タイトル付けようのない感じに仕上がりました。 - 2013年03月29日(金) 1年前より10kg減量できたりしまして、着る服着る服全部似合っちゃったり なんかして、会う人会う人に「痩せたね!!」なんて言われたり、おまけに 「スタイル良くなった!!」とまあ絶賛の嵐の中でガッツポーズを 繰り広げておりますカロリィですどうも。 13号ギリギリだったのが11号をスッキリ着られるようになり、LLサイズで ギリギリだったのが、だいぶゆったり着られるようになりました。 ボトムに至っては、もう頼るのはUNQぐらいしかなかったのですが、どの お店の物も選べるようになりました。 10kgって数字にするとスゴイけど、洋服のサイズは案外減らないもんですね(笑) ブラのサイズも1カップダウンに留まっています。 しかしどうやら昔から着やせするタイプらしく、実際の体重やサイズよりも かなり細めに見られてしまいます。 いや、いいんですけどね? たとえば下着買いに行って、ブラとおパンティセットで買いたいなと 思ってまずブラを選ぶわけですが、相手はおっぱいのプロですから、パッと 見で的確にブラサイズを当て、試着室に持ってきてくれるわけです。 (もちろん採寸もしますが) で、じゃあセットのおパンツお願いしますと言うと、Mサイズを持って きやがるんですよ。 いやいやいやいや。 どこが? ムリ。 「あのー。どう考えても無理なんで、LL持ってきてもらえますか」と。 いちいち言いたくないわそんなもんー!!となってました。 あれですか? お客様は細いですよ、少なくとも私共にはそう見えてますよというお世辞 なんですか?私はずっとそう思ってました。でもそれ裏目に出てますから! 洋服を買いに行ってもそう。 お客様でしたらこちらのサイズでよろしいかと…と店員さんが出してくれる サイズはだいたい2サイズほど小さい。 えームリ( ゚д゚ ) しかも 「それ多分入らないです。私こっち試着します」 と本人が言ってるのに、 「え、それはちょっと大きいかと…」 とか言いやがる。 で、履いてみたらギリOKっていう。 何ならもうワンサイズ上欲しいけどなっていう。 でもこれ最大サイズだよなっていう。 そんな感じの着やせバンザイっぷり。 なので10kg痩せた今は、絶対必ず「Mサイズ入るようになったでしょ」とか 「9号入るよね?」と言われるのです。 え、ムリムリ。 そりゃ入るかもしれんけど、ピカるの直美ちゃん状態ですそれ。 11号ですし、LもしくはLLですから。 だからね、私は自分がデブだからとかデカイからとか言っても、何かちょっと 謙遜してるみたいな。ホントはそんなこと思ってないくせに的な感じに 思われてたっぽいんですよね。 私は本気でデブをネタにしてたのに。 心外だわっ。 でもね私、骨格がガッシリしてるんで、思ったより細くなってないんです(笑) 洋服のサイズにそれが表れてるよ。 身長はそこそこあるし、肩幅は広いし、骨盤は超安産型のぼってり型。 ただし、同じ身長体重でBMIやら体脂肪が全く同じ人と比べても、おっぱいが デカイ分他がスッキリして見えるのかなと。 そんな自己分析です。 体力もほぼ完全に復活したし私、今からでももう2〜3人産めるよ多分! 今から妊娠出産だと、マルコウ付くけどな!! 産んでも産んでも男な気がするよ!! 私、世が世なら絶世の美女だったはずなのよ(真顔) しかも、男いっぱい産めるっていうね? すんごい優良物件だったと思うんだあ。 将軍のお眼鏡に適っちゃったりしてね! 御台所となって、お世継ぎいっぱい産めたと思うんだよなあ。 (大奥見すぎ) 私が正妻だったら、側室は要らんし、御三家も必要なし! 何の話してたっけ。 ... 宴の後の静寂。 - 2013年03月26日(火) 4泊5日、私の両親が滞在し、今朝帰っていきました。 娘の家だと気を遣わない…わけではないでしょうが、父は年に1回、母は 年に2〜3回遊びに来てくれます。 母はとっても賑やかな人なので、帰っていなくなると家の中がシーンと しました。 たったの2LDKの狭いマンションなんですが、家族4人ほとんどLDK 部分と寝室に使っている和室だけで過ごすので1部屋余っている状態。 なので誰かが泊まりに来たときは、物置状態のその部屋をザザザッと片付け て客間(笑)にしています。 子供たちもじじばばが大好き。 上の子は、今回初めて私と離れてじじばばの間で寝ました。 成長したなあって思います。 前回までは「お母さんと寝るぅ…」と言ってたのに。 おかげで私はダブルの布団で広々寝られました♪ でも人が泊まりに来て何が大変って、食事の世話ですよね。 両親は、私がイヤだしんどいと言えば、文句を言わずに出前や外食にして くれると思うのですが、さすがに5日もそれは…ねえ。 とにかく「野菜が食べたい」と言うので、過去の滞在時よりはちょっと 頑張って色々作りましたよ。 そんな手の込んだ物じゃありませんけど。 サニーレタスのサラダ、新タマネギのスライスサラダ、菜の花の辛子和え、 レンコンきんぴら、肉じゃが、きんぴらごぼう、サトイモグラタン、 キュウリとキャベツの浅漬け、大根サラダ、などなどなどなど。 今は野菜が安いから色々できたけど、コレ年末年始とかだったら破産してたわ。 個人的にはサトイモグラタンがヒットだったなあ。 サトイモは、皮ごとチンして柔らかくなったら皮をむき、ゆでて冷凍した ブロッコリーとカリカリに焼いたベーコン散らしてマヨとチーズを これでもかってくらい乗せて、オーブントースターで焼くだけ。 美味しかった〜♪ 辛子和えは、最近の私のヒット作。 子供が食べられないからウチでは作んないんだけど、店の賄いとして よく作ります。 メイン料理に添えるクレソンの茎やクズの部分を茹でて、辛子と醤油で 和えるだけ。ごまを多めに入れても美味しい。 お店の人にはあんまり人気無いんだけど(無いんかい)クレソンのクズは 毎日大量に出るし、自分が気に入ってるんでしょっちゅう作ります。 所要時間は10分程度だし。 お湯沸かすのに一番時間がかかってるよ(笑) 明日からまた日常が始まる〜。 親が来てくれたことで、自分の子育てを客観視できた部分もありました。 「とにかくアンタは長男にキツイ、次男には優しい」と言われたよ。 「ていうか長女の私を抑え付けて育てたのはアンタでしょ!!」 とは言い返してないですよ(苦笑) 仲良く見えて、母親に対しては色んな感情を抱いている私です。 離れてるからこそ仲良くできるけど、もう同居はできない。 一緒に暮らしたいとは思いません。 自分がされてイヤだった育児法はなるべくやりたくない。 あれしちゃダメ、これしちゃダメ、あれもこれも食べちゃダメとか。 ガムとチョコは身体に毒なんだよと洗脳されて育ち、結局後から反動が 来ただけっていうね。 インスタント食品やファストフードも食べさせてもらえず、皆が見てる テレビ番組も見せてもらえず、翌日クラスメイトの会話に入れないっていう すごくすごく辛い思いをしていました(当時の私にとっては) その代わり、食事は全て自然食品だったしおやつは手作りか100%ジュース。 見ていたテレビは『世界名作劇場』と『まんが日本昔話』か教育テレビ。 文章にすると理想的だね(笑) 誰の理想? 親の理想ですよ。 子供は誰もそんなもん求めてないよ。 バカなバラエティ番組が見たくて、色の付いた甘いお菓子が食べたいの。 当たり前の欲求だと思うよ。 あ、ヤバイ。 話が逸れてきた(笑) とまあ色々黒い感情は抱いてるんですが、封印中です。 有事の際には吐き出してやれと思っていますが、何も無いのにわざわざ 関係を悪くすることもないしね。 それはそれとして、楽しい5日間を過ごしましたよ。 ガールズトークって言うんですか(←59歳と34歳女子で) 色んな話に花が咲きました。 私みたいに仕事してたり小さい子がいたりすると、自分の友人とバカ話で 何時間もゲラゲラ笑って盛り上がる、なんてことはもうできないんですけど 母親とはそれができました。 多分母もそれは同じで、昨春定年退職した父と2人暮らしでは、盛り上がる もんも盛り上がらんと。 私も、旦那と話すのはそれはそれで楽しいけど、やっぱり関西系のノリとは 違うっていうかね。 かゆいところに手が届く、ココや!!と思った瞬間で笑いが起きる、 狙った通りのツッコミが来る、みたいなことはやっぱり無理なようで。 実際、私と母がベラベラベラベラ〜〜〜〜としゃべってる横で、旦那は キョット〜ンしてましたし。 途中「え、それってどういう…?」みたいなことを口はさんだきたけど、 説明してたらおもろないんで無視しました。 分からんかったら分からんでそれでええやんか流れを遮るなと。 酷いね私。 今日はお休みです。 さ、ご飯つくろっと。 ... 吐露。 - 2013年03月12日(火) 長文です。 暗いです。 ***** ふと、2011年の3月って、どんな日記書いてたんだろうなあと思ってログを たどってみたのですが、あの3月はただの一度も日記を書いてませんでした。 うーんそっか。 何となく震災の話題は避けて書いてた気がするなあ。 覚えてることだけでも、書き出してみるかな。 ***** 住まいは首都圏です。 震度5弱、とかだったと思います。 まあそこそこ揺れました。 とは言っても、後からニュースで知ったことと比べると、表現としては 「ほとんど揺れなかった」と言っても過言ではないのかもしれません。 無造作に積み上げてあったトイレットペーパーの一番上が、ドサリと トイレの中で落ちた音がしただけだったから。 大きな家具類や家電も、何一つ被害はありませんでした。 停電にはなりましたけどね。 それも夜寝る前には復旧しました。 あ、地震だ。揺れてる。と気付くと同時に、大きいぞ…そして長い!と いうようなことを考えていました。 テレビをつけていましたが、揺れの途中でプツンと電源が落ちました。 私と、当時3歳だった長男と、生後半年ほどの次男。 ちょっと離れた場所にいた長男は、半泣きで駆け寄って来ました。 とりあえず2人をこたつの下に押し込め、ゆ〜らゆ〜らと続く長い揺れの中、 これが収まったら何をするべきかと考えを必死でめぐらせました。 揺れが一瞬収まったとき、私は立ち上がって防災・非難用具を詰め込んだ リュックを取り出し、バッグをもう1つ取り出してすぐ食べられるような お菓子や飲み物、子供たちをあやすおもちゃや絵本を少量適当に入れ、 エルゴ(抱っこひも)に次男を装着し、長男にも上着を着せました。 玄関にあったスニーカーも近くに置き、いつでも戸外に逃げられるように 準備しました。 その間も、時々ゆら〜りゆら〜りとはしていた気がします。 そうこうしているうちに、共同廊下から(ウチはマンションなので)人の 声が聞こえてきたので、私もドアの外に出ました。 そしたら、着の身着のままの状態の人が何人も廊下に出てアワアワしていました。 いやいやいやいや。 今の間に、できることあったでしょ!? と内心ツッコミましたが、阪神大震災を身近に感じていたかどうかの違い だろうかと思いました。 出身は関西圏なので、阪神大震災のときもそこそこ揺れました。 首都圏に住むようになって丸9年経ちますが、3.11以前の首都圏住まいの 人たちの防災意識は、もんのっすごっく低かったように思います。 昔の同僚や、周囲にいるママ友にそれとなく防災グッズは準備しているかと 聞いた事はあるけれど、「しているよ」と即答した人はゼロでしたから。 それでいて、最低限のものをリュックに詰めて常備している私のことを 神経質だとか心配性だとか、笑う人さえいたのを覚えています。 それはそうと、あの日揺れたのは午後2時半とか3時前ごろでしたよね。 旦那の職場はチャリンコ通勤5分の場所なので、30分もすると帰宅して きてくれました。 自分たちは無事、な状況ですから、まさか自分たちが関西圏にいる身内たち に心配されている立場であることには気が付かず、誰かに連絡するという 考えは浮かびませんでした。 しばらくすると母から携帯に電話がありましたが、 「無事だよ。何ともないから。それより、携帯の充電が貴重だから、もう 電話もメールもしないで」 と言って切りました。 非情でしょうか(苦笑) 午後2時3時というと、乳幼児を抱える専業主婦は、子供たちのお昼寝の 都合やなんかで、用事さえなければ家にいる時間帯だと思います。 なので外は一切出なかったのですが、旦那が帰宅してくるときには 川の水位がいつになく低かったそうです。 後から思えば、津波の予兆だったのでしょう。 しかしそんな知識もありませんでした。 暗くなっても停電は続いていたのでろうそくの光で過ごし、ガスは使えた のでお湯を沸かしてインスタントラーメンで夕食を済ませました。 電気がないと、あんなにもやることがないんだなって現代病を痛感した 瞬間でもありました。 テレビもない、ネットもない、時折り携帯のワンセグで情報を得たり していたけれど、小さな画面の中で津波が押し寄せてくる映像ばかりが 流れていました。 それでも夜9時か10時ごろには停電も復旧。 ヤレヤレとばかりにお風呂にお湯を張り、身体を洗うこともできました。 当時はこんなこと↑、書けなくてね。 私が感じた恐怖や苦労など、非にならないようなことを経験した人たちが いっぱいいるのに、っていう何だか変な罪悪感もずっとありました。 翌日以降は、スーパーの棚から食品が消えうせるという事態も起きたようです。 なので、あれだけ毎日通っていた商店街にも、震災後1週間は一度も足を 運びませんでした。 まあそれも、パルが来てくれたからなんですけど。 だから買い物も行かずに食いつなげたんですよね。 たまたまお米も30kg入りの袋を買ったばかりだったので、その心配も ありませんでした。 震災から10日ほどした頃、いつも配達をお願いしているお米屋さんの前を 通りかかると人だかりができていたのです。 お店の棚は、かなり品薄でした。でも米屋の奥さんが私の顔を見るなり 「カロリィさん!!カロリィさん!!お米あるの?大丈夫?? 子供たち食べる分あるの??」 と大声で聞いてくれたのです。 「大丈夫です。しばらくの間、ありますよ」 と答えると 「お得意様の分は取ってあるからね!!いつでも持って行くから!! 安心して!!」 と人をかき分け、叫んでくれたのでした。 もう、ありがたいやら何やらよく分からない感情でした。 ネットでばっかり安いもの物色するんじゃなくて、地元の個人商店と繋がり を持っておくことがこんなにも大切なことだったんだって気付かされました。 ずい分使い古された言葉ですけど、私が一番「絆」を感じた出来事ですね。 「私なんて何の被害も被ってないんだから、ホントは言いたくないんだけれど」 の出来事の中に、「あの日以降、しばらく頭痛と肩こりが酷かった」という のがあります。 ホントにホントに、そんなことを言うことすら罪悪感を覚えて、日記にすら 書けなかったことなんだけど、実際頭痛と肩こりがしばらく続きました。 数日間、身体中ガチガチに凝り固まって、あまり物をよく考えられなかった ような気がします。 「どういうふうに毎日を過ごしたらいいんだろう」と旦那に漏らすと 「普通でいいんだよ、普通で。今までどおりで。」 と言われたのですが、今までどおりの普通がどんなものだったのかすら 考えられない状態でした。 ご飯食べて、洗濯して掃除して、子供たちを外遊びに連れて行って、帰宅 したらお昼食べて昼寝させて、買い物行って夕飯作って食べて風呂入って 寝る、ていう生活だったんですけど、何をするにも「こんなことしてて いいんだろうか」ばっかり考えてましたね。 ゲラゲラ笑ってちゃいけないじゃないかとか。 幸せな気持ちになっちゃいけないんじゃないかとか。 一時、そんな思考に陥ってました。 私にしては珍しいことです(苦笑) 次第に「普通」を取り戻しましたけど。 今でも、ニュースで地震や津波のことが流れると、肩がこることがあります。 ここんとこずっと特集や何かが流れてたんで、体調悪かったです。 実は、宮城県の女川に住んでいた旦那の親戚が津波に流されて亡くなりました。 厳密に言うと、従兄本人の奥さんとその子供、の2人です。 1回か2回しか会ったことなかったけど、それでも子供同士遊ばせたり したし、奥さんは私と同年代でした。 震災直後に2人が行方不明だと聞かされ、何週間もした後、先に奥さんの遺体が 見つかり、さらに数日後子供も見つかりました。 当時は葬儀場や火葬場がいっぱいだったらしく、火葬できたのはさらに もっと後のことでした。 従兄本人は仕事中で高台にいたため、1人だけ助かりました。 従兄の父親も(私たちから言うと叔父)、心労のためか持病が悪化して その後すぐに亡くなりました。 なので2011年の年末には3人の名前が書かれた喪中はがきが届き、何とも 言えない気持ちになったのを覚えています。 やっぱり、自分と重ねて考えちゃうよね。 夢、見たもん。 津波が来て、子供たちと一緒に逃げてるんだけど繋いでた手が引き離される夢。 今もね、コレ書きながらめっちゃ肩こってます。 なので、もう終わる。 ...
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