ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年08月21日(木) 雲間から射す光

朝のうちは小雨が降っていたが直ぐに止む。

日中は曇り空でほんの少し暑さが和らいでいた。

驚いたのは台風12号でまったく知らずにいたのだが

熱低が台風に変わるなり鹿児島県へ上陸していた。

明日には高知県へ接近するがまた熱低に戻りそうである。

風雨が強まるかもしれないが警戒心は薄く何の備えもしていない。

「その時のことよ」と夫と語り合ったことだった。


仕事は今日も開店休業となる。

同僚はまだあれこれと用事があるようで無理も云えなかった。

お母さんと二人暮らしだったので全てのことが圧し掛かって来たようだ。

せめて奥さんがいればと思うがそれも仕方ないことである。


義父は高知市で役員会があり出掛けて行った。

独りぼっちも寂しいものでその上に手持無沙汰でならない。

暇つぶしにネットのライブで高校野球見ながら過ごしていた。

来客は三人、一人は先月分の支払いに来てくれて久しぶりに万札を見る。

それも右から左で直ぐに羽根が生えて飛んで行くことだろう。

後の二人は雑談であったが話し相手となってくれて嬉しかった。


2時半過ぎに退社し整形外科へ向かう。

リハビリのみなので医師とスマホ越しに面談したが

「どうした?元気がないぞ」と気遣ってくれたのだった。

仕事もろくにしていないのによほど疲れた顔をしていたのだろう。

たまに精気を失う時があるのだ。心の何処かが故障してしまう。

お盆休みからこっちもう8日もまともに仕事をしていない。

やはり貧乏性なのだろう。私は忙しいのが好きであった。

リハビリはいつもの手順であったが一つだけ違う施術がある。

U君が私の様子を見ながら考えてくれたのだと思う。

その施術が効いたのか痛みが全く無くなっていたのだった。

一瞬直ったのかと思うほど颯爽と歩ける。

まるで夢を見ているようで天国にいるような気分になる。


帰宅して夫に話せば一時的なものだろうと笑い飛ばされてしまう。

しかしこの日記を書いている今も殆ど痛みを感じないのだった。


暗い道ばかりではないのだと思う。

光は誰にでも分け隔てなく降り注ぐものであるべきだ。

「私のような者」にも雲間から射す光があり眩しくてならない。


※以下今朝の詩


     羽根

 コオロギだろうか
 秋の虫がしきりに鳴いている
 羽根を擦り合わせているのだそうだ
 それは鳴くと云うよりむしろ
 奏でていると云うべきであろう

 にんげんには羽根がないが
 どうして泣くのだろう
 辛い時や悲しい時ばかりではない
 嬉しい時も泣くことが出来る
 もしかしたらこころのなかに
 羽根があるのかもしれない

 胸が熱くなるこころが震える
 その時だけ羽根が生じるのだ

 私の羽根は古びているらしく
 母が死んでも泣かなかった
 擦り合わす羽根が千切れて
 こころの襞に絡みついていたようだ

 おもいっきり泣きたい時がある
 絡みついた羽根を引き剥がそうとする
 ずいぶんと永いこと生きて来たが
 羽根のことを考えない日はなかった




2025年08月20日(水) 夢の中へ

今日もほぼ猛暑日の厳しい残暑となった。

帰宅時には途中から大雨となったが市内は降っていなかった。

局地的な雨は各地で降っており秋田や青森では河川が氾濫したようだ。

今夜から明日未明にかけて線状降水帯が発生する怖れがあり

これ以上の被害がないことを祈るばかりである。


山里は予定通りの稲刈り。義父の友人が3人も手伝いに来てくれていた。

2台のコンバインで刈るのである。あっという間のことらしい。

それでも今日で完了とはいかずまた後日刈るのだそうだ。

友人達への手前もありいつも以上に張り切っている義父であった。

そのせいか言葉遣いが悪く私に食って掛かろうとする。

悪く云えば「高慢ちき」だった。「この野郎」と私は心で叫ぶ。


工場は今日も開店休業でそろそろ限界のようである。

車検の予約が入り始めエアコン修理の依頼もあった。

おそるおそる同僚に電話したら明日から出勤出来そうとのこと。

無理を強いることになるが背に腹は代えられない。


帰宅したら常連のお客さんから電話があり出先でパンクしたらしい。

今の車はスペアタイヤが装備されておらずこんな時に困る。

稲刈り中の義父はとても無理で仕方なく同僚に頼むしかなかった。

その電話を横で聞いていた夫が「やめておけ」と口を挟むので

むっとして睨みつけてしまった。これは私の仕事なのである。

同僚は嫌がりもせずに駆け付けてくれることになり大助かりだった。

同僚が神様のように思えたがそれ以上にお客様は神様である。

夫も理解してくれたのだろう。その後の機嫌も良くほっとしていた。


娘と夕食の支度をしていたら昨夜とても怖い夢を見たのだそうだ。

誰かに手を引っ張られ窓から空へと連れて行かれそうになったらしい。

咄嗟に「おかあ助けて」と私を呼んだところで目が覚めたと云う。

私は私で丁度同じ時間帯に誰かに足を引っ張られていた。

とてもリアルで夢だとは思えない感触があったのである。

「やめて!」と叫んだところで目が覚めたがそれが寝言だったらしい。

夫は真夜中に大きな声で起こされすっかり寝不足だったそうだ。

もうお盆も終わったのにそんな霊的なことがあるだろうかと思う。

私の霊感の強いのは母譲りで娘もその血を引いているようだった。


「疲れちょったがよ」と娘を宥めたことだった。

実は私も今朝まで知らなかったのだが娘は昨日から再就職をしていた。

私には何も知らせてはくれなかったが留守を守る父親に報告があり

孫達の昼食のことも頼まれたのだそうだ。

半年のブランクがあり慣れない新しい仕事である。

緊張もあれば気疲れも大きかったことだろうと察する。

だからたまたま見てしまった怖い夢だったのだろう。


それにしてもどうして娘は私に何も報せてくれなかったのだろう。

「今日から仕事に行くけんね」その一言が無かったのが寂しかった。

いったい何の隔たりがあるのか私には理解出来ないことである。


それでも例え夢の中でも私に助けを求めてくれたのが嬉しかった。

私は必死の思いで娘の手を引っ張っていたのだと思う。

どれほどの隔たりがあろうと娘は私の「陽だまり」に違いない。


※以下今朝の詩


      鍵


 何処へ行こうとしているのだろう
 明るい光の射す場所から
 暗闇へと押しやられているようだ

 記憶の鍵を握り絞めていると
 錆びのようなものが見える
 赤茶けた血痕のようでもある

 鍵穴を覗き込むと青空が見えるが
 流れる雲の行方など知りもしない
 せめて鳥の姿があれば救われるだろう

 いつまでもこどもではいられない
 少女はやがておとなになっていく
 知ってはならないことが増えていった

 父よ母よ弟よ
 あの陽だまりのような暮しは
 もう過ぎたことなのだろう

 いっそ捨ててしまばいい鍵を
 握りしめたまま
 老いの坂道を上り始めている




2025年08月19日(火) 男と女

厳しい残暑が続いており今日もうだるような暑さであった。

今週末には「処暑」だが少しでも暑さが和らいでくれるだろうか。

朝の山道を行けばもう鉄砲百合が枯れ始めている。

純白の花だけに茶に染まれば憐れな姿であった。

それでも折れることはない。何と逞しい花であろうか。


同僚宅のお葬式。義父が出掛け私は留守番をしていた。

来客はなかったが車のトラブルの電話が2件ある。

訳を話し午後まで待ってもらうことにした。

お昼過ぎには義父が帰って来て出張修理に行ってくれる。

開店休業とはいかないのだ。義父が行ってくれてとても助かった。

幸い大きなトラブルではなく直ぐに直ったようである。


今朝は姿の見えなかった「みい太」が子猫を連れて帰って来た。

しきりに鳴いて餌をねだるのだが子猫には餌を与えてはならない。

仕方なく心を鬼にしたが何とも心が痛む。

義父は子猫にはとても厳しかった。情けをかけてはいけないと云う。

昔母にも同じことを云われたことがあり私も鬼にならざるを得ない。

Kちゃんが里親を探しているようだが未だ報告はなかった。

いつまでも可愛い子猫ではいられないのも切ない現実である。



県税事務所に用事があり2時過ぎに退社した。

全ての書類が整ったので明日は県に郵送出来そうである。

一番苦手な事務仕事だったのでほっと肩の荷が下りた。


サニーマートに着くなり同僚から電話があり

無事にお骨上げも済み帰宅しているとのこと。

喪主としての務めも果たしほっとしたのだろう。

真っ先に私に報せてくれたことが嬉しかった。

お兄さんに孫がいるらしく故人にとってはひ孫である。

その幼い子供たちが先を争うようにお骨を拾ったのだそうだ。

その光景が微笑ましかったのだろう同僚も笑い声であった。

亡くなったお母さんもどんなにか嬉しかったことだろうか。

仕事のことは気にせずに落ち着くまで休むように告げて電話を切る。


帰宅して同僚のことを夫に話していたら何だか機嫌が悪い。

私がまるで姉のように親身になっているのが気に入らなかったようだ。

心の広い人だと思っていたが夫も「男」なのだなと思う。

今日を限りにもう同僚の話はしないほうが良さそうである。


今朝は父と母の喧嘩のことを詩に書いたが

それがきっかけだったのだろう。父と母は増々険悪になって行った。

毎晩のように訪ねて来る若い青年こそが今の義父だったのだ。

子供の私にはおとなの男女のことなど何も分からなかった。

しかし母が家出をした時に真っ先に義父の顔が浮かんだのだった。

母は「母親」よりも「おんな」を選んだのである。

運命の糸は私まで絡めたがその結果が今の幸せなのだと思っている。

その青年が義父で良かったと思う。母が心から愛した人であった。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     喧嘩

 一編の物語のように思い出す
 記憶には確かな「カタチ」があった

 優しいはずの父は厳格であり
 か弱いはずの母は強情である

 喧嘩が始まると弟と一緒に
 押し入れに逃げるのが常であった
 私は父の猟銃をしっかりと抱き
 その重みの何と悲しかったことか

 押し入れの戸を少しだけ開けて
 一部始終を見ていた
 怖くてならなかったが
 子供心に見届けなければと思う

 父は鬼のような形相であったが
 母は決して涙を見せなかった
 歯を食いしばり耐えようとする
 ぎゅっと握り絞めた拳が震えていた

 まるで嵐のような夜であったが
 朝になるとお味噌汁の匂いがし
 母の「おはよう」の声がする

 夢だったのかもしれない
 それなのにどうして忘れられないのだろう



2025年08月18日(月) 陣痛

今日も厳しい残暑であったが山里ではお昼前に土砂降りの雨が降った。

一時間程で止んだが工場の庭には水溜まりが出来る。

そうして一気に暑さが和らいだがそれもつかの間のことであった。

陽が射し始めるとむんむんとした熱気が辺りを包み込んでいた。


何処からか雉が一羽舞い降りて来て庭で遊び始める。

どうやら稲刈り後の籾の粒を食べているらしい。

その姿を見た義父はとても穏やかな笑顔になり

「もっと食べさせちゃるぞ」と云って

籾を手にすると庭にばら撒いているのだった。

義父の優しさを感じ胸がほっこりと温かくなる光景であった。


同僚が忌中のため工場は開店休業となる。

小さな村のことで誰もが知っているのだろう。

来客は一人もなく義父も助かったようだった。


午後から稲刈りの予定だったが大雨が降り中止となる。

夕方にはお通夜に参列しなければならずその方が良かっただろう。

お盆休み中に粗方の稲刈りを済ませており焦りもない様子であった。


事務仕事も特になく2時に退社し市内の葬儀場へと向かう。

同僚は気疲れした様子も見せずきりりっとしていた。

お母さんのことはいつも「おばちゃん」と呼んでいたので

そう声を掛けたらまるで生きているように穏やかな笑顔である。

天寿を全うしたのだろう。何とも安らかな眠りであった。

同僚に「寂しくないね」と告げると「うん」と笑顔で頷く。

末っ子の同僚はきっとお母さんっ子だったことだろう。

寂しくないはずはなかったがその笑顔に救われるようだった。


お通夜、明日の告別式にも参列できないことを告げて帰る。

不自由な足のせいもあるが喪服がもう着れなくなっていた。

同僚もちゃんと理解してくれており「無理せんでもええよ」と言ってくれた。

とうとう私も人並みのことが出来なくなってしまったのだ。



ケーキを買って帰る。今日は娘の44歳の誕生日である。

生まれた日のことを話していると「毎年おんなじことを」と

娘に制止され私だけの記憶になって行く。

それも寂しいものだが娘に母親を押し付けてもいけないだろう。

確かに私は娘を産んだが娘にはその記憶が無いのであった。


この先どんなに老いても娘に負担を掛けてはならない。

それは大きな危惧であり不安でもあった。

もしそうなれば死んだ方がマシだと思う。

寝た切りになったりせずにぽっくりと死にたい。

それが叶うのなら命など惜しくないと思っている。


歳月は「宝物」だろうか。44歳になった娘が愛しい。

西日の当たる産室で痛みに耐え続けたあの日をどうして忘れられようか。



※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     初恋

 初めての恋はふんわりと
 春の風のようであった

 「遊ぼう」の一言が云えない
 名前を呼んだだけでどきどきする

 横顔が好きだなとおもう
 だから真っ直ぐではなかった
 少し離れた処から見ていたのだ

 音楽の時間に縦笛を吹く時
 彼はふざけて横笛にした
 その姿はとても美しくて
 まるで絵のように映る

 音楽の時間が楽しみになったが
 彼はもう二度と横笛を吹かない
 美しいと云うことは儚いことだった

 校庭を駆けている風のような少年
 そのさりげない仕草が胸に焼きつく

 それが恋だとは知らないまま
 もう60年の歳月が流れた

 晩夏となった山里には
 蜩の声がせつなく響き渡っている




2025年08月17日(日) ふるさとは遠からず

お盆の切なさも何処へ。ただただ燃えるような陽射しであった。

早朝に同僚から電話があり昨夜お母様が亡くなった報せ。

施設に入居していたが持病の悪化が原因らしかった。

90歳の高齢でありもう仕方ないことだと同僚は云う。

いつも明るくて話し好きの朗らかな人であった。

「やはり人は死ぬのだな」と漠然と思う。

お盆の送り火と共に逝った魂の行方に心が痛んだ。


その数分後のことである。地震があり一瞬身構える。

日向灘を震源とする地震で宮崎では震度4だったそうだ。

高知県西部は幸い震度2と弱い揺れであったが

南海トラフが頭を過り不安にならざるを得なかった。

茶の間に居た夫はまったく気づかなかったそうで

呑気な人だなあと思う。夫にとっては平和な朝で何よりである。



朝食時に私の生まれ故郷である「江川崎」に行く話が持ち上がっていた。

久しぶりのことで嬉しくてならなかったのだが

朝から訃報や地震があり気分がざわざわと落ち着かない。

夫に中止を申し出たら「気分転換をせんといかん」と云ってくれて

予定通りに出掛けることになった。

「江川崎」は四万十市内であるが道路の整備が遅れており悪路が続く。

それでも国道添いの百日紅の花が見事に咲いており心が躍った。

眼下の四万十川ではカヌー遊びをする人も多く楽しそうである。

「道の駅よって四万十」の直ぐ隣は幼馴染の哲郎君の家であったが

姿は見えず洗濯物が干してあるだけでほっとするのだった。

もう60年近く会っていない。彼は元気にしているだろうか。

生家があった駅の近くにも行きたかったが夫に却下される。

「何度も行っただろうが」と何と意地悪なことだろう。


車は四万十川沿いに東へ向かう。大正、昭和と小さな町がある。

昔は村であったが今は「四万十町」の一部となっていた。

お昼も近くなり七子峠のラーメン屋さんを目指していたのだが

夫が近道を選んだのが最悪の結果となってしまう。

国道439号線に入り有名な「酷道」であった。

道幅は狭くくねくねとした山道ばかりであった。

対向車が来てもすれ違うことも不可能に思われる。

どうやら道を間違えたらしい。ナビを頼るととんでもない道であった。

「下津井」と云う集落を抜けひたすら前進していたのだが

何と目の前の道が崖崩れで大きな石が道を塞いでいるのである。

流石に夫も諦めたらしくやっとの思いでUターンをし引き返した。

お昼時はとっくに過ぎており私は空腹で気が狂いそうである。

「道の駅大正」まで戻りやっと昼食にありつけたのだった。

奮発して「鰻の混ぜご飯定食」を食べる。

鰻は少ししか入っていなかったがとても美味しかった。

ミニうどんもあり出汁が効いており大満足である。

散々な目にあったが夫は「面白かったな」とご満悦であった。

私の生まれ故郷はつかの間で酷道がメインのドライブとなる。


子供達がまだ幼かった頃のことである。

初めて夫が「江川崎」に連れて行ってくれた時のことを思い出していた。

その頃にはまだ私の生家もあり何と懐かしかったことだろう。

「また来ような」とその約束通りに夫は何度も連れて来てくれたが

ある日には生家は取り壊され更地になっていたのだった。

生まれ故郷でありながら何と寂しかったことだろう。

もちろん父の姿も母の姿も弟の姿も何処にもなかったのだ。

遠いようで近いその場所は私にとっては永遠に「ふるさと」である。


※以下今朝の詩(感傷的な詩で申し訳ないです)


     断片

 つつつつつと落ちていく
 若き日の記憶はせつない
 あふれてしまえば零れる
 添える手のひらがあつい

 もう「きみ」とは呼べず
 歳月の重みに耐えられない
 いっそ潰れてしまえと思う

 あれは罪だったのだろう
 どれほどの傷だったのか
 困惑でしかなかったのだ

 圧し掛かる記憶をまるで
 糧のように食してきた
 わたしは私でなければならず
 きみは君以外の何者でもない

 真っ青な海である
 私は胸元まで海になっていた

 孤独ではなかったのだ
 大声で私の名を呼ぶきみが
 海になる瞬間を見た



2025年08月16日(土) 茜色の空

午後7時、西の空が燃えているように紅い。

まるで空で「送り火」を焚いているようだ。

日も短くなったのだろう。夕暮れが随分と早くなった。


日中は厳しい暑さに感じたが猛暑日ではなかったようだ。

午後には突然のにわか雨が降り少しだけ気温が下がる。

夫は洗濯物を取り入れるのに大わらわだったそうだ。

私はお昼寝をしておりまったく雨に気づかなかった。


朝の内にはカーブスへ行っていたが時間を一時間も間違える。

朝寝をしていたので寝ぼけていたのだろう。

ラジオで9時だと知りそのままサニーマートへ行った。

開店直後でもあり店内は随分と空いている。

帰省客も既に帰ってしまったのだろう。


一度帰宅し今度こそはとカーブスへ向かう。

筋トレを始める前からもう汗だくであった。

カーブス推奨のプロティンを毎朝飲んでいるのだが

今月限りで飲むのを止めることにする。

あれこれと調べていたら運動してこそのプロティンなのだそうだ。

私のように週一の筋トレではとても運動とは云えないのだと思う。

たんぱく質の過剰摂取となれば肥満にも繋がるのだそうだ。

いわばアスリート向けなのである。私などとんでもないことだった。

筋肉を付けようと意気込んでいたが脂肪を蓄えていたのだろう。

カーブスの商法に乗せられていたと思えばそれまでだが

調べてみれば目から鱗で早く気づいて良かったのだと思う。


午後もひたすら寝て過ごす。もう寝るのにも飽きてしまった。

明後日には仕事に行ける。もう少しの辛抱である。


自室のエアコンを早目に付けしばらくSNSを見て過ごす。

今朝は例の詩人さんが私の詩をリポストしてくれていた。

昨日はそれが無かったのですっかり落ち込んでいたのが嘘のようである。

反応は決して評価ではないが日々一喜一憂が常であった。

共感あってこそのリポストであるとAIの響君は云う。

ずっと長いことどん底であったが微かな光が射し込んだように思った。



夕食後、義妹宅で「送り火」を焚く。

もう今日でお盆も終りだと思うと何とも切なくてならない。

便乗させてもらうのも心苦しかったが母も見送ることが出来た。

今年は夢で会うことも叶わなかったが母にはきっと伝わったと思う。

永遠に娘である。魂の再会を祈り続けていよう。


茜色の空に母の笑顔が浮かびやがてゆっくりと日が暮れて行った。


※以下今朝の詩


    送り火


 もう帰るのだと云う
 つかの間の再会であった

 黄金色に実った稲穂
 蜩が鳴く山里の空
 故郷に似ていたのだろう
 そこには母の家族が居た

 今年は百日紅が咲かなかった
 母の口紅の色である
 もう紅は差さないのだと
 きりりっとした顔で母は云う

 鰯雲がたなびく空に
 母の声がこだましている
 「もうお終い」と切ない

 何処に帰るのだろう
 母は独りぼっちではなかった
 父がいて母がいて姉も弟もいる

 空が真っ二つに千切れるのを見た
 母の姿はその空に吸い込まれていく

 「ほいたらね」
 炎はゆっくりと燃え尽きていった



2025年08月15日(金) 母の終戦

猛暑日にこそならなかったが厳しい残暑であった。

けれども空を見上げればもう夏の空ではない。

ゆっくりではあるが確実に秋が近づいているのだろう。


今夜は義妹宅でお盆の宴会があり先ほど帰宅したところである。

本来なら長男である我が家でするべきところだが

仏壇は義妹宅にあり日々の供養も任せっ切りである。

独り暮らしの義妹にはそれも張り合いになっていることだろう。


ビールは我が家で準備したがお寿司やオードブル等は

義妹が準備してくれて美味しくご馳走になった。

賑やかな夜となり故人もどんなにか喜んだことだろう。


姑さんは生前から私の般若心経を聞きたがる人だったので

遺影に手を合わせながら拙くも唱えることが出来た。

ささやかなお盆の供養となれば幸いである。


母は昨夜も帰らず。今年はもう会えないのかもしれない。

黄泉の国にもお盆のしきたりのようなものがあり

初盆の時には特別な計らいがあるのかもしれない。

そんなことを考えていると母も自由にとはいかないのだろう。

祖父母や伯母たちのように帰れない魂があれば尚更のことに思う。

自分一人がとはいかない。それも母らしいことであった。

明日はもう送り火を焚かねばならない。何とあっけないことか。


終戦記念日でもあり今朝は祖父と母の詩を書いた。

7歳の母にとって「終戦」をどんな風に受け取ったのか定かではない。

「お父ちゃんが帰って来る」ただその一心だったのではないだろうか。


自分では満足のいく詩であったが結果は不評であった。

やはり「落とし穴」はあるのだなと受け止めずにはいられない。

おそらくあまりにも自己満足な詩だったのだろう。

そんな私のせいで祖父と母に寂しい思いをさせてしまったようだ。


ここに記すのも憚られるがお目汚しをお許し願いたい。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     しなちゃん

 欠片のように落ちて来る
 手のひらをそっと添えれば
 それは光り始めるのだった

 祖父は二度戦争に行った
 中国大陸だったようだ

 昭和13年母が生まれた時
 父である祖父は戦地に居て
 留守を守る家族が名前を付けた

 志那に居る父親の無事を祈り
 母は「しな子」と名付けられた
 その名を背負い母はすくすくと育った

 父親の顔も知らない
 抱かれることもなかった

 その名の願いが叶い
 祖父は無事に帰還したが
 また直ぐに招集令状が届いたと云う

 幼い母のあどけない姿が目に浮かぶ
 「せんそう」とは遠い旅だったのだ

 「おとうちゃん早く帰ってきてね」

 しなちゃんは手を振り続けていた
 真っ青な空はどこまでも続いている



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