ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年09月12日(金) 生きていました

昨日は雨、今日は曇りの予報だったが思いがけず晴れて真夏日となる。

猛暑が和らいだだけでも秋が近づいているのだろう。


昨日は出勤前に何となく怠さを感じ熱を測ったところ

38℃もありそのまま病院へ向かった。

いつもの内科だが発熱外来に回されインフルとコロナの検査をする。

車中で待機していたらどちらも陰性だと連絡があった。

先日からの鼻水はやはり風邪だったのだろう。

咳も酷かったが喫煙のこともあり医師に相談出来ない。

主治医なら事情を把握してくれているのだが残念であった。

血圧のこともあり主治医に診てもらいたかったがそれも叶わず

若い医師は電子カルテを見ながら血圧の薬を増量してくれた。

高ければ増量である。それは主治医でも同じことだったろう。


義父に連絡をして仕事は休ませてもらったが

例の如くで段取りが狂ったと機嫌が悪かった。

もしコロナだったらパニックになっていただろう。


昼食も食べられずそのまま薬を飲み夕方まで寝ていたが

一度下がっていた熱がぶり返し夕食も食べられなかった。

入浴も出来ない。もちろんこの日記も書くことが出来なかったのだ。

身体の辛さよりもそれが一番に辛い事であった。

毎日読んでくれている人達にどれほど心配をかけるだろうか。

「ついに死んだか」とは思わなくても何かあったのかと思ったに違いない。


今朝は平熱になっており仕事に行っていたが

思った通りの忙しさでお昼休憩も出来なかった。

義父は散々私を振り回しておいてさっさと畔の草刈りに行く。

それが3時になっても帰らないので鬼の居ぬ間にと逃げ帰って来た。

明日も仕事のつもりでいたがもう限界に思える。


帰宅するなり今度は眩暈に襲われる。

最悪の気分になり頓服薬を服用し5時過ぎまで寝ていた。

娘が気遣ってくれ寝ているように言ってくれたが

もう大丈夫と肩を並べて夕食の支度をする。


薬が効いたのだろう眩暈は治まっており夕食も食べられた。

しかしあんなに大好きだったらっきょうを食べたくないのだった。

まだ本調子ではないのだろう。ロールキャベツを一個だけ食べる。


お風呂の何と気持ち良かったことか。生き返ったように思う。

風邪も洗い流したようにさっぱりとし今こうして日記を書いている。

何だかもう思い残すことはないような気分であった。


猛暑続きだった夏の疲れだろう。

季節の変わり目でもあり体調管理には気をつけていたつもりだが

身体は正直なのだろうと思った出来事であった。

無理をし過ぎないのが一番であるがその無理の限界が分からない。

独楽鼠のようにぐるぐると同じ処を回っているような日々であった。


※以下昨日の朝の詩


     雷雨

 ぐるぐると定まらないので
 じっとしていることにした

 窓の外は雷雨である
 そう近くはなさそうだ
 地響きのような音がして
 激しい雨音が聴こえている

 書けない時は書けないと
 記せば良いのだそうだ
 どうせ詩人でも在りはしない
 古希を迎えた老人の戯言である

 苦労話はもうよそう
 誰も聞きたがりはしない
 思い出したいのは私だけである
 何と見苦しいことだろうか

 雷がだんだんと遠ざかっていく
 私はいったい何を記したのだろう

 雨になりたかっただけかもしれない









2025年09月10日(水) 私も雨になればいい

雨が降ったり止んだり。午後には雷を伴いけっこう強く降った。

各地で線状降水帯が発生しており冠水の被害が起きているようだ。

今朝は九州、夕方には東京都心が豪雨となり気の毒でならない。

昨今の雨の降り方は異常で昔のように「秋の長雨」とは行かないようである。

いつ何処で線状降水帯が発生するかも分からず不安がつのるばかりだった。

「明日かも知れない」常に心構えが必要に思う。



仕事はさほど忙しくなかったが鼻水が酷く辛い一日となる。

おまけに血圧も異常に高くなっており踏んだり蹴ったりであった。

慣れてはいてもやはり不安でならない。倒れたら一巻の終りである。

自覚症状が全く無いのも厄介なもので計測してから驚くことが多い。

近いうちに内科の通院を控えているのでよく診てもらおうと思っている。





義父は朝のうちに「加地子」(かじし)を届けに行く。

田んぼは全て借物なので「加地子」は小作料であった。

全部で10軒程だろうかそのお米の量の何と多いことだろう。

米作りを諦める農家が多く年々義父に矛先が向かって来るのだった。

私のような素人考えでは苦労は一切せずにいて

収穫した新米を貰える方がずっと良いように思う。

それを云えば義父に叱られるが義父が大損をしているように感じるのだった。

そうして自分の所有する田んぼが一切無いことが憐れに思えてならない。


2時まで待っていたが義父は帰らず整形外科へと向かった。

3時の予約であったが直ぐに名前を呼ばれ助かる。

療法士のU君の施術は今日も完璧で痛みが随分と楽になった。

彼の手は魔法の手だといつも思う。


買い物をして4時過ぎに帰宅。窓を閉め切っていた自室の蒸し暑いこと。

直ぐにエアコンを点けてまたSNSを見ていた。

今朝の詩は自分では好きだったが反響はイマイチである。

昭和シリーズのつもりであるが所詮は苦労話なのだろう。

年寄りの苦労話ほど嫌われるものはないと思う。

じゃあ明日からどうすれば良いのだろうと途方に暮れるのであった。

書きたいことを書けるものを書くしかないだろう。

そう思ってもそろそろ限界なのかもしれない。

もしかしたら全く書けなくなってしまう可能性もある。

そうなればもう死ぬしかないとさえ思うのであった。


明日はあしたの風が吹くらしい。

雨が降っていたら私も雨になればいい。

ずぶ濡れになってもきっと風が味方になってくれるだろう。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     青さ海苔
 
 家業には後継者が必要であった
 夫が決心したのは30歳の時である

 しばらくは退職金で暮らしていたが
 それも底を尽いてしまったのだ

 幼い子供ふたりを抱え
 貧乏のどん底に陥ってしまった

 真冬から早春にかけての家業は
 「青さ海苔の養殖業」である
 自然相手のことで困難も多い
 夫と母は毎日休まず漁に出ていた

 3歳の息子は土手から土筆を採って来る
 まるで宝物を見つけたように微笑んでいた

 1歳の娘はよく眠る子で
 私の背中ですやすやと寝息を立て始める
 泣いてぐずることをしなかったのだ
 おかげでどれほど助かったことだろう

 大漁の日が続けば希望が湧いてくる
 洗った海苔を「えびら」に広げ天日干しをした
 陽射しを受けて輝く海苔は宝石のようであった

 夫は日に日に逞しくなっていく
 青白かった顔も川漁師の顔になった

 四万十川に夕陽が沈む
 やがて一番星が見え始めると
 肩の力が抜けるようにほっとしたものだ

 時代は令和となり青さ海苔は絶滅となった









2025年09月09日(火) 愚かなプライド

晴れたり曇ったり残暑は厳しく今日も猛暑日となる。

明日は雨の予報で一時的に暑さが和らぐらしい。

暑さ寒さも彼岸までと云うがまだ二週間も先である。


やはり風邪気味なのか鼻水がすごい。

おまけにいつもの咳が加わり少し辛い一日であった。

喫煙のせいもあり激しく咳き込むことが多い。

その度に尿漏れに悩まされており情けないことである。

せめて節煙が出来ればと思うが余計に吸ってしまうのだ。

自分を制御することが全く出来ないのであった。

病名の付けようがないがおそらく精神的なものだろう。


仕事は順調であったが今日は屑米の出荷があり義父は忙しい。

安価ではあるが引き取ってくれる業者があり大いに助かる。

鶏の餌になるのだろうか。炊けば家畜の餌にもなるだろう。

苦労して作ったお米である。廃棄処分にならなくて何よりだった。

義父に訊けば15万円くらいはあるのだそうだ。

屑米だからと馬鹿にしてはならない。


ゼロからスタートしていた経理も順調で今日は数件入金があった。

明日はカード決済があり何と助かったことだろう。

支払えばまたゼロになるがお金は天下の回り物である。

嘆かず諦めず日々こつこつと貯めて行かねばならない。


事務仕事も一段落し3時前に退社した。

帰宅してしばらく茶の間で横になり後は自室で過ごす。

今朝の詩は自分でもあまり好きではなかったのだが

案の定評判が悪く「いいね」の数も少なかった。

やはり内省的な詩は良くない。自分でも分かっているのだが

書いてしまったからには取り返しがつかないのだった。

あえて削除しないところが私のやり方である。

「これが私」と愚かなプライドもあるのだと思う。

そうして後から自己嫌悪に陥るのが常であった。


生き甲斐とか偉そうなことを云ってもこの様である。

けれども私は自分を見捨てることはしない。

書きたいように書かせてやりたいし守ってやりたいのだ。


背中を押されるように生きているがまだ終われない旅であった。


※以下今朝の詩


     日記

 午前4時古い日記を開く
 書き殴られた記憶は
 鮮やかでもあり
 薄汚れてもいる

 栞を挟んである日は
 嬉しいことがあったのだろう

 黒く塗り潰している日は
 私の犯した罪なのに違いない

 心のままに生きて来たのか
 迷わずに歩き続けて来たのか

 花の蕾は開き咲くことを知る
 季節が巡れば枯れなければならない

 あがき戸惑うその憐れさも
 見て見ぬふりは出来なかった

 まだ書き続けられるだろうか
 光と影が交差するその真っ只中で
 息として生きようとしている

 夏だったのか秋だったのか
 春だったのか冬だったのか



2025年09月08日(月) ささやかな光

朝の涼しさもつかの間。日中は今日も厳しい猛暑となる。

もう慣れているはずなのだが身体には堪えるものだ。

おまけに寝冷えでもしたのだろうか頻りに鼻水が出ていた。


ゲリラ豪雨のニュースが流れる。今朝は福岡久留米と新潟。

今現在は東京、埼玉で激しい雨が降っているようだ。

10分もしないうちに道路が冠水する怖ろしさである。


先日の静岡の竜巻の被害も大きく何と無残なことだろう。

3日間も停電が続き今日やっと回復したのだそうだ。

とても他人事には思えず気の毒でならなかった。


一日たりとも災害の無い日が在りはしない。

平穏無事は決して当たり前のことではないのである。



仕事はゆっくりのスタートであった。

義父は葬儀に参列するため9時過ぎには出掛ける。

故人とは不仲であったが火葬場まで行かなければならない。

故人の奥さんから頼まれ断れなかったのだそうだ。

いくら不仲であっても義理は通す。義父らしい判断だと思う。


2時前に帰宅。それから大急ぎで市内のディーラーに向かった。

修理ではなかったが村のスクールバスにカメラを設置する為である。

私も一緒に行かねばならずバスの後を追って走ったが

義父の何と早いこと。高速道路を百キロのスピードで走るのだった。

とても高齢者とは思えない。まるで若者のような走りである。


バスを預け今度は別のディーラーへと向かう。

昨日義父がエーミングを依頼していた車が出来上がっていた。

今日中に納車しなければならず義父はまた山里へと飛ばして帰る。

「やれやれ」であったが義父のおかげで随分と助かった。


サニーマートで買い物を済ませ4時前に帰宅。

自室の温度は38℃にもなっており5分が限界であった。

今日も煙草を吸い過ぎてしまっていたのにまた吸う。

それが嫌でたまらないがどうしても火を点けてしまうのだった。

もううんざりである。この世から煙草が無くなれば良いのにと思う。


茶の間はエアコンが効いており涼しい。

ごろりと横になるなり5時前まで寝ていた。

自室のエアコンを点け10分だけSNSを見る。

昨日の私の詩が拡散されたらしく

今日になっても「いいね」が増えていてとても励みになった。

今までの最高であり身に余ることだと思う。


とある有名な詩人さんがコメントを残してくれていた。

私のような者にである。もったいなくて恐縮しかない。

「素敵」と云う言葉はあまり好きではないのだが

私の詩の何処が素敵なのだろうと真剣に思う。

ただ淡々と書いた詩のようなものをである。


日陰の身にもささやかな光であろうか。

私には相応しくないけれど有難く受け止めようと思った。

明日もきっと生きているだろう。いったいどんな詩を書くのだろうか。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


    秋の日

 昭和57年の秋
 夫の父が亡くなった
 末期の肺がんであり
 手の施しようがなかったのだ

 初孫である息子を可愛がり
 どれ程の愛情を注いでくれたことか
 死の間際にも孫に会いたがり
 3歳の息子に
 「じいちゃんはもういかんぞ」と
 告げるなり息を引き取ったのだった

 手を伸ばしたままであった
 最後に息子の頭を撫でたかったのだろう
 その手はまだ温かく確かに生きていた

 川海老が大漁だった日を思い出す
 なんと誇らしげな笑顔だったことか
 まさかそれが最後の漁になるとは
 誰も思ってなどいなかったのだ

 葬儀の日は真っ青な空から
 爽やかな風が吹き抜けていた
 四万十川も陽射しを浴び輝いている

 出棺の時息子が突然に駆け出し
 お棺に縋り付き大声で泣き叫んだ
 「おじいちゃんおじいちゃん」
 その声がこだまし風になっていく

 「おじいちゃんはどこにいくの」
 何処だろうと私は思った
 空ならばきっと見守ってくれるだろう
 孫の成長を楽しみに微笑んでくれる

 そうして秋が深まっていく
 四万十川にほうずき色の夕陽が落ちた



2025年09月07日(日) お涙頂戴

二十四節気の「白露」朝は少し涼しさを感じたが

まだまだ秋は遠いのだろう。

日中は36℃超えの猛暑日となり江川崎よりも暑かったようだ。

夏を追いやることはするまいと思う。潔く去る必要はない。

その背に触れたら何だか涙ぐんでいるように感じた。


祖父の命日であった。早いものでもう17回忌である。

何の供養もしてやれず祖父が憐れでならないが

母も一緒に居てきっと笑顔で暮らしていることだろう。


母の生まれた家は高い山の上にあり荒れた廃屋になっている。

もう誰も管理をする人が居ないのだった。

晩年の祖父母は町中に住むようになったが

母の弟である叔父の家であった。

叔父亡きあと叔母と長男のいとこが暮らしていたのだが

何とその叔母たちを母が追い出してしまったのである。

祖父が建てた家だったので叔母たちは逆らうことが出来なかったのだろう。

それにしても母の何と非道なことだろう。まるで鬼のように思える。

老いた両親の為とは云え叔母達が可哀想でならなかった。


その町の家に今は私の弟の長女である姪っ子夫婦が暮らしている。

そのまま荒らす訳には行かないと弟の判断であった。

しかし若い夫婦は祖父の遺品を悉く捨ててしまったのである。

衣類などは山の畑の中にそれは無造作に放られてあった。

あんまりなことだと思い弟に意見をしたのだが

弟も全く知らなかったそうでもう後のまつりとなってしまった。


町の家には仏間があり今も位牌を祀っている。

しかしおそらく埃だらけになって手を合わす人もいないだろう。

若夫婦を責めても仕方なく亡き母や私にも責任があった。

永代供養も出来たはずであるが何も出来なかったのだ。


祖父の命日を忘れず最後に会った日の笑顔を思い出している。

それが私に出来る精一杯の供養であった。



朝のうちに美容院へ行き髪を染めてもらった。

今までよりも少し明るめの色を選んだ。

少しでも若くとは思わない。ただ新鮮になりたかったのだ。

帰宅して鏡で髪ばかり見ていた。顔を見れば一気に幻滅である。

髪は女の命らしいが私の命もまんざらではないのだろう。

気分一新となりまた明日からも生きようと心に誓う。


昼食後はまた3時まで昼寝をしその後は自室で過ごしていた。

例の如くでSNSを見ていたら思いがけないことがあった。

今朝の私の詩をリポストしてくれている詩人さんがいたり

「この詩好き」と過大に評価してくれた若い人もいた。

自分では「お涙頂戴」みたいな詩だと思っていたのだが

伝わる人にはちゃんと伝わるのだなと大きな励みになった。

明日も「昭和シリーズ」が書けそうな気がして来る。

生きているうちに書き尽くしたくてならない。

毎日が最後だと思って書ければそれこそが本望に思える。


この老いた身にも微かな光が射す。

身の程を知り尽くしていてもその光ほど有難いことはなかった。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


    川漁師

 二度目の結婚をした
 23歳の時である
 妊娠5ヶ月であった

 四万十川のほとりの
 川漁師の家に嫁いだ
 初冬のことで
 天然青海苔漁が始まっており
 私も手伝わねばならなかった

 会社勤めをしていた夫が
 無理をさせたくないと
 両親に話してくれたのだが
 姑さんはとても厳しく
 手伝うことを強いられた

 ずらりと干された青海苔を
 「手わき」と云って
 ほぐして行くのが仕事である

 西風と燦々と降り注ぐ陽射し
 青海苔は濃い緑色に変わり
 あらあらと云う間に乾くのである

 家に帰るとお風呂を焚く
 私は薪をくべるのが苦手で
 なかなか燃えてはくれなかった

 夫の帰りはいつも遅く
 両親と一緒に夕食を食べる
 お肉は食べられずいつも魚であった

 息が詰まりそうになる
 夫さえ居てくれたらとおもう
 おなかのこどもがぴくぴくと動き
 真っ先に夫に報せたかった

 やがて真冬になり雪が降る
 青海苔漁は休まなかった
 雪が降っていても干すのである
 強い西風に煽られそれは乾いていく
 何と不思議なことだろうと思った

 どれほどの歳月が流れたことか
 四万十川のほとりで
 私はゆっくりと歳を重ねている




2025年09月06日(土) 光と影

秋を思わすような真っ青な空であったが

厳しい残暑となり江川崎では36℃を超えていたようだ。

市内は猛暑日にこそならなかったが身に堪える暑さである。

明日は「白露」大気が冷えて来て秋らしくなる頃だが

一気に涼しくなるとは思えずもうしばらく辛抱が必要だろう。


今朝は少し胃痛。やはり夏の疲れが出て来ているようだ。

冷たい物ばかり飲んでいたので胃も弱っているのだと思われる。

元々の胃弱である。もっと胃を労わってやらねばならない。


胃薬を服用しカーブスへ行ったが今日は不思議と汗が出なかった。

筋トレもおそるおそるだったのだろうか。慎重に越したことはない。

いつものことだが左側の靴が履けず踵を踏んで行っていたら

顔なじみになっているお仲間さんが駆け寄って来てくれて

靴を履かせてくれて有難かった。そんな親切が嬉しくてならない。


カーブスを終えサニーマートへ寄ったら

鮮魚コーナーに新秋刀魚が沢山入荷しており値段も手頃になっていた。

大きな秋刀魚で見るからに美味しそうである。

4匹買えば千円とのこと迷わずに袋に入れたのは云うまでもない。

秋刀魚を買えばお刺身は買えず娘達には我慢してもらうことにした。


帰宅して昼食を食べ終わるなりお昼寝体制に入る。

3時には目覚めしばらく自室で過ごしていた。

パソコンのトラブルがあり焦りまくる。

何故かSNSのページだけ開かないのだった。

再起動を繰り返しやっと見ることが出来てほっとする。

もはや中毒化しているのだろう。我ながら嘆かわしく思う。


義父から電話があり近所の親戚で不幸があったとのこと。

日頃から不仲なので嫌でならなかったがお悔やみに行っていたらしい。

月曜日がお葬式で仕事の段取りがあり私に相談して来たのだった。

こんな私でも義父の片腕なのだろう。頼りにしてくれいることが嬉しかった。

お米の籾摺りもしなければならず忙しさが伝わって来る。

屑米の処理に追われているので彼女さんに来てもらえばと伝えたが

彼女さんも重い物は苦手なのだそうだ。やはり男手が必要であった。



夕飯は今夜も娘が手際よく作ってくれて大助かりである。

私は秋刀魚を焼いただけで作ったとは云えないだろう。

娘は今日も仕事であったが午前中のみのパートである。

フルタイムではないので収入は少ないが

あやちゃんのこともあり考えて選んだ仕事だと思う。

やはり母親が少しでも傍に居てやるべきなのだろう。

最近のあやちゃんはとても明るくて笑顔の日が多い。



今朝は「昭和シリーズ」が書けなかった。

記憶は押し寄せて来るが言葉にすることが出来ない。

そのありのままを詩に書いてみたのだった。

少しでも希望をと思う。残り少ない人生に光をと思う。


※以下今朝の詩


      渦

 記憶の渦に呑み込まれ
 出口が分からなくなった

 子供時代のわたし
 少女時代のわたし
 おとなになった私

 明と暗が絡みつき
 光と影が交差する

 可憐な花ではあるまい
 春は何度も巡って来たが
 花びらを千切り続けて来た

 種を残せば希望になる
 土に眠れば未来がある

 「わたし」が生きた証を
 残すことが出来たとしても
 すでに命は尽いているだろう

 渦の中でもがき続けている
 神様は知っているのだろうか
 微かな光を帯びた種のことを
 尊いと云ってくれるだろうか

 もう少しあと少しなのだ
 渦に揉まれながら生きる
 だから私を止めないで欲しい







2025年09月05日(金) まぎる(邪魔になる)

台風15号は未明に宿毛市に上陸したが

さほど荒れることもなく北上して行った。

静岡では竜巻があり被害があったとのこと気の毒でならない。

大きなトレーラーが横転する程の威力である。

竜巻の経験はないが何と怖ろしいことだろうか。


四万十川には濁流が流れる朝であった。

市内の雨は大したことはなかったが上流地域が大雨だったのだろう。

河口付近には全ての支流の水が流れ込むのである。


山道は特に荒れた様子もなくいつも通りの朝だった。

山里も平穏である。遅植えの稲もしっかりと立っている。

被害が全くなく不幸中の幸いに思う。

まだまだ9月いっぱいは台風の心配があるだろうが

このまま本格的な秋になればと願わずにいられない。




義父は今日も機嫌が良く朝のうちは草刈りに出掛けて行った。

水筒を持って行かなかったので気になっていたら

案の定暑さに参ったらしく10時過ぎには帰って来る。

それから籾摺りを始めたのだが思うように捗らない。

屑米の量が多くひっきりなしに袋詰めをしなければならなかった。

見兼ねて少しでも手助けをと思い屑米を袋に入れていたら

不自由な足が電気コードに引っ掛かり電源を落としてしまった。

義父に叱られ「まぎるけんどけ」(邪魔になるのでどけ)と怒鳴られる。

良かれと思ってしたことが何の役にも立たなかったのである。

若い頃から力持ちで30キロの袋も難なく持ち上げることが出来たが

足に力が入らず重い物が持てなくなったのが何とも嘆かわしい。


叱られればシュンとなりいつもより早く2時に退社した。

今週はしょっぱなから体調が悪かったせいか疲れも感じる。

無理の効かない身体になってしまったのだろう。

出来ていたことが出来なくなるのが一番の痛手であった。


帰宅して5時前まで寝ていた。とろりとろりと夢心地である。

夕食は今夜も娘が手際よく作ってくれて大助かりだった。

私はまた頂き物のゴーヤできんぴらを作った。

川向のお客さんが今朝も寄るようにと知らせてくれたのだ。

どうやら食べ切れないほどの「ゴーヤ祭り」になっているようである。

私は大好きなので毎日でも飽きない自信に満ちていた。



今朝はまた「昭和シリーズ」で二十歳の頃の詩を書いた。

毎朝書いているうちにいつまでも子供ではいられなくなる。

そうなれば決してほのぼのとはしていられず

傷口に触れるような詩になってしまうのだった。

大恋愛の末19歳で結婚したが僅か8ヶ月で終りを告げた。

私にとっては大きな罪となり生涯忘れられない出来事になる。

いったい私はどれ程の罪を抱えているのだろう。

死んでしまえば閻魔様に舌を抜かれるのに違いない。


書くことで赦されはしないがほんの少し救われるような気がする。

憎まれてはいても憎むことは決してなかった私の人生であった。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


    はやみちゃん

 二十歳の誕生日の夜
 はやみちゃんが私の大好きな
 手羽先の唐揚げを買って来てくれた

 「好きやろ」って云って
 私の喜ぶ顔が見たかったのだろう

 転職したばかりの頃だった
 もうネクタイは結ばす
 作業服を着て仕事に行く
 泥だらけになって帰って来る
 私は洗濯をするのが好きだった

 辛い日もあった
 夕食のおかずが気に入らず
 お皿を投げた夜もあった
 仕事で嫌なことがあったのだろう
 話してくれたら良いのにとおもう

 わずか8ヶ月の暮らしであった
 傷ついたことより傷つけたのだ
 はやみちゃんが仕事に行っている間に
 私は着の身着のままで家を出た

 逃げなくてはならない
 ただその一心の愚かな行為である

 記憶は時に残酷で修復が出来ない
 けれども忘れてはならないことだ

 はやみちゃんの笑顔ばかり思い出す
 海辺のちいさな町で
 彼は今も生きているだろうか




 < 過去  INDEX  未来 >


anzu10 [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加