今日も厳しい残暑であったが山里ではお昼前に土砂降りの雨が降った。
一時間程で止んだが工場の庭には水溜まりが出来る。
そうして一気に暑さが和らいだがそれもつかの間のことであった。
陽が射し始めるとむんむんとした熱気が辺りを包み込んでいた。
何処からか雉が一羽舞い降りて来て庭で遊び始める。
どうやら稲刈り後の籾の粒を食べているらしい。
その姿を見た義父はとても穏やかな笑顔になり
「もっと食べさせちゃるぞ」と云って
籾を手にすると庭にばら撒いているのだった。
義父の優しさを感じ胸がほっこりと温かくなる光景であった。
同僚が忌中のため工場は開店休業となる。
小さな村のことで誰もが知っているのだろう。
来客は一人もなく義父も助かったようだった。
午後から稲刈りの予定だったが大雨が降り中止となる。
夕方にはお通夜に参列しなければならずその方が良かっただろう。
お盆休み中に粗方の稲刈りを済ませており焦りもない様子であった。
事務仕事も特になく2時に退社し市内の葬儀場へと向かう。
同僚は気疲れした様子も見せずきりりっとしていた。
お母さんのことはいつも「おばちゃん」と呼んでいたので
そう声を掛けたらまるで生きているように穏やかな笑顔である。
天寿を全うしたのだろう。何とも安らかな眠りであった。
同僚に「寂しくないね」と告げると「うん」と笑顔で頷く。
末っ子の同僚はきっとお母さんっ子だったことだろう。
寂しくないはずはなかったがその笑顔に救われるようだった。
お通夜、明日の告別式にも参列できないことを告げて帰る。
不自由な足のせいもあるが喪服がもう着れなくなっていた。
同僚もちゃんと理解してくれており「無理せんでもええよ」と言ってくれた。
とうとう私も人並みのことが出来なくなってしまったのだ。
ケーキを買って帰る。今日は娘の44歳の誕生日である。
生まれた日のことを話していると「毎年おんなじことを」と
娘に制止され私だけの記憶になって行く。
それも寂しいものだが娘に母親を押し付けてもいけないだろう。
確かに私は娘を産んだが娘にはその記憶が無いのであった。
この先どんなに老いても娘に負担を掛けてはならない。
それは大きな危惧であり不安でもあった。
もしそうなれば死んだ方がマシだと思う。
寝た切りになったりせずにぽっくりと死にたい。
それが叶うのなら命など惜しくないと思っている。
歳月は「宝物」だろうか。44歳になった娘が愛しい。
西日の当たる産室で痛みに耐え続けたあの日をどうして忘れられようか。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
初恋
初めての恋はふんわりと 春の風のようであった
「遊ぼう」の一言が云えない 名前を呼んだだけでどきどきする
横顔が好きだなとおもう だから真っ直ぐではなかった 少し離れた処から見ていたのだ
音楽の時間に縦笛を吹く時 彼はふざけて横笛にした その姿はとても美しくて まるで絵のように映る
音楽の時間が楽しみになったが 彼はもう二度と横笛を吹かない 美しいと云うことは儚いことだった
校庭を駆けている風のような少年 そのさりげない仕草が胸に焼きつく
それが恋だとは知らないまま もう60年の歳月が流れた
晩夏となった山里には 蜩の声がせつなく響き渡っている
お盆の切なさも何処へ。ただただ燃えるような陽射しであった。
早朝に同僚から電話があり昨夜お母様が亡くなった報せ。
施設に入居していたが持病の悪化が原因らしかった。
90歳の高齢でありもう仕方ないことだと同僚は云う。
いつも明るくて話し好きの朗らかな人であった。
「やはり人は死ぬのだな」と漠然と思う。
お盆の送り火と共に逝った魂の行方に心が痛んだ。
その数分後のことである。地震があり一瞬身構える。
日向灘を震源とする地震で宮崎では震度4だったそうだ。
高知県西部は幸い震度2と弱い揺れであったが
南海トラフが頭を過り不安にならざるを得なかった。
茶の間に居た夫はまったく気づかなかったそうで
呑気な人だなあと思う。夫にとっては平和な朝で何よりである。

朝食時に私の生まれ故郷である「江川崎」に行く話が持ち上がっていた。
久しぶりのことで嬉しくてならなかったのだが
朝から訃報や地震があり気分がざわざわと落ち着かない。
夫に中止を申し出たら「気分転換をせんといかん」と云ってくれて
予定通りに出掛けることになった。
「江川崎」は四万十市内であるが道路の整備が遅れており悪路が続く。
それでも国道添いの百日紅の花が見事に咲いており心が躍った。
眼下の四万十川ではカヌー遊びをする人も多く楽しそうである。
「道の駅よって四万十」の直ぐ隣は幼馴染の哲郎君の家であったが
姿は見えず洗濯物が干してあるだけでほっとするのだった。
もう60年近く会っていない。彼は元気にしているだろうか。
生家があった駅の近くにも行きたかったが夫に却下される。
「何度も行っただろうが」と何と意地悪なことだろう。
車は四万十川沿いに東へ向かう。大正、昭和と小さな町がある。
昔は村であったが今は「四万十町」の一部となっていた。
お昼も近くなり七子峠のラーメン屋さんを目指していたのだが
夫が近道を選んだのが最悪の結果となってしまう。
国道439号線に入り有名な「酷道」であった。
道幅は狭くくねくねとした山道ばかりであった。
対向車が来てもすれ違うことも不可能に思われる。
どうやら道を間違えたらしい。ナビを頼るととんでもない道であった。
「下津井」と云う集落を抜けひたすら前進していたのだが
何と目の前の道が崖崩れで大きな石が道を塞いでいるのである。
流石に夫も諦めたらしくやっとの思いでUターンをし引き返した。
お昼時はとっくに過ぎており私は空腹で気が狂いそうである。
「道の駅大正」まで戻りやっと昼食にありつけたのだった。
奮発して「鰻の混ぜご飯定食」を食べる。
鰻は少ししか入っていなかったがとても美味しかった。
ミニうどんもあり出汁が効いており大満足である。
散々な目にあったが夫は「面白かったな」とご満悦であった。
私の生まれ故郷はつかの間で酷道がメインのドライブとなる。
子供達がまだ幼かった頃のことである。
初めて夫が「江川崎」に連れて行ってくれた時のことを思い出していた。
その頃にはまだ私の生家もあり何と懐かしかったことだろう。
「また来ような」とその約束通りに夫は何度も連れて来てくれたが
ある日には生家は取り壊され更地になっていたのだった。
生まれ故郷でありながら何と寂しかったことだろう。
もちろん父の姿も母の姿も弟の姿も何処にもなかったのだ。
遠いようで近いその場所は私にとっては永遠に「ふるさと」である。
※以下今朝の詩(感傷的な詩で申し訳ないです)
断片
つつつつつと落ちていく 若き日の記憶はせつない あふれてしまえば零れる 添える手のひらがあつい
もう「きみ」とは呼べず 歳月の重みに耐えられない いっそ潰れてしまえと思う
あれは罪だったのだろう どれほどの傷だったのか 困惑でしかなかったのだ
圧し掛かる記憶をまるで 糧のように食してきた わたしは私でなければならず きみは君以外の何者でもない
真っ青な海である 私は胸元まで海になっていた
孤独ではなかったのだ 大声で私の名を呼ぶきみが 海になる瞬間を見た
午後7時、西の空が燃えているように紅い。
まるで空で「送り火」を焚いているようだ。
日も短くなったのだろう。夕暮れが随分と早くなった。
日中は厳しい暑さに感じたが猛暑日ではなかったようだ。
午後には突然のにわか雨が降り少しだけ気温が下がる。
夫は洗濯物を取り入れるのに大わらわだったそうだ。
私はお昼寝をしておりまったく雨に気づかなかった。
朝の内にはカーブスへ行っていたが時間を一時間も間違える。
朝寝をしていたので寝ぼけていたのだろう。
ラジオで9時だと知りそのままサニーマートへ行った。
開店直後でもあり店内は随分と空いている。
帰省客も既に帰ってしまったのだろう。
一度帰宅し今度こそはとカーブスへ向かう。
筋トレを始める前からもう汗だくであった。
カーブス推奨のプロティンを毎朝飲んでいるのだが
今月限りで飲むのを止めることにする。
あれこれと調べていたら運動してこそのプロティンなのだそうだ。
私のように週一の筋トレではとても運動とは云えないのだと思う。
たんぱく質の過剰摂取となれば肥満にも繋がるのだそうだ。
いわばアスリート向けなのである。私などとんでもないことだった。
筋肉を付けようと意気込んでいたが脂肪を蓄えていたのだろう。
カーブスの商法に乗せられていたと思えばそれまでだが
調べてみれば目から鱗で早く気づいて良かったのだと思う。
午後もひたすら寝て過ごす。もう寝るのにも飽きてしまった。
明後日には仕事に行ける。もう少しの辛抱である。
自室のエアコンを早目に付けしばらくSNSを見て過ごす。
今朝は例の詩人さんが私の詩をリポストしてくれていた。
昨日はそれが無かったのですっかり落ち込んでいたのが嘘のようである。
反応は決して評価ではないが日々一喜一憂が常であった。
共感あってこそのリポストであるとAIの響君は云う。
ずっと長いことどん底であったが微かな光が射し込んだように思った。
夕食後、義妹宅で「送り火」を焚く。
もう今日でお盆も終りだと思うと何とも切なくてならない。
便乗させてもらうのも心苦しかったが母も見送ることが出来た。
今年は夢で会うことも叶わなかったが母にはきっと伝わったと思う。
永遠に娘である。魂の再会を祈り続けていよう。
茜色の空に母の笑顔が浮かびやがてゆっくりと日が暮れて行った。
※以下今朝の詩
送り火
もう帰るのだと云う つかの間の再会であった
黄金色に実った稲穂 蜩が鳴く山里の空 故郷に似ていたのだろう そこには母の家族が居た
今年は百日紅が咲かなかった 母の口紅の色である もう紅は差さないのだと きりりっとした顔で母は云う
鰯雲がたなびく空に 母の声がこだましている 「もうお終い」と切ない
何処に帰るのだろう 母は独りぼっちではなかった 父がいて母がいて姉も弟もいる
空が真っ二つに千切れるのを見た 母の姿はその空に吸い込まれていく
「ほいたらね」 炎はゆっくりと燃え尽きていった
猛暑日にこそならなかったが厳しい残暑であった。
けれども空を見上げればもう夏の空ではない。
ゆっくりではあるが確実に秋が近づいているのだろう。
今夜は義妹宅でお盆の宴会があり先ほど帰宅したところである。
本来なら長男である我が家でするべきところだが
仏壇は義妹宅にあり日々の供養も任せっ切りである。
独り暮らしの義妹にはそれも張り合いになっていることだろう。
ビールは我が家で準備したがお寿司やオードブル等は
義妹が準備してくれて美味しくご馳走になった。
賑やかな夜となり故人もどんなにか喜んだことだろう。
姑さんは生前から私の般若心経を聞きたがる人だったので
遺影に手を合わせながら拙くも唱えることが出来た。
ささやかなお盆の供養となれば幸いである。
母は昨夜も帰らず。今年はもう会えないのかもしれない。
黄泉の国にもお盆のしきたりのようなものがあり
初盆の時には特別な計らいがあるのかもしれない。
そんなことを考えていると母も自由にとはいかないのだろう。
祖父母や伯母たちのように帰れない魂があれば尚更のことに思う。
自分一人がとはいかない。それも母らしいことであった。
明日はもう送り火を焚かねばならない。何とあっけないことか。
終戦記念日でもあり今朝は祖父と母の詩を書いた。
7歳の母にとって「終戦」をどんな風に受け取ったのか定かではない。
「お父ちゃんが帰って来る」ただその一心だったのではないだろうか。
自分では満足のいく詩であったが結果は不評であった。
やはり「落とし穴」はあるのだなと受け止めずにはいられない。
おそらくあまりにも自己満足な詩だったのだろう。
そんな私のせいで祖父と母に寂しい思いをさせてしまったようだ。
ここに記すのも憚られるがお目汚しをお許し願いたい。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
しなちゃん
欠片のように落ちて来る 手のひらをそっと添えれば それは光り始めるのだった
祖父は二度戦争に行った 中国大陸だったようだ
昭和13年母が生まれた時 父である祖父は戦地に居て 留守を守る家族が名前を付けた
志那に居る父親の無事を祈り 母は「しな子」と名付けられた その名を背負い母はすくすくと育った
父親の顔も知らない 抱かれることもなかった
その名の願いが叶い 祖父は無事に帰還したが また直ぐに招集令状が届いたと云う
幼い母のあどけない姿が目に浮かぶ 「せんそう」とは遠い旅だったのだ
「おとうちゃん早く帰ってきてね」
しなちゃんは手を振り続けていた 真っ青な空はどこまでも続いている
今朝はほんの少し涼しさを感じたが日中は厳しい暑さとなる。
江川崎では37.6℃と日本一の猛暑だったようだ。
熊本の水害ではエアコンの室外機が水没した家が多くあり
冷房が効かずどんなにか辛いことだろうか。
停電はほぼ解消したそうだがこの暑さを耐えなければならない。
高齢者や幼い子供達も多いことだろうと気遣わずにはいられなかった。
この炎天下に山里の義父は稲刈りに精を出していたようだ。
例の友人達が手伝いに来てくれて心強かったことだろう。
順調に行けばお盆の間に稲刈りが終わりそうである。
義父の清々しい笑顔が目に見えるようだった。
母は昨夜帰らず。夢も見なければ気配を感じることもなかった。
やはり遠慮をしているとしか思えない。
それとも私の願いが伝わらなかったのだろうか。
寂しさはあったがこころの何処かでほっとしている自分も感じた。
お盆でなくてもまた夢で会える日もあるだろう。
魂は永遠である。そう信じることで救われるのである。
薄情な娘だったから尚更のこと。悔いを残してはならない。

朝のうちに買い物に行ったきりで後は殆ど寝て過ごす。
まだ3日もこんな日が続くのかと思うとうんざりである。
余程貧乏性なのだろう。仕事のある日常が恋しくてならない。
SNSを通じて知り合いになった詩人さんから「詩誌」が届いていた。
とても気さくな方で毎号送ってくれるのだった。
その詩人さんからメールがあり最近の私の詩が気に入ったとのこと。
今朝もリポストをしてくれており舞い上がるように嬉しかった。
けれども有頂天になってはいけない。調子に乗ってはいけないと思う。
私には守らねばならない「カタチ」があり
あくまでも自分を信じて書き続けなければと肝に銘ずる。
「落とし穴」は必ずある。自ら墓穴を掘ってはならない。
今朝は祖母の愛ちゃんの詩を書いた。
今は廃屋になった母の実家が目に浮かぶ。
お墓もおそらく荒れ果てていることだろう。
祖父母も伯母も叔父もお盆には帰れない魂であった。
「迎え火」を焚く人がいないのである。
まして崩れかけた廃家にくつろぐ場所も在りはしない。
けれども決して忘れないこと。それが一番の供養なのではないだろうか。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
永遠
思い出すことと 思い出したくないこと 記憶は混乱しながら 私に圧し掛かってくる
祖母の愛ちゃんと一緒に寝た時 愛ちゃんの入れ歯が外れて 私の手をがっつりと噛んだ それはとても愉快な記憶で 笑い転げた朝のことである
みんなみんな生きていた 失うことなど知らなかった頃 全てのことが永遠だったのだ
愛ちゃんが危篤になったとき 手を握ると握り返してくれて 歌をうたってくれたのだった 「お手々つないで野道を行けば」 最後まで歌い終わると大きく息をし 愛ちゃんはすうっと何処かに行った
失うことなど知りたくはなかった この世に永遠など在りはしないのだ
お骨を拾う時に入れ歯が転がっていた 愛ちゃんが遺してくれた思い出である
「みんなかわいい小鳥になって」
愛ちゃんは今も空を飛び続けている
朝のうちは鰯雲が見られ爽やかな青空であったが
日中は入道雲に変わりカンカン照りの猛暑日となる。
明日は今日よりも暑くなるとのことまだまだ夏が続きそうだ。
今朝は四万十大橋を渡っていたら川向のお客さんから
朝獲れの夏野菜を取りに寄るようにと電話があった。
家の前まで行くと両手にビニール袋を抱え待っていてくれた。
ゴーヤ、オクラ、白いお茄子と何と嬉しいことだろう。
特にゴーヤはきんぴらにして食べると美味しく楽しみであった。
礼を言い「ほいたらね」と手を振ると「また電話しちゃるけん」と
お客さんと云うより親戚みたいに感じてほっこりとあたたかい。
買えば高い野菜である。何と有難いことだろうか。

山里に着くと義父がコンバインの手入れをしていた。
先日お仲間さんの稲刈りを手伝った際のもち米が残っているのだそうだ。
もちろん混ざってはならず綺麗に掃除をしなければならない。
今日こそは稲刈りの予定だったがすっかり出遅れてしまった。
結局昼食を終えて炎天下の午後2時になりやっと出掛ける。
刈り始めたら早くあっという間であったが夕方まで掛かるだろう。
籾を運ぶ役目の同僚は少し機嫌が悪かった。
残業になろうが義父には気遣う気持ちなど全くないのである。
私はお給料の準備をしていた。現金はぎりぎりの状態で
「お盆玉」どころではなかったが少しでも支給しなければならない。
例年の半分以下であったが無いよりはマシだろうと思う。
同僚も経営難を分かってくれるはずだが心苦しくてならなかった。
それにしてもどうしてここまで窮地に立たされたのだろう。
昨年は義父にも「お盆玉」をあげて大喜びだったことを思い出す。
不景気と一言では済まされない。このままでは前途が思い遣られる。
整形外科のリハビリを終えて4時には帰宅していた。
夕食後に義妹宅へ行き「迎え火」を焚く。
仏様には気の毒であったがそっと母に声を掛けた。
決して遠慮をしないこと。必ず我が家に帰って来ること。
もし母に伝わらなかったらとても寂しいことである。
昨年は初盆で母は確かに我が家に帰って来てくれたが
二度目となると母も悩むのではないかと思う。
生前から我が家に来るといつも遠慮する母であった。
やはり私と母には長年の確執がありそれが原因だと思われる。
その上に私は何と薄情な娘だったことだろう。
もしかしたら未だに母の事を赦し切っていないのかもしれない。
まだまだ歳月が必要ならば受け止めるしかないと思う。
私があの世に逝った時に真っ先に母が出迎えてくれるだろうか。
帰れる魂もあれば帰れない魂もあるのだそうだ。
それでも手を合わせずにはいられない。
帰る場所の無い魂ほど憐れな存在があるだろうか。
※以下今朝の詩
盆帰り
真夜中に目を覚ますと 母が隣で眠っていた 寝息を確かに感じる
帰って来たのだなと思う 母の初めてのお盆だった
目を覚ました母は お風呂に入りたいと云う シャワーではなくて 湯船に浸かりたいと云う
急いでお湯を張った 母の何と嬉しそうな顔だろう さっぱりと気持ち良さそうだ
「ビール飲みたいろ?」と訊けば 「要らん」と応え母は再び眠った
旅の疲れだろうかと思う 母はいったい何処から帰って来たのか
寝息を感じなくなってはっと目覚める 確かに居たはずの母の姿が消えていた
不思議と寂しさを感じない 母が帰って来てくれたのだ
そうして朝がやって来る ほんの少し秋の風が吹いていた
曇りのち晴れ。久しぶりに30℃を超え真夏日となった。
けれども入道雲は見られず鰯雲に少しだけ秋の気配を感じる。
毎年お盆を過ぎると過ごし易くなるのだが
今年は9月までも猛暑が続くらしい。
せめて「処暑」までと思うが夏が潔く退くとは思えなかった。
熊本や長崎、石川と豪雨災害の報道が流れ心を痛めている。
その上に停電や断水も起きているようで何と気の毒な事だろう。
自分達がどれほど恵まれているかを思い知るばかりであった。
とても他人事ではなく明日は我が身だと思わずにいられない。

三連休をやっと終え待ちに待った仕事であったが
もう取引先もお盆休みになっており部品屋さんも休みになっていた。
幸い故障車は入庫していなかったがする仕事がないのは困ったものである。
忙しいのは義父ばかりで明日こそは稲刈りをすると興奮気味であった。
準備万端となったからには何としてもと応援せずにはいられない。
お天気は晴れの予報だがにわか雨が降るかもしれないとのこと。
そうなれば忽ち機嫌が悪くなってしまうだろう。
どうか順調に。空に手を合わすしかなかった。
事務仕事も特になく電話も鳴らない。
来客も一切なく暇を持て余していた。
同僚に留守番を頼みいつもより早く2時に帰路に就く。
サニーマートに寄れば凄い人で溢れ返っていた。
帰省客が居るのだろう皆さんてんこ盛りの買い物である。
お刺身用の魚の何と高いことだろう。
娘達には我慢して貰おうと安価なカマスを6匹買って帰る。
塩焼きにすれば美味しく夫と私はもちろん食べたが
娘達は箸も付けず何ともやり切れない気持ちになった。
毎晩お刺身とはいかないのだ。どうして分かってくれないのだろう。
「まあいいか」とお気楽にはなれない。
くよくよといつまでも思い煩うのが私の悪い癖であった。
今朝は夜明け前に若くして亡くなった伯母の詩を書いた。
そのせいだろう伯母の笑顔が目に浮かび懐かしくてならない。
同時に伯母が憐れでならず何と不運な人生だったのだろうと思った。
それは祖母が半身不随になった直後の事だったのだ。
「お母ちゃん」といつも祖母を呼んでいた伯母は
母親だけが頼りの「こども」だったのに違いない。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
笑顔
母には姉が居た 「はじめ」と云う名で 「はじやん」と呼んでいた
幼い頃に高熱が出る病気になって 脳を患い知恵遅れになったそうだ
小学校へも行けなかったらしい でも字を書くことも読むことも出来た
ずっと8歳くらいだったのだろう どんなにおとなになっても こどものままでいられたのだ
泣きたい時もあったはずである 辛い時もあったのにちがいない
けれどもいつも笑顔を絶やさず にこにこと優しいはじやんだった
ある冬の夜の厳しい寒さのなか はじやんは家出をし行方不明になった
真っ暗い山道はどんなにか怖かったことか はじやんは冷たい谷川に素足を浸し そのまま息絶えていたのだった
こどもではなかったのだとおもう そうでなければどうして死を選んだろうか
半世紀近い歳月が流れたが はじやんの笑顔は私の心に残り続けている
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