午前中はぽつぽつと雨。幸い冷たい雨ではなかった。
辺り一面がしっとっりと潤い恵みの雨になったようである。
山道にある良心市には白菜やキャベツ、ブロッコリーもあった。
どれも百円の安さで有難いことである。
今朝は買わなかったが仕事納めの日には買っておきたい。
その仕事納めだがやはり30日になりそうだ。
今朝は義父の機嫌が良く「いつでもええぞ」と云ってくれたのだが
取引先への支払いもありぎりぎりまで働くことになった。
もしかしたら入金もあるかもしれないと一縷の望みも託している。
工場は今年最後の車検が入庫し明日には完了しそうである。
後はタイヤ交換やオイル交換の予約があるだけだった。
義父は事故車の修理を終えたが車内が大変なことになっていた。
窓ガラスが割れていたのでみい太が夜を明かしたらしい。
今朝仕事をしようとしたら車内から飛び出して来たそうだ。
幸い糞はしていなかったが車のシートが毛だらけになっていた。
丹念に掃除機をかけ粘着ロールでやっと綺麗になる。
ボンネットには足跡が付いており洗車もしなければならない。
ぶつぶつと文句を云っていたが本気で怒っているようには見えなかった。
いつも工場の隅の段ボールの中で眠っているので
少しでも暖かい場所で眠りたかったのだろう。
しかしお客さんの大切な車である。今後は二度とあってはならない。

定時で退社。今日は今年最後のリハビリがある日だったが
寄り道をして「チキン館」で「丸っぽ鶏」を買い求める。
クリスマスイブなので娘がどうしても食べたいと云う。
何だか「こども」のように思えて約束をしたのだった。
時間を気にしながら市内へと向かう。
人気の整形外科は今日も沢山の患者さんである。
リハビリ前に医師との面談がありこの一年の感謝を告げた。
「よいお年をね」と云うと「おう!」と気さくな医師である。
U君はリハビリの専門学校へ通っている時
高知市内で独り暮らしをしていたのだそうだ。
独りぼっちの寂しいクリスマスイブに自分でシチューを作り
無性に鶏肉が食べたくなりケンタッキーへ買いに走ったそうだ。
その夜のことがとても懐かしいと話してくれた。
私はそれを聞いてとても微笑ましくてならない。
10年前のU君の姿が目に浮かぶようだった。
今夜はお母さんがご馳走を作ってくれるよと云うと
「いつもと変わらんと思うよ」と笑い飛ばしていた。
これから結婚し「家族」が出来る。
まだまだこれからの明るい未来なのだ。
夫と二人きりの夕食。まさに夫婦善哉であろうか。
がつがつと鶏肉を頬張る夫はまるで犬のようである。
食べ過ぎてしまわないように見張っていなければならない。
私達が席を立つと娘達がパーティーを始めた。
今夜はあやちゃんもめいちゃんも一緒に居てほっとする。
やっと家族団欒である。これまでどれ程気遣ったことだろう。
食卓には笑顔の花が咲き何とも幸せそうな光景であった。
独り暮らしの義父や同僚はどうしているだろうか。
クリスマスイブだと騒がなければ寂しくもないだろうにと思う。
世間も酷なものである。押し流すように今度は元旦がやって来る。
誰一人として取り残される人が在ってはならない。
※以下今朝の詩
一歩
遥か彼方である それは遠いけれど 一日が一歩だった
遠ざかることはない 少しずつ近くなる
きみは真冬に散った 何と儚い命だろうか
春の息吹も知らずに 陽の温もりも知らずに 空に召されていった
生まれ変わるだろう きっときっとかなう
祈ればこころに花が咲き きみは天使の申し子となる
概ね晴れ。夕方には曇り空になったが
日中は風もなくぽかぽかの小春日和となる。
12月も残り少なくなったが北風の吹いた日があっただろうか。
寒さに怖気づいていたが何だか狐につままれたように思う。
しかし油断をしていたらまたきっと大寒波がやって来るだろう。
あちらこちらで山茶花が満開となりもう散り始めている木もある。
椿のように落ちることは出来ない。はらはらと散るばかりだった。
国道沿いの山茶花は日に日に花を増やしており
満開となればどれほど見事なことだろう。
濃い桃色の花である。薔薇よりも美しいと思う。
花言葉は「困難に打ち勝つ、ひたむきさ」で何とも頼もしい。
おまけに私の誕生日である12月4日の花なのだそうだ。

工場の仕事はまずまず順調であった。
新たな車検が入庫していたが走行キロが少なく半日で終る。
午後には同僚が丁寧に洗車し二人で納車に行く。
義父は大型車の修理があり僅か15分程で済ます。
例の如くでお客さんに工賃は要らないと告げてしまったが
お客さんが余りにも恐縮するので千円だけ頂いた。
これは義父には内緒である。今日の売上は千円なり。
お昼前には農業関係の来客があり話が長引く。
米作りの事となると義父はここぞとばかりにいきり立つ。
「日本人の主食だ」と米作りが如何に重要かを説いていた。
私は空腹でならず車に逃げ込みお弁当を食べたが
うっかり手を滑らせてしまいひっくり返してしまった。
それは助手席の足元に散乱し悲惨な有り様となる。
ショックでならなかったが我慢し事務所でカップスープを飲む。
お客さんがやっと帰り何とほっとしたことだろう。
午後も雑用があり定時では終われなかった。
3時まで辛抱し逃げるように帰路に就く。
また無性にアイスが食べたくなり食べながら帰る。
これが何とも幸せである。毎日でも食べたかった。
4時過ぎに帰宅して少しだけ自室で過ごす。
SNSでフォロワーさんが自殺予告をしていて驚く。
以前にも同じようなことがあり「報告」したが
その時は思い留まってくれたようで安心していた。
しかし今回は更に緊迫しており居ても立ってもいられない。
直ぐにAIの響君に相談したら直ぐに「報告」をするべきだと云う。
そのポストが投稿されてからもう10時間が経過していた。
しかしどうして見て見ぬ振りが出来るだろうか。
SNSに「報告」すれば対処の方法があり救うことも出来る。
危機一髪かもしれないが何としても救いたい「いのち」であった。
誰にだって限界はある。しかしそれがイコール「死」であってはならない。
「報告」から4時間が経過したが安否は分らなかった。
あくまでも匿名で処理されるので事後報告は無いのだそうだ。
そこにはプライバシーの重視が優先されるらしい。
本当に死にたかったら「自殺予告」などするだろうか。
引き止めて欲しい救って欲しい助けて欲しいと叫んでいたのだと思う。
※以下今朝の詩
透明
一切の曇りなく 透明の心になりたい
冬の北風を受け止め 陽射しを浴びながら 鳥だった頃を思い出す
自由に空を飛び交い 空の青に抱かれた頃 全ての事が永遠に思えた
生きていればうしなう うしなえばかなしい
そこに残ったかけらには たましいがやどっている
くちばしに挟むようないのち どこまでも透き通ったいのち
二十四節気の「冬至」一年で最も昼が短い日。
明日から少しずつ日が長くなるので
古代では新年の始まりとしていたのだそうだ。
予報では全国的に冬らしい寒さだと聞いていたが
冷たい風も吹くことなく穏やかな晴天となった。
事務所に暖房を点けていたら同僚が「暑い」と云う。
その姿を見るといつも着ているジャンバーを脱ぎ捨ててあった。
午前中に大型車の車検が完了しお昼にはお客さんが引き取りに来る。
林業をしているので年内に少しでも多く材木を運びたいのだそうだ。
預かってからもう6日目である。どんなにか待たせたことだろう。
工場は一息つく暇もなく新たな車検が入庫する。
今週はまだ後二台の予約が入っておりまた忙しくなりそうだ。
義父は事故車の修理を始めていたがまた部品屋さんの手違いがあった。
余程苛立っていたのだろう。凄い剣幕で当たり散らす。
結局は注文した同僚のせいにし暴言を吐くのであった。
誰かのせいにしなければ気が済まない。義父の大きな短所である。
事務仕事は一段落していたが収入が後を途絶えた。
今ある資金で年末の遣り繰りをしなければならない。
取引先の部品屋さんは二社とも週末から年末休暇に入るとのこと。
今週中に多額の支払いを済まさなければならない。
そうなれば資金は忽ち底を尽きまた「ゼロ」になるだろう。
同僚に少しでもボーナスを支給してやりたかったが
この有り様では前途は暗くにっちもさっちも行きそうにない。
これまで経理を任されていてこれ程の苦境があっただろうか。
義父と相談の上、30日まで仕事をすることになったが
果たして無事に新年を迎えられるだろうか心細くてならない。
定時で仕事を終えられたので気分転換も兼ねてカーブスへ行く。
仕事のことは忘れていたつもりだったが義父から電話があり
お客さんからも電話がありカーブスどころではなかった。
思わず「こんちくしょう」と思う。苛々しながら買い物に行く。
そのまま自宅には帰れず市内の部品屋さんへ向かう。
例の品違いの部品を返却しなければいけなかった。
何処も年末は忙しいのだろう。係の人の姿が見えず
車から段ボール箱を下ろしやっとの思いで運び出す。
帰り道は西日が眩しく前がよく見えない。
事故を起こしては大変だとゆっくりと家路に就いた。
帰宅したら台所が大変なことになっていた。
今朝のこと突然電子レンジが故障してしまい
買い替えるつもりだったが娘婿が中古品を持っているとのこと。
娘が帰宅してから整えてくれていたのだが
オーブン機能のないレンジだそうでトースターまで据えてある。
今までレンジの上に置いてあった棚が使えなくなっていた。
調味料やタッパー類など娘もそこまで手が回らなかったのだろう。
「なんとかせんといかんね」と後は私の役目である。
即座にアマゾンでスリムワゴンを買い求めたが
娘は気に入らないようで文句ばかり云うのであった。
またまた「こんちくしょう」である。
小掃除も大掃除も出来ない私には大きな痛手となった。
夕食後は冬至らしく外はもう真っ暗だった。
明日から光が増えるのか。そう思うと希望も湧いて来る。
何事もやってみなくては分からない。
ひとつひとつクリアして行こうと思う。
もし出来なくても新年は誰にも等しくやって来る。
※以下今朝の詩
潮
若潮小潮中潮大潮 入り江で潮を待っている
大潮ならば抜け出せる 水平線に向かって泳げるだろう
大海に憧れていたのだ どれほどの広さだろう どれほどの青さだろう
鯛でも平目でもない 雑魚でありながらも 名はちゃんとあった
入り江に潮が満ちてくる 背を伸ばし尾をひろげた
潮が引き始めると 目を閉じて身をまかせる
相応しくはないかもしれない けれども生きていたいと思う
大海に陽が射し始めると 入り江がちいさくなった
潮は満ちそして引いていく
ぽつぽつと静かに小雨が降る朝だった。
気温は16℃もあり随分と暖かい。
窓を開けてしばらく雨を見ていた。
なんと素直で真っ直ぐな雨なのだろう。
しんみりと想うことがあるのは幸せなことだ。
雨は朝のうちに止んだがどんよりとした曇り空である。
煙草を何本も吸い続ける。もうどうしようも出来ない。
「ドクターチル」と云う無害の電子煙草を買い求めたが
喉への刺激が強く咳き込んでしまい私には合わないようだ。
定期購入にしていたので直ぐに解約手続きをする。
紙煙草よりずっと安価であったが合わないものは仕方ない。
藁へも縋る気持であったが藁はあっけなく流れて行った。
お昼にはまた巨大なお好み焼きを焼いた。
フライパンで焼き半分こにしたのだが夫には多過ぎたようだ。
食べ切れないのを私のお皿に入れるので頑張って食べる。
お腹がはち切れそうなほどいっぱいになり苦しくてならない。
そのまま茶の間で横になり延々と眠り続ける。
目覚めればもう4時で半日を無駄にしてしまった。
台所の流し台にはフライパンや汚れた食器がそのままである。
やれば出来ただろうにといつも思う。
何と怠け者になってしまったのだろう。
夕食は簡単に「寄せ鍋」にしたが娘が殆どしてくれた。
夫が卓上コンロを出してくれて直ぐに食べられる。
もちろん家族団欒などありはしない。
二人っきりの夕食にもすっかり慣れてしまった。
娘達が食べ始める時間になったがめいちゃんが独りきりだった。
娘婿もあやちゃんの姿も見えない。
娘は台所に居たがまだ食べようとしないのだった。
また老婆心が疼く。これで良いのだろうかと思う。
とにかく要らぬ口を叩いてはいけない。
せっかくの寄せ鍋も憐れで可哀想に見えた。
夕食後SNSを見ていたら大好きなフォロワーさんが
「もう潮時かも知れない」と記してあり大きな衝撃が走る。
他のSNSに登録したので近いうちに去るのだそうだ。
私はその方の書く文章がとても好きでならなかった。
もう読めなくなるのかと思うと哀しくてならない。
でももう何も伝えられない。何と儚い縁だったことだろう。
ネットの海ではよくあることで私も慣れているはずだったが
例えば太平洋から日本海へと向かう「魚」のようである。
去る者は追ってはならない。同じ海であっても探してはならないのだ。
寂しく哀しい結末が待ってるが「魚」はあくまでも自由であるべきだ。
その方が伸び伸びと泳げるように願うしかないだろう。
こころにぽっかりと穴が開いた。
しかしその穴にいつまでもしがみつく訳にはいかない。
大海である必要はなく私は入り江を漂っている雑魚に他ならない。
※以下今朝の詩
傘
かなしみがふってくる さびしさがふってくる
傘はどこに置き忘れたのだろう 薄紫の大好きな傘だったのに
ふゆのかなしみはつめたい ふゆのさびしさはつめたい
道は果てしなく続いているけれど 膝を抱えてうずくまっている 決して歩けないのではないのに 途方に暮れる時があるのだろう
最後に傘を差した日を思い出している 夏だったのか秋だったのか 季節を終うように傘を閉じた
探せばきっと見つかるだろう もし見つけられなかったら 濡れてしまえばいいのだ
かなしみがふってくる さびしさがふってくる
曇り日。気温は20℃近くまで上がり異様な暖かさとなる。
今年の冬は暖冬なのかもしれないが天気情報はない。
おそらく年が明けてから本格的な寒さがやって来るのだろう。
南天の実はもちろんのこと千両万両、おたふくの真っ赤な葉も鮮やかである。
縁起ものなのでお正月の生け花や門松に使われることだろう。
おたふくは低木で何とも愛らしい。
高校生の頃から生け花を習っておりたしなみは身に着けているが
もう何年も花を活けたことがなかった。
今年も殺風景なまま新年を迎えることになりそうだ。
小掃除どころか大掃除も出来ずにいる。
何もしなくても新年は来てくれるだろうか。
花屋さんの店先にはシクラメンが沢山並んでおり
クリスマスの飾り付けもしてあり微笑ましく眺める。
大きな鉢に入れられた白いシクラメンが何と8800円とか。
そんな高価な花を買い求める人がいるのだろうかと思う。
安くても3000円、それさえも買えない貧乏人である。
めいちゃんが誕生日に贈ってくれたポインセチアがもう弱り始め
元旦までは持ちそうにない。水遣りをしても花は萎んだままだった。
昨年は市内の農業高校の生徒さん達が出張販売をしていて買い求めた。
今年はどうなのだろう。高校に問い合わせてみようかとも思う。
シクラメンは長持ちし春先まで咲き続けるのだった。

土曜日の出勤。今までカーブスの為に休んでいたことが悔やまれる。
わずか30分の筋トレの為に土曜日を犠牲にしていたのだ。
何と愚かなことをしていたのかと思わずにいられなかった。
今日も工場は火の車であった。例の大型車は一向に捗らず
とうとう業を煮やした義父が手助けをしてくれた。
同僚なら一日中掛かる作業でも義父なら2時間で済ます。
同僚も40年以上の熟練工だが義父の足元にも及ばなかった。
おかげで車検整備はほぼ完了となり月曜日には納車出来そうである。
午後はスクールバスの点検もあり同僚の機嫌がすこぶる悪い。
ぶつぶつと文句を云うので私が喝を入れるしかなかった。
おまけに部品屋さんが届けてくれていたオイルエレメントが品違いである。
急いで電話をすれば「本日の業務は終了しました」とガイダンスが流れた。
仕方なく営業係の携帯に電話したら「留守番センターにお繋ぎします」だ。
どいつもこいつもと腹が立って同僚と散々文句を云い合う有り様である。
義父は午後から大切な会合があり土佐清水市へと出掛けていた。
今夜は地区の年末総会もあったが欠席にしたらしい。
おまけに母の親友のご主人が亡くなり今夜はお通夜だった。
90歳を過ぎており老衰だったようだが残念でならない。
あの世で母が迎えてくれることだろう。仲良くお酒も飲めるだろう。
義父は明日の告別式に必ず参列してくれるそうだ。
山里はお葬式のラッシュである。親しくしていた人が次々に亡くなるのだ。
スクールバスの点検がそれなりに完了したのを見届け退社した。
無性にアイスが食べたくなり買い求め食べながら帰る。
FMラジオから市内で居酒屋をしている「たかちゃん」の声が聴こえた。
もう夜の街に出掛けることも出来なくなったが
カウンターでたかちゃんとしゃべくりながら飲んだ芋焼酎が懐かしい。
「煙草も何ぼでも吸えや」といつも云ってくれた優しいたかちゃんである。
もう全てのことが「過去」なのが切なくてならない。
少女の頃の悲しい記憶さえも過去になってしまった。
あの時ああしていればこうしていればと悔やむことも多いが
何もかもが「運命」だったのだと思う。
運命は変えられない。そんな運命があってこその「いま」である。
この先、生きれば生きる程運命に翻弄されることだろう。
それでも生き抜いたことを誇りに思えるようになりたいものだ。
※以下今朝の詩
朝礼
きをつけまえへならえ やすめさがれすわれ
号令は好きではない 命令は好きではない
赤い帽子と白い帽子 こども等は空のした 膝を抱え座っている
真冬の校庭に北風が吹き 枯葉がころころと舞っている
花壇には水仙の花が咲き 誰もがほっこりと眺める
これからなにがはじまるのか
口を聞いてはならない 笑ってもいけないようだ
空はどうして青いのだろう 風はどうして冷たいのだろう
きりつかいさん 教室へ戻るとほっとする 一時間目は国語の授業だった
曇り日。気温は17℃まで上がり暖かいはずなのだが
陽射しがないせいか肌寒くてならなかった。
その上に襟首の開いている服を着ていたため
首のあたりがすうすうと寒く辛くてならない。
明日も気温が高くなりそうだがハイネックを着ようと思う。
もうおしゃれをする歳ではなく「年寄りの冷や水」になり兼ねない。
朝の国道では「伊豆田トンネル」と云う長いトンネルを抜けるが
今朝まで気づかなかったが路肩にたくさんの山茶花が植えてある。
遠目では椿に似ているが確かに山茶花であった。
咲くのが遅い種類と見えてまだぽつぽつとまだらである。
満開になればどんなにか見事なことだろう。
朝の楽しみがまたひとつ増えてわくわくと嬉しくてならない。

工場の仕事は順調に見えるがいささか困り果てている。
大型車の車検整備が3日目となったがまだ完了してないのだ。
ブレーキを分解しているので手間は掛かるが
それでも二日あれば出来る作業であった。
義父に相談すれば「そっとやらせておけ」と宣う。
同僚にそれとなく訊けば「今日はまだ終わらんぞ」と応える。
明日は新たにスクールバスの点検が入庫する予定である。
月曜日からも毎日車検の予約が入っているのだった。
このままでは年内に仕事を終えられないかもしれない。
同僚はひたすらマイペースを貫きのほほんとしている。
義父は事故車が入庫しておりひたすら段取りをしていた。
私はやきもきと焦るばかりで何の助けにもならないのだった。
今日は来客もなく事務仕事も一段落していたので
定時で終わらせてもらいカーブスへ向かった。
壁に貼り紙がしてあり何と2名のコーチが年内で退職とのこと。
どちらも好きなコーチだったのでショックでならない。
これまでいったいどれ程のコーチが辞めて行ったことだろう。
遣り甲斐のある仕事に思えるがブラック的な何かがあるのかもしれない。
内情は知る由もないがつい不信感も湧いて来るのだった。
複雑な気持であったがそれなりに心地よく身体を動かして帰る。
買い物を終え4時には帰宅していた。
10分程自室で過ごしていたが例の詩人さんからメールが届いていた。
事務的なもので詩誌の代金を送金したお礼であったが
今後はもうメールが届くこともないだろうと思う。
話したいことはたくさんあったが私からメールすれば無礼にもなるだろう。
ささやかな縁であったが決して親しい間柄ではなかった。
名のある詩人さんである。私も自分の身の程を知らねばならない。
ネットの世界では顔も知らない会ったこともない人ばかりである。
波長がぴったりと合う人もいれば合わない人もいるのだ。
しかし必要以上に親しくなってはいけない。
親しくなり過ぎてしまえばきっと傷つけ合う日が来るだろう。
それだけは何としても避けなければいけないと思う。
「ともだち」など出来るはずのない世界である。
いくら気が合っても「ともだち」と思ってはならない。
それが寂しいのならネットの海を漂うのはよそう。
※以下今朝の詩
花びら
花びらがふるえている 冷たい風のせいだろうか
空はありのままをつらぬく 雨が雪に変わることもある
うずくまるひと ないているひと
寄り添えば少しでも あたたかくなるだろう
花びらは散らなければいけない 散ってこその春ではあるまいか
風にさからえばくるしい 空をうらんではならない
どれほどの冬であっても 咲いたことを誇りに思う
はらはらと散る はらはらと生きる
冬晴れの一日。気温も16℃まで上がり随分と暖かくなる。
陽だまりで寝転ぶ猫の気持ちがよく分かるような気がした。
年の瀬が近づいているせいかこのところお遍路さんの姿を見かけない。
以前に職業遍路のMさんに聞いたのだが
大晦日にはお寺の宿坊に泊まることが多いのだそうだ。
せめて暖かい布団で眠らせてやりたいと思う。
雨の日も風の日も野宿である。嘆くことは一切しないが
何とも憐れに思えてならない。
そんなMさんに会えなくなってもう数年が経った。
何処かに居を構え落ち着いて暮らしていることを願う。
いつも「おかあさん」と呼んでくれた人をどうして忘れられようか。

工場は相変わらずの忙しさで同僚は大型車と格闘していた。
義父も気忙しさで田んぼへ行くのを諦めたらしく
一日中待機してくれていて心強かった。
例の焼酎はそっと居室の上り口に置いていたのだが
「どうした?」と不思議に思ったらしい。
挙句には「飲んだら良いじゃないか」と優しく云うのである。
しかし私はもう持ち帰ることをしない。
その方が丸く納まるような気がしたのだった。
今日も支払いのお客さんが来てくれて嬉しくてならない。
立替金が多くやっと報われたように思う。
立て替える時にはどんなにか苦しかったことだろう。
資金は日に日に潤って行くが年末こそが勝負である。
何としても清々しく新年を迎えたいと思う。
定時で仕事を終え整形外科へと向かった。
駐車場に車を停めて歩いていたら側溝の継ぎ目に杖が挟まる。
もう少しで転倒するところで危機一髪だった。
U君に話したらとにかく足元に気を付けること。
急いで歩こうとしないことだとアドバイスしてくれた。
リハビリは夢のように気持ちよく腰や背中まで揉み解して貰う。
今日は診察もあったが医師との雑談も楽しかった。
看護師さんが予約表を出してくれたがもう2月分でびっくりである。
瞬く間に過ぎだったこの一年を振り返られずにはいられない。
4時半に帰宅。買い物は昨日のうちに済ませてあった。
娘は退院する娘婿を迎えに行っていてもう帰宅していたが
「どう?」と訊いてもそっけなく「別に変わりない」と応える。
素人考えだが注射治療をすると痛みが薄れるのかと思っていた。
いったい何のための入院だったのだろう。
考え過ぎかもしれないが娘はその話を避けている様に感じる。
そうなればもう何も訊いてはならない。
私には関係ないことだと思うしかないのだろう。
決して踏み込んではならない娘達の「暮らし」がある。
夜になっても冷え込むこともなく随分と過ごし易い。
月は新月が近いのではないだろうか。
川仕事を辞めてから大潮の時期が分からなくなった。
あれ程「潮」を気に掛けていたのが嘘のようである。
「失った」のかもしれないが「新しく」なったのかもしれない。
苦労ばかりの川仕事であったがそれなりに充実していた。
私達夫婦の歴史にも区切りのようなものがあったのだろう。
そうしてひたすら死に向かいながら生きよう生きようとしている。
※以下今朝の詩
鉛筆
芯が短くなれば削ればいい えんぴつのようなじんせい
ぽきっと音をさせて 折れてしまう時もある かなしみは些細なこと 折れてしまえばもう 捨てるしかないだろう
削れば削るほど短くなる 過ぎ去った日々は遠くなり まるであかしのように在る
いったい何を描こうとするのか 出来ることがきっとあるだろう 芯さえあればそれは叶うのだ
ころころと転がりながら 生きることを夢見ている
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