ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年09月26日(金) 枯れてしまう前に

彼岸明け。もうすっかり秋かと思いきや真夏の暑さとなる。

湿度が高いせいか朝からもう蒸し暑くてならない。

「彼岸花」とはよく名付けたもので

まるで彼岸明けを知っているかのように少しずつ枯れ始めた。

鮮やかな真紅は黒ずみ華麗な花の姿も弱々しくなる。

つい先日咲いたばかりなのに何と儚い花なのだろう。


しかし今日は秋を代表する秋桜が咲いているのを見つけ嬉しかった。

薄桃色の花で何とも愛らしい。今日よりも明日と咲いてくれるだろう。

私は白い秋桜が好きだが見つけたら歓声を上げてしまいそうだ。

会いたかった人に会えたようなまるで恋のようである。



金曜日のせいか仕事は怒涛の忙しさであった。

昨日とは打って変わって義父が大活躍してくれる。

車検の車を引き取りに行ってくれたり納車もしてくれ大助かりであった。

昼食を食べる時間もなく「そんな暇はない」と云う。

まるで自分を虐めているようにも見えたが好きなようにさせるしかない。

私も明日は休みたかったので無我夢中であった。

車検整備が済むと直ぐに車検の準備を始める。

義父がスムーズに動けるように段取りをしなければならない。

車検が完了するともう4時になっており帰宅が遅くなりそうだった。

娘に電話して夕食の買い物を頼んだ。今夜のおかずもまた楽しみである。


帰り道は「やり切った感」でいっぱいだった。

明日休めるのも嬉しく疲れも吹き飛ぶような心地よさを感じる。

朝の峠道を下ればお遍路さんを二人見かけた。

もう夕方であり山里の民宿に泊まるのかもしれないが

もし延光寺まで行くのならすっかり夜になってしまうだろう。

話し掛けることも出来なかったので余計に気になってならなかった。


5時前に帰宅。10分だけ横になっていたが直ぐに夕食の支度である。

娘はクリームコロッケを揚げて私はソース焼きそばを作った。

夫には葱トロを買って来てくれていて大喜びである。


心配していためいちゃんは熱は出なかったが学校を休んでいた。

そっと部屋を覗いたら眠っていたので声も掛けられない。

夫に訊いたら昼間は元気そうだったと聞きほっとする。

あやちゃんは特に変わりなく笑顔で夕食を食べていた。

くくっと鳩ぽっぽのような笑い声にはとてもほっとするのだった。



今朝の詩も「昭和シリーズ」であるが我ながら微笑ましく思う。

娘は昭和56年生まれなのでやがて時代は平成に変わるのだが

「平成シリーズ」は書けないかもしれないと思っている。

しかしその日の気分次第で発作のように書いてしまうかもしれない。

この先長生きが出来れば「令和シリーズ」だって夢ではあるまい。

そう思うと楽しくてならず書く意欲がどんどん湧いて来るのだった。


今朝の詩にはいつも読んで下さっている人が共感してくれて嬉しかった。

何度も何度も読み返してくれたのだそうだ。

それが励みでなくて何だろう。

今にも枯れてしまいそうな花に恵みの雨が降ったような気がする。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


      内職

 アイロンがけの内職をしていた
 ワイシャツの襟やポケットなど
 予めアイロンで形を整えるのである

 一枚仕上げて3円とか5円だった
 一日に200枚が限度である

 幼い娘と遊んでもやれない
 可哀想でならなかったが
 私はアイロン職人である

 夏は過酷であった
 エアコンなどありもせず
 扇風機の風で暑さを凌いだ
 5円10円100円と
 頭の中はお金でいっぱいになる

 娘はお人形さんで遊ぶ
 ミルクを飲ますとおしっこが出る
 そのお人形が友達みたいだった

 ワイシャツの襟やポケットが
 縫いあげられて立派なワイシャツになる
 そうして店頭に並ぶ姿を想像すると
 わくわくと嬉しくてならなかった

 娘は甘えることをしない
 やけを云って泣くこともしない

 縫製工場のお兄ちゃんが来ると
 真っ先に玄関へ駆け出して行った





2025年09月25日(木) 涎のようなもの

曇り日。今日も夕方少しだけ雨が降った。

気温は30℃に届かなかったがやはり蒸し暑さを感じる。


今朝は通勤途中の国道で冷っとすることがあった。

ツーリングと思われるバイクが2台走行していたのだが

路肩が広くなった所で道を譲ってくれたので

軽く頭を下げて追い越したのだった。

その時大きなクラクションの音がし対向車がすれすれに通過する。

どうやら私がセンターラインを越えていたようだった。

その自覚が全くない。対向車は危険を知らせてくれたのだろう。

私はあくまでも真っ直ぐ走っているつもりであった。

高齢者の事故が多い昨今であるが私もその一人になるところだった。

通い慣れた道だからこそ気を引き絞めなければいけない。



仕事は急ぎの車検が一台入庫していたが不具合もなく午後には完了した。

義父は休養日と決めていたのか居室に籠り切りであった。

声を掛けると車検は済ませてくれたがまた直ぐに居室に戻る。

よほど疲れが溜まっているのだろうとそっとして置くことにした。

明日はまた忙しくなりそうである。義父の助けが必要となるだろう。


2時半に退社。3時半にはもう帰宅していた。

夫と大相撲を観ていたがそのまま5時まで眠っていたようだ。

娘と夕食の支度をし夫の好きな「とろろ汁」も作る。

めいちゃんが喉の痛みを訴え娘が風邪薬を飲ませていた。

おそらく娘の風邪がうつったのだろう。元を正せば私のせいである。

熱が出なければ良いが明日の朝まで様子を見なければいけない。

いつも元気なめいちゃんが弱ると心配でならなかった。

家族皆が健康でとどれ程祈り続けて来たことだろう。



今朝もいつものように詩を書いたが

その日の気分次第でどんな詩になるか全く分からない。

情緒不安定の時もある。そうして意味不明の詩を書いてしまう。

今朝の詩も上出来とは云えなかったが満足感はあった。

自分の詩に酔うと云うことはそう云うことである。

とある詩人さんが過剰に褒めてくれひたすら恐縮する。

その上に励ましの言葉まで頂き身に余ることであった。

伝わる人には伝わるがそうでなければ全く伝わらない。

SNSに垂れ流した「涎」のようなものである。

そんな涎を拭いながらまた明日の私に会いに行くのであった。


※以下今朝の詩


    曼珠沙華


 雨だれの音が切なく響く
 夏はそうして去っていくが
 涙とは誰も気づきはしない

 野には血の色の花が咲き
 その根には毒があるのだそうだ
 手折るにも怖ろしくてならず
 触れることも出来ずにいる

 それはやがて黒ずんで来るが
 死とはそう云うことなのだろう
 いつまでも鮮やかではいられない
 姿かたちは滅ばねばならないのだ

 秋が静かに深まっていく
 いのちもそうして心細くなる
 まさか最後の秋ではあるまい

 花ならば花として尽きよう
 根ならば根として生きよう





2025年09月24日(水) 私の「こども」

雨の予報だったが日中は全く降らず夕方から本格的に降り始めた。

気温の割に湿度が高いのだろうじめじめとした蒸し暑さを感じる。

もう汗はかかないだろうと思っていたがそうは行かなかった。


朝の山道を行けばイガ栗があちらこちらに落ちている。

拾う人もいないのだろう車に轢かれてしまうばかりだった。

栗を見れば祖父を思い出し荒れ果てているだろう栗山を思う。

毎年栗を送ってくれたのはもう随分と昔のことになった。

私は栗の皮を剥くのが苦手で半分に切ってスプーンで食べていた。

それも茹でたばかりだと柔らかいが冷えると固くなってしまう。

一度に20個くらい食べたこともある。それも遠い思い出となった。



毎朝職場に着くなりパソコンの電源を入れるのだが

今朝はどうした訳か電源が入らず大いに焦る。

コンセントを抜いたり差したりしても起動する気配がない。

困り果ててシステムサポートのO君に電話をしたら

午前中に様子を見に来てくれることになった。

とにかく待とうと思いつつもしやと停電時のバッテリーをいじってみた。

そうしたらまるで奇跡のように電源が入りパソコンが起動したのである。

知識はなく機器には疎いが何でもやってみるものだなと思う。

おかげで急ぎの事務仕事は午前中に片付きほっと肩の荷を下ろす。


高齢のお客さんから電話があり異音がするとのこと。

義父が直ぐに対応してくれて何と助かったことだろう。

異音の原因を調べるのは義父の最も得意とするところである。

早速に部品の手配をし明日には直りそうだった。

他にも大型車の車検が入庫しており不具合の部品も手配してくれる。

義父でなくては出来ない仕事が沢山あるのだった。

しかし同僚や私を振り回すのが玉に瑕である。

口煩いのも今に始まったことではないが精神的にかなり疲れるのだった。


3時までに整形外科に行かねばならず逃げるように帰路に就く。

今日はリハビリ後に診察もあり待ち時間の何と長いこと。

医師はいつも親身になってくれるが今日も「手術」の話だった。

「10年は持たんぞ」と云う。私は笑いながら「持つけん」と応える。


診察のある日は帰宅が遅くなるので娘に買物を頼んであった。

今夜のおかずは何だろうとわくわくしながら帰る。

「天婦羅」だった。茄子と太刀魚と海老で何と豪華なことだろう。

食費は三千円と決めており娘のやり繰りも大したものだなと思う。


海老の天婦羅が大好きなあやちゃんがにこにこしながら食べていた。

その笑顔を見ただけで私は幸せいっぱいになる。



今朝は「昭和シリーズ」の詩を書いたが

私の少女時代はあまりにも「お涙頂戴」になってしまうので

幼い頃の息子の詩を書いてみた。

ほのぼのと懐かしい。心温まる詩だと自分でも思う。

息子は全く音沙汰がないのだがそれが元気な証拠だろう。

そう思うと音信不通も「安心」に繋がるのである。

昭和、平成、令和と歳月は流れたが

息子はいつまでも私の「こども」であった。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


      猫まんま

 息子は「猫まんま」が好きだった
 ぬくぬくのご飯に鰹節を載せて
 お醤油をちょっと垂らして食べる

 父親と一緒に喫茶店へ行っても
 ココアではなく「猫まんま」と云う
 もちろんそんなメニューはなかったが
 もう常連になっておりそれが出て来る

 歳月が流れ息子はシンパパになったが
 毎晩何を食べているのだろうとおもう
 カレーを作っているかもしれない
 鶏の唐揚げを揚げているかもしれない

 電話をすれば「なんぞ?」と云うので
 そうそう電話も出来ないのだった

 ご飯は炊けているだろうか
 鰹節は買ってあるだろうか

 「おかわり」とお茶碗を差し出した
 息子の笑顔が忘れられずにいる



2025年09月23日(火) 秋分の雨

夜明け前にはぽつぽつだった雨がしとしとに変わり

如何にも秋らしい雨の一日となった。

気温も一気に涼しくなり随分と過ごし易い。

エアコンはもちろんのこと扇風機も不要であった。


彼岸の中日、「秋分の日」でもあり次第に夜が長くなる。

秋の夜長を愉しむような余裕はないが

この日記を書けるだけで幸せだと思う。

あと何度秋が訪れるのだろう。まさか今年が最後ではあるまい。


お墓参りに行くでもなくだらだらと怠惰に過ごす。

娘が仕事だったのでめいちゃんが買い物に付き合ってくれた。

私が食料品を買っている間にセリアで買い物をする。

お財布が入ったバックを首からぶら下げ何と頼もしいことだろう。

重い荷物も提げてくれて車まで運んでくれて大助かりだった。

以前はよく一緒のことが多かったが最近では滅多にないことである。

それだけ成長したのだろう。もう11歳の少女であった。


今日も寝ないでいようと思っていたが午後は睡魔に負ける。

夫と録画してあった「ポツンと一軒家」を見ていたのだが

いつのまにか寝てしまい目覚めればもう3時である。

夫は大相撲を見ていたが私は自室で過ごすことにした。

そうなればまた煙草である。ひっきりなしに火を点けてしまう。

これはれっきとした依存症で病と云っても過言ではないだろう。

悔しくて情けなくてならないがどうすることも出来なかった。

血圧が高いのも煙草が原因かもしれず自業自得しか云いようがない。


夕飯はめいちゃんのリクエストで「しゃぶしゃぶ」だった。

娘の体調も良くなっており下準備をしてくれる。

カセットコンロを出せば如何にも秋の夜らしい。

これからは鍋調理も多くなることだろう。

家族みんなで鍋を囲むことはないが夫と二人鍋も良い物である。



今朝も夜明け前に詩を書いたが「昭和シリーズ」は敢えて書かず。

静かな雨音を聴きながら書きたいように書いてみた。

なんだか自分の言葉に酔っているとしか思えない。

自分は感動しても誰にも伝わらない「曲者」であった。

けれども心は満たされる。自分らしさとはそうでなければならない。

満たされないのなら書く意味など無いに等しい。


雨は降り止まず今もしとしとと降っている。

秋の雨は切なくもあるが不思議と心が癒されるようだ。


※以下今朝の詩


      秋分

 ぽつぽつと小雨が降っている
 ひび割れた空から滲むように
 それは落ちなくてはならない

 彼岸と此岸の真っ只中にいて
 亡き人たちは彷徨うのだろう
 あちら側の夢やまぼろし
 こちら側の現とかなしみ

 生きて在ればこそと思うが
 引き裂かれるような痛みがある

 夏の背が遠ざかっていく
 いったい何と声を掛けよう

 秋が深まっていく
 もうどうしようも出来ない



2025年09月22日(月) 紅い道

彼岸に入ってから朝晩が一気に涼しくなった。

不快な汗に悩まされることもなくなり快適に思う。

日中も今日は30℃に届かず空は「秋晴れ」であった。

このまま秋が深まれば良いのだがどうなることだろうか。

一気に冬になってしまうのも戸惑うに違いない。


真紅の彼岸花に寄り添うように白い彼岸花も咲き始めている。

そのコントラストは見事で思わず歓声を上げる程だった。

白い彼岸花は最初は純白だが次第に薄桃色に変わって行く。

それが寿命のようだが何となく切なく感じるのだった。

真紅の彼岸花は黒ずんで来る。それはとても憐れでならない。

今年は猛暑のせいで全国的に一週間ほど遅れて咲いたようだ。

その分長く咲き心を和ませてくれることだろう。



血圧は150と今朝も高目であったが至って元気であった。

先日医師は薬を増量してくれたが効いているとは思えない。

また受診することも考えているが原因は分らぬまま増量となるだろう。

それも考えもので薬漬けになるのにも抵抗がある。

「まあ元気だから良いか」とにかく大らかに過ごさねばならない。


月曜日で仕事は忙しかったがそれも午前中だけのこと。

義父は仕事の段取りを済ますと田んぼを耕しに行った。

明日は雨の予報なので今日中にと少し焦っているようだった。

母の命日も近づいており三回忌の段取りもあったが

もうお寺さんには頼まず命日に私と義父だけで済ますことにした。

大掛かりな法要となれば伯母達に迷惑をかけてしまうので

ひっそりとささやかに供養だけするのが最善と思われる。


午後は宿毛市の銀行へ母の預金口座を解約に行っていた。

残高も僅かなので2年間ほったらかしにしていたのだが

先日銀行から葉書が届きこのままでは手数料が発生するのだそうだ。

僅かの残高から手数料とは何と理不尽なことだろう。

手を打たねばならず今日は意を決し解約の手続きをした。

アパート暮らしをしていた頃の水道光熱費等が記帳されており

母の独り暮らしを垣間見るようで何とも切ないものである。

3750円、それが母の全財産であった。

暗証番号は7171、「ないない」と如何にも母らしい数字である。



今日は母方の祖母の20年目の命日でもあった。

何の供養も出来ず心苦しいばかりである。

お墓に続く小道には今年も彼岸花が沢山咲いていることだろう。

以前に「紅い道」と云う詩を書いたことがあったが

それも祖母の供養になったのだろうか。

とある文芸賞に応募したが紙屑のように落選してしまった。


今朝も祖母を思い出し心を込めて書いた。

しかしSNSでは不評でまたまたダブルパンチである。

決して「お涙頂戴」ではなかったはずなのだが心に響かなかったのだろう。

大いに共感してくれたのはAIの響君だけであった。


私は何度も読み返し泣いた。ひっくひっくと泣きじゃくった。

よく書いたものだと思う。これ程の感動があるのかとさえ思う。

誰にも伝わらなくても祖母にはきっと伝わったことだろう。

それが一番の供養に思えた。今日しか書けない詩である。


「紅い道」が目に浮かぶ。祖母に会いたくてならなかった日。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     おはぎ

 十年一昔と云うけれど
 二十年だと二昔なのか
 なんだか昔話のようだ

 祖母の愛ちゃんのおはぎ
 美味しくて大好きだった
 小豆をことことと煮て
 甘い餡子が出来上がると
 蒸しあげたもち米を丸め
 ぬったぬったと餡子を塗る

 それはこどもには難しく
 愛ちゃんは天才のようだった
 「ほうれ出来たよ」と
 手渡された大きなおはぎ
 口の周りが餡子だらけになる

 「いっぱい食べや」
 でも二個も食べたらお腹が膨れる
 本当は五個くらい食べたかった

 二十年目の命日である
 昔話にするにはあまりにも切ない

 愛ちゃんのおはぎが食べたい
 愛ちゃんの笑顔に会いたい



2025年09月21日(日) 心のスイッチ

今朝は涼しさを感じたがそれもつかの間のことだった。

日中は真夏日となりまだまだ厳しい残暑である。

隣町の宿毛市では33℃を超えていたようだ。

山里もおそらく暑かったことだろう。


血圧は変わらず今朝も160を越えていたがもう気にしないことにした。

自覚症状は全くなく元気そのものである。

おや?と気づいたのは先日からの難聴でどうやら治ったらしい。

電子レンジの音が聴こえ換気扇の音も聴こえるようになっていた。

どれもこれも神経質に考え過ぎていたのかもしれない。


昨日の寝溜のせいだろうか昨夜は熟睡出来ず辛かった。

隣のベットで寝ている夫の手を確かに握ったのだが

それも夢だったらしくうなされていたようだった。

もうこりごりと今日はなるべく寝ないようにする。

とにかく横になってはいけない。かと云って自室で過ごしていると

煙草ばかり吸ってしまいそれにも嫌気が差して来る。

いったいどうすれば良いのだろうと途方に暮れるのであった。


とうとう昼食後には一時間程寝てしまう。

そうしてまた自室で過ごすと煙草三昧になってしまうのである。

机の上には読みかけの詩集が山積みになっているのだが

どうしても読む気にならず困ったものである。

心のスイッチが何らかの原因で壊れているようであった。


夕食はカレーの予定だったので早目に作ることにした。

いつもなら娘が作ってくれるのだがまだ体調が思わしくない。

幸い熱は下がったようだが咳が辛いようだった。

「よっし、作るぞ」と気合を入れて台所に立つ。

じゃが芋の皮を剥き玉葱を刻んだ。

以前は甘口と辛口の両方を作っていたのだが

孫達が中辛を食べられるようになり大いに助かる。

家中にカレーの匂いが漂い美味しそうなカレーが出来た。

「鰹のタタキ」も作りもう準備万端である。


夫は風邪の名残で胃の調子が悪かったがカレーは大好物である。

何よりもあやちゃんが喜んで食べてくれたのが嬉しかった。

頑張って作った甲斐がある。今日は「カレー日和」になった。



今朝も「昭和シリーズ」の詩を書いたが

SNSでは不評でダブルパンチを食らう。

原因は分っておりやはり「お涙頂戴」なのである。

幼い頃の詩は微笑ましいかもしれないが少女時代となるとそうは行かない。

だからと云って嘘は書けずありのままの記憶を辿るしかなかった。

母を恨み続けた日々をどうして忘れることが出来ようか。

母の命日を直前に控えこれだけは書いておきたい詩だったのだと思う。

書き終えてから母の遺影に手を合わせたのは云うまでもない。

母を心から赦すことは私の永遠の課題なのだろう。


今日は母が死んだ2年前の9月の詩を読み返していた。

そこには母に対する恨みなど少しも書かれてはいなかったのだ。

「ばいばいまたね」母の最期の言葉である。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     手紙

 学校に母からの手紙が届く
 先生は手渡しすることをせず
 職員室へ来るようにと云う

 私はそれが嫌でたまらない
 「特別」だと思われている
 先生たちの目が怖かったのだ

 母はいったい何を書いていたのか
 手紙の内容は全く記憶になかった

 母に返事を書いた記憶もない
 だからと云って
 破り捨てた記憶もないのである

 父に見つかったら叱られる
 そればかりを思っていたのだろう
 一番憐れなのは父なのに違いない
 大きな背中が震えているように見えた

 母は罪を背負い生きているのか
 それでいて愛情を込めようとする

 ゆるすものかと私は思った

 父の運命を大きく変え
 私も運命の歯車に巻き込まれた
 どれほどの傷なのか母は知らない

 そんな母をどうして赦せようか
 半世紀以上の歳月が流れ
 母はもうこの世には存在しない

 手紙はもう届かないのだ

 私は未だに母を赦せずにいる




2025年09月20日(土) くろねこのタンゴ

「彼岸の入り」曇り空で暑さは和らいでいた。

おそらくもう猛暑日になることはないと思うが

夏の名残は10月まで続くようである。


今朝も血圧が下がってはいなかったが

あまり気にせずに大らかに過ごすことにした。

夫のように全く気にしないのも考えものだが

神経質になるとよけいに高くなるのだろう。


二週間ぶりのカーブスは頑張ることをしなかった。

軽く筋トレをしストレッチをしただけである。

汗も殆どかかなかったがまあ良いかなと思い帰って来る。

少し左肩が痛む。ついに上半身まで弱ってしまったのだろうか。


昼食に久しぶりに「塩ラーメン」を食べた。

それも秋の兆しである。もう冷やし中華の季節は終わったようだ。

午後はひたすら寝て過ごし目覚めればもう4時である。

「洗濯物が乾いちょったぞ」と夫が取り入れてくれていた。


娘は微熱が出ており咳も酷く辛そうである。

今日はPTAのリサイクルごみの回収があり無理をしたようだ。

風邪薬を飲むように勧めたが使用期限が過ぎていた。

どうしても嫌だと云って聞かず飲まず仕舞となる。

娘の体調が悪いと火が消えたような我が家であった。



今朝も「昭和シリーズ」の詩が書けたのだが

SNSでは不評でいささかショックであった。

自分では書きたいことを書けたつもりだったので尚更である。

それこそが自己満足に他ならない。


母に捨てられた可哀想な少女である。

しかしそれも結局は「お涙頂戴」なのだと思う。

これは今後も教訓にしなければならないが

私は自分が可哀想でならないのである。

同時に未だに母を赦せずにいる愚かな娘であった。


書いて浄化するならばいくらでも書こうと思う。

しかしそこにはいつも「殻」のようなものがあり

その殻を打ち破らなければ本物の詩が書けないような気がする。

そうしてそれが死ぬまでの目標となれば立ち向かうしかない。

死んでも死にきれないと云っても過言ではないだろう。

ならば生きてとことん尽き果てねばならない。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


   くろねこのタンゴ

 確かにこどもであった頃
 嬉しかったこと
 悲しかったこと
 時が経てば全てが思い出になる

 初めて買って貰ったレコードは
 「くろねこのタンゴ」であった
 嬉しくって何度も何度も聴いた

 まだ誕生日には早かったのに
 「もうすぐだから」と母は云う
 私が口ずさむと母も微笑みながら
 一緒に歌っってくれて楽しかった

 13歳の誕生日の朝である
 とても寒い冬の朝のことだった
 ストーブが点いていなくて
 部屋はしんしんと冷え込んでいた

 「おかあさん」と何度呼んだことだろう
 家の外を探しても母は何処にも居なかった

 泣いてはならない
 ぎゅっと歯を食いしばって耐えた

 母はもう決めていたのだろう
 どうしてもその日でなくてはならない

 「くろねこのタンゴ」が聴けない
 私はもう歌えないこどもになっていた



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