ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年03月02日(日) 母の夢

曇り空であったが気温は今日も20℃を超え汗ばむ程の陽気となった。

三寒四温とはよく云ったもので火曜日辺りにはまた寒波のようだ。

寒さにはすっかり慣れてしまっているがきっと戸惑うことだろう。


太っているせいか汗がハンパない。今日も夫に異常だと云われる。

衣類の調整はしているがさすがに半袖にはなれなかった。

じっとしていても汗が流れる。少し動けば大汗である。

この有り様ではこの夏の猛暑には参ってしまうことだろう。


「多汗症」と云う病気があるらしいがただの「汗っかき」だと思いたい。

もうこれ以上の病名など勘弁して欲しいものである。





暖かさに誘われたのか夫が「一風」に連れて行ってくれた。

僅か20分程のドライブであったが嬉しくてならない。

今日も「チャーシュー麺と炒飯のセット」であった。

食べながら何と幸せなのだろうと思う。

仕事がずっと忙しかったのでまるでご褒美のようだった。

夫も労ってくれたのだろう。その優しさに感謝である。


食べ終わってから山里の義父の様子を見に行こうかと思ったが

例の女性が来ているかもしれないとそのまま帰路に就いた。

明日には会えるのだ。どうか少しでも恢復していることを願うばかりである。


帰宅するなり眠気に襲われ倒れ込むように寝ていた。

久しぶりに母の夢を見る。まるで生きているようであった。

一緒に仕事をしているのだが邪魔ばかりして手に負えない。

母は母なりに仕事をこなそうと頑張っていたのだろう。

さすがに「もう一度死ね」とは云えなかったが

喫茶店へ行くようにと告げ母を追い出していた。

「コーヒー代はあるけん」その母の声の何とリアルだったことだろう。

お金の心配をしていたのに違いない。母らしいなと思った。


はっと目覚めると寝汗をいっぱいかいていた。

うなされていなかったかと夫に訊くと鼾が凄かったぞと笑うばかりである。

母に会えたのだ。死んだとは思えないほど確かに母であった。


3時を過ぎており「おでん」を煮込み始める。

無性に食べたくてならなかったのだがもう季節外れかもしれない。

台所の窓を開け放し風に吹かれながらおでんを煮た。



夕食後、夫は義妹宅に招かれ浮き浮きした様子で出掛ける。

娘夫婦とめいちゃんも後を追うように出掛けて行く。

私とあやちゃんはお留守番だが「二人きり」も良いものだなと思う。

相変わらず会話は無かったが気配を感じるのが嬉しい。

鉛筆を削る音。学校へ行かなくてもしっかり勉強をしている。

もう直ぐ中学生だが少しも迷いはないように思えた。

未来はきっとあるだろう。全力で見守るのが家族の務めである。









2025年03月01日(土) 弥生朔日

三月の声を聞くなり最高気温が20℃を超え四月並みの暖かさとなった。

暖かいのは嬉しいが異常だと思えば不気味なものである。

これで寒の戻りがあればどんなにか戸惑うことだろう。


職場の紅梅が一気に花盛りになった。

まるで三月になるのを待ちわびていたようだ。

生前の母が愛でいたことを思い出し少し切なさを感じる。

重機で整地をした時に義父が残しておいてくれたおかげだった。


お隣は随分と前に老夫婦が亡くなり今は空家になっている。

数日前からチェーンソーの音がしており庭の大きな木を伐採していた。

嫁いでいる娘さんも管理が出来なくなったようである。

それはそれで仕方ないことだが今日は家の前を通りはっと驚く。

何と毎年綺麗な花を咲かせていた桜の木まで伐採されていたのだ。

おそらく娘さんが幼い頃からあった木ではないだろうか。

それを惜しげもなく伐る。いったいどれほどの覚悟なのかと思う。

切り株の何と無残なことだろう。思わず涙が出そうになった。

これから蕾を付けて二十日もすれば花が咲いたのに違いない。

なんだか殺められたように思った。もう二度と咲けはしないのだ。




義父は昨日よりも少し楽になっているようだったが昨夜も発熱である。

幸い高熱ではなかったが三日目となるとさすがに辛そうであった。

食欲もなく何かを口にする気力もないように見えた。

患部を冷やすことしか手立てはなくアイスノンで冷やし続ける。

せめて例の女性が看病してくれたらと思うが今日は姿が見えなかった。


私は二階に上がるのがやっとで何もしてやれない。

心苦しくてならないが義父は「大丈夫やけん」と言ってくれる。

後ろ髪を引かれるような思いであったが2時半に退社した。

一刻も早く患部の腫れが治まることを願うばかりであった。

点滴の液漏れさえなければこんなことにはならなかったのだ。

あまりにも無責任ではないかと思い病院への不信感がつのる。


それにしても悪いことばかりどうして続くのだろう。

もしかしたら母が寂しがっているのではないかと思った。

供養も疎かにしており遺骨の埋葬も出来ずにいる。

けれども義父も私も精一杯の日々であった。

母ならばきっと理解してくれるはずだと信じたい。

義父を救ってはくれまいか。朝に晩に母の遺影に手を合わせている。

それが私に出来る唯一の供養であった。



2025年02月28日(金) 二月尽く

気温はそう低くはなかったが少し冷たい雨となった。

催花雨にはまだ早いかもしれないが植物にとっては恵みの雨である。

一雨ごとにと思う。きっと春を呼び寄せてくれることだろう。


郵便配達員さんが工場にバイクを乗り入れ雨合羽を着込んでいた。

春雨にしては冷たく濡れたら風邪を引いてしまいそうである。

雨の日も雪の日も郵便物を届けてくれて頭が下がる思いであった。



職場に着くなり2階の義父の様子を見に行く。

昨夜も高熱が出ていたそうでぐったりと寝ている。

両腕が炎症を起こしているのは確かでそのせいかもしれないが

二日も熱が続くのは尋常には思えなかった。

例の女性が受付の段取りをしてくれており県立病院へ向かった。

義父の友人が運転を申し出てくれたが自分で行くと云って聞かない。

足元はふらついており何と危なっかしいことだろう。

体力はすっかり無くなっており気力だけが頼りに思えた。


お昼には帰って来たが治療の策も無かったようだ。

処方は腕に塗る薬だけでまるで子供だましのようである。

どうして熱の原因を究明してくれないのだろうか。

せめて抗生剤でも処方してくれたら楽になるように思えた。

けれどもそれも素人考えなのだろう。医師の判断に任せるしかない。



月末の資金繰りはぎりぎりセーフとなりほっと安堵する。

取引先への送金を済ませると資金はまたゼロとなってしまった。

同僚のお給料が支払えずひたすら大口の入金を待つばかりである。

例の大型車のお客さんが来てくれるまでは気が気ではなかった。

必ず来てくれると約束していたので信じて待っていた。

お昼前に大金を持って来てくれた時には神様だとしか思えない。

どれほど助かったことだろう。なんだか涙が出そうになった。


退社前にまた義父の様子を見に行く。

熱は下がっているようで顔色も随分と良くなっていた。

工場の仕事が気になるのだろう。あれこれと心配していたが

何とかなっていることを伝えるとほっとした様子である。

明日は同僚が午前中通院のため私が出社することにした。

カーブスどころではない。仕事を優先するべきだと思う。

そうして精一杯でいよう。何としても会社を守らなければいけない。


帰宅するなりカレンダーを三月にした。

もう二月は逃げ去ったのだと思う。追ってなど行く必要もない。

年明けから災難続きであったが希望を持って歩み出したいものだ。

春の足音が近づいている。終わらない冬などありはしない。



2025年02月27日(木) あたらしくなりたい

最高気温が18℃と3月中旬並みの暖かさとなった。

宿毛市の「楠山公園」では梅の花が見頃とのこと。

娘や孫達と出掛けたのはもう6年も前のことである。

今では一緒に出掛けることは全くなくなって懐かしい思い出となった。

今朝は夫とその話をしていて「もう無理だな」と云われた。

駐車場から梅園まで歩かなければならず私の足を気遣ってくれたのだろう。

「一度行ったからもういいよ」私はもうすっかり諦めている。

その上に老いも重なり出来ないことが増えるばかりのこの頃であった。

新鮮なものが遠ざかっていく。意欲も行動力も既に無きに等しい。

そのくせ「あたらしくなりたい」と願うのは大きな矛盾であった。

梅の花が匂う。私の心には梅園があるらしい。




今朝は義父が体調不良。昨夜はやはり発熱していたそうだ。

風邪の症状はなくおそらく過度の疲労ではないかと思われる。

退院が早過ぎたのだろう。もうしばらく安静が必要だったのに違いない。

例の女性が夕方まで居てくれたそうでどれ程心強かったことか。

今日も来てくれるかもしれないと待っていたが姿が見えなかった。


午前中に整形外科に向かった。医師に相談に行ったのだが

両腕の腫れも発熱も専門外で成す術もなく帰って来る。

その後は居室でずっと寝ていたようだった。

気掛かりであったが声も掛けずに退社する。

後ろ髪を引かれるような複雑な気分であった。

工場は怒涛の忙しさであったが義父に無理をさせてはいけない。

同僚も一生懸命やってくれており有難くてならなかった。

明日は明日の風が吹くだろう。どうか穏やかな風であって欲しい。



4時に帰宅したら思いがけずに娘の車があった。

訊けば今日半日でもう退職になったのだそうだ。

本来なら明日までであったがする仕事がもうないらしい。

どんなにか居心地が悪かったことだろう。

逃げるように帰って来る姿が目に浮かび可哀想でならない。

わずか9ヶ月の間であったが慣れない仕事をよく頑張ったと思う。

「ご苦労さんやったね」と声を掛ければ「まあね」と微笑んでいた。


来月からまたハローワークだがしばらくはゆっくりと過ごして欲しい。

あやちゃんのこともあり母親が傍に居るのが一番に思えた。

卒業式、中学進学と今が最も大切な時期ではないだろうか。


夫からは決して口を挟むなと強く釘を刺されており

老婆心を抑え込みながらの日々となることだろう。

季節は春に向かっている。全てのことが「春」ならと願って止まない。



2025年02月26日(水) ふれあい

朝の寒さが和らぎ日中も春を思わすような陽気となった。

東京では4月並みの暖かさだっそうでおどろく。

高知県も明日は今日よりも気温が上がるのだそうだ。

暖かいのは嬉しいがもう少しゆっくりの方が好ましい。

長期予報では夏の訪れが早く今年も厳しい猛暑になりそうである。

後から後から押し寄せるように季節が巡って来るのだろう。



義父が心配でならない朝だった。倒れてはいないかと思う。

朝刊はポストにそのままであったが事務所のエアコンが効いていた。

居室から物音も聞こえておりほっと胸を撫で下ろす。


9時にはもう仕事を始めていたが両腕が上がらないとのこと。

入院中の点滴ミスだろうか両腕が膨れ上がっていた。

安静にするように伝えたが大丈夫だと云って聞かない。

また新規の大型車が入庫しており下回りの洗車を始める。

洗車機のノズルを持つ手が痛ましくてならない。

一時間程で洗い終えたがどんなにか辛かったことだろう。

寒気がすると云い出し身体が小刻みに震えているのである。

しかし発熱は無かったのでしばらく様子を見ることにした。


お昼に例の女性が来てくれたが私との会話を避けるように

問答無用の様子で二階の居室へと上がって行った。

あまりの辛さに義父が呼び寄せたのに違いない。

それだけ頼りにしているのだろう決して嫌な気分ではなかった。

しばらくすると掃除機を掛けている音が聞こえ始める。

身の回りのことをしてくれるのは有難いことだと思った。

私では何も出来ないのだ。義父もそれは承知のことだった。


2時を過ぎても女性は二階から下りて来なかったので

義父に声を掛けずに退社しリハビリに向かった。

整形外科の医師が昨夜義父に電話を掛けてくれたのだそうだ。

入院と聞き心配してくれたのだろう。有難いことである。

私の場合もそうだったがとても親身になってくれる医師だった。


リハビリでは腰から背中に掛けて重点的に施術してくれた。

療法士のU君に訊けば股関節の痛みを庇っているのだそうだ。

腰や背中の筋肉のおかげで歩くことが出来るのだと云う。

施術が終わると嘘のように楽になりU君が神様のように思えた。


4時半に帰宅。今日も炬燵どころではない。

夫に今日の報告をすると「そうか、そうか」と頷いてくれた。

義父と例の女性のことはそっと見守るのが最善だろう。

「老いらくの恋」とはどうしても思えなかった。

独りぼっちで生きて行くことは並大抵のことではない。

夜になれば尚更のこと寂しさに圧し潰されそうになるだろう。

心がふれあう人の存在は掛け替えのないことに思える。


昨日退院する時の荷物に「カエルのマスコット」があった。

「早く帰れますように」と彼女が持って来てくれたのだそうだ。



2025年02月25日(火) 奇跡のようなこと

氷点下の朝だったが日中は随分と暖かくなった。

しかしこのまま一気に春とはいかないだろう。

寒の戻りは必ずあり三寒四温を繰り返すはずである。

桜の季節になっても「花冷え」があり戸惑うことも多い。


山里は昨日の雪を山影に残し一面の霜の朝であった。

県道沿いの桃の花はまだ咲かず蕾さえ見えていない。

ラッパ水仙も同じくまだまだこれからのようだ。


9時を過ぎるなり支払いのお客さんが二人も来てくれて有難いこと。

これで月末の資金も何とか整いそうである。


同じ頃義父から電話があり退院の許可が下りたとのこと。

医師からも電話があり病状の説明もあった。

下血も治まっており貧血も改善していて後は自宅療養となる。

義父は子供のように喜んでおり一刻も早く帰りたがっていた。


午前中は仕事の段取りで忙しく迎えには行けない。

何度も催促の電話があり午後一番に病院へ向かった。

例の女性の姿がなかったのは入院費の支払いがあったからだろう。

頼るべきは私であるのが見え見えであった。

義父の車は置いて帰るつもりだったが乗って帰ると云う。

足元がふらついていたので心配だったが運転を任せた。


工場へ帰り着くなり直ぐに車検場へ向かう。

倒れるのでないかと気が気ではなかったがもう検査を始めていた。

内心はどんなにか辛かったことだろうに一切の弱音を吐かない。

おかげで例の大型車の車検が完了しまるで奇跡のようであった。

随分と長いこと待たせたにも関わらずお客さんは上機嫌で

明日早速に支払いに来てくれるのだそうだ。それも奇跡のようなこと。

なんだか一気に泥沼から這い出たような気分になる。


その後義父は「種籾」の準備をすると言い張っていたが

さすがにそんな無理をさせるわけにはいかなかった。

少しでも横になるようにと言い聞かせ職場を後にする。


もう4時半であった。買い物をする時間もなく夕食は「ほか弁」である。

昨日からラジオの調子が悪く全く聴こえずそれがストレスであった。

忙しい同僚の手を借りずわけにはいかずまたダイハツへ頼もうと思う。

車検の予約はもう3月の半ばまで埋まっており私の車どころではない。


事態は一気に好転したが油断は禁物だろう。

有頂天にならずとにかく慎重に日々を送らなければならない。

誰一人欠けてはならない職場である。

今回の義父の入院でどれほどそれを思い知ったことだろうか。


私も元気でいなければならない。死などもっての外である。



2025年02月24日(月) 名残り雪

今朝は予報通りの積雪であった。5センチ程だったろうか。

昨夜は雪の気配が全く無かったのでおどろく。

辺り一面が雪化粧をしており庭の桜草もすっぽりと雪に埋もれていた。

めいちゃんは大喜びで早速雪だるまを作り始める。

歓声を上げているので近所のお友達かなと思ったら娘だった。

何とも微笑ましく寒さを忘れてしまうような光景である。


晴れの予報で朝陽が射し始めると川向の山がきらきらと輝く。

雪の日ならではの景色で写真を撮らずにいられなかったが

SNSで確認するとぼやけていて投稿は諦め残念であった。

やはりガラケーの写真では限界があるようである。


10時にもなれば雪はすっかり融けてしまい山はもう緑であった。

道路の雪も融けておりサニーマートに買い物に出掛ける。

駐車場に小さな雪山が残っており少年達が楽しそうに遊んでいた。

大雪に難儀している地域の事を思うと心苦しいが

南国四万十の雪は歓喜にも等しい。




義父から電話があり玉子焼きが食べたいと云う。

作って持って行くことは可能だがやはり例の女性の顔が目に浮かんだ。

嫌味ではないつもりだが「頼めば良いのに」と告げてしまう。

もし持って行っても鉢合わせになるのはとても嫌である。

義父の声は弱々しかったがここは心を鬼にするべきだと思った。


医師の回診があり早ければ明日退院出来るかもしれないとのこと。

しかしここ数日の入院で足腰が酷く弱っているようだった。

昨日は歩けたと喜んでいたのでなんだか寝耳に水のような話である。

そんな状態で退院しても本当に大丈夫なのかと心配でならない。


お客さんからも電話がありとても困っているのだそうだ。

例の大型車の整備は完了しているが検査待ちの状態であった。

限界となれば他の検査場に依頼するしかないだろう。

義父はなるべくならそれを避けたい口ぶりである。

元来人に頼るのを嫌がる性格であるが今回は仕方ないと思う。

林業のお客さんは現場の材木がいっぱいになり本当に困っている。

よくこれまで待ってくれたと頭が下がる思いであった。

とにかく現状を「突破」しなくてはならない。

そのためには踏み出す努力を惜しんではいけないのだろう。


仕事の事で頭がいっぱいだったがこの三連休は十分に休養出来た。

明日から月末に掛けてはまるで戦のような日々となるだろう。

いったい何処まで試されるのか分からないが闘わなければならない。


寒気は一気に緩み明日からは春らしくなるのだそうだ。

種を蒔こう。きっと芽が出て花が咲きますように。



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