朝の涼しさもつかの間。日中は今日も厳しい猛暑となる。
もう慣れているはずなのだが身体には堪えるものだ。
おまけに寝冷えでもしたのだろうか頻りに鼻水が出ていた。
ゲリラ豪雨のニュースが流れる。今朝は福岡久留米と新潟。
今現在は東京、埼玉で激しい雨が降っているようだ。
10分もしないうちに道路が冠水する怖ろしさである。
先日の静岡の竜巻の被害も大きく何と無残なことだろう。
3日間も停電が続き今日やっと回復したのだそうだ。
とても他人事には思えず気の毒でならなかった。
一日たりとも災害の無い日が在りはしない。
平穏無事は決して当たり前のことではないのである。

仕事はゆっくりのスタートであった。
義父は葬儀に参列するため9時過ぎには出掛ける。
故人とは不仲であったが火葬場まで行かなければならない。
故人の奥さんから頼まれ断れなかったのだそうだ。
いくら不仲であっても義理は通す。義父らしい判断だと思う。
2時前に帰宅。それから大急ぎで市内のディーラーに向かった。
修理ではなかったが村のスクールバスにカメラを設置する為である。
私も一緒に行かねばならずバスの後を追って走ったが
義父の何と早いこと。高速道路を百キロのスピードで走るのだった。
とても高齢者とは思えない。まるで若者のような走りである。
バスを預け今度は別のディーラーへと向かう。
昨日義父がエーミングを依頼していた車が出来上がっていた。
今日中に納車しなければならず義父はまた山里へと飛ばして帰る。
「やれやれ」であったが義父のおかげで随分と助かった。
サニーマートで買い物を済ませ4時前に帰宅。
自室の温度は38℃にもなっており5分が限界であった。
今日も煙草を吸い過ぎてしまっていたのにまた吸う。
それが嫌でたまらないがどうしても火を点けてしまうのだった。
もううんざりである。この世から煙草が無くなれば良いのにと思う。
茶の間はエアコンが効いており涼しい。
ごろりと横になるなり5時前まで寝ていた。
自室のエアコンを点け10分だけSNSを見る。
昨日の私の詩が拡散されたらしく
今日になっても「いいね」が増えていてとても励みになった。
今までの最高であり身に余ることだと思う。
とある有名な詩人さんがコメントを残してくれていた。
私のような者にである。もったいなくて恐縮しかない。
「素敵」と云う言葉はあまり好きではないのだが
私の詩の何処が素敵なのだろうと真剣に思う。
ただ淡々と書いた詩のようなものをである。
日陰の身にもささやかな光であろうか。
私には相応しくないけれど有難く受け止めようと思った。
明日もきっと生きているだろう。いったいどんな詩を書くのだろうか。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
秋の日
昭和57年の秋 夫の父が亡くなった 末期の肺がんであり 手の施しようがなかったのだ
初孫である息子を可愛がり どれ程の愛情を注いでくれたことか 死の間際にも孫に会いたがり 3歳の息子に 「じいちゃんはもういかんぞ」と 告げるなり息を引き取ったのだった
手を伸ばしたままであった 最後に息子の頭を撫でたかったのだろう その手はまだ温かく確かに生きていた
川海老が大漁だった日を思い出す なんと誇らしげな笑顔だったことか まさかそれが最後の漁になるとは 誰も思ってなどいなかったのだ
葬儀の日は真っ青な空から 爽やかな風が吹き抜けていた 四万十川も陽射しを浴び輝いている
出棺の時息子が突然に駆け出し お棺に縋り付き大声で泣き叫んだ 「おじいちゃんおじいちゃん」 その声がこだまし風になっていく
「おじいちゃんはどこにいくの」 何処だろうと私は思った 空ならばきっと見守ってくれるだろう 孫の成長を楽しみに微笑んでくれる
そうして秋が深まっていく 四万十川にほうずき色の夕陽が落ちた
二十四節気の「白露」朝は少し涼しさを感じたが
まだまだ秋は遠いのだろう。
日中は36℃超えの猛暑日となり江川崎よりも暑かったようだ。
夏を追いやることはするまいと思う。潔く去る必要はない。
その背に触れたら何だか涙ぐんでいるように感じた。
祖父の命日であった。早いものでもう17回忌である。
何の供養もしてやれず祖父が憐れでならないが
母も一緒に居てきっと笑顔で暮らしていることだろう。
母の生まれた家は高い山の上にあり荒れた廃屋になっている。
もう誰も管理をする人が居ないのだった。
晩年の祖父母は町中に住むようになったが
母の弟である叔父の家であった。
叔父亡きあと叔母と長男のいとこが暮らしていたのだが
何とその叔母たちを母が追い出してしまったのである。
祖父が建てた家だったので叔母たちは逆らうことが出来なかったのだろう。
それにしても母の何と非道なことだろう。まるで鬼のように思える。
老いた両親の為とは云え叔母達が可哀想でならなかった。
その町の家に今は私の弟の長女である姪っ子夫婦が暮らしている。
そのまま荒らす訳には行かないと弟の判断であった。
しかし若い夫婦は祖父の遺品を悉く捨ててしまったのである。
衣類などは山の畑の中にそれは無造作に放られてあった。
あんまりなことだと思い弟に意見をしたのだが
弟も全く知らなかったそうでもう後のまつりとなってしまった。
町の家には仏間があり今も位牌を祀っている。
しかしおそらく埃だらけになって手を合わす人もいないだろう。
若夫婦を責めても仕方なく亡き母や私にも責任があった。
永代供養も出来たはずであるが何も出来なかったのだ。
祖父の命日を忘れず最後に会った日の笑顔を思い出している。
それが私に出来る精一杯の供養であった。

朝のうちに美容院へ行き髪を染めてもらった。
今までよりも少し明るめの色を選んだ。
少しでも若くとは思わない。ただ新鮮になりたかったのだ。
帰宅して鏡で髪ばかり見ていた。顔を見れば一気に幻滅である。
髪は女の命らしいが私の命もまんざらではないのだろう。
気分一新となりまた明日からも生きようと心に誓う。
昼食後はまた3時まで昼寝をしその後は自室で過ごしていた。
例の如くでSNSを見ていたら思いがけないことがあった。
今朝の私の詩をリポストしてくれている詩人さんがいたり
「この詩好き」と過大に評価してくれた若い人もいた。
自分では「お涙頂戴」みたいな詩だと思っていたのだが
伝わる人にはちゃんと伝わるのだなと大きな励みになった。
明日も「昭和シリーズ」が書けそうな気がして来る。
生きているうちに書き尽くしたくてならない。
毎日が最後だと思って書ければそれこそが本望に思える。
この老いた身にも微かな光が射す。
身の程を知り尽くしていてもその光ほど有難いことはなかった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
川漁師
二度目の結婚をした 23歳の時である 妊娠5ヶ月であった
四万十川のほとりの 川漁師の家に嫁いだ 初冬のことで 天然青海苔漁が始まっており 私も手伝わねばならなかった
会社勤めをしていた夫が 無理をさせたくないと 両親に話してくれたのだが 姑さんはとても厳しく 手伝うことを強いられた
ずらりと干された青海苔を 「手わき」と云って ほぐして行くのが仕事である
西風と燦々と降り注ぐ陽射し 青海苔は濃い緑色に変わり あらあらと云う間に乾くのである
家に帰るとお風呂を焚く 私は薪をくべるのが苦手で なかなか燃えてはくれなかった
夫の帰りはいつも遅く 両親と一緒に夕食を食べる お肉は食べられずいつも魚であった
息が詰まりそうになる 夫さえ居てくれたらとおもう おなかのこどもがぴくぴくと動き 真っ先に夫に報せたかった
やがて真冬になり雪が降る 青海苔漁は休まなかった 雪が降っていても干すのである 強い西風に煽られそれは乾いていく 何と不思議なことだろうと思った
どれほどの歳月が流れたことか 四万十川のほとりで 私はゆっくりと歳を重ねている
秋を思わすような真っ青な空であったが
厳しい残暑となり江川崎では36℃を超えていたようだ。
市内は猛暑日にこそならなかったが身に堪える暑さである。
明日は「白露」大気が冷えて来て秋らしくなる頃だが
一気に涼しくなるとは思えずもうしばらく辛抱が必要だろう。
今朝は少し胃痛。やはり夏の疲れが出て来ているようだ。
冷たい物ばかり飲んでいたので胃も弱っているのだと思われる。
元々の胃弱である。もっと胃を労わってやらねばならない。
胃薬を服用しカーブスへ行ったが今日は不思議と汗が出なかった。
筋トレもおそるおそるだったのだろうか。慎重に越したことはない。
いつものことだが左側の靴が履けず踵を踏んで行っていたら
顔なじみになっているお仲間さんが駆け寄って来てくれて
靴を履かせてくれて有難かった。そんな親切が嬉しくてならない。
カーブスを終えサニーマートへ寄ったら
鮮魚コーナーに新秋刀魚が沢山入荷しており値段も手頃になっていた。
大きな秋刀魚で見るからに美味しそうである。
4匹買えば千円とのこと迷わずに袋に入れたのは云うまでもない。
秋刀魚を買えばお刺身は買えず娘達には我慢してもらうことにした。
帰宅して昼食を食べ終わるなりお昼寝体制に入る。
3時には目覚めしばらく自室で過ごしていた。
パソコンのトラブルがあり焦りまくる。
何故かSNSのページだけ開かないのだった。
再起動を繰り返しやっと見ることが出来てほっとする。
もはや中毒化しているのだろう。我ながら嘆かわしく思う。
義父から電話があり近所の親戚で不幸があったとのこと。
日頃から不仲なので嫌でならなかったがお悔やみに行っていたらしい。
月曜日がお葬式で仕事の段取りがあり私に相談して来たのだった。
こんな私でも義父の片腕なのだろう。頼りにしてくれいることが嬉しかった。
お米の籾摺りもしなければならず忙しさが伝わって来る。
屑米の処理に追われているので彼女さんに来てもらえばと伝えたが
彼女さんも重い物は苦手なのだそうだ。やはり男手が必要であった。
夕飯は今夜も娘が手際よく作ってくれて大助かりである。
私は秋刀魚を焼いただけで作ったとは云えないだろう。
娘は今日も仕事であったが午前中のみのパートである。
フルタイムではないので収入は少ないが
あやちゃんのこともあり考えて選んだ仕事だと思う。
やはり母親が少しでも傍に居てやるべきなのだろう。
最近のあやちゃんはとても明るくて笑顔の日が多い。
今朝は「昭和シリーズ」が書けなかった。
記憶は押し寄せて来るが言葉にすることが出来ない。
そのありのままを詩に書いてみたのだった。
少しでも希望をと思う。残り少ない人生に光をと思う。
※以下今朝の詩
渦
記憶の渦に呑み込まれ 出口が分からなくなった
子供時代のわたし 少女時代のわたし おとなになった私
明と暗が絡みつき 光と影が交差する
可憐な花ではあるまい 春は何度も巡って来たが 花びらを千切り続けて来た
種を残せば希望になる 土に眠れば未来がある
「わたし」が生きた証を 残すことが出来たとしても すでに命は尽いているだろう
渦の中でもがき続けている 神様は知っているのだろうか 微かな光を帯びた種のことを 尊いと云ってくれるだろうか
もう少しあと少しなのだ 渦に揉まれながら生きる だから私を止めないで欲しい
| 2025年09月05日(金) |
まぎる(邪魔になる) |
台風15号は未明に宿毛市に上陸したが
さほど荒れることもなく北上して行った。
静岡では竜巻があり被害があったとのこと気の毒でならない。
大きなトレーラーが横転する程の威力である。
竜巻の経験はないが何と怖ろしいことだろうか。
四万十川には濁流が流れる朝であった。
市内の雨は大したことはなかったが上流地域が大雨だったのだろう。
河口付近には全ての支流の水が流れ込むのである。
山道は特に荒れた様子もなくいつも通りの朝だった。
山里も平穏である。遅植えの稲もしっかりと立っている。
被害が全くなく不幸中の幸いに思う。
まだまだ9月いっぱいは台風の心配があるだろうが
このまま本格的な秋になればと願わずにいられない。

義父は今日も機嫌が良く朝のうちは草刈りに出掛けて行った。
水筒を持って行かなかったので気になっていたら
案の定暑さに参ったらしく10時過ぎには帰って来る。
それから籾摺りを始めたのだが思うように捗らない。
屑米の量が多くひっきりなしに袋詰めをしなければならなかった。
見兼ねて少しでも手助けをと思い屑米を袋に入れていたら
不自由な足が電気コードに引っ掛かり電源を落としてしまった。
義父に叱られ「まぎるけんどけ」(邪魔になるのでどけ)と怒鳴られる。
良かれと思ってしたことが何の役にも立たなかったのである。
若い頃から力持ちで30キロの袋も難なく持ち上げることが出来たが
足に力が入らず重い物が持てなくなったのが何とも嘆かわしい。
叱られればシュンとなりいつもより早く2時に退社した。
今週はしょっぱなから体調が悪かったせいか疲れも感じる。
無理の効かない身体になってしまったのだろう。
出来ていたことが出来なくなるのが一番の痛手であった。
帰宅して5時前まで寝ていた。とろりとろりと夢心地である。
夕食は今夜も娘が手際よく作ってくれて大助かりだった。
私はまた頂き物のゴーヤできんぴらを作った。
川向のお客さんが今朝も寄るようにと知らせてくれたのだ。
どうやら食べ切れないほどの「ゴーヤ祭り」になっているようである。
私は大好きなので毎日でも飽きない自信に満ちていた。
今朝はまた「昭和シリーズ」で二十歳の頃の詩を書いた。
毎朝書いているうちにいつまでも子供ではいられなくなる。
そうなれば決してほのぼのとはしていられず
傷口に触れるような詩になってしまうのだった。
大恋愛の末19歳で結婚したが僅か8ヶ月で終りを告げた。
私にとっては大きな罪となり生涯忘れられない出来事になる。
いったい私はどれ程の罪を抱えているのだろう。
死んでしまえば閻魔様に舌を抜かれるのに違いない。
書くことで赦されはしないがほんの少し救われるような気がする。
憎まれてはいても憎むことは決してなかった私の人生であった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
はやみちゃん
二十歳の誕生日の夜 はやみちゃんが私の大好きな 手羽先の唐揚げを買って来てくれた
「好きやろ」って云って 私の喜ぶ顔が見たかったのだろう
転職したばかりの頃だった もうネクタイは結ばす 作業服を着て仕事に行く 泥だらけになって帰って来る 私は洗濯をするのが好きだった
辛い日もあった 夕食のおかずが気に入らず お皿を投げた夜もあった 仕事で嫌なことがあったのだろう 話してくれたら良いのにとおもう
わずか8ヶ月の暮らしであった 傷ついたことより傷つけたのだ はやみちゃんが仕事に行っている間に 私は着の身着のままで家を出た
逃げなくてはならない ただその一心の愚かな行為である
記憶は時に残酷で修復が出来ない けれども忘れてはならないことだ
はやみちゃんの笑顔ばかり思い出す 海辺のちいさな町で 彼は今も生きているだろうか
台風15号の接近でかなりの雨が降る。
今は止んでいるが明日の朝にかけてまた大雨になりそうだ。
暴風圏内のない台風だそうで風は大したことがないかもしれないが
台風には違いなく用心に越したことはないだろう。
怖いのは雨で線状降水帯が発生するかもしれないとのこと。
各地に水害がないことを祈るばかりである。
仕事はほぼ順調であったが雨が工場に降り込むためシャッターを閉めた。
私も早めに退社したが帰り道の雨の何と凄かったことだろう。
前が見えないほど降るとさすがに怖くてならない。
市内まで戻ると小雨になりとてもほっとする。

幸い稲刈りは昨日で終了。義父の機嫌がとても良かった。
今日は荷造りかと思っていたが工場の仕事を手伝ってくれる。
同僚は一般修理をしていたが義父のアドバイスが必要であった。
手取り足取りではなく同僚にヒントを与えるのが義父の方針である。
見ているととても微笑ましい。同僚も素直に従い師匠と弟子であった。
3時過ぎには帰宅していてテレビの台風情報を見ていた。
そのうち眠ってしまったらしく目覚めればもう5時である。
娘が「今夜は何かね?」と訊いてくれ献立を告げると直ぐに作り始めた。
誰に似たのか手際よくちゃちゃっと作ってくれて大助かりである。
思い起こせば中学、高校と「帰宅部」だったのでよく手伝ってくれた。
バスケットをしていたのだが膝を痛め運動が出来なくなってしまったのだ。
諦めるのは辛かったと思うが我が家の「料理部」に入部した。
それからかれこれ30年だろうか。娘はもう立派な主婦である。
私も13歳から主婦をしていたが全て見よう見真似であった。
母の味を思い出しては同じ味にするのに苦労したものである。
父も弟も喜んで食べてくれたのがとても嬉しかった。
「やれば出来る」のである。そうして自信をつけて行く。
今朝も「昭和シリーズ」の詩を書くことが出来たが
読み返せば何だか涙が出そうになるのだった。
先日義父は「運命」だと云ったがその歯車が目に浮かぶ。
歯車は軋み音を立てながら回っていたのだろう。
誰もが傷ついたがそのおかげで今の幸せがあるのだと思う。
「おとうさん」と呼べばもう義父しかいない「いま」であった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
むっちゃん
父の狩猟仲間に 「むっちゃん」と云う青年がいた すぐ近所だったので しょっちゅう遊びに来て 父とお酒を酌み交わしていた
私にはギターを教えてくれたり リカちゃん人形を買ってくれたり 優しくて大好きなおにいちゃんだった
今思えば母も好きだったのだろう むっちゃんが来てくれた夜には 腕を振るいご馳走を作っていた
父と母が喧嘩を始めると 父の暴力は凄まじくて怖ろしい 母が殺されるのではないかと思った
むっちゃんは母を庇った まるで楯のようになり母を守ったのだ 母は決して涙を見せない いつも歯を食いしばって耐えていた
もう半世紀以上も昔のことである 歳月の嵐は荒れるばかりで そこには運命が渦巻いていた
いま私はむっちゃんのことを 「おとうさん」と呼んでいる
曇りのち雨。沖縄付近にある熱低がまた台風に変わるようだ。
前回の台風と同じであらあらと云う間に通り過ぎてしまうのだろうか。
高知県は明日大雨の予報になっているがどうなることやらである。
直撃となれば用心に越したことはないが特になにもせずに過ごしていた。
毎日のように日本の何処かで災害級の豪雨が降っている。
今日は秋田で冠水被害があったようだ。
農作物の被害も多いことだろう。何とも気の毒でならない。
稲刈りは昨日で終ったと思っていたのだが
まだ少し残っていたらしく義父がそわそわと落ち着かない。
空模様を見ながらであったが今日こそ最後の稲刈りであった。
ちょうどお昼のことで同僚はお昼休みをしており
トラックで籾を運ぶ役目を私が引き受けた。
幸いオートマの軽トラックがあり私でも運転が出来る。
足が不自由になってからクラッチが踏めなくなってしまったのだ。
稲刈りを見るのはけっこう面白いもので興味深く眺める。
義父の操るコンバインが右往左往し田んぼを縫うように走って行く。
3分の一ほど刈ればもうトラック一台分のお米が獲れた。
しかし天は味方してくれず雨が降り出してしまったのだ。
義父が大声で叫んでおり稲刈りは中止かと思ったのだが
小雨決行となりコンバインは走り続けている。
籾を大急ぎで工場まで運び同僚とバトンタッチをした。
車検整備をしていたのだがそれどころではない。
「お米さまさま」なのである。義父を一番に助けてやらねばならないのだ。
会社の危機を救ってくれたのは義父であり「お米様」であった。
同僚が籾を運び始めると手際よく乾燥機に入れてくれる。
そうしてまた直ぐに田んぼへと向かって行く。
雨は小雨で降ったり止んだりだった。何としても終らせてやりたい。
気になって仕方なかったが3時までに整形外科に行かねばならなかった。
今日はリハビリ後に診察もありキャンセルは出来ない。
まして私が待機していても何の役にも立たないのである。
明日になればきっと上機嫌の義父に会えるだろう。
とにかく毎日義父の顔色を窺っている身にはそれが一番であった。
昨日とは打って変わって今日は体調が良く何よりに思う。
死ほど身近なことはなく生きていることが嬉しくてならない。
このままずっと長生きが出来たらどんなに良いだろうか。
目標は88歳の米寿である。あと20年もあるのか
あと20年しかないのかのどちらを選べば良いのだろうか。
神様は指折り数えている。その指に私の指を足したいと思う。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
紙芝居
6年生になると 1年生の教室に 紙芝居を読みに行く その時間がとても好きだった
ちいさな子等が一斉に くりくりとした瞳を輝かせ わくわくしているのが 伝わって来て嬉しくてならない
私は大きな声で読んだ まるで大人のような気持になり テレビ漫画の声優みたいだった
叫んだり泣いたりする 笑う時には思いっきり笑う
教室の真ん中に座っていた 男の子と目が合った 何と素直で純真なのだろう その輝く瞳に胸が熱くなる
読み終わると一斉に拍手が聴こえた それはまるで爽やかな風のようで 何と清々しく心地よかったことか
物語は終ってしまっても いつまでも消えない記憶である
夏があがいているような暑さでほぼ猛暑日となる。
風もなくただただ陽射しの一日であった。
ちいさな秋も諦めかけていたが国道から山道に入るなり
真紅の鶏頭の花が見事に咲いているのを見る。
ちょうど遍路石の傍らで毎年目にする光景であった。
かつて地元の人が植えていたのだろう。
草に埋もれることもなく綺麗に手入れをしている。
お遍路さんの心もきっと和むに違いない。
職場に着くなり今朝も籾摺り機の音が鳴り響いていた。
乾燥機の籾はあと一機となっておりもう少しである。
しかし「いもち病」のせいか屑米がとても多いのだそうだ。
それは30キロの小袋に詰めなくてはならず手間が掛かる。
もちろん食用にはならず鶏などの餌になるらしい。
一袋千円とか。僅かな金額であるが売れるに越したことはない。
午後は稲刈りに。とうとう早稲米の最後の収穫である。
3時間もあれば済むだろうと義父一人で出掛けたが
トラックで籾を運ばねばならず同僚が手伝うことになった。
工場の仕事が一段落しており何よりに思う。
私は記帳の仕事をしていたが頑張り過ぎたのか肩が重くなった。
首の後ろに痛みがありどうやら血圧が高くなっているらしい。
黒酢を飲んだりリポビタンも飲んでみたがしんどくてならない。
3時前に退社したが運転中に倒れるのではないかと不安になる。
もし意識が無くなったらどうなるのだろう。
そのまま死んでしまうかもしれないと怖くてならなかった。
何とか買い物を済ませ帰宅するなり安定剤を服用する。
そのまま5時前まで寝ていたが一向に楽にならない。
血圧は164と少し高めであったが普段とさほど変わらなかった。
神経質になっていたのだろう。とにかく肩の力を抜かなければと思う。
夕食後いつもの血圧の薬と鎮痛剤を服用しお風呂に入る。
血の巡りが良くなったのだろうやっと少し楽になっていた。
カーブスへ通い始めてから肩凝りとは無縁であったが
油断をし無理をし過ぎたのかもしれない。
まだ火曜日である。週末まで何としても乗り越えなければと思う。
夏は居座っており季節の変わり目とはまだ実感がないが
そろそろ夏の疲れが出始める頃なのだろう。
体調管理には十分気をつけなければならない。
幸いこうしていつものようにこれを記すことが出来ている。
日記中毒かもしれないが書けないことほど辛いことはなかった。
夜明け前の詩も同じくで大げさかもしれないが「命がけ」なのだった。
書いてこそ生きる。書けなければ死んだも同然に思える。
やがて死ぬのだ。それは明日かもしれない。
けれども一日一日を惜しむように私は生きている。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
放課後
放課後になると まさひろ君がギターを弾いた NSPの歌がとても上手い
「夕暮れ時はさびしくて」 口ずさむと涙が出そうになる
私はもう家に帰らなくてはならない 買い物をして夕飯を作らなくては みんなとは違うのだなと思う
まさひろ君が私の詩に曲をつけてくれた ちょっとNSPに似ていたけれど 真似ではないとまさひろ君は胸を張る
みんなで歌った私とまさひろ君の歌だ その時には絶対に忘れないと思ったのに おとなになるともう思い出せない ただギターの音だけが胸に残っている
夕飯は何にしようかと焦って来る 弟がお腹を空かして待っているだろう
校門を出て振り向くとみんなの歌声が聴こえた 「さようなら」なんて切ない歌なのだろう
校舎の窓から夕陽が見えただろうか 私は台所に立ちフライパンを揺すっていた
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