植木屋さんの介護日記

2005年01月17日(月) またしても、ご無沙汰

 北海道の日教組教育研究集会に行ってきました。その間、母親は、いつも行ってる「老保」施設でショート・ステイ。
 よその人たちが、どういう風にショートを利用しているか分かりませんが、要介護者をかかえた家族のレスパイト、という意味では、いろんなレスパイトがあって当たり前だと思うのです。わたしの場合、レスパイトのあとの自分の疲労困憊が、本人の生活に影響しないように気をつけなければならないのです。介護保険の点数をぶっちぎるまで、外へはみ出しつづける所存です。でも、これがなかなか生活に還元されては来ないんだな、わたしの動き方は・・・。
 
 札幌は大雪でした。でも、空気に湿気があるせいか、建物の中の暖房設備が段違いなせいか、栃木よりもはるかに温かかった。ビールがうまかった。

 「障害児教育」分科会に参加して、「日の丸・君が代」自主研に顔を出してきたのですが、教員を取り囲む環境は、そのまま子どもたちを圧迫する力としてアクチュアルに現前してる、と感じました。
「ために、よかれ」のまじめな教員たちが、自分自身の評価と子どもに対する評価とをごちゃまぜにして、まじめになればなるだけ、互いに生きられない空間を産み出していく。イラクをはじめ、いまの世界のあちこちでグローバルに、「ためによかれ」の大量殺戮が展開されているというのに、自分の目の前で、自分自身が手をくだしている殺人には気がつかない。
「障害児教育分科会」で、なんでイラクなんじゃ? という疑問を持って帰った、特殊教育の専門家教員たちも多かったでしょう。またお話ししましょう。



2004年12月10日(金) ご、ご、ご無沙汰しました

 まあ、この場を待っている御仁もそうは居ないでしょうが、長らく失礼しました。すみません。
 「千と千尋」を、娘たちのことなど思い出しながら観ていたら、皆さんへの通信をしなくては、と思ったのでした。

 この間、一軒の庭をつくって、この地の木々とのつきあいをしながら、亡父の一周忌を済ませて・・・と、わりあい忙しい日常を過ごしました。
 前の日記のヘルパーさんは、その後うちに来ていません。事業所を辞めてはいないということだが、「北朝鮮キャンペイン」や「自衛隊の派兵延長」やその他もろもろをあわせて、自分が自分という「身分」で生きることを阻む世の中がすぐそこにやってきた。いずれわたしは切れるでしょう。忘年会は無しの年末だ。

 昨夜、変なお客さんが来た。市ヶ谷から来たというが、自衛隊ではないでしょうね。石油の先物取引を勧誘しに来たのだ。
 何度か郵便物を受け取っていたのだが、「きょう伺いたい」という。在宅してるかどうか分からないが、来たければ来れば、という感じで迎えたのだが、そもそも「戦争」ネタで人よりもいい飯を食おうという発想がないということを話したら、突然「逆ギレ」されてしまった。
誰も来て欲しいとお願いしたわけでもないし、むこうが勝手に「こいつは石油に手を出すかも知れない」と判断して、「旦那、いい買い物がありますぜ」とやってきたのだ。年末から年明けには、きっと相場が上り調子で・・・という話を聞いても、この客はトロンとして聞いている。
「あなたの考え方は年寄りだ」と。だからどうした。年寄りの懐から、サラリーマンが半年働かなきゃ稼げない金を吐き出させるなら、もうちょっとまともな騙し方はできんのかい?
 果ては、東京から栃木くんだりまでやってきて無駄骨だの、その原因はわたしの電話の受け答えにあるだの、おまえらは新聞で「自己責任」という言葉をどう読んでるんだ、そもそもおまえらはどういう人生を生きようと思ってるんだ?余計なお世話だけど・・・。

 彼らは半泣きで帰っていった。ベッドで母親が、声を立てて笑っていた。しかるに、わたしの怒りは昨夜中収まらなかった。



 



2004年11月09日(火) 愛するということ

 前にも登場していると思うが、介護サービスのヘルパーさんの中に、年若くも、本人とのやりとりが絶妙な子がいる。わたしの娘くらいの年令だと思うのだが、体拭ひとつでも本人の許諾を確かめてから動く。そんで、笑い声がおおらかでいい。(介助の最中にたくさん笑う。これもいい。)
 このごろは、介護者に、わたしの不在中「散歩」を積極的にして欲しいと要望し、ヘルパーさんたちもその気になって、町中を練り歩くようになった。
 そんな折、件の彼女が、車椅子からベッドへの移乗の際、母親の手をベッドの介助バーに挟んでしまった、と、お詫びのメモがおいてあった。その旨を派遣事務所にも申告したらしく、夜になってから気弱なケア・マネから確認の電話もあった。「本人も気にしていませんから、あまり臆病にならず、いままでどおり付き合ってください」と言っておいたのに、今朝、またケア・マネが直接確認にやってきた。少し腹立たしかったが、昨夜件の彼女宛に書いておいた手紙を渡して、早々にお引き取り願った。

 「いちど、介助という関係を離れて、本人の胸をぎゅうっと抱きしめてみてください。あなたのことを、こころから信頼しているということが伝わると思います。だから、臆病にならず、自信をもって、いままでどおりのやりとりをお願いします。」

 そういう趣旨のお手紙を書いた。

 娑婆で生きている母親には、そんな介助者をゆっくりと育てる、という役目もあるのだ。



2004年10月25日(月) やっほー

 ながながのご無沙汰です。
 このたびは、「障害児の高校進学を実現する全国交流集会・IN・広島」に参加して以来、全くパソをあけてなかったので、浦島太郎のような状態です。

 さて、私が広島へ行っている間、母親はショート・ステイに行っており、それなりに人間関係を拡げて帰ってきました。台風の最中のこともあり、昨年竣工した鉄筋コンクリート造りの立派なところで、昼風呂に入って、風になびく木々を観て、イヤな経管栄養を我慢して、自分を赤子扱いする若い介護士にあわせながらも、社会を拡げたのだろう。最終日には、屋上から「ヤッホー」と、大声でやったそうだ。
 このごろは、通所リハビリの送迎の連中も、わたしぬきで本人とのやりとりをするようになった。めでたしめでたし。本人と介護者にせよ、親子にせよ、関係には「間」が大事だということがよく解る。

 それから、浮世の義理でつづけていた弓で、妙なことになってしまった。郡選手権の一等賞をもらったのでした。これからが面倒なことになりそう。



2004年10月01日(金) 16時30分

 「通所リハビリ」から母親が帰ってくる時間である。
 よその造園業者の現場に出ているときは、「連絡帳」にその旨記載して、最終便の車で17時ちかい時間に帰ってもらうことにしている。自分の現場だと、施主さんにわがままを聞いてもらい、30分早く切り上げたり、一度現場から自宅に戻って、母親を迎えてから、また現場に戻る、というパターンを繰り返している。やや、イライラが募る。
 一度、母親の帰宅時間にわたしが不在だったときに、車で40分ほど離れたところに住んでいる「弟」に電話連絡をされたことがあった。やめて欲しい。

 わたしがなぜ「栃木」に帰ることになったのか、ということに、その「弟」の自意識過剰な人生観が絡んでいるのだ。まあ、委細はともかく、自分の都合で親という他人の余生をコントロールなんてできないのだ、ということを身をもってわたしが示した形になっているのだから、わたしがたまたま不在だからといって、よりによってその「弟」のところに電話するなよな。
以前、そこいら辺の事情は、通所リハビリの担当者にも説明しておいたのだから。
 根本には、他人の世話にならなければ生きていかれないような人は、第一に家族がその責めを負うべき、という間違ったコミュニケーション観がぬきがたく存在するのだ。そういう前提で考えるなら、家族のいない「要介護者」は、他人の都合でどのように処遇されても文句は言えない、という結論に、容易に帰結される。簡単に言えば、家族には「本人」を殺すことも許される。家族がいる場合には、この生殺与奪の権限はその家族に専属するものだが、家族がいない場合、だれがどう殺しても「世間のお世話になるもの」にとっては文句は言えない、ということだ。
 「措置から契約へ」とか「利用者の自由な選択」などという、おためごかしなうたい文句とは裏腹に、「かたわもの」を取り巻く娑婆は、いっこうに変わってなどいないのだ。だからこそ、彼女がここで生きていくことが、さらに大事なのだ。何かのため、ではなく、生きていることそのものが。


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植木屋