相棒の話 - 2026年02月14日(土) 私の相棒といえば、PTAの副会長を一緒に務めて4年になる、例の彼女のこと。 彼女はいつも明るくてあっけらかんとしていて、何事にも一生懸命取り組む 姿を見て、一緒にPTA役員をやってもらえないかとお誘いしたのが始まり。 「明るくてあっけらかんとしていて、何事にも一生懸命取り組む人」という だけで、副会長の資質は十二分にあると思ったから声をかけたのだけど、年を 追うごとに「あれ?」「あれれ?」「あれれれれ???」ということが増えて きて、4年目になる今年度に至っては個別のコミュニケーションはほとんど 取らずにここまで来ました…。 1年目には手取り足取り、手出し口出し。 2年目もまだ、手取り足取り、手出し口出し。 3年目に、それを少し減らしたのよね。 この辺から、あれれれ「れ」の数が増えてきた。 PTAなので、学校行事と連動しているわけです。 ということは、毎年ほとんどやることも考えることもタイミングも同じような 感じ。 丸2年間手取り足取り、手出し口出しを繰り返したら、3年目には自走できると 思ったんですよ…。 それが、私の声掛けがないと全く事が動かない、始まらないことに気が付き ました。 私が声をかけるとその都度 「やろうと思ってたー」 とか 「そろそろだよねー」 といったようなことは言うんだけど、私が黙ってると、やっぱり何も動かない。 おやおやおやぁ? が続いた3年目。 4年目になる今年は完全に手も足も取らず、手出しも口出しもしなかったら、 直前になってアタフタアタフタして、誤字脱字だらけ、ミスだらけ、だけなら まだしも、これまでのことをすっかり忘れたかのように、初めて聞いたような 顔をしていて、いよいよ本格的に アーーー、こりゃ間違えた、私が間違えていた!! ってことに気が付きました。 私が間違えていたので、相棒のことは責めない。 何度か声掛けはしたんだけどね? 「ちょっとあれでは…」 「もうちょっとこうしてほしい」 といったような内容は。 でもそれで改善されることはなかった。 私にできることはもうありません。 私は別に彼女の指導係でも先輩でもありませんしね。 私は副会長で、副会長としてやるべきことは外部との折衝と内部調整だと 思っているので、これまで相棒に個別に相談していたのを止め、全体LINEに 投げて役員全員に相談することにしました。 一斉の声掛けはするけれど、個別の声掛けは止めた。 そしたら4年目となる今年は個別LINEでのやり取りはほぼ無くなり、フォロー (だと私は思っていたけどそれは私の独りよがりだったし傲慢だった)も 止めた。 そしたら、彼女が自発的に動くことはほぼゼロになったよ。 定例会で使用するレジュメ作りも彼女の仕事だったけれど、いつも中身は すっからかん。 そのレジュメだって、打ち合わせ時に持ってくればもう少し中身も埋まり そうなものを、打ち合わせ時には持ってもこない。手も付けていない。 定例会直前になって「レジュメ作りました、確認してください」と投稿。 それも、ほとんどの人間が開けないタイプのファイル形式。 「それ、開けないからPDFにしてくれる?」と何度言ったことか。 無駄なラリーをしてようやく開けられたPDFもすっからかん。 「いったい何を確認するん」という状態。 何を言う気にもなれないので、もう何も言わない。 どうせ私が定例会の議事進行を行うのだから、私が全部口頭で喋って行間を 埋めたよ。 だからと言って、他の役員の前で相棒の悪口なんて言いません私。 だって大人だもの。 でも多分皆気付いてたと思う。 思ってくれていたと思いたい。 「カロリィさん、諦めとるな」と。 誰も口には出さないけれど、そんな空気は薄っすら感じ取れたので良しとする。 たとえ空気を読み違えていたとしても、もういいやそんなことは。 彼女に関わると私の仕事が増えるし、彼女がこれまで担っていたことは、 他の役職の方に少し手伝ってもらうだけで簡単に埋まる量だから。 そんなこんなで、定例会は残すところあと1回。 この定例会のレジュメは、私が作ろうと思っていた。 どうせ私が言わなければ作らないだろうし、作ったところで中身は空っぽ。 と思っていた矢先、すっからかんのレジュメが投下された。 「早めに」と思って先回りしたのかもしれない。 でも空っぽなので、誰も反応しなかった。 何の確認をしろと言われているのかが誰にも分からないから。 そのままログは流れた…。 そして先日届いた副校長からのメール。 私は気付いてしまった。 メールの送信先が、会長と私だけになっていることに! そうか…。 メールやデータの送信先は相棒だったはずなのに、副校長のメールの送信先 からも外されてしまったんだなと。 ちなみに今日は、新入生保護者説明会がある。 例年、PTAのことは会長と副会長両方から説明をしていて、私が副会長を務め 始めてからはずっと私が担当している。 最初の頃は相棒にも声をかけ、こういう風にやるよ、毎年こうやって説明を してるんだよと流れを説明したりしていたけれど、今年は当日になっても 相棒は自分の出欠すら表明してこなかった。 PTAってボランティアだから、参加は強制じゃない。 あくまで、都合のつく人が余力を使って無理なくやるべきだと思うからね。 私なんて今無職なもんだから、都合も何も、PTAに全振りだってできちゃう。 だから押し付けない。 自分の価値観で動く。 PTA役員て、別に仲良しこよしのお友だち同士じゃないけど、お友だちを誘う こともあるよ。 嫌な顔しないで引き受けてくれそうな人には声をかけさせてもらってきた。 相棒も最初はそこがスタートだったけれど、余りに自力で動けなさすぎた。 夫からは言われたよ。 「そういう人を選んだのはカロリィちゃんでしょ?最後まで面倒見なきゃ」 って。 そうだよね。 でも疲れたから止める。 だってボランティアだから。 面倒見るなんて、おこがましい! さて、残りの1ヶ月半は副会長1人っきりのつもりでやっていきまーす。 ... タイミー派遣先 - 2026年02月13日(金) 1月の中旬くらいにタイミーで入った割烹のお店。 タイミー歴3回のうち、ここだけが私に対して何のレビューもコメントも くれませんでした。 他の2店舗は、 「ありがとうございました、またお願いします」 的なコメントをくれて、“バッジ”をくれていたのだけど、そこの割烹だけは 何のレビューもコメントも無く、またバッジもくれませんでした。 バッジというのは、例えば調理場に入ったら“調理マークのバッジ”、洗い場 に入ったら“洗い場マークのバッジ”、ホールに入ったら業態によって “ホール”や“宴会”のバッジがもらえるんですよ。 で、お店によっては募集要項に 「3店舗以上から、複数のバッジをもらっている人限定募集」 っていう条件があるのです。 ホールのお手伝いをしたのはそこの割烹だけなので、せっかく行ったのに “ホール”または“宴会”のバッジがもらえておらず、バッジの種類が 足りないがために応募できないお店もあるのです。 そもそもそこの割烹の大将は私に対して不愛想で、決して感じが良いとは 言えず(コワモテな上に、ですよ)、次に募集があってもあまり積極的に 行きたくはならないな〜と思ってはいました。 でもね、バッジくれないお店には行きませんよ笑 ホール業務、そこまで積極的に行きたいわけではありませんしね。 せっかく勇気を出して行ったのに、経験値としてカウントされないなんて、 徒労感大きい笑 自分たちの足りない部分を埋めてもらうためのタイミーなんだから、最低限 の対応はしましょうよと思う。 明らかにタイミーを軽く見てる証拠ですしね。 ということであの店にはもう二度と行かない。 ... 母、力尽きる。 - 2026年02月09日(月) ついに母親が亡くなりましたー。 ガンが分かってから約3年半、ついに力尽きた。 遠方に住んでいますけども、亡くなる2日前には会いに行けたので良しとする。 亡くなった当日も立ち会えたので、良しとする。 いや厳密に言うと、私がトイレ行ってる一瞬の間に亡くなってたんだけども。 それを死に目に会えたと言えるのか、立ち会えたと言えるのかは私の匙加減、 てことで「立ち会えた」こととする。 自慢じゃないけど無職なので、先週水曜日の10時過ぎに父から連絡が来て 「今すぐ来てほしい」 と言われ、12時30分の新幹線に乗ったのだからフッ軽。 私フッ軽。 とはいえ遠いんですわー 新幹線と在来線の特急乗り継いで、病院に到着できたのは夕方の4時半を回って おりました。 私が病室に着いたときにはもうとっくに意識も無くって、「ただ息してるだけ」 の状態でした。 夜になって、 「今夜は一晩病室で明かすことになるのかな〜、寝られるように準備しよ」 と思って、歯磨きしたりトイレに行ったり…してる間にピ―――鳴りました。 ガン闘病3年半ですからね。 ピンピンコロリとは言わないかもしれませんが、1月の末に緊急入院するまで は風呂もトイレも自力でできてましたし、2階にある寝室への移動もして いました。 父いわく、最後の方は危なっかしかったと言ってたけど。 緊急入院してからは「トイレも1人で行っちゃダメ」というドクターストップ がかかり、いちいちナースコールを押していたみたいですが、金曜に入院 して翌週水曜日には亡くなったんで、ほぼほぼ自力で全てやり切ったと 言えると思います。 他人様になかなか頼れない、甘えられない、自力で何でもやりたい、迷惑を かけたくない、重荷になりたくないというのがポリシーだった母らしい最期 だったんじゃないかなと思います。(それがポリシーですと本人が言った わけではないけど、そういう人だった) ん−−−、幸せな人生だったんだろうかねえ? 亡くなる直前まで父への不満タラタラだったけども笑 通夜と葬儀、ビックリするほど母の友人たちが多く駆けつけてくれましてね。 皆が皆、口を揃えて 「いつも明るくて楽しくて面白い人だった」 って言うんですよね母のことを。 私の妹も、母のことを可愛くてチャーミングなお母さんだったって言います。 多分、母が本性を見せていたのは父と私に対してだけだったんだろうな。 そりゃ、わざわざ通夜の席で亡くなった人の悪口言うわけないから当然 なんだけど、私から見た母は、気難しくてワガママでヒステリックで エキセントリック、つまりは内弁慶なんですよね。 すーっごく外面が良かった。 多分、母の友人たちに私の知る母のことを話しても信じてはもらえないくらい だと思う笑 ま、もういいんだ、んなこたぁ。 亡くなった人を悪く言うと、どうやら生きてる側が責められるらしいから。 私にだって外面があるので、外では言いません。 ここでしか。 母のガンが分かった時から、母を亡くすってどんな感覚だろうなあ、私史上 「最も身近な人」を亡くす経験になるなあ、その時を迎えたらいったい自分は どんな感情になるんだろうなあ…等々色々考えていたけれど。 とても普通にとても一般的な感情が沸いただけ、でした。 母に会えなくて寂しい、と感じるのはもう少し経ってからな気がします。 だって、実家を出てからの年数の方が長いわけだし、数ヶ月声を聞かない期間 もあったし、コロナ禍はまるまる2年間くらい顔も見ていなかったわけだし。 先週の月曜日に会って話をしたのが最後なので、まだイマイチ実感としては 薄いのかもしれません。 病院のベッドで息も絶え絶えの母の横で、私と父は談笑してたりしたよ。 今夜はここで夜を明かすのかな〜と考え始めた瞬間のご臨終でした。 動かなくなっちゃった母を見たときにはこみ上げるものがあった。 でもその直後から、葬儀社への連絡、ご遺体専用タクシーの手配、病室の 片付け、関係各所への連絡等々、陣頭指揮をとったのは私だったので(笑) 悲しみを感じるヒマなどありませんでした。 ヒマがあったら泣いたんかと聞かれても、多分そこまでメソメソはしてなか ったと思うけどね。 母が入院していた大きな病院は県庁所在地にあり、父母が住んでいる実家は そこから来るまで1時間半かかる僻地なので、帰りは私が運転しましたよ。 なんか、父に任せるとボーっとしていそうで怖かったのでね。 私も私で、全く土地勘のない初めて走る1時間半の夜道なんで、余裕なんて ありませんでしたが、父よりはマシかと思って引き受けた。 母が亡くなったのは夜9時ごろ。 そこから医師も看護師もワッサワサ動いてくれて、手配したタクシーはすぐ 来てくれて、1時間半かけて家に帰り着いたのは夜中の12時半ごろでしたが、 あんな時間にあのスピード感で動いてくれる社会人の皆様には頭が上がらない。 本当に皆さまありがとうございます。 めっちゃ色々割愛するけど、通夜も葬儀も無事終わりました。 副会長ならぬ、副喪主くらいの働きはしました。 大人の階段を登れた気がします。 喪服パツパツだった〜… ...
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