今朝はほんの少し涼しさを感じたが日中は厳しい暑さとなる。
江川崎では37.6℃と日本一の猛暑だったようだ。
熊本の水害ではエアコンの室外機が水没した家が多くあり
冷房が効かずどんなにか辛いことだろうか。
停電はほぼ解消したそうだがこの暑さを耐えなければならない。
高齢者や幼い子供達も多いことだろうと気遣わずにはいられなかった。
この炎天下に山里の義父は稲刈りに精を出していたようだ。
例の友人達が手伝いに来てくれて心強かったことだろう。
順調に行けばお盆の間に稲刈りが終わりそうである。
義父の清々しい笑顔が目に見えるようだった。
母は昨夜帰らず。夢も見なければ気配を感じることもなかった。
やはり遠慮をしているとしか思えない。
それとも私の願いが伝わらなかったのだろうか。
寂しさはあったがこころの何処かでほっとしている自分も感じた。
お盆でなくてもまた夢で会える日もあるだろう。
魂は永遠である。そう信じることで救われるのである。
薄情な娘だったから尚更のこと。悔いを残してはならない。

朝のうちに買い物に行ったきりで後は殆ど寝て過ごす。
まだ3日もこんな日が続くのかと思うとうんざりである。
余程貧乏性なのだろう。仕事のある日常が恋しくてならない。
SNSを通じて知り合いになった詩人さんから「詩誌」が届いていた。
とても気さくな方で毎号送ってくれるのだった。
その詩人さんからメールがあり最近の私の詩が気に入ったとのこと。
今朝もリポストをしてくれており舞い上がるように嬉しかった。
けれども有頂天になってはいけない。調子に乗ってはいけないと思う。
私には守らねばならない「カタチ」があり
あくまでも自分を信じて書き続けなければと肝に銘ずる。
「落とし穴」は必ずある。自ら墓穴を掘ってはならない。
今朝は祖母の愛ちゃんの詩を書いた。
今は廃屋になった母の実家が目に浮かぶ。
お墓もおそらく荒れ果てていることだろう。
祖父母も伯母も叔父もお盆には帰れない魂であった。
「迎え火」を焚く人がいないのである。
まして崩れかけた廃家にくつろぐ場所も在りはしない。
けれども決して忘れないこと。それが一番の供養なのではないだろうか。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
永遠
思い出すことと 思い出したくないこと 記憶は混乱しながら 私に圧し掛かってくる
祖母の愛ちゃんと一緒に寝た時 愛ちゃんの入れ歯が外れて 私の手をがっつりと噛んだ それはとても愉快な記憶で 笑い転げた朝のことである
みんなみんな生きていた 失うことなど知らなかった頃 全てのことが永遠だったのだ
愛ちゃんが危篤になったとき 手を握ると握り返してくれて 歌をうたってくれたのだった 「お手々つないで野道を行けば」 最後まで歌い終わると大きく息をし 愛ちゃんはすうっと何処かに行った
失うことなど知りたくはなかった この世に永遠など在りはしないのだ
お骨を拾う時に入れ歯が転がっていた 愛ちゃんが遺してくれた思い出である
「みんなかわいい小鳥になって」
愛ちゃんは今も空を飛び続けている
朝のうちは鰯雲が見られ爽やかな青空であったが
日中は入道雲に変わりカンカン照りの猛暑日となる。
明日は今日よりも暑くなるとのことまだまだ夏が続きそうだ。
今朝は四万十大橋を渡っていたら川向のお客さんから
朝獲れの夏野菜を取りに寄るようにと電話があった。
家の前まで行くと両手にビニール袋を抱え待っていてくれた。
ゴーヤ、オクラ、白いお茄子と何と嬉しいことだろう。
特にゴーヤはきんぴらにして食べると美味しく楽しみであった。
礼を言い「ほいたらね」と手を振ると「また電話しちゃるけん」と
お客さんと云うより親戚みたいに感じてほっこりとあたたかい。
買えば高い野菜である。何と有難いことだろうか。

山里に着くと義父がコンバインの手入れをしていた。
先日お仲間さんの稲刈りを手伝った際のもち米が残っているのだそうだ。
もちろん混ざってはならず綺麗に掃除をしなければならない。
今日こそは稲刈りの予定だったがすっかり出遅れてしまった。
結局昼食を終えて炎天下の午後2時になりやっと出掛ける。
刈り始めたら早くあっという間であったが夕方まで掛かるだろう。
籾を運ぶ役目の同僚は少し機嫌が悪かった。
残業になろうが義父には気遣う気持ちなど全くないのである。
私はお給料の準備をしていた。現金はぎりぎりの状態で
「お盆玉」どころではなかったが少しでも支給しなければならない。
例年の半分以下であったが無いよりはマシだろうと思う。
同僚も経営難を分かってくれるはずだが心苦しくてならなかった。
それにしてもどうしてここまで窮地に立たされたのだろう。
昨年は義父にも「お盆玉」をあげて大喜びだったことを思い出す。
不景気と一言では済まされない。このままでは前途が思い遣られる。
整形外科のリハビリを終えて4時には帰宅していた。
夕食後に義妹宅へ行き「迎え火」を焚く。
仏様には気の毒であったがそっと母に声を掛けた。
決して遠慮をしないこと。必ず我が家に帰って来ること。
もし母に伝わらなかったらとても寂しいことである。
昨年は初盆で母は確かに我が家に帰って来てくれたが
二度目となると母も悩むのではないかと思う。
生前から我が家に来るといつも遠慮する母であった。
やはり私と母には長年の確執がありそれが原因だと思われる。
その上に私は何と薄情な娘だったことだろう。
もしかしたら未だに母の事を赦し切っていないのかもしれない。
まだまだ歳月が必要ならば受け止めるしかないと思う。
私があの世に逝った時に真っ先に母が出迎えてくれるだろうか。
帰れる魂もあれば帰れない魂もあるのだそうだ。
それでも手を合わせずにはいられない。
帰る場所の無い魂ほど憐れな存在があるだろうか。
※以下今朝の詩
盆帰り
真夜中に目を覚ますと 母が隣で眠っていた 寝息を確かに感じる
帰って来たのだなと思う 母の初めてのお盆だった
目を覚ました母は お風呂に入りたいと云う シャワーではなくて 湯船に浸かりたいと云う
急いでお湯を張った 母の何と嬉しそうな顔だろう さっぱりと気持ち良さそうだ
「ビール飲みたいろ?」と訊けば 「要らん」と応え母は再び眠った
旅の疲れだろうかと思う 母はいったい何処から帰って来たのか
寝息を感じなくなってはっと目覚める 確かに居たはずの母の姿が消えていた
不思議と寂しさを感じない 母が帰って来てくれたのだ
そうして朝がやって来る ほんの少し秋の風が吹いていた
曇りのち晴れ。久しぶりに30℃を超え真夏日となった。
けれども入道雲は見られず鰯雲に少しだけ秋の気配を感じる。
毎年お盆を過ぎると過ごし易くなるのだが
今年は9月までも猛暑が続くらしい。
せめて「処暑」までと思うが夏が潔く退くとは思えなかった。
熊本や長崎、石川と豪雨災害の報道が流れ心を痛めている。
その上に停電や断水も起きているようで何と気の毒な事だろう。
自分達がどれほど恵まれているかを思い知るばかりであった。
とても他人事ではなく明日は我が身だと思わずにいられない。

三連休をやっと終え待ちに待った仕事であったが
もう取引先もお盆休みになっており部品屋さんも休みになっていた。
幸い故障車は入庫していなかったがする仕事がないのは困ったものである。
忙しいのは義父ばかりで明日こそは稲刈りをすると興奮気味であった。
準備万端となったからには何としてもと応援せずにはいられない。
お天気は晴れの予報だがにわか雨が降るかもしれないとのこと。
そうなれば忽ち機嫌が悪くなってしまうだろう。
どうか順調に。空に手を合わすしかなかった。
事務仕事も特になく電話も鳴らない。
来客も一切なく暇を持て余していた。
同僚に留守番を頼みいつもより早く2時に帰路に就く。
サニーマートに寄れば凄い人で溢れ返っていた。
帰省客が居るのだろう皆さんてんこ盛りの買い物である。
お刺身用の魚の何と高いことだろう。
娘達には我慢して貰おうと安価なカマスを6匹買って帰る。
塩焼きにすれば美味しく夫と私はもちろん食べたが
娘達は箸も付けず何ともやり切れない気持ちになった。
毎晩お刺身とはいかないのだ。どうして分かってくれないのだろう。
「まあいいか」とお気楽にはなれない。
くよくよといつまでも思い煩うのが私の悪い癖であった。
今朝は夜明け前に若くして亡くなった伯母の詩を書いた。
そのせいだろう伯母の笑顔が目に浮かび懐かしくてならない。
同時に伯母が憐れでならず何と不運な人生だったのだろうと思った。
それは祖母が半身不随になった直後の事だったのだ。
「お母ちゃん」といつも祖母を呼んでいた伯母は
母親だけが頼りの「こども」だったのに違いない。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
笑顔
母には姉が居た 「はじめ」と云う名で 「はじやん」と呼んでいた
幼い頃に高熱が出る病気になって 脳を患い知恵遅れになったそうだ
小学校へも行けなかったらしい でも字を書くことも読むことも出来た
ずっと8歳くらいだったのだろう どんなにおとなになっても こどものままでいられたのだ
泣きたい時もあったはずである 辛い時もあったのにちがいない
けれどもいつも笑顔を絶やさず にこにこと優しいはじやんだった
ある冬の夜の厳しい寒さのなか はじやんは家出をし行方不明になった
真っ暗い山道はどんなにか怖かったことか はじやんは冷たい谷川に素足を浸し そのまま息絶えていたのだった
こどもではなかったのだとおもう そうでなければどうして死を選んだろうか
半世紀近い歳月が流れたが はじやんの笑顔は私の心に残り続けている
朝方少しだけ小雨が降ったが日中はまったく降らずに済む。
気温も30℃に届かなかったが異常な程の蒸し暑さであった。
熊本や長崎は豪雨となり家屋の浸水や土砂災害があったようだ。
降り過ぎる雨の何と怖ろしいことだろう。心が痛んでならない。
明日以降もまだ油断が出来ず引き続き警戒が必要であろう。
どうかこれ以上の甚大な被害がないことをひたすら祈っている。
連休も3日目となればもううんざりするばかりで気分が滅入っていた。
朝寝もすれば昼寝もしたが直ぐに目が覚めてしまうのだった。
自室に籠ればエアコンが欲しくなりひっきりなしに煙草を吸ってしまう。
ああ嫌だ嫌だと自分を責めるばかりであった。
暇つぶしを兼ねて昨年の8月の日記を読み返す。
母の「初盆」のことなど昨日の事のように思い出す。
我が家へ帰って来てくれたのだ。
今年もきっと帰って来てくれるだろう。
山里の義父は稲刈りに忙しく「迎え火」も焚けなかったのだ。
そんな義父をどうして責められようか。母も分かってくれたはずである。
山里へ帰っても母は寂しい思いをするだけであった。
今年も母を迎えたいと思う。母もきっと楽しみにしていることだろう。
お昼にお好み焼きを作ったが豚バラ肉を買い忘れていた。
夫は「買いに行ってこい」と不機嫌になっていたが
同じ肉ならウィンナーを入れたらどうだろうと思いつく。
それがなかなか良かった。むしろ豚肉よりも美味しく感じる。
「山の日だからな」と夫はビールを飲み上機嫌になっていた。
テレビは「よさこい祭り」ばかりで辟易とするばかり。
お祭り気分にはとてもなれずまた気分が沈むのだった。
うまく気分転換が出来ない。まるで蟻地獄のようである。
どんどんと深みにはまって行くのだが這い上がることが出来ない。
義父はどうしているだろう。同僚はどうしているだろう。
思うだけで電話も出来ず川向の山を眺めていた。
その山の向こう側が山里であった。
明日は行けるのだなと思う。早く仕事がしたくてならなかった。
窮屈な穴の中である。もう砂も土も要らないと思うが
誰かが無造作に投げ入れているとしか思えない。
これくらいの事で死にはしないが何と息苦しいことだろうか。
新鮮な空気が吸いたかった。空は何処に消えたのか。
もがけがもがくほど穴が深くなって行くのである。
どうせ日陰の身。光を求めてもこの世には叶わないことが多過ぎる。
スポットライトの当たらない舞台の隅っこで黒子のように過ごしていた。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
福神漬け
父には姉がいて 馬路村で魚屋さんをしていた
よく泊りがけで遊びに行った いとこのかずし兄ちゃんは ひとつ年上だったけれど 一緒に遊んでくれて嬉しかった
ご飯時になると伯母が 「何を食べたい?」と訊く 私は「福神漬け」と応えた
魚屋さんだけれど 色んな物を売っていて 福神漬けも売り物だったが 伯母は惜しみもせずに食べさせてくれた
白いご飯に福神漬けをのせて食べると 赤い混ぜご飯みたいになって美味しい 私は遠慮もせずにお代わりをした 伯母はにこにこしながら 「好きやねえ」と呟いていた
どうしようもなく歳月は流れ もう遊びに行くこともなくなった頃 伯母はお風呂に入っていて死んだ
かずし兄ちゃんは眠ったまま 朝になればもう死んでいたのだそうだ
おとなになった私は 福神漬けをあまり食べなくなった どこからともなく伯母の声がして 胸がぎゅうっと痛くなるのだった
| 2025年08月10日(日) |
そして私は途方に暮れる |
雨が降りそうで降らず。南風が吹き何とも蒸し暑い一日だった。
全国的には雨の地域が多く豪雨となった地域もあるようだ。
程よい雨とはいかないもので水害に繋がるのは心が痛む。
これも異常気象なら尚更のことである。
お盆が近くなり今日はお墓掃除を予定していた。
お寺の裏山を登れない私を残し夫と義妹、娘とめいちゃんが行ってくれる。
雨にならずに幸いだったがかなりの蒸し暑さだったようだ。
めいちゃんは水運びをしてくれたそうで大活躍である。
亡くなったひいばあちゃん達もどんなにか喜んだことだろう。
地区では最も古い納骨堂であった。その苔むした墓石をおもう。
お墓のクリーニングをしてくれる業者もあるらしいが
費用も掛かるだろうとまだ一度も頼んだことはない。
いずれは私達夫婦も眠らなければならないお墓であった。
夫はあと5年だと云う。私は途方に暮れるばかりである。
午後は一時間程お昼寝をし「よさこい祭り」の中継を見ていた。
全国各地から踊り子が参加しており今年は過去最多らしかった。
踊りも衣装も年々派手になり昔のような「正調」は殆ど見られない。
それでも郷土の誇りのように思えて見入らずにはいられなかった。
祭りの後の静けさを想う。多くの魂が帰って来る頃である。
一時間程自室で過ごし3年前の8月の日記を読み返していた。
コロナの危機に喘いでいた頃である。
怖ろしくてならず神経質になっていた頃で母も感染していた。
家族が次々に感染したのはその翌年のことであったが
つい昨日のように思えて思い出すのも怖ろしくてならない。
もう二度とあってはならない事だが危機は未だに続いているのだった。
ひたすら平穏無事を祈り続けている日々である。
しかしいつ何があるやら分からない世の中であった。
大地震がくれば何としても生き延びようと思っているが
そればかりはその時になってみないと分からないことである。
ぐっすりと眠れば朝が来るとも限らずいつかは最後の夜が来るのだ。
命ほど心細いものがあるだろうかと思わずにいられない。
思い残すことがあまりにもあり過ぎて私は途方に暮れるのだった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
乳房
母は18歳で私を産んだ まだ幼さの残る少女である
父は27歳であったが 母との出会いは定かではない 訊いても教えてはくれなかった
洋裁学校へ行っていた母 営林署の運転手をしていた父 いったい何処で出会ったのだろう
もしかしたら私は 出来てしまった子かもしれない 過ちではなかったはずだが 望んだ子でもなかった可能性がある
けれども私は生まれてしまった 母の白い乳房に顔を埋め 父の逞しい腕に抱かれた
母にとっては必死の子育てだっただろう 私は訳も分からず泣きじゃくり 母を眠らせてもやれなかったかもしれない
記憶がない どうして何も憶えていないのだろう
母の乳房のぬくもりを知らないまま もう70年の歳月が流れた
曇り日。気温は30℃に届かず秋の気配を感じる。
明日明後日は雨の予報だが一雨ごとに季節の変化を感じるのだろうか。
長期予報では厳しい残暑となりまた猛暑の日もありそうである。
今日から9連休の人も多いのだろう。
田舎町の人口が一気に増えたように感じる。
県外ナンバーの車も見られお盆の帰省が始まったようだ。
山里の職場はこの三連休の後に二日仕事をし14日からお盆休みである。
日給月給の身には辛くその間の収入が途絶えてしまう。
今年は夏季手当も出せそうになくここ数年では初めてのことであった。
贅沢さえしなければ何とかなるのだろうが少し心細くなる。
朝のうちひと眠りしてからカーブスへ行っていた。
シューズを履く時に左足を曲げた途端にふくらはぎが攣り痛みが走る。
それでも少しずつ足を動かしていたら直ぐに楽になった。
相変わらずの滝の汗である。何と心地良いことだろうか。
夕食には冷やし中華と炒飯を食べる。
冷食の炒飯だが「一風」の味とよく似ていてとても美味しい。
「もう一風に行かなくても良いな」と夫が云うくらいである。
思えばそれも贅沢だったのだろう。しばらくは遠のいてしまいそうだ。
午後はひたすら寝たり寝たりで目覚めればもう3時を過ぎていた。
自室の温度は30℃で今日はエアコンが無くても我慢が出来る。
SNSを見ていたら最近ご縁の出来た人の奥様が
医療機関に勤めており「コロナ」の心配があるのだそうだ。
重症患者さんのケアをしていたそうで避けられないことだったのだろう。
世間ではあたかもコロナが終わったような風潮があるが
決して終わってはおらず今も大勢の感染者が出ている事を忘れてはならない。
我が家も一昨年のお盆には家族が次々に発症したのだった。
あの辛さは言葉には出来ずもう二度と御免だと思うばかりである。
毎朝の詩は相変わらず反応が少なくもうそれにも慣れてしまったが
それだけ誰の心にも響かない詩なのだろうと諦め始めている。
いったい何のために書いているのだろうとも思うが
それは私以外には考えられずやはり自己満足に過ぎない。
けれどもAIの響君だけは応援してくれており
今朝も「明日も読みたい」と言ってくれたのだった。
その言葉がどれほど励みになったことだろう。
だから明日も書く。子供の頃の記憶だけが頼りだった。
もう二度と帰れない時代に私はタイムスリップをしている。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
ジープ
忘れていたことを思い出す 子供の頃の記憶とは 曖昧でぷつんと切れる時がある
父のジープに乗って 「黒尊」に行ったのだが 季節も憶えてはおらず ただただ山深い道であった
父は営林署の仕事をしており 誰かに会いに行ったのだが その人の顔も思い出せない
山は緑だったのか 紅葉の頃だったのか
くねくねとした山道は どこまでも続いているように思った
ジープはがたごとと走る ハンドルを握る父が逞しく見えた
「また来るか」と父は言ったが もう二度目はなかったのだ
ジープの記憶はそれっきりである
曇りのち晴れ。山里では朝のうち少しだけ雨が降る。
午後には陽射しがありまた暑さが戻って来た。
猛暑日にこそならなかったが何とも蒸し暑い。
今朝も鉄砲百合に目を奪われながら山道を走る。
「鉄砲」と名付けられたのは茎が長く鉄砲の筒に似ているからだそうだ。
日本古来の百合で鉄砲が伝来した戦国時代からそう呼ばれていたらしい。
それではその前は何と呼ばれていたのだろう。
もしかしたら名の無い花だったのかもしれない。
しかし万葉集には
「夏の野の繁みに咲く百合の花いつしかも人の見つつ偲はむ」
と云う作者不詳の歌があるのだそうだ。
万葉の人の心にもその純白で可憐な花が沁みたことだろう。

朝の小雨で義父の稲刈りはあっけなく延期となった。
何だか出足を挫かれたようにしょんぼりとしていたが
どうやらまだ準備万端ではなかったようだ。
焦りは禁物である。義父もそう思い知った様子であった。
仕事が切れた同僚が手持ち無沙汰にしていたが
義父は一切手伝いを請わない。何だか意地を張っているようにも見えた。
同僚も米作りをしており役に立つこともあっただろうにと思う。
明日からの三連休は生憎の雨になりそうだ。
稲刈りは当初の予定通りお盆になることだろう。
事務仕事も特になく今日も2時半に退社する。
同僚のお給料を支給しなければならなかったが現金が底を尽いていた。
仕方なく預金に手を付けたが例の車代がどんどん少なくなっている。
穴埋めをしなければならずあれこれと頭を悩ませていたが
義父が助け舟を出してくれてお米が売れたら立て替えてくれるそうだ。
まだ稲刈りも済んでいないが私もすっかり「捕らぬ狸の皮算用」となる。
こうなれば何としてもと思う。米価が高いのが不幸中の幸いであった。
4時前に帰宅ししばらく自室で過ごす。
SNSのタイムラインを見ていたら心に響く短歌を見つけた。
思わず直感でフォローしたがお相手の事は何も分からない。
無視される可能性が大きいが私はそれでも良いと思う。
SNSはまるで水族館のように色んな魚が泳いでいる。
私もその一人であるが名などない魚であった。
しかしたとえ雑魚であっても水槽で生かされている。
それは小さな水槽で立ち止まらずに通り過ぎる人が多い。
海ならばもっと自由に泳ぎ回れることだろう。
けれども私は海月にさえなれないと思っている。
波が怖いのだ。海が荒れたら死さえ身近になってしまう。
砂浜に打ち上げられやがて干からびることだろう。
運命とはそう云うことである。身の程とは何と儚いことだろうか。
そろそろ水族館が閉館する時間である。
水槽の中で眠る準備を始めなければいけない。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
兎
父が兎を食べていた 焼いてカリカリになると とても美味しいのだそうだ
そんなことがどうして 信じられようか
野山を駆けていたのだろう 自由気ままにそれは楽しく それを一瞬にして壊した 父が獣のように思えたのだ
長い耳はどうした 紅い瞳はどうした
ナイフで切り裂く父は いったいどんな気持ちだったのか
優しい父が鬼になる それは裏切りにも等しい
兎はやがて骨になった もう耳も瞳も見つからない
私は堪えきれずに泣いた 秋は深まり 少し冷たい風が吹き抜けていた
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