37.2℃の微熱
北端あおい



 京都取材




日帰り京都取材敢行中。
冬将軍とあいまみえ、懐炉5個使用。
お写真=夜の先斗町(?)。


2005年02月09日(水)



 被写体




写真を撮ってもらった。
自分にとって、被写体になる歓びというのは、「完全な客体」や「オブジェ(鑑賞物)」になることができるという歓びだ(それは、撮ってもらったものを見せてもらう喜びとはまたべつのものなのです)。

撮られる人に一瞬、完全に支配され、所有される歓び。
ファインダーを覗いた人と覗かれた人から、一分の隙もない完全な世界が生成される(でも、その世界が存在するのは、はじまりとおわりが同時に起こるくらいのほんの少しの時間だけなのだけれど、それでもそこに至ることができた瞬間はとても幸せなのだ)。

シャッターが降りる一瞬だけ、ひそかにその無疵で完璧な世界を噛み締めた。

御写真=ルイス・キャロル撮影の少女写真。steward様からのNY便りのポストカードなのです(嬉)。

2005年02月10日(木)



 春の闇とくちなし

くちなしのかおりがすきだといったひとがいた。
わたしの記憶では、くちなしのにおいは春の闇と濃厚にむすびつく。
むかし、くちなしがある庭に面したへやにすんでいたわたしの夜は、
毎春そのすぐれた香気でみたされた。
目をとじていても花の白さがまぶたにうかんでくる自己主張のつよい
かおり。それでいて、闇の色にはけっしてそまらない純白の花を咲か
せる日本・中国原産の常緑低木。
雨あがりの夜にはいっそう濃厚で、官能的に薫ってきた。
水で濡れた土のスパイシィなにおいと混じりながら。
白いノースリーブのワンピースの女の子が、春の闇のなかでひとり遊
びしているような印象。
ひんやりとした夜気につつまれたような、少女のエロス。
まだ、ことばで愛をつたえる術【すべ】をもたない、それでいて、感
覚的には官能の喜びを十分しっているような幼い女の子のイメージ。
そのひとは、晝のくちなしがすきだといっていたのだけれど、
いったいどんなイメージをもっているのかなぁ?
噎せかえるような、そしてちょっと淫靡なエロティシズムにみちてい
る印象のこのかおり、わたしはとうてい太陽のしたで楽しむ気にはな
れないのです。閨の中で芳らせたい、堪能してほしいかおり。
いやらしいなんていわないでください。
でも、お気にいりのくちなしの香水も「水にうかぶガーデニア(西洋
くちなし)」=清楚さやみずみずしさ、をイメージして調香されてい
るのだった。
もしかしたら、エロスとはほどとおいかおりなのかも。
あすは、春の闇とくちなしのかおりをまとって出社します。
足りないのはことばだった。(中略)
生き延びるために−−わたしは厳密に、精確に自分の意志をつたえようとする。
懸命に努力する。そのためにことばを欲する。(中略)
詩、ことば。
だが、それだけでも足りない。
言葉を超えた感覚による伝達というものを、わたしは実践した。
たとえば、嗅覚。
においに託してなにかを告げること−直戴的【ちょくせつてき】に。
言動が誤解されるのならば、わたしの存在やわたしの感情といったものは
漂わせた馨りで受けとってもらおう。
(古川日出男『アビシニアン』2000、幻冬社)
くちなしの花言葉は、とてもうれしい・わたしはあまりにもしあわせです・
清浄無垢・夢中・優雅 。

2005年03月15日(火)



 つづく

3月が終わって、4月になった。
4月が終われば、5月がきて、6月、7月、
そしてまた8月9月……続いていく。
連続する時間。
終わらない。
終われない。
十二ヶ月をもう何度巡ったの。
あと何回、四季を越えればいいの。
くるくると廻っていく季節のサイクルに、
遅刻しながら、また4月が来る。

こわい。

2005年03月31日(木)



 『SILENT RUNNER』

人は夢を見るべきだ。
誰かが注意していないと美しいものはすぐ滅びてしまう……。

すこしまえ、『SILENT RUNNER』 (ダグラス・トランブル監督、米、1972)という映画をおしえてくれたひとがいた。
すてきな映画でした。なにより『天空の城ラピュタ』以前に植物を愛するロボットがでてくるのには恍惚【うっとり】。
未来の汚染された地球。宇宙船のドームの中でしか、植物は生きられない。植物学者ローウェルは、いまやドームにしか残っていない美しいもの=森をまもるため、上の指示通り森のドームを破壊しようとした同僚たちを殺してしまう。やがて、土星の輪に衝突した船は、航行をコントロールすることが不可能となり、ローウェルは、ドームとドローンと呼ばれるロボットたちと宇宙を彷徨う。やがて、仲間がローウェルの船を見つけた。そのとき、ローウェルは仲間からドームを破壊した痕跡がないと責められ、爆破を促される。そこで、追いつめられたローウェルは、自分のかわりに森の世話をするよう教えこんだロボットをのせてドームを、切り離す。そして、痕跡をのこすため、かわりに自分の船を爆発させたのだった。

 2005/4/5 (Tue)  その2 No.151

森を持ち得ない人生より、森を持っているほうがすてき。
なぜって、ローウェルは美しいものをみることができたのだから。
魂を震わせられるような光景を何度もみることができたのだから。
これから、いったい何度、そのような美しいものに巡りあうことができるのでしょう。
でも、 そのような美しい景色は、森を持っていなければみえてこないものなのだわ、きっと。一生の間、森を見つけえないひともいるし、持ち得ても守りえないひともいる。ローウェルは、それを見つけ、守り得た。だから、ローウェルは、だれよりも幸福というものを知っていたし、自ら選んだ結果が死であっても、その人生は「充実」していたと言えるのではないかしら。
……そのような人生を幸福だと思うのは間違っている?
でも、わたしもローウェルのように美しいものがみたくてたまらないのです。
だから、森をさがして、わたしはわたしのいちばん深い場所へと呼びかけつづけます。
夢の中では無意識に、起きて活動しているあらゆる場面では意識的に。
呼びかけ、求めつづけられるあいだは、すくなくとも不幸ではないのですから。
(※おしえてくれたひとへのメールを一部改訂)

2005年04月05日(火)



 あるひとへ/ごーふる

あるひとへ

 ごーふる、ちいさいときから大好きなのです。
うすくてあまくてかるくて美味しいから。
はんぶんあげようかって、いってくれてありがとう
(こちらもちゃんといただきました)。
 でも、ごーふる大好きなのでうなずきそうになってしまいそうだったのでした(よくばり)。

 ところで、ごーふるをぱりぱりたべながら思い出しました。詩人・歌人の穂村弘さんの作品にこんなにすてきなごーふるのうたがあります(ご存じ? 知っていらっしゃるのなら、…でも、もういちど読んでも素敵ですね、ね)。

「自分の吐く白い息。思い出した。
楽しかった。転んで氷に手をついたまま、はあはあいうのも楽しかった。
そうだ、俺たちは、俺は、つるつるでごーふるだったんだ、最初から。
そして、そしてホチキスの…。」
わたしは言葉を切って、深呼吸した。こわかったのだ。

「そして、ホチキスの針の最初のひとつのように、
自由に、無意味に、震えながら、光りながら、ゴミみたいに、飛ぶのよ。」
と、女は笑った。
私も笑った。笑うより他なかったのだ。

(穂村弘「ごーふる」『シンジケート』沖積社、1990)

 このうたを片手にごーふるをぱりぱりたべています(最初はチョコレェト味にしました)。
ホチキスの針みたいに光ってとべたら、それはそれはもうすてきでしょうね。
 ところで、そちらはもう、ごーふるは召されましたか?


ついしん
穂村さんの本では『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』(小学館、2001)がすてき。
たとえば、こんな歌があって。

・可能性。ソフトクリーム食べたいわ、
ってゆきずりの誰かにねだること

・「殺虫剤ばんばん浴びて死んだから
魂の引取り手がないの」

・早く速く生きているうちに愛という言葉を使ってみたい、
焦るわ

・神様、いまパチンて、まみを終わらせて
(兎の黒目に映っています)

・なんという無責任なまみなんだろう
この世のすべてが愛しいなんて

なんて、きらきら鋭い歌ばかりで、どきどきします。
 
・夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。
お会いしましょう

 では、またお会いしましょう。

2005年05月07日(土)



 澁澤誕生日

澁澤龍彦氏の誕生日に乾杯。

女を一個の物体【オブジェ】に出来るだけ近づかしめようとする「少女コレクション」のイマジネールな錬金術は、かくて、究極の人形愛にいたって行きどまりになる。
ここには、すでに厳密な意味で対象物はないのだ。
ポーのように、死んだ者しか愛することのできない者、想像世界においてしか愛の焔を燃やそうしない者は、現実には愛の対象を必要とせず、対象の幻影だけで事足りるのである。
幻影とはすなわち人形である。
人形とは、すなわち私の娘である。
人形によって、私の不毛な愛は、一つのオリエンテーションを見出し、私は架空の父親に自分を擬することが可能となるわけだが、この父親には、申すまでもなく、社会の禁止の一切が解除されているのである。

(澁澤龍彦『少女コレクション序説』中公文庫、1985)

このような人の娘になれたら、と夢想する。

2005年05月08日(日)
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