく、助手からルーツィエの個室に案内され休憩を取っているうちに、円香はベッドの隣に置いてあったソファーで眠っていた。円香が目を覚ますと、前日、円香から連絡を受け取ったルーツィエの父、ローゼンバーグが病院に到着しており白衣姿でベッドの脇に立っていた。円香が起き上がると、ベッドに眠っているルーツィエを見つけた。

「円香君、君には大変な迷惑と心配をかけてしまったね。」
ローゼンバーグは、苦悩に満ちた表情を振り払うように声を押し出した。
「いえ、そんなことは・・・それよりルーツィエは?」
「まだ、意識が戻っていないままだ。」
「そうですか・・・。」
「うむ、円香君は家に帰って休み給え。しばらく状況は小康状態が続きそうだ。」
「・・・わかりました。明日、ルーツィエの着替えを持ってきますね。」
「助かるよ。」

自宅に戻った円香は、ルーツィエの着替えを用意するために部屋に戻った。
デスク横に置かれたルーツィエのバックが小刻みに揺れているのに気づくと、中から携帯端末を取り出した。が、ロックがかかっており着信の相手を確認することはできなかった。

それから数ヶ月が過ぎた。
病院では、円香と女性の看護士がルーツィエの着替えを手伝った。
病院に運ばれて以来、ルーツィエの顔も腕も足も日々ほっそりとしてきた。
が、腹部はむしろ大きくなってきたように円香は感じていた。
円香がルーツィエの腹部に手を当てると、まもなくして内側から手のひらをノックするような感覚を得た。

「まさか・・・」

円香が、ソファーに身を深く沈め、額にあてた両手の手のひらが髪を掬った。

翌日、円香がルーツィエの白銀の髪を梳いていると、耳のピアスがかすかに青白く光った。
円香が左手でそのピアスに触れると、突然円香の脳裏に映像が飛び込んできた。
「これ・・・ルーツィエの記憶だわ!」
「ルーツィエ、ルーツィエ。」
円香は枕元でルーツィエを2度呼んだ。

「円香、驚かせてごめんね。アタシの体は、アタシの意思ではもう動かないの」
「ルーツィエ?ルーツィエなの?」
指先に触れたプラチナブルーのピアスから、ルーツィエの懐かしい声が円香の全身に流れ込んできた。
「うん、そうよ。円香、あなたもプラチナブルーの遺伝子を持ってたなんて・・・驚きだわ」
「・・・アタシ、14歳の時に、旅行中大事故にあって、あなたのお父さんとお爺さんに執刀してもらったの。助からないって言われてたらしいの・・・」
「そうだったの・・・奇跡ね、こうやってまた円香と会話ができるなんて」
「ルーツィエ・・・」
病床の痩せ細ったルーツィエを抱き嗚咽した。
「泣かないで円香。アタシ嬉しいのよ。本当に幸せだったからこの1年。それに彼の命もアタシの中で宿ってるの」
円香はルーツィエと夜を明かして話し続けた。

 翌朝、ドアをノックしたローゼンバーグが部屋に入ってきた。
円香は、ルーツィエのピアスから意思疎通が図れたことを同氏に伝えた。
驚愕したローゼンバーグが、ルーツィエのピアスに触れた。が、ルーツィエからの反応はなく首を横に数回振った。
「にわかには信じがたいが、僕は円香君の話を信じたい・・・いや、信じるよ。是非、話を聞かせてくれないか・・・」

 円香は、目を赤く腫らしたまま、ルーツィエとの会話で記憶したことのすべてをローゼンバーグに伝えた。

「なんということだ・・・。おお、神よ・・・。」
ローゼンバーグは、ベッドの脇にひざまずき、ルーツィエの骨と皮だけになったかのような細い右手の甲に口づけた。

 ルーツィエの出産手術が4日後に決まった朝、円香はルーツィエに微笑みかけピアスに手を触れた。
「円香、アタシが死んだら、このピアスを受け取ってね。」
「うんうん、もちろんよ。」
「それでね、7年後に彼にこのピアスを渡してほしいの。」
「・・・約束するわ。」
「彼ったらね、帰国の時、アタシがいなくなくなったらすぐ浮気するんでしょうっていったら・・・」
「うん。」
「『僕は君だけを愛して、君がいなくなったらオカマになる』って真面目な顔で言うのよ」
「あはは、可笑しいわルーツィエ。」
「ごめんね、円香、最後まであなたには頼みごとばかりで。」
「いいのよ、ルーツィエ。」
「少し疲れたわ。しばらく眠るね・・・ありがとう円香。」

April,5 2039

4日後、帝王切開で3,500gの女の子を無事出産したルーツィエは息を引き取った。

April,23 2045


2045年 春 プロイセン国 フォンデンブルグ教会

荘厳なゴシック様式の装飾に彩られた教会の中庭では、パイプオルガンの音色が緑色の風景を優しく包んでいた。
中庭の芝生の上では、日曜日に教会恒例の、トッティによる昼食会が催されている。
人々の中には、大学で教鞭を振るう傍ら、休日は教会で司祭として過ごすローゼンバーグの姿もある。
いつもの日曜日と変わらぬ姿で、トッティの指示でテキパキと動いている教会出身のスタッフ達の笑い声が聞こえる。


「ふ〜、食った食った・・・トッティの作る美味い飯を日曜日ごとに食べられるなんて、子供たちも幸せだな」

体の3倍もあろうかという太い木の幹にもたれ掛って、とある青年は青い空が正面に見えるくらい寛いでいた。ふと、横に目をやると、7歳位の女の子が隣の木の下で、その青年と同じような格好をして空を眺めている。

「あの雲、キリンに似ているな。首が長いや・・・」

青年は、小さな女の子に聴こえるように大きな声で、空を指差した。

「・・・空に、キリンがいるわけないじゃない」

白銀の髪を靡かせながら、少女はいたずらっぽく微笑み返した。


-----完。


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