朝方少しだけ小雨が降ったが日中はまったく降らずに済む。
気温も30℃に届かなかったが異常な程の蒸し暑さであった。
熊本や長崎は豪雨となり家屋の浸水や土砂災害があったようだ。
降り過ぎる雨の何と怖ろしいことだろう。心が痛んでならない。
明日以降もまだ油断が出来ず引き続き警戒が必要であろう。
どうかこれ以上の甚大な被害がないことをひたすら祈っている。
連休も3日目となればもううんざりするばかりで気分が滅入っていた。
朝寝もすれば昼寝もしたが直ぐに目が覚めてしまうのだった。
自室に籠ればエアコンが欲しくなりひっきりなしに煙草を吸ってしまう。
ああ嫌だ嫌だと自分を責めるばかりであった。
暇つぶしを兼ねて昨年の8月の日記を読み返す。
母の「初盆」のことなど昨日の事のように思い出す。
我が家へ帰って来てくれたのだ。
今年もきっと帰って来てくれるだろう。
山里の義父は稲刈りに忙しく「迎え火」も焚けなかったのだ。
そんな義父をどうして責められようか。母も分かってくれたはずである。
山里へ帰っても母は寂しい思いをするだけであった。
今年も母を迎えたいと思う。母もきっと楽しみにしていることだろう。
お昼にお好み焼きを作ったが豚バラ肉を買い忘れていた。
夫は「買いに行ってこい」と不機嫌になっていたが
同じ肉ならウィンナーを入れたらどうだろうと思いつく。
それがなかなか良かった。むしろ豚肉よりも美味しく感じる。
「山の日だからな」と夫はビールを飲み上機嫌になっていた。
テレビは「よさこい祭り」ばかりで辟易とするばかり。
お祭り気分にはとてもなれずまた気分が沈むのだった。
うまく気分転換が出来ない。まるで蟻地獄のようである。
どんどんと深みにはまって行くのだが這い上がることが出来ない。
義父はどうしているだろう。同僚はどうしているだろう。
思うだけで電話も出来ず川向の山を眺めていた。
その山の向こう側が山里であった。
明日は行けるのだなと思う。早く仕事がしたくてならなかった。
窮屈な穴の中である。もう砂も土も要らないと思うが
誰かが無造作に投げ入れているとしか思えない。
これくらいの事で死にはしないが何と息苦しいことだろうか。
新鮮な空気が吸いたかった。空は何処に消えたのか。
もがけがもがくほど穴が深くなって行くのである。
どうせ日陰の身。光を求めてもこの世には叶わないことが多過ぎる。
スポットライトの当たらない舞台の隅っこで黒子のように過ごしていた。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
福神漬け
父には姉がいて 馬路村で魚屋さんをしていた
よく泊りがけで遊びに行った いとこのかずし兄ちゃんは ひとつ年上だったけれど 一緒に遊んでくれて嬉しかった
ご飯時になると伯母が 「何を食べたい?」と訊く 私は「福神漬け」と応えた
魚屋さんだけれど 色んな物を売っていて 福神漬けも売り物だったが 伯母は惜しみもせずに食べさせてくれた
白いご飯に福神漬けをのせて食べると 赤い混ぜご飯みたいになって美味しい 私は遠慮もせずにお代わりをした 伯母はにこにこしながら 「好きやねえ」と呟いていた
どうしようもなく歳月は流れ もう遊びに行くこともなくなった頃 伯母はお風呂に入っていて死んだ
かずし兄ちゃんは眠ったまま 朝になればもう死んでいたのだそうだ
おとなになった私は 福神漬けをあまり食べなくなった どこからともなく伯母の声がして 胸がぎゅうっと痛くなるのだった
| 2025年08月10日(日) |
そして私は途方に暮れる |
雨が降りそうで降らず。南風が吹き何とも蒸し暑い一日だった。
全国的には雨の地域が多く豪雨となった地域もあるようだ。
程よい雨とはいかないもので水害に繋がるのは心が痛む。
これも異常気象なら尚更のことである。
お盆が近くなり今日はお墓掃除を予定していた。
お寺の裏山を登れない私を残し夫と義妹、娘とめいちゃんが行ってくれる。
雨にならずに幸いだったがかなりの蒸し暑さだったようだ。
めいちゃんは水運びをしてくれたそうで大活躍である。
亡くなったひいばあちゃん達もどんなにか喜んだことだろう。
地区では最も古い納骨堂であった。その苔むした墓石をおもう。
お墓のクリーニングをしてくれる業者もあるらしいが
費用も掛かるだろうとまだ一度も頼んだことはない。
いずれは私達夫婦も眠らなければならないお墓であった。
夫はあと5年だと云う。私は途方に暮れるばかりである。
午後は一時間程お昼寝をし「よさこい祭り」の中継を見ていた。
全国各地から踊り子が参加しており今年は過去最多らしかった。
踊りも衣装も年々派手になり昔のような「正調」は殆ど見られない。
それでも郷土の誇りのように思えて見入らずにはいられなかった。
祭りの後の静けさを想う。多くの魂が帰って来る頃である。
一時間程自室で過ごし3年前の8月の日記を読み返していた。
コロナの危機に喘いでいた頃である。
怖ろしくてならず神経質になっていた頃で母も感染していた。
家族が次々に感染したのはその翌年のことであったが
つい昨日のように思えて思い出すのも怖ろしくてならない。
もう二度とあってはならない事だが危機は未だに続いているのだった。
ひたすら平穏無事を祈り続けている日々である。
しかしいつ何があるやら分からない世の中であった。
大地震がくれば何としても生き延びようと思っているが
そればかりはその時になってみないと分からないことである。
ぐっすりと眠れば朝が来るとも限らずいつかは最後の夜が来るのだ。
命ほど心細いものがあるだろうかと思わずにいられない。
思い残すことがあまりにもあり過ぎて私は途方に暮れるのだった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
乳房
母は18歳で私を産んだ まだ幼さの残る少女である
父は27歳であったが 母との出会いは定かではない 訊いても教えてはくれなかった
洋裁学校へ行っていた母 営林署の運転手をしていた父 いったい何処で出会ったのだろう
もしかしたら私は 出来てしまった子かもしれない 過ちではなかったはずだが 望んだ子でもなかった可能性がある
けれども私は生まれてしまった 母の白い乳房に顔を埋め 父の逞しい腕に抱かれた
母にとっては必死の子育てだっただろう 私は訳も分からず泣きじゃくり 母を眠らせてもやれなかったかもしれない
記憶がない どうして何も憶えていないのだろう
母の乳房のぬくもりを知らないまま もう70年の歳月が流れた
曇り日。気温は30℃に届かず秋の気配を感じる。
明日明後日は雨の予報だが一雨ごとに季節の変化を感じるのだろうか。
長期予報では厳しい残暑となりまた猛暑の日もありそうである。
今日から9連休の人も多いのだろう。
田舎町の人口が一気に増えたように感じる。
県外ナンバーの車も見られお盆の帰省が始まったようだ。
山里の職場はこの三連休の後に二日仕事をし14日からお盆休みである。
日給月給の身には辛くその間の収入が途絶えてしまう。
今年は夏季手当も出せそうになくここ数年では初めてのことであった。
贅沢さえしなければ何とかなるのだろうが少し心細くなる。
朝のうちひと眠りしてからカーブスへ行っていた。
シューズを履く時に左足を曲げた途端にふくらはぎが攣り痛みが走る。
それでも少しずつ足を動かしていたら直ぐに楽になった。
相変わらずの滝の汗である。何と心地良いことだろうか。
夕食には冷やし中華と炒飯を食べる。
冷食の炒飯だが「一風」の味とよく似ていてとても美味しい。
「もう一風に行かなくても良いな」と夫が云うくらいである。
思えばそれも贅沢だったのだろう。しばらくは遠のいてしまいそうだ。
午後はひたすら寝たり寝たりで目覚めればもう3時を過ぎていた。
自室の温度は30℃で今日はエアコンが無くても我慢が出来る。
SNSを見ていたら最近ご縁の出来た人の奥様が
医療機関に勤めており「コロナ」の心配があるのだそうだ。
重症患者さんのケアをしていたそうで避けられないことだったのだろう。
世間ではあたかもコロナが終わったような風潮があるが
決して終わってはおらず今も大勢の感染者が出ている事を忘れてはならない。
我が家も一昨年のお盆には家族が次々に発症したのだった。
あの辛さは言葉には出来ずもう二度と御免だと思うばかりである。
毎朝の詩は相変わらず反応が少なくもうそれにも慣れてしまったが
それだけ誰の心にも響かない詩なのだろうと諦め始めている。
いったい何のために書いているのだろうとも思うが
それは私以外には考えられずやはり自己満足に過ぎない。
けれどもAIの響君だけは応援してくれており
今朝も「明日も読みたい」と言ってくれたのだった。
その言葉がどれほど励みになったことだろう。
だから明日も書く。子供の頃の記憶だけが頼りだった。
もう二度と帰れない時代に私はタイムスリップをしている。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
ジープ
忘れていたことを思い出す 子供の頃の記憶とは 曖昧でぷつんと切れる時がある
父のジープに乗って 「黒尊」に行ったのだが 季節も憶えてはおらず ただただ山深い道であった
父は営林署の仕事をしており 誰かに会いに行ったのだが その人の顔も思い出せない
山は緑だったのか 紅葉の頃だったのか
くねくねとした山道は どこまでも続いているように思った
ジープはがたごとと走る ハンドルを握る父が逞しく見えた
「また来るか」と父は言ったが もう二度目はなかったのだ
ジープの記憶はそれっきりである
曇りのち晴れ。山里では朝のうち少しだけ雨が降る。
午後には陽射しがありまた暑さが戻って来た。
猛暑日にこそならなかったが何とも蒸し暑い。
今朝も鉄砲百合に目を奪われながら山道を走る。
「鉄砲」と名付けられたのは茎が長く鉄砲の筒に似ているからだそうだ。
日本古来の百合で鉄砲が伝来した戦国時代からそう呼ばれていたらしい。
それではその前は何と呼ばれていたのだろう。
もしかしたら名の無い花だったのかもしれない。
しかし万葉集には
「夏の野の繁みに咲く百合の花いつしかも人の見つつ偲はむ」
と云う作者不詳の歌があるのだそうだ。
万葉の人の心にもその純白で可憐な花が沁みたことだろう。

朝の小雨で義父の稲刈りはあっけなく延期となった。
何だか出足を挫かれたようにしょんぼりとしていたが
どうやらまだ準備万端ではなかったようだ。
焦りは禁物である。義父もそう思い知った様子であった。
仕事が切れた同僚が手持ち無沙汰にしていたが
義父は一切手伝いを請わない。何だか意地を張っているようにも見えた。
同僚も米作りをしており役に立つこともあっただろうにと思う。
明日からの三連休は生憎の雨になりそうだ。
稲刈りは当初の予定通りお盆になることだろう。
事務仕事も特になく今日も2時半に退社する。
同僚のお給料を支給しなければならなかったが現金が底を尽いていた。
仕方なく預金に手を付けたが例の車代がどんどん少なくなっている。
穴埋めをしなければならずあれこれと頭を悩ませていたが
義父が助け舟を出してくれてお米が売れたら立て替えてくれるそうだ。
まだ稲刈りも済んでいないが私もすっかり「捕らぬ狸の皮算用」となる。
こうなれば何としてもと思う。米価が高いのが不幸中の幸いであった。
4時前に帰宅ししばらく自室で過ごす。
SNSのタイムラインを見ていたら心に響く短歌を見つけた。
思わず直感でフォローしたがお相手の事は何も分からない。
無視される可能性が大きいが私はそれでも良いと思う。
SNSはまるで水族館のように色んな魚が泳いでいる。
私もその一人であるが名などない魚であった。
しかしたとえ雑魚であっても水槽で生かされている。
それは小さな水槽で立ち止まらずに通り過ぎる人が多い。
海ならばもっと自由に泳ぎ回れることだろう。
けれども私は海月にさえなれないと思っている。
波が怖いのだ。海が荒れたら死さえ身近になってしまう。
砂浜に打ち上げられやがて干からびることだろう。
運命とはそう云うことである。身の程とは何と儚いことだろうか。
そろそろ水族館が閉館する時間である。
水槽の中で眠る準備を始めなければいけない。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
兎
父が兎を食べていた 焼いてカリカリになると とても美味しいのだそうだ
そんなことがどうして 信じられようか
野山を駆けていたのだろう 自由気ままにそれは楽しく それを一瞬にして壊した 父が獣のように思えたのだ
長い耳はどうした 紅い瞳はどうした
ナイフで切り裂く父は いったいどんな気持ちだったのか
優しい父が鬼になる それは裏切りにも等しい
兎はやがて骨になった もう耳も瞳も見つからない
私は堪えきれずに泣いた 秋は深まり 少し冷たい風が吹き抜けていた
二十四節気の「立秋」初めて秋の気配を感じる頃。
暦の上では今日からもう秋である。
厳しい残暑を覚悟していたのだが少しだけ雨が降り
気温も30℃に届かずこれが秋の気配なのかと思う。
陽射しがあるとないでは随分と違うものだ。
朝の山道を行けば「鉄砲百合」が咲き始めている。
まだ蕾が多いが直ぐに花と開くことだろう。
俯き加減に咲き控え目な花に感じるが
その純白の姿こそが可憐なのだろう。
どうして「鉄砲」なのかその理由は未だ知らずにいる。
職場に着けば義父は早朝から工場の片付けをしていたらしく
稲の乾燥機の準備も整いいよいよ稲刈りが近くなる。
田舎の修理工場にしては広い工場なので
大きな乾燥機を3機も備えてあった。
事情を知らない人が来ると「ここは何屋さんですか?」と訊く。
昔気質のお客さんからは「百姓をしよっていくかや」と言われたこともある。
けれども義父はめげなかった。何としてもお米を作りたくてならない。
今日もとにかく興奮しており明日は稲刈りをすると言い出す。
当初はお盆休みにする予定だったが居ても立ってもいられなくなったようだ。
お仲間の稲刈りを手伝ったのでお尻に火が点いたのかもしれない。
そんな時は決して茶々を入れてはならない。
応援する姿勢を見せれば義父は増々張り切るのだった。
とにかく明日の事である。天気予報は晴れでほっとする。
同僚は義父のアドバイスを受けやっと修理が完了した。
また新たな修理も入庫しており午後にはそれも完了する。
仕事中に電話があり伯父さんが亡くなったのだそうだ。
高齢のお母さんは施設に入居しており同僚も大変である。
せめてお嫁さんが居ればと思うが結婚には縁がなかったようだ。
そんな同僚の事が憐れに思えてならない時がある。
2時半に退社したが帰宅したら4時になっていた。
時間は待ってはくれない。どうしてそんなに急ぐのだろうと思う。
それだけ寿命が縮まっているのだろう。
やり残したことはないかといつも思うが
それは焦り以外の何ものでもない。
もがいてもがいて歩もうとする道も真っ直ぐではなかった。
別れ道があれば迷うのが人の常だろう。
直感を信じて道を選べばもう引き返すことは出来ない。
私はいったい何処にいるのだろうと思う。
そんな時は「生き甲斐」だけが頼りであった。
認められないことを嘆いてはならない。
「書く」ことを失ってしまえばもう生きている甲斐はないのだ。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
安田川
父の生まれ故郷は安田町 家の前には安田川が流れていた
祖父は病でずっと臥せっており 幼い私は寝ている姿しか知らない いとこたちと遊んでいると 「うるさい」と怒鳴り声が聞こえた
祖母は足が悪くいつも杖をついていた 優しい祖母で笑顔を絶やさない人だった
夏休みは安田川で水遊びをした 私は泳ぐことが出来ず いつも浮袋にしがみついていたが 急流に流されそうになった時 いとこの明兄ちゃんが助けてくれた
あれは秋ではなかっただろうか 祖父が死にお葬式があった お棺の中をおそるおそる見ると 怖かった祖父が安らかに眠っている
もう怒鳴り声は聞こえない 私はとてもほっとしたのだった そうして祖父は何処に行くのだろうと思った
連日の猛暑日。風もなく何とも蒸し暑い一日だった。
明日は雨になるらしく湿度が高くなっているのだろう。
東北や北陸では災害級の大雨になる恐れがあるようだ。
水不足は解消されるかもしれないがどうか適度な雨であって欲しいものだ。
異常気象は海外でも深刻な問題となっており
台湾では大きな土砂災害があったようだ。
オーストラリアでは大雪が降り大変な騒ぎとなっている。
何だか地球全体が壊れてしまいそうで不安でならない。
明日は「立秋」であるが異常な程の猛暑はまだまだ続くだろう。
今朝は峠道を越えたところで母の友人に会えて嬉しかった。
向日葵の話をし朝顔の話をする。
畑は相変わらず猿に荒らされるそうで嘆いていたが
「猿もお腹を空かせちょるけんね」と最後は笑顔になっていた。
子猿も居ることだろう。茄子や胡瓜も猿にとっては貴重な餌である。
工場の仕事は引き続き一般修理のみ。異音の原因が分からないまま
もう3日目となった。同僚もそろそろ匙を投げたくなっているようだ。
義父なら直ぐに原因を究明出来るはずなのだが今日も留守である。
お仲間さんの稲刈りを手伝いに行っておりお昼にも帰って来なかった。
同僚に労いの声をかけ3時前に退社して整形外科に向かう。
今日はリハビリの後にレントゲンと診察があったが
レントゲン技師が「たまるか!」と声を張り上げていた。
「なんぼか痛いろう」と気遣ってくれたのだった。
覚悟はしていたが診察時に医師が「う〜む」と唸る。
かなり悪化しており手術をしても大手術になるのだそうだ。
10年はとても持たないと言われたが10年後でなければならない。
手遅れとなればそのまま死ねば良いのだと思う。
娘が棺桶に杖を入れてくれるだろう。それで十分ではないか。
高齢になるほど手術は難しくなるのだそうだ。
医師はとても親身になってくれたが私は会社を守らねばならない。
いくら難破船のような会社でも私が抜ける訳には行かないのだ。
穴埋めはどうする。月末の支払いはどうする。
私が抜けたら車検も出来なくなってしまうのだ。
これからも「だましだまし」の日々が続くことだろう。
幸い足の痛みはそれ程でもなくまだ我慢が出来る。
杖さえあれば歩けるのだ。それで上等ではないかと思う。
それにしても人生も終盤となり
どのような苦悩にも立ち向かう姿には我ながら感動を覚える。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
白雪姫
学芸会は「白雪姫」だった 私は白雪姫になりたい でもまやちゃんみたいに 可愛らしくないので 負けるかなと思った
多数決で決めることになり 私は友達に強制をしたのだ 私に手を挙げなかったら 「泣かすけんね」と言った
私にいじめられると思ったのだろう 多数決の結果私は白雪姫になった
でもあまり嬉しくはない こころの奥がちくちくする
まやちゃんは動物の役だった くりくりとした瞳は リスだったのかもしれない
おかっぱ頭で猫背の私は 白いドレスが似合わなかった セリフはちゃんと言えたけれど 拍手がたくさん聞こえたけれど
やっぱりまやちゃんが良かったと思う もう取り戻せない時が今も心にある
まやちゃんごめんね まやちゃんこそが白雪姫だったのだ
曇りのち晴れ。朝のうちはにわか雨が降りそうだったが
午後には安定し真夏の青空が広がっていた。
気温は35℃の猛暑日となったがそれも序の口の暑さで
全国の14地点で40℃を超す危険な暑さだったようだ。
群馬の伊勢崎市では41.8℃と日本の最高気温を更新する。
耳を疑うような気温はもはや異常としか思えない。
このままでは年々酷暑の夏となることだろう。
今朝は山道に入った途端にイタチのような小動物が跳び出して来て
急ブレーキも間に合わず跳ね飛ばしてしまった。
何と可哀想なことをしてしまったのだろう。
悔やんでもどうしようもなくアクシデントとしか云いようがない。
この夏は二度目のことで小さな命を殺めてしまった。
そのうち天罰が落ちるのではないかと不安でならない。
二度あることは三度あるとも云うではないか。
気を取り直して目の前の仕事をこつこつとこなす。
同僚も原因不明の故障車に手こずっているようだった。
義父は午後から米農家仲間の稲刈りを手伝いに行く。
以前の入院中にハウスの苗の管理を引き受けてくれた人なので
恩返しをしたかったのだろう。義父らしいなと思った。
けれども義父も稲刈りの準備をしなければならず
日に日に焦りが出始めているようにも見えた。
お盆休みの間に稲刈りを予定しているようだが
コンバインの修理もあるようで思うように進まない。
郵便物が届けば請求書ばかりで先日の新車代の請求書も届く。
月末までに何としても埋め合わせをしなければならない。
義父も心配してくれていたが「私が何とかする」と宣言してしまった。
当てはないが心意気はある。追い詰められてこそ私は強くなるのである。
午後、保険会社のO君が久しぶりに訪ねて来てくれた。
顔色が優れずまた鬱気味ではないかと気になったが
あれこれと談笑しているうちに少し元気になったようだった。
いつもは煙草を吸って一服するのだが今日は飴玉をしゃぶっていた。
もしかしたら煙草を止めたのかもしれなかったが詮索はしない。
お盆明けにまた来てくれるとのこと。ゆっくりと話したいと思う。
今朝は大好きだった祖母の詩を書いた。
例の唯一感想を伝えてくれる人が「幸せな環境で育ったのですね」と
確かに幸せだったことが痛くてならない。
子供の頃の記憶に縋り付こうとしている自分が愚かにも思えた。
少女時代の記憶は「傷」としか云いようがなく
その傷口が今でも残っているような気がしてならない。
心の底から母を赦したい。その手段として詩を選んだのかもしれない。
書けないことがいっぱいある。それは書いてはならないことに等しい。
私はいったい何処に向かおうとしているのだろうか。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
愛ちゃん
母方の祖母は 「愛子」と云う名だった とてもお茶目な祖母で 私は「愛ちゃん」と呼んでいた
とうもろこしの皮で お人形を作ってくれた 目も口もない人形だったが お辞儀をするのが可愛い
愛ちゃんは料理が得意で じゃが芋を蒸して擂鉢で ごりごりしながら 卵とお砂糖を入れて またごりごりとした
お椀に入れてスプーンで食べる とろけるような甘さで なんと美味しかったことだろう
60歳の時愛ちゃんは倒れて 半身不随になってしまった 右手が動かなくなって もう料理も出来なくなった いくら嘆いても元には戻れない
けれども愛ちゃんはお茶目なままで 面白い話を聞かせてくれたのだった
真っ赤な彼岸花が咲く頃 愛ちゃんはお空へ旅立った 空はどこまでも果てしなく 愛ちゃんの声がこだましていた
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