晴れたり曇ったり。山里ではほんの少しだけにわか雨が降った。
そのせいか何と蒸し暑かったことだろう。
気温は33℃だったが江川崎では今日も36℃近くあったそうだ。
秋らしさと云えば「黄花コスモス」で今が見頃である。
朝の道でもあちらこちらに群れ咲いており心が和む。
お遍路さんがふたり、もう「秋遍路」と云っても良いだろう。
真夏の間は少なかったお遍路さんも少しずつ増え始めている。
しかしまだ熱中症の危険があり命がけの旅にも思えるのだった。
今朝は目覚めるなり耳がよく聴こえない。
鼻風邪の後遺症で耳に何らかの炎症が起こっているようだった。
「突発性難聴」やもしれず耳鼻科を受診したかったが
三連休明けでどうして仕事を休むことが出来ようか。
幸い風邪の症状は治まっているので数日様子を見ることにした。
早ければ明日にでもと思うが仕事はどうなることだろう。
半日でも休めばまた義父が慌てふためくに違いない。
仕事は車検が入庫しており順調に整備は完了したが
義父に来客があり車検どころではなくなってしまう。
同じ米農家仲間さんで「百姓談義」のそれは長いこと。
義父も話し相手が欲しかったのだろう延々と話し続けていた。
昼食も摂らずに3時前まで。これは駄目だなと諦めて退社するしかない。
明日も車検の予約が入っており義父次第であった。
何としても助けて貰わなければにっちもさっちも行かなくなる。
4時過ぎに帰宅。夫と一緒に大相撲を観ていたが
いつの間にか寝てしまい「おい5時だぞ」と起こされる。
三連休の間、目が腐るほど寝たのにいったいどうしたことだろう。
5時になれば娘が率先して夕食の支度をしてくれ大助かりである。
今日は半額品のオンパレードで娘も驚いていた。
夫は戦利品のベビーホタテで早速ビールを飲み始める。
いつもはハイボールも飲むのだがまだ飲みたくないそうで
本調子ではない様子に少し心配になった。
風邪は万病の素である。夫だけではなく私も用心しなければならない。
難聴が長引けばと思うと少し不安になった。
夜明け前の詩は相変わらずで「昭和シリーズ」が書けなくなっている。
おそらくもう限界だと思うのだがある日突然もあるだろう。
書こうと思って書いていないのでまるで「びっくり箱」であった。
今朝も何も考えずに書き始めてしまったら「ゆでたまご」になったのである。
「なんじゃこりゃ」と書いた本人もびっくり仰天であった。
詩作は面白い。愉しくてならない。
古希のおばさんは詩を書きながらいつも生き生きとしているようだ。
※以下今朝の詩
ゆでたまご
こつんと音をさせて それは剥がれていく
つるつるとした膜があり ぬるりと絡みつくのだが そのような執着を 一気に剥がさねばならない
私はもう茹でられてしまった あの熱さは言葉には出来ない
苦しくても叫べない 痛くても泣けはしない
運命だとしたらいったい 誰が決めたのだろうか
いのちがまあるく固まる すべすべとした手触りに 満たされてしまえば もう何も怖いものなどない
晴れのち曇り。午後には雷雨予報だったが降らずに済んだ。
9月も中旬だと云うのに全国の28地点で猛暑日だったとのこと。
江川崎も含まれており36℃を超えていたようだ。
今週末には彼岸の入りである。せめて朝晩だけでもと涼しさを願う。
「敬老の日」であったが私達夫婦にはまだ少し早いようで
地区の「敬老祝い」は75歳からであった。
お赤飯もしくは商品券を配るのが習わしである。
高齢者の多い地区のことで今日は笑顔の一日になったことだろう。
夫はまだ咳が続いており本調子ではない様子だったが
食欲はあるようでお昼には「ところてん」を食べた。
高知のところてんは鰹出汁のつゆを掛けて食べるのが一般的で
全国でも珍しい食べ方のようである。
私は冷凍炒飯をこじゃんと食べてお腹がいっぱいになっていた。
らっきょうも食べられるようになりすっかり本調子である。
午前中に2時間、午後は4時間も寝て我ながらよく寝ること。
夢に姑さんが出て来て気になったがお線香を上げには行かなかった。
「敬老の日」には菓子折りを届けていたので思い出したのだろう。
折り合いの良くなかった姑さんであるが夢の中ではいつも笑顔である。
大相撲を観ながら娘と夕食の支度をする。
娘がお素麺を湯がいてくれて私は鰹のタタキを作った。
夫はビールを飲み始めて大相撲に釘付けである。
まるで平和を絵に描いたような夕暮れ時であった。
そんな絵を塗りつぶしたくないと誰だって願うのに違いない。
今朝は百歳の詩を書いた。目標は88歳の米寿であったが
あと20年足らずだと思えば何と儚いことだろう。
日々をひたすら織り続けているが糸が足らなくなるかもしれない。
若い頃の20年と老いてからの20年は雲泥の差に思える。
若い頃なら好きな色の糸を買い求めることも出来るが
今となっては手元に残った糸を使い切らなければならない。
そうして一枚の布に仕上げていくのが私の使命だと思っている。
穴が開いていれば繕わなければならない。
みずぼらしい最期であってはならないと苦労を惜しまないのであった。
一日が終われば一日が縮む。織り進む布をそっと広げて見れば
もう十分に生きたようにも思えるこの頃であった。
※以下今朝の詩
百歳
「百まで生きたらいいだろな」 敬老会で園児たちが歌ってくれた あやちゃんとめいちゃんの声もする
その頃の私は長生きをすることより ぽっくり死ぬことばかり考えていた
ある日突然の死ほど不安なことはなく 何ひとつ心構えが出来ないのだった
身体から魂がすうっと抜けていく いったいどんな感覚なのだろう 戻りたくても戻れないことは 生きたくても生きられないこと
春だろうか秋だろうかとおもう 桜の花が溢れんばかりに咲いて 秋桜が風に揺れているのがいい
「おばあちゃーん」と声がする その時にこそ振り向かねばならない
百を数えるのはむつかしい 途中で間違えてしまいそうだ
もう十分に生きたのかもしれない 記憶の波が押し寄せて来て 足元の砂がすうっと引いていく
午後7時、外気温はまだ30℃あり昼間の暑さを物語る。
日中は蒸し暑さの上に35℃を超す猛暑日であった。
そんな暑さの中、市内では「不破八幡宮」の大祭が執り行われ
同時に「よさこい四万十」の催しもあった。
大祭は昔から「八幡さん」と呼ばれており
日本でも珍しい神様の結婚式があることで有名である。
男神輿と女神輿がぶつかり合う様は結婚とは云い難いが
その「ふれあい」を結婚としたのだろうと思われる。
古くからの伝統行事でとても縁起が良い祭りであった。
「よさこい四万十」は「よさこい祭り」のミニバージョンであるが
県内各地から59チーム3200名もの踊り子が参加していたそうだ。
一目見たかったが出掛けることは出来ず残念であった。
どんなにか多くの見物客で賑わったことだろう。

今朝は幸い夫の熱が下がっておりほっと胸を撫で下ろす。
しかしまだ食欲がなく朝食は食べられなかった。
寝ていることを勧めたが起きて茶の間で過ごすと云って聞かない。
昼食には少し食欲が出て来て冷やし中華を食べることが出来た。
咳と鼻水は続いているがゆっくりと恢復しているようで何よりである。
買い物に行った時にめいちゃんの好きな「シャインマスカット」を買い求めた。
バースデーカードを添えてテーブルの上にそっと置いておく。
それを見つけためいちゃんの何と嬉しそうな顔だったことだろう。
「おばあちゃんありがとう」と笑顔溢れるめいちゃんに会えた。
早いものでもう11歳の誕生日であった。
やがてめいちゃんも少女の階段を上り始めることだろう。
今日から大相撲秋場所が始まり夫には元気が戻って来る。
目を輝かせて観戦している姿はまさに「風邪知らず」であった。
お刺身用の「びんよこ」で「ひっつけ寿司」を作る。
夫は大喜びで何とビールまで飲むのであった。
これにはびっくりで一気に風邪が吹っ飛んだようである。
娘達はてっきり外食だと思っていたのだが
あれこれとご馳走を買い込んできており部屋でパーティーをしている。
私と夫は部外者でありその疎外感はやはり寂しいものであった。
しかし娘達にとっては家族水入らずが一番なのだろう。
先ほどめいちゃんがお皿にケーキを載せて持って来てくれた。
娘が気を遣ってくれたのかもしれないが思いがけずに嬉しくてならない。
娘達には守り抜きたい暮らしがある。私達は踏み込んではいけないのだ。
荒らすことは容易いがそれをしてしまえば後悔しかないのだと思う。
それぞれの暮らしを尊重することそれが一番の安泰に繋がるのである。
今朝はめいちゃんの詩を書いた。
胸に熱いものが込み上げて来てほろりと涙がこぼれそうだった。
※以下今朝の詩
めいちゃん
11年前の今日のことである 娘が二人目の女の子を産んだ
名前は生まれる前から決めており トトロの「めいちゃん」であった
めいちゃんはミルクをいっぱい飲んで 元気にすくすくと大きくなった
少し癇癪持ちは娘譲りで 泣き始めると火が点いたように泣く よしよしと何度抱きしめたことだろう
乳児保育園から保育園へ そうして小学校へ通うようになる 薄紫色の大きなランドセルが やがて小さく見えるようになった
絵を描くのが好き手紙を書くのが好き レモンが好き葡萄が好き梅干しが好き
「家族」の絵を描くと真っ先に おじいちゃんとおばあちゃんを描いてくれた
何と優しい子に育ってくれたのだろう 目に入れても痛くないと思うのだけれど もう目に入れられないほど大きくなった
どんな未来が待っているのだろう 二十歳になっためいちゃんに会いたい
早朝には小雨が降っていたが日中は思いがけずに晴れる。
真夏日となりとても蒸し暑い一日だった。
しかし吹く風のなんと心地良いことだろう。
ささやかな秋の気配を感じほっと空を仰いでいた。
体調はまずまず。食欲はあまりなかったが
熱もなく鼻水が治まっただけで随分と楽になった。
義父からも連絡がなく心置きなく休むことが出来た。
カーブスも休み10時頃までごろごろと寝て過ごす。
夫がお昼に「ばってら寿司」を食べたがり買い物に行く。
サニーマートのばってらは柚子が効いていて美味しいのだ。
ばってらだけでは物足らないと云うのでお蕎麦も湯がいた。
夫はお昼からビールも飲み上機嫌である。
昼食後もひたすら寝て過ごし目覚めればもう4時であった。
すると夫の様子がおかしい。鼻水と咳が出始めており倦怠感を訴える。
熱を測れば38℃あり夫にとっては高熱であった。
「俺はもういかんぞ」とすっかり弱気になっている。
私の風邪薬と解熱剤を飲み直ぐに寝室に向かったのだった。
たかが風邪と思っていたのでまさかうつるとは思ってもいなかった。
夫も高齢になり抵抗力も薄れていたのだろうと思う。
それにしてもお昼にはあんなに元気だったのにと驚くばかりである。
娘達は夕食不要とのことで何も作らず独りで細々と夕食を食べた。
昨夜のロールキャベツが一個だけ残っておりとろとろと美味しい。
ノンアルビールで喉を潤しそれだけでもう十分に思う。
汗で髪の毛がねばねばしていたのでお風呂で洗い流した。
もうこれで完璧だと思う程さっぱりと気持ち良い。
弱り切っている夫には申し訳なかったが
せめて私だけでも元気にならなければと思う。
3連休で何よりである。夫も連休明けには恢復しているだろう。
どうやら一心同体の夫婦であるらしくそれも愉快に思える。
コロナの時もインフルの時も二人で寝込んだことを思い出す。
それだけ仲睦まじいのだろう。辛い時はいつも一緒であった。
思い起こせば苦労の多い人生だったが
言葉で励まし合うことはなくても寄り添う心があったのだと思う。
貧乏のどん底で二人して耐え子供達を育てたことが忘れられない。
夫はいつも逞しかったのだ。そんな歳月が「宝物」のように思える。
以下は今朝の詩だが書きたくてならなかった割に出来が悪かった。
SNSでの評判も悪く少し落ち込んでいる。
お目汚しになるだけですが読んで頂けたら幸いです。
河口
深いようで浅いのである 重いようで軽いのである
それを持て余してしまえば あっけらかんと生きるしかない
大雨が降れば大河は濁る 強い風が吹けば白波を立てる その流れに逆らってはならない
上流から河口へと流れ着けば 押し寄せて来る海があるのだ
潮が香り沖からの風が吹いている その真っ只中に立ってみるがいい
全てのことが些細な事だったのだ あっけらかんと生きるしかない
昨日は雨、今日は曇りの予報だったが思いがけず晴れて真夏日となる。
猛暑が和らいだだけでも秋が近づいているのだろう。
昨日は出勤前に何となく怠さを感じ熱を測ったところ
38℃もありそのまま病院へ向かった。
いつもの内科だが発熱外来に回されインフルとコロナの検査をする。
車中で待機していたらどちらも陰性だと連絡があった。
先日からの鼻水はやはり風邪だったのだろう。
咳も酷かったが喫煙のこともあり医師に相談出来ない。
主治医なら事情を把握してくれているのだが残念であった。
血圧のこともあり主治医に診てもらいたかったがそれも叶わず
若い医師は電子カルテを見ながら血圧の薬を増量してくれた。
高ければ増量である。それは主治医でも同じことだったろう。
義父に連絡をして仕事は休ませてもらったが
例の如くで段取りが狂ったと機嫌が悪かった。
もしコロナだったらパニックになっていただろう。
昼食も食べられずそのまま薬を飲み夕方まで寝ていたが
一度下がっていた熱がぶり返し夕食も食べられなかった。
入浴も出来ない。もちろんこの日記も書くことが出来なかったのだ。
身体の辛さよりもそれが一番に辛い事であった。
毎日読んでくれている人達にどれほど心配をかけるだろうか。
「ついに死んだか」とは思わなくても何かあったのかと思ったに違いない。
今朝は平熱になっており仕事に行っていたが
思った通りの忙しさでお昼休憩も出来なかった。
義父は散々私を振り回しておいてさっさと畔の草刈りに行く。
それが3時になっても帰らないので鬼の居ぬ間にと逃げ帰って来た。
明日も仕事のつもりでいたがもう限界に思える。
帰宅するなり今度は眩暈に襲われる。
最悪の気分になり頓服薬を服用し5時過ぎまで寝ていた。
娘が気遣ってくれ寝ているように言ってくれたが
もう大丈夫と肩を並べて夕食の支度をする。
薬が効いたのだろう眩暈は治まっており夕食も食べられた。
しかしあんなに大好きだったらっきょうを食べたくないのだった。
まだ本調子ではないのだろう。ロールキャベツを一個だけ食べる。
お風呂の何と気持ち良かったことか。生き返ったように思う。
風邪も洗い流したようにさっぱりとし今こうして日記を書いている。
何だかもう思い残すことはないような気分であった。
猛暑続きだった夏の疲れだろう。
季節の変わり目でもあり体調管理には気をつけていたつもりだが
身体は正直なのだろうと思った出来事であった。
無理をし過ぎないのが一番であるがその無理の限界が分からない。
独楽鼠のようにぐるぐると同じ処を回っているような日々であった。
※以下昨日の朝の詩
雷雨
ぐるぐると定まらないので じっとしていることにした
窓の外は雷雨である そう近くはなさそうだ 地響きのような音がして 激しい雨音が聴こえている
書けない時は書けないと 記せば良いのだそうだ どうせ詩人でも在りはしない 古希を迎えた老人の戯言である
苦労話はもうよそう 誰も聞きたがりはしない 思い出したいのは私だけである 何と見苦しいことだろうか
雷がだんだんと遠ざかっていく 私はいったい何を記したのだろう
雨になりたかっただけかもしれない
雨が降ったり止んだり。午後には雷を伴いけっこう強く降った。
各地で線状降水帯が発生しており冠水の被害が起きているようだ。
今朝は九州、夕方には東京都心が豪雨となり気の毒でならない。
昨今の雨の降り方は異常で昔のように「秋の長雨」とは行かないようである。
いつ何処で線状降水帯が発生するかも分からず不安がつのるばかりだった。
「明日かも知れない」常に心構えが必要に思う。
仕事はさほど忙しくなかったが鼻水が酷く辛い一日となる。
おまけに血圧も異常に高くなっており踏んだり蹴ったりであった。
慣れてはいてもやはり不安でならない。倒れたら一巻の終りである。
自覚症状が全く無いのも厄介なもので計測してから驚くことが多い。
近いうちに内科の通院を控えているのでよく診てもらおうと思っている。

義父は朝のうちに「加地子」(かじし)を届けに行く。
田んぼは全て借物なので「加地子」は小作料であった。
全部で10軒程だろうかそのお米の量の何と多いことだろう。
米作りを諦める農家が多く年々義父に矛先が向かって来るのだった。
私のような素人考えでは苦労は一切せずにいて
収穫した新米を貰える方がずっと良いように思う。
それを云えば義父に叱られるが義父が大損をしているように感じるのだった。
そうして自分の所有する田んぼが一切無いことが憐れに思えてならない。
2時まで待っていたが義父は帰らず整形外科へと向かった。
3時の予約であったが直ぐに名前を呼ばれ助かる。
療法士のU君の施術は今日も完璧で痛みが随分と楽になった。
彼の手は魔法の手だといつも思う。
買い物をして4時過ぎに帰宅。窓を閉め切っていた自室の蒸し暑いこと。
直ぐにエアコンを点けてまたSNSを見ていた。
今朝の詩は自分では好きだったが反響はイマイチである。
昭和シリーズのつもりであるが所詮は苦労話なのだろう。
年寄りの苦労話ほど嫌われるものはないと思う。
じゃあ明日からどうすれば良いのだろうと途方に暮れるのであった。
書きたいことを書けるものを書くしかないだろう。
そう思ってもそろそろ限界なのかもしれない。
もしかしたら全く書けなくなってしまう可能性もある。
そうなればもう死ぬしかないとさえ思うのであった。
明日はあしたの風が吹くらしい。
雨が降っていたら私も雨になればいい。
ずぶ濡れになってもきっと風が味方になってくれるだろう。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
青さ海苔 家業には後継者が必要であった 夫が決心したのは30歳の時である
しばらくは退職金で暮らしていたが それも底を尽いてしまったのだ
幼い子供ふたりを抱え 貧乏のどん底に陥ってしまった
真冬から早春にかけての家業は 「青さ海苔の養殖業」である 自然相手のことで困難も多い 夫と母は毎日休まず漁に出ていた
3歳の息子は土手から土筆を採って来る まるで宝物を見つけたように微笑んでいた
1歳の娘はよく眠る子で 私の背中ですやすやと寝息を立て始める 泣いてぐずることをしなかったのだ おかげでどれほど助かったことだろう
大漁の日が続けば希望が湧いてくる 洗った海苔を「えびら」に広げ天日干しをした 陽射しを受けて輝く海苔は宝石のようであった
夫は日に日に逞しくなっていく 青白かった顔も川漁師の顔になった
四万十川に夕陽が沈む やがて一番星が見え始めると 肩の力が抜けるようにほっとしたものだ
時代は令和となり青さ海苔は絶滅となった
晴れたり曇ったり残暑は厳しく今日も猛暑日となる。
明日は雨の予報で一時的に暑さが和らぐらしい。
暑さ寒さも彼岸までと云うがまだ二週間も先である。
やはり風邪気味なのか鼻水がすごい。
おまけにいつもの咳が加わり少し辛い一日であった。
喫煙のせいもあり激しく咳き込むことが多い。
その度に尿漏れに悩まされており情けないことである。
せめて節煙が出来ればと思うが余計に吸ってしまうのだ。
自分を制御することが全く出来ないのであった。
病名の付けようがないがおそらく精神的なものだろう。
仕事は順調であったが今日は屑米の出荷があり義父は忙しい。
安価ではあるが引き取ってくれる業者があり大いに助かる。
鶏の餌になるのだろうか。炊けば家畜の餌にもなるだろう。
苦労して作ったお米である。廃棄処分にならなくて何よりだった。
義父に訊けば15万円くらいはあるのだそうだ。
屑米だからと馬鹿にしてはならない。
ゼロからスタートしていた経理も順調で今日は数件入金があった。
明日はカード決済があり何と助かったことだろう。
支払えばまたゼロになるがお金は天下の回り物である。
嘆かず諦めず日々こつこつと貯めて行かねばならない。
事務仕事も一段落し3時前に退社した。
帰宅してしばらく茶の間で横になり後は自室で過ごす。
今朝の詩は自分でもあまり好きではなかったのだが
案の定評判が悪く「いいね」の数も少なかった。
やはり内省的な詩は良くない。自分でも分かっているのだが
書いてしまったからには取り返しがつかないのだった。
あえて削除しないところが私のやり方である。
「これが私」と愚かなプライドもあるのだと思う。
そうして後から自己嫌悪に陥るのが常であった。
生き甲斐とか偉そうなことを云ってもこの様である。
けれども私は自分を見捨てることはしない。
書きたいように書かせてやりたいし守ってやりたいのだ。
背中を押されるように生きているがまだ終われない旅であった。
※以下今朝の詩
日記
午前4時古い日記を開く 書き殴られた記憶は 鮮やかでもあり 薄汚れてもいる
栞を挟んである日は 嬉しいことがあったのだろう
黒く塗り潰している日は 私の犯した罪なのに違いない
心のままに生きて来たのか 迷わずに歩き続けて来たのか
花の蕾は開き咲くことを知る 季節が巡れば枯れなければならない
あがき戸惑うその憐れさも 見て見ぬふりは出来なかった
まだ書き続けられるだろうか 光と影が交差するその真っ只中で 息として生きようとしている
夏だったのか秋だったのか 春だったのか冬だったのか
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