彼岸の入りには必ずと云って良いほど「寒の戻り」がある。
此岸と彼岸が最も近くなる頃である。季節が引き裂かれるのかもしれない。
冬の痛みはどれ程のものだろう。あがき苦しみながら去って行くようだ。
今朝は山里に着くなり小雪が舞い始め驚く。
強風に煽られ空を切るように降っていた。
午後には陽射しがあったが何とも冷たい一日であった。
体調はまずまずでまだ少し胃に不快感があったが
仕事の事で頭がいっぱいになっており休むわけにはいかない。
なんとしても月末を乗り越えねばと気ばかり急いていた。
しかし思うようには行かないもので順調には程遠いスタートである。
同僚や義父の助けがなければ到底無理な話であった。
後から後から難題が降りかかって来て頭を悩ますばかりである。
午後にはすっかり気力がなくなってしまい早目に退社した。
帰宅するなりあやちゃんに声を掛けたが眠っていたようだ。
娘に訊けば順調に快復しているようでほっと胸を撫で下ろす。
娘婿も昨夜から嘔吐が始まり今日は仕事を休んでいた。
すべて私の蒔いた種で心苦しくてならない。
幸い娘とめいちゃんは無事で「どうかどうか」と祈るばかり。
今日は夫の73歳の誕生日であったがお祝いどころではなかった。
夫もそれは承知であったがせめてもと好物の「八宝菜」を作る。
めいちゃんが「お手紙」を書いてくれて何と嬉しそうな顔。
目を細めて読んでいる横顔はとても幸せそうだった。
めいちゃんがなんだか天使のように思える。
亡き母も生きていれば87歳の誕生日であった。
今頃は黄泉の国で飲み友達と酒盛りをしていることだろう。
先立った友の多いこと。決して寂しくはないのだと思う。
ふと思うのは「ゆるやかな坂」であった。
私も歩んで行かねばならずやがては黄泉の国へと辿り着く。
桜の季節だろうか。坂には花弁が散り始めているだろう。
生きた証を見納めるように振り向いているのかもしれない。
雨のち晴れ。午後から強風となり気温が下がり始めている。
明日は彼岸の入りだが寒の戻りがありそうだ。
金曜日に帰宅するなり突然の嘔吐があり
夜には発熱、その後下痢となり寝込んでしまっていた。
嘔吐は何の前触れもなく襲って来て驚く。
茶の間や寝室の床を汚してしまい夫に迷惑をかけてしまう。
熱は微熱であったが下痢は水便でこれも間に合わず大変な有り様。
昨日は意を決して病院へ行っていたが「感染性胃腸炎」とのこと。
一番代表的なのは「ノロウィルス」なのだそうだ。
数日前の夫も私と全く同じ症状だったので感染したのだろう。
実は夫の食べ残した「ほか弁」をもったいないと食べてしまっていた。
食あたりそのものが感染するとは思ってもいなかったのだ。
病院では詳しい説明がなかったのでネットで調べてみたら
ノロウィルスは牡蠣などの二枚貝に多く含まれているのだそうだ。
夫の場合は「ほたるいか」だったが鮮度が落ちていたので
菌が繁殖していたのではないかと思われる。
どちらにせよ半額のほたるいかに飛びついた私が悪かったのだ。
昨夜のうちに症状は軽くなり今朝は少しだけ朝食が食べられる。
それが美味しいと思えたからもう大丈夫だろう。
しかし困ったことに今度はあやちゃんに感染してしまったようだ。
空気感染はしないそうなのでおそらくトイレが原因だと思われる。
私が便器を消毒さえしていれば感染は防げただろう。
何と迂闊な事で娘に散々叱られてしまった。
おまけに今日はめいちゃんのダンス発表会がある日で
嘔吐を繰り返しているあやちゃんを残して出掛けてしまう。
病院へ連れて行く必要はない薬も飲まさないで良いと言う。
辛さは私自身が一番知っており可哀想でならなかったが
余計なことをすればまた娘に叱られてしまうだろう。
布団を汚したりズボンを汚したりしていたが一切手出しが出来ない。
「お母さんが帰るまで待つけん」と何と健気なことだろう。
発表会は4時には終わっていたはずだが娘達の帰宅は遅かった。
あまりに遅いので電話すれば外食をしているとのこと。
それにはすっかり呆れてしまいあやちゃんが憐れでならなかった。
どんなにか首を長くして待っていたことだろうか。
普段から我慢強いあやちゃんだがとても心細かったと思う。
一切の口出しは禁止である。娘達の方針に逆らってはならない。
幸い発熱はなく今は嘔吐も下痢も治まっているようだが
元を正せば全て私が原因の事で心苦しくてならない。
どうかもうこれ以上の感染が広がりませんように。
ただただ祈るばかりの夜になった。
追記:毎日が日課の日記が二日も書けずご心配をお掛けしました。
寒暖差が激しく体調を崩し易い時期です。
皆様もどうかお気をつけてお過ごし下さい。
いつも読んで頂き本当に有難うございます。
少し体調を崩しています。
明日の夜には日記再開出来たらと願っていますが
本調子でなければお休みするかもしれません。
曇り日であったが気温は20℃近くなり春らしい一日。
梅の花は満開となっており仄かに風を匂わせていた。
桜の開花予想日は23日とのこと。後10日である。
帰り道に平田町の桜並木を仰げば小さな蕾が見えていた。
希望でなくて何だろうと思う。日に日に膨らむことだろう。
今朝は夫の熱が下がっておりほっと安堵する。
少しであったが朝食も食べることが出来た。
しかし下痢が始まったようでやはり食あたりだったようだ。
悪い事ばかり考えていたので救われたような気分になる。
正露丸で下痢は治まるだろうといつも通りに山里の職場に向かった。
義父も胃の調子が良くなっており至って元気である。
午前中に車検を2台済ませてくれて大助かりだった。
工場にはまた大型車が入庫しており車検整備待ちの車が3台もある。
同僚は一生懸命にやってくれているが今週中にはとても無理だろう。
お客さんにはそれぞれ代車を貸しているがそれも限界かもしれない。
苦情がないことを祈るばかりで気は急き焦る気持ちが高まる。
もう一人整備士が居れば助かるがお給料を支払う余裕がない。
義父は検査員なので車検整備を行ってはいけない規則になっている。
私が勤め始めた37年前には5人も整備士が居たのが嘘のようだ。
世の中の景気も良かったのだろう。仕事もいくらでもあった時代である。
整形外科のリハビリと診察がある日で2時半過ぎに退社した。
骨密度の検査がありついこの前もしたのにと技師に伝えたら
何と前回は昨年の9月だったそうで驚く。
月日の経つのが何と早いことだろうか。
「骨粗しょう症」は殆ど改善されていなかった。
カルシウムが足らないのかも知れないが喫煙が一番の原因かもしれない。
それは医師には言えなかった。言えばきっと叱られたことだろう。
いつものように骨を強くする薬を処方してもらい病院を後にした。
もう5時前になっており買い物は諦め「ほか弁」に走る。
6人分のおかずを買い求め大急ぎで家路に就いた。
夫の下痢は少し治まっていたがビールはまだ早いようだ。
ほか弁の焼き肉を美味しそうに食べてくれたのでもう大丈夫だろう。
めいちゃんが学校で手紙を書いたらしく照れ臭そうに手渡してくれた。
「おじいちゃん」「おばあちゃん」ととても丁寧な字である。
私の手紙には朝晩の挨拶の事が書いてあった。
おばあちゃんのように進んで言えるようになりたいのだそうだ。
それはとても大切な事と締めくくってあった。
もうすぐ5年生である。その手紙に随分と成長した事を感じる。
毎晩の「おやすみい」毎朝の「おはようさん」
めいちゃんは学校へ行く時大きな声で「行って来まあす」と言う。
「は〜い行ってらっしゃい」私と夫も大きな声で応える。
日常のほんのささやかな事だがそれが幸せでなくて何だろう。
午前中は今日も霧雨。午後には止み薄く陽射しがある。
気温は20℃と高くなり4月並みの気温だったようだ。
そろそろ桜の開花予想があるのかもしれない。
今朝は夫が体調不良で朝食も食べられなかった。
食あたりのような症状で胃の不快感と吐き気を訴える。
どうやら昨夜食べた「ほたるいか」が悪かったようだ。
半額物だったので鮮度が落ちていたのだろう。
安さに飛びついた私にも落ち度がある。
ちょうど内科の通院日だったので安心して仕事に出掛けたのだが
帰宅したら発熱しておりとても辛そうな様子である。
それでも私の帰りを待っていてくれたのだろう。
「もう限界じゃ」と呟きすぐさま寝室のベッドに潜り込んでしまった。
内科では胃薬と吐き気止めを処方されていたが
解熱剤はインフルエンザの時の残薬がありそれを服用させた。
もしかしたら食あたりではないのかもしれない。
悪い方に考え出したら切りがなく脳の異常ではないかと思う。
数年前に「硬膜下出血」で手術をしており再発も考えられた。
まさかまさかと不安を払いのけているところだ。
原因は「ほたるいか」に違いない。きっとそうだと不安を宥めている。
とりあえず明日の朝まで様子を見るべきなのだろう。
山里の義父も今日は突然の胃痛に苦しんでいた。
胃薬を飲ませ背中をとんとんと叩いたりして何とか痛みが治まる。
友人達が籾の種蒔きを手伝いに来てくれていて気負い過ぎたのだろう。
最初は顔色が青白くなっており何とも心配でならなかった。
木の芽起こしの頃である。身体の不調が著しくなる頃でもあった。
何でもその人の一番弱い部分が変調を起こすのだそうだ。
私の場合は「頭」であるが今のところ正常のようである。
頭は使うほど良くなるらしいがこの老いぼれに何が出来よう。
もうこれ以上もこれ以下もないくらいに追い詰められている。
努力もせずに背伸びをしようとしている愚か者に他ならない。
ああ嫌だ嫌だ。どうしてこんな日記を書いてしまったのだろう。
静かに霧雨が降る。まだ春雨とは呼べず肌寒さを感じた。
国道沿いの白木蓮の蕾が日に日に膨らんでおり
あと数日もすれば花が開くだろう。
幼子が手のひらを合わせたような純で無垢な花であった。
東日本大震災から14年。未だに心が痛んでいる。
今朝は14年前の3月の日記を読み返し胸が詰まりそうになった。
平穏な日々があれほど心苦しかったことはない。
「普通にしていればいいよ」と言ってくれたのはRだったが
音信不通になってからもう随分と歳月が流れた。
大勢の尊い命が失われ未だ行方不明の人が2500人を超す。
どんな姿でもいい帰って来て欲しいとどれほど祈ったことだろう。
まだ終わってなどいないのだ。どれ程の春であっても変わりはしない。

職場に古い友人のるみちゃんが訪ねて来てくれた。
先日新車を購入してくれてその支払いに来てくれたのだった。
電話では時々話すことはあったが会うのは14年ぶりである。
共に汗を流したバドミントン仲間であり何とも懐かしくてならない。
るみちゃんは私よりずっと若いがそれなりに年を重ねていた。
70歳が近くなった私はどんな風に見えたのだろうか。
亡き母にそっくりになったねと言ってくれたのが意外だった。
それもそのはずるみちゃんは70歳頃の母しか知らなかったのだ。
仕事が忙しくつかの間の再会であったが「また会おうね」と
るみちゃんは車の窓から手を振って帰って行った。
嬉しいような切ないようなもしかしたらもう会えないのかもしれない。
また歳月に押し流されてしまうだろう。そうして私は老いて行く。
やがて最後の春を迎えれば桜が散るように逝かなければならない。
けれどもそんな儚さに挫けていてはいけないのだろう。
負けない程の勇気はないが立ち向かうことは出来るかもしれない。
一歩一歩踏みしめるように与えられた道を進むことは出来るだろう。
終らない人生など在りはしない。けれども精一杯に生きることは出来る。
晴れのち曇り。陽射しの無い午後は少し肌寒く感じる。
お天気は下り坂で明日、明後日と雨が降るようだ。
催花雨になるかもしれないが桜はまだ蕾も見えていない。
朝の道を行けば山肌からこぼれるような白い花が見えた。
「馬酔木」に違いない。早春に花を咲かすツツジ科の低木である。
葉には毒があり馬が食べると酔ったようにふらつくのだそうだ。
綺麗な花には毒があると云うが鈴なりの花は何とも可憐である。
私も馬だろうか、今朝は少し鼻息が荒くなっていた。
仕事の事で頭が一杯になっており気負い過ぎていたのだろう。
義父は機嫌よく田んぼの草刈りに出掛けて行ったが
あまりの忙しさに胃がきりきりと痛んでいた。
工場の仕事の段取りもしなければならず同僚だけが頼りである。
月曜日から飛ばし過ぎてはいけないとお昼休憩をしようとしたら
義父が帰って来てすったもんだが始まった。
田んぼの事だけ考えていれば良いのに工場の仕事も気になるのだろう。
二足の草鞋を履くと誰しもそうなるのに違いない。
わあわあととにかく五月蠅い。耳を塞ぎたくなった。
空腹でもあったのだろう。昼食を終えるとまた直ぐに出掛けて行く。
「やれやれ」である。けれども休憩は出来ずもう一時になっていた。
義父の留守を良いことに2時過ぎに帰路に就く。
取引先の中古部品屋さんに寄らなければならなかった。
また息子の職場の目と鼻の先である。
ずっと音沙汰の無い息子も気掛かりであるが
便りのないのは元気な証拠なのだろう。
今夜は夜勤かもしれないと想像するばかりの母であった。
4時前に帰宅。夫と大相撲中継を観る。
途中からいつの間にか寝入っていたようだ。
5時になり夫は大相撲を観たくてたまらない様子だったが
私の車をダイハツに持って行ってくれた。
今日からまた一週間の入院である。
何でも整備士が大喜びするような不具合なのだそうだ。
何としても原因を追究しようとする整備士魂を感じる。
きっと完璧に直って帰って来るだろう。楽しみなことだった。
娘が牡蠣フライ、海老フライ、新玉葱のリングフライをあげてくれる。
揚げ物が得意な娘に再就職先はお惣菜屋さんだと言って笑い合った。
帰宅した夫が代車が凄いぞと興奮気味である。
新車なので私は運転に自信がなく夫としばらく交換することにした。
明日からは夫の車で出勤である。煙草は絶対に吸ってはならない。
目まぐるしい職場から帰ると何と穏やかな我が家なのだろう。
まるで天国と地獄のように思うが地獄を怖れてはならない。
必要とされることほど有難いことはないのだと思う。
そんな地獄にも桜の花が咲く季節がきっとやって来るだろう。
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