ニッキ?

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2005年05月11日(水) 合理化ってなんだろね

うちのチームでは今、「合理化」がテーマ。
合理化っていうか、作業をいかに機械的に、効率よくするか、
それによって、誰にでもミスなくできるシステムを作ろう、ってこと。
(おお、某鉄道会社にも必要なことじゃないか?)

でも、せっかく決めたシステム=ルールは、守らなくっちゃ意味がない。

どっかで聞いた台詞だけど、
「まず決める。そしてやり遂げる」だと思う。
ルールにのっとってやってみて、不都合があれば修正していけばいいわけで、
それをハナから実践しない人がいると、
けっきょくなし崩しに勝手気ままなやり方になっていく。
そんなもの、システムじゃない。

でも、守らない人はたいがい決まっている。
そうなると、作業の効率化云々も、
システム(作業のやり方)が悪いんじゃなくて、
個人の問題ってことにならないか?


2005年04月23日(土) 2年ぶりのNTD

ナショナルタップデーへ。
昨年は「充電」のため休演だったため、2年ぶりということになる。

2年前のような派手なパフォーマンスの人はなく、
全体的にそつなくまとまった感じ。
それでも、最近はやりの「リズム系」に押されて元気がないかな、
と思っていた「シアター系」がけっこうがんばっていた。
あと、今年は楽器と絡めたものが多かった。
タップもある意味打楽器という楽器なので、ま、当然か。

中でも、市立船橋高校の吹奏楽部とのコラボ(っていうのかな?)がすごい。
総勢76名の部員が出演したそうだけど、
演奏者は数名で、後はみな下駄を履いてタップをする。
下駄だし、たぶん日常的にタップをしている人じゃないので、
そう難しいステップは踏めないわけで、
右、左、右、左と交互に足を踏みならすだけ、
という単純な動きなのだけれども!
その人数と、息が合っているところ、そして工夫されたリズムがすばらしい。
単純なステップでも、これだけおもしろいものができるんだ、
と改めて知らしめてくれた。
テーマは「タップは気合いだー!」だそうだけど、
その情熱も、ね。


2005年04月22日(金) 深い人間ドラマ(白い巨塔)

山崎豊子『白い巨塔』文庫版全5巻読了。
大作だけに、感想も大作になりそう(こらこら)。
なるべくさっ引いて書こう。

読み始めた頃の感想。
慇懃無礼って、こういうことか〜。と、変なとこに納得。
いやあ、慇懃無礼ってよく言うけど、本物は初めて見た気がした。
ビジネスマンには、ある意味重要な参考書になるのでは。
ま、妙な裏取引とか覚えちゃいかんけども。

半ばの感想。
山崎豊子の文章、わかりやすい。
なぜか、それは、解説付きだからだ!
会話での話運びが巧みな山崎豊子。
でも、選挙やら裁判やらが題材になっているので、
当然、会話には「含み」が多い。
でも、会話の後に「○○らしい政治的意味を持った言葉だった」とか、
「自分の権威を見せつけつつ、下手に出た」とか、
今の台詞にはこーゆー意味が、効果があるのよ、という解説が、
地の文によく書かれているので、とってもわかりやすい。
映像じゃなく、文章だからなせる技だね。

読了後の感想。
続編(4・5巻)があってよかった!
3巻では医療訴訟(誤診訴訟)で患者側が負けるとこで終わりだけど、
そりゃあんまり。
と、発表当時も声があって、続編が書かれたらしいけど、
最後に患者側一部勝訴になるところが、実にドラマチック。
財前に非があったことを、読者はみんな知っていての展開だから、
これで溜飲が降りる。
もし仮に、これで一審から患者側勝訴だったら、
さすが小説のご都合主義ね、って感じだけど、
二審で一審の医者側完全勝利を覆しての患者側勝訴ってのがいい。
医療訴訟はまだまだ難しかった昭和50年代に発表された続編、
ということは、たぶん現実世界では同じケースは敗訴だったかも。
それを勝訴に持っていったのは、小説だからなしえたことかもしれないけど、
小説という仮の世界だからこそ、そうすべきだった、とも言える。
何も、ホントの本当の現実に則さなくてもいいわけだからね。

それから、主人公であり悪役である財前五郎。
彼はしかし、根っからの悪人とも思えず、
最期のシーンでは、なんとか救いたいという医師団に共感する。
医療の現実の暴露ではなく、人間ドラマを書きたかった、
とは作者の弁だが、まさに、人間財前五郎のことを思うから、
ラストシーンに深い哀れを感じるのだろう。


2005年04月17日(日) 崇められるも、受け継がれない

大村はま先生が亡くなった。
98歳。
先生(教えを受けたことはないが、あえてこう呼ばせていただく)の、
『教えるということ』に感銘を受けた人間としては、
今回の訃報が本当に残念でならない。


独創的な授業で、戦後(戦前から)日本の国語教育に貢献された方。
そして、今でもたぶん、多くの教育者から尊敬されている人。
でも実は、その「独創的な」授業は、現在において継承されているとは言い難い。
つまり、「受験教育」には向かなかったわけで。

「国語教育」なんていうけど、日本語を母語としている人間に、
「日本語」をわざわざ教えるっていうのもなにやらへんな話で、
じゃあなんのための科目かっていったら、
「考える力」と「読み取る力」、つまり想像力の育成だと思うのだ。
想像力は創造力なわけで。
もちろん、国語が苦手でも、創造力たくましい人はいるでしょうがね。

文法だの漢字書き取りだのも、ある程度必要だと思うけど、
「この「それ」は何を指しているか、本文中から15字以内で抜き出せ」とか、
ほとんどがくだらない設問だなあ、って思うのですよ。
俳句や短歌の読解が、一通りの答えしかないなんて、変だと思うのですよ。
それより、文章を読んで、何を思ったか、感じたか、それをどう人に伝えるか。
千差万別の反応を、どう導き出していくか、が教師のお仕事なのではないかねえ。
そういう意味では、社会や理科とは、同じ「教えるということ」とは言え、
その性格は異なるかもしれない。

と、教員になるつもりはなかったけど、つらつら思い、今も思う。


2005年04月11日(月) めきめきと

めきめきと
生きる力を見せつけて
夜毎のびする
花水木かな


鳥乃 |MAILHomePage

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