連日の冬晴れ。気温は低目だったがさほど寒さを感じなかった。
冬の陽射しの何とありがたいことだろうか。
強い寒波到来で今夜から明日の明け方にかけて雪が降るらしい。
けれども雪風は吹いておらず信じ難い空模様である。
今朝は圧力鍋で猪肉を煮た。山里のお客さんから頂いていたのだが
平日には煮ることが出来ず今日になってしまった。
皮が厚く身もぷりぷりしていて切るのに一苦労する。
お醤油、お酒、味噌、砂糖で味付けは完璧だったが
うっかり煮過ぎてしまって大失敗となってしまう。
圧力鍋だと15分で出来るのを30分も煮てしまったのだ。
夫が味見をしてくれたのだが一番美味しい皮の部分は煮溶けており
肉は柔らかさを通り越してぼろぼろになっていた。
残念でならなかったが食べられないことはないと夫が宥めてくれた。
圧力鍋は便利だが調理時間を間違うと大変なことになる。
山里には猟師さんが多いが猪肉は高価なのでそうそう頂けないだろう。
もったいないことをしたが「失敗は成功の基」と思うことにした。

お昼に巨大なお好み焼きを食べてからまた長いお昼寝であった。
桜の花がいっぱい咲いている夢を見た。もうすっかり春である。
例年なら三月中旬のことあとひと月もすれば桜の季節がやって来るだろう。
今日も目覚めたら四時である。そんな怠惰も愉快でならない。
不思議なことにお腹が減ってぐうぐうと鳴っていた。
寝ていても胃は活発に動いている証拠なのだろう。
夫が「だから太るんだぞ」と呆れ顔で笑っていた。
久しぶりに娘と肩を並べて夕食の支度をする。
夫は失敗作の猪肉でビールを飲み始めていた。
娘婿も好きなので「酒の肴」はもう作らなくても良い。
娘がシチューを作ってくれて何と美味しいことだろう。
私はご飯を入れて二杯も平らげてしまった。
ご飯にシチューを掛けるのではなくシチューにご飯を入れるのがお勧めだ。
ふっと弟の顔が浮かんだ。弟もシチューご飯が大好きだった。
母のいない夕食には二人でよくシチューを作ったことも懐かしい。
料理上手だった母のことなどもう恋しがりもしなかった頃だ。
夕食後、今朝の新聞を切り抜く。
「高新文芸」に久しぶりに短歌が入選していて嬉しかった。
毎週必ず投稿しているが入選確率は低く打ちのめされることが多い。
選者の先生は昔ながらの短歌を好み私の短歌が気に食わないのだろう。
「下手」と云ってしまえばそれまでだがとても厳しかった。
そこで諦めるような私ではなく「これでもか、これでもか」と
まるで挑むように投稿を続けている日々である。
実にもなれず花にもなれないがそれが私の「種」であった。
晴れたり曇ったり。強風注意報が出ており冷たい北風が吹く。
午前中空が霞んで見えたのは黄砂だったのだろうか。
春霞には程遠く真冬の寒さとなった。
朝のうちにダイハツへ。パワーウインドウの修理がもう出来たようだ。
やはり義父の診立ては正しくヒューズ交換で治ったらしい。
しかも代金は不要とのことでおどろく。
会社がダイハツ専門店なのでサービスしてくれたのだろう。
本来なら同僚に直してもらうべきだった。
「灯台下暗し」ではないが何とも頭が下がる思いである。
その足でカーブスへ行ったがショッピングモール内で
「雛人形展」をやっており足を止めずにいられない。
ずらりと並んだ雛人形の何と豪華絢爛なことだろう。
心がとても和みほんわりと春の気持ちになった。
カーブスでは今日も汗だくになる。
異常に思われたが真冬の汗はとても心地よい。
脂肪が筋肉に変わっているのなら尚更のことである。

義父から電話がありボールペンが必要だと云う。
とっさに例の女性の顔が浮かび「持って来てもらえば」と告げる。
義父は狼狽えはしなかった。午後からでは遅いのだそうだ。
その後また電話があり病院の売店で買い求めたとのこと。
久しぶりに歩けたのが嬉しかったのか声が弾んでいた。
午後また電話があり病室が相部屋から個室に変わった報せだった。
最初から希望していたのだが空き部屋がなく待っていたらしい。
電話魔の義父のことこれで周りを気にせずに通話が出来るだろう。
それも嬉しかったのか随分と長電話になってしまった。
詳しい容態はまだ分からず医師からの説明も無かったが
三食の食事が摂られるようになったので少しは好転してるのだろう。
連休明けには退院出来るだろうと例の如くで勝手に決めつけている。
それに越したことはないが早過ぎてもいけないように思う。
とにかく容態次第であり安静第一ではないだろうか。
仕事の事は忘れて午後はひたすら寝ていた。
とにかく心身を休めなくてはならない。
「そろそろ起きないか」と夫に声を掛けられたのが四時である。
娘達が夕食不要と言ってくれたので夕食は「ほか弁」にした。
夕陽を仰ぎながら市街地へと向かう。ラジオは浜田省吾だった。
何と幸せなのだろうと思う。まるで夢を見ているようである。
入浴後に寝室で身支度を整えていたら「おばあちゃ〜ん」と呼ぶ声。
最初はめいちゃんの声だと思っていたらあやちゃんだった。
トイレのドアノブが壊れておりトイレに閉じ込められていたのだ。
「早く開けて〜」と叫んでいる。どんなにかパニックになっていたことか。
夜だから良かったが昼間独りの時だったら大変なことになるところだった。
「ありがとう、おやすみ〜」とにっこりの笑顔が嬉しかった。
子供部屋に閉じ籠ってしまうと顔も見られない日が多い。
会話も殆ど無く声を掛ければ機嫌が悪いのが常だった。
なんだか腫れ物に触れるような日々が続いているが
もう硝子細工ではないのだと思いたい。
しっかりとした意思を持ち自分を貫こうとしている。
そんなあやちゃんに「光」を当ててやりたくてならない。
雲ひとつない冬晴れ。風が弱かったせいか暖かさを感じる。
強い寒波は明日からのようでまた雪の日がやって来そうだ。
名残り雪となるかもしれないがかつて三月に大雪が降った年もある。
春彼岸までは油断が出来ず春らしさも手放しでは喜べない。
梅の花があちらこちらで咲き始めているが例年より2週間も遅いのだそうだ。
「梅は咲いたが桜はまだかいな」と云うが桜も遅れるかも知れない。
早朝義父からやっと電話があったが泣きそうな声で「帰りたい」と云う。
入院してから医師の説明が全くないそうで戸惑っているようだった。
その上に丸二日一切食事は出来ず水も飲ませてはもらえなかったらしい。
痛み止めの薬が飲めずもう限界を通り越しているようだった。
「帰るから迎えに来てくれ」と云うので逆らう訳にもいかず
一度職場に着いてから県立病院へ向かった。
そうしたらまた電話があり医師が許してはくれないとのこと。
まだ三日目である。それが当然のことだろう。
病棟の詰所まで行ってみたが面会も出来なかった。
午後からなら15分だけ許されるのだそうだ。
仕事もあり諦めて一度職場へと帰って来た。
週末までに車検完了を約束していたお客さんがいて
事情を話し待ってもらおうと思ったのだが絶対に駄目だと言い張る。
「もう他の車検場に頼む」と云うので困り果ててしまった。
仕方なく義父に相談して検査だけしてくれる工場が見つかった。
同僚と段取りをしてんやわんやの大忙しである。
午後、義父に見せなくてはならない大切な書類があり
再度県立病院に向かったが駐車場にまた例の女性の車があった。
面会は家族のみと制限されているはずだがどうやって叶えているのだろう。
詰所で面会届けを記入しなければならず続柄も必須であった。
まさか「妻」ではあるまい。「妹」ならなんとかごまかせるか。
すると正面玄関からその女性が出て来て危うく鉢合わせしそうになる。
手には義父の洗濯物だろうか大きめの袋を提げていた。
私は俯いて顔を背けたのでなんとか顔を合わせずに済んだ。
実のところそれほど拘る事でもあるまいと思う。
義父も独身でありその女性も独身である。誰も咎める筋合いはない。
15分の面会を終えまた職場へとんぼ返りだった。
お客さんが車を引き取りに来てくれて上機嫌で帰って行く。
来週には支払いに来てくれるとのこと大助かりである。
今日は他にも消防車のタイヤ交換もあって何と忙しかったことだろう。
タイヤチェンジャーの調子が悪く思うように作業が出来ない。
仕方なくまた平田町のガソリンスタンドに頼むことになった。
軽トラックにタイヤを積み込み2往復する。
お昼休みも無かったがそれどころではない忙しさだった。
同僚もパニック気味になっており「胃潰瘍になりそうだ」と嘆く。
私は気が張っていたのだろうけっこう元気に活躍した。
午後4時過ぎに退社。遣り切った感がハンパない。
明日は11日の振り替えで休業を決めていたので一気に気楽になる。
とにかくゆっくりと休み来週に備えなければいけない。
山あり谷ありであるがそれを「苦」だと思わないことだ。
何事も何とかなるものだと今日ほど思ったことはない。
夜明け前の気温は0℃だったが市街地では氷点下だったようだ。
海が近いせいか毎朝少しだけ気温が高いようである。
山里は気温が低く10時頃まで氷点下が続いていた。
メダカの水槽の氷がいつまで経っても溶けない。
昨日からみい太が行方不明になっており今朝も姿が見えなかった。
この寒空にいったい何処で夜を明かしているのだろう。
ばたばたと仕事。焦りは禁物であるがつい慌ててしまう。
「車検」は出来ないが整備は出来るのが幸いだった。
同僚と相談してとにかく整備を済ませることにする。
義父が退院したら一気に車検を完了させる予定だった。
その義父からは一切連絡がない。携帯の電池切れかもしれず
こちらから電話をするのは躊躇われた。
面会に行くことも考えたがそれも規制があるらしい。
それにまた例の女性と鉢合わせになるのも嫌だった。
昨夜のうちに数人の友人に報せたらしく
心配して電話を掛けて来てくれた人もいた。
けれども容態は全く分からず何も応えることが出来ない。
義父は「直ぐに帰る」と言ったのだ。その言葉を信じるしかない。
事務仕事は一段落しており2時半に退社する。
気分は落ち着かないが考えても仕方ないことだろう。
悪い方へではなく良い方へ考えるべきだった。
明日一日乗り越えれば後は何とかなると思う。
今こそ思い悩んではいけない時だった。
資金繰りはまずまずで今日も3件の振込入金があった。
預金は今のところ潤っているが月末まで持つだろうか。
車検が完了しないと現金収入は皆無に等しい。
そこが腕の見せ所だがこの太腕の何と心細いことだろう。
当たって砕けろである。とにかく月末に向けて進むしかない。
勤続36年目であるがこれまでどれ程の苦難を乗り越えて来たことか。
母が現役だった頃は共に力を合わせて来たが今は単独である。
経営難はまるで谷底のように泥の水で満ちているように思う。
試されているのなら試して頂こうと気が張っているが
その「気」が崩れ落ちてしまうのが怖くてならなかった。
ゴールは見えない。私はいったいいつまで走り続けるのだろうか。
前回の最強寒波ほどではないが真冬の寒さが続いている。
幸いなのは冬晴れでたっぷりの陽射しが降る注ぐこと。
風は冷たいが陽射しを浴びるとほっとする。
土佐清水市の足摺岬では椿が満開となり見頃となっているそうだ。
以前のように出掛けることも出来なくなり幻のような椿である。
「椿のトンネル」を歩いたのは随分と昔の事になってしまった。
山茶花は散るが椿は落ちる。潔さよりも少し憐れに思えて来る。
耳を澄ませばポトンと音がするらしいがその音の何と儚いことだろうか。

早朝に義父から電話があり昨夜は酷く体調が悪く眠れなかったらしい。
首の痛みとは別で下血があり血圧も低下していたそうだ。
あまりの辛さに救急車を呼ぼうかと思ったが朝まで辛抱したようだ。
心配でならず直ぐに駆け付けるべきだったがそれには及ばないと云う。
そうして自力で県立病院の救急外来へと向かったのだった。
一時間後には私も職場へ着いており急いで仕事の段取りを済ます。
そうして県立病院へ向かったのだが駐車場に義父の車が見当たらない。
その代わりに例の女性の車が直ぐ近くに停められてあった。
何となくそんな気がしていたので「やっぱり」と思う。
義父も余程心細かったのか頼らずにはいられなかったのだろう。
もし母が生きていても何の役にも立たなかったと思う。
けれども母がそれを知ればどんなにか嘆いたことだろうか。
義父の容態が心配だったが駐車場からそのまま帰る。
何とも複雑な気分であったがその女性に任そうと思っていた。
3時過ぎに義父から電話があり「十二指腸潰瘍」だったそうだ。
出血が治まるまでしばしの入院となってしまった。
原因は定かではないが痛み止めの服用し過ぎも考えられる。
やはり元を正せば首の骨折が災いしているとしか思えなかった。
義父は週末には退院すると言い張っていたが勝手に決めているようだ。
私と同僚は仕事の段取りでパニック状態である。
二人で助けあってこの急場を何としても乗り越えなければならない。
出来るのか?自分に問えば「何とかなるだろう」と応える。
幸い週末から三連休を控えており明日、明後日が勝負だった。
お客さんには迷惑を掛けるが理由を話せば待ってくれるだろう。
そう信じて立ち向かって行こうと思っている。
悪いことが続く時もあるものだ。順調とは限らないのが世の常である。
そんな時に嘆いても何も変わりはしないのだと思う。
受け止めて如何に対処するかである。決して逃げてはならない。
二十四節気の「雨水」雪が雨に変わる頃であるが
またもや寒波到来で日本海側は大雪になっているようだ。
長期寒波との事で厳しい寒さは来週まで続くらしい。
四万十は曇りのち晴れ。気温は低目であったが陽射しが燦々と降り注ぐ。
山里では時雨れる時間帯もあったが雪に変わることはなかった。
今朝の山道では7人のお遍路さん。最近では珍しく多い。
白装束ではなく黒装束のお遍路さんが2人歩いていた。
おそらく何処かのお寺の修行僧ではないかと思われる。
笠を深めに被っており顔はよく見えなかったが若者に思えた。
鈴々と鈴の音がこだまするように響く清々しい朝の道であった。

8時半前に職場に着いたが義父は早めに県立病院へ行ったようだった。
気になってならずひたすら帰りを待っていたが
お昼になっても帰らず2時を過ぎても帰って来ない。
仕方なく同僚に伝言を頼み帰路に就いた。
帰宅して4時過ぎにやっと義父から電話があったが
昼食も食べられず朝からずっと検査詰めだったようだ。
先日のMRI検査では不足だったのだろうか。
不思議に思っていると義父から思いがけない事を聞く。
整形外科の医師の紹介状に何と「癌の疑いがある」と記されていたらしい。
実際に紹介状も見せてもらったそうだが確かに「癌」の字があったそうだ。
義父はどれほど驚いたことだろう。私も寝耳に水のような話である。
長時間の検査の結果癌の疑いは晴れたが義父は憤慨しており
「やっぱりやぶ医者だ」と整形外科の医師を罵り始めていた。
私にとっては最も信頼している医師である。
おそらく見逃せない部位があったのだろう。
気遣ってくれたことに感謝しなければと義父に伝えたことだった。
今回の怪我さえなければ病院へ行くこともなかっただろう。
高血圧も自力で治そうとするような義父であった。
81歳とは思えない体力がありその上に強い精神力を備えている。
決して生半可ではない。何としても遣り切ろうとする努力家でもあった。
私にはとても真似が出来ない。80歳まで生きる自信もなかった。
もしかしたら義父よりも先に逝ってしまうかもしれない。
決して諦めている訳ではないのだがどうしようもなく不安なのだった。
やがて春本番となり桜の季節がやって来るが
はらはらと散る光景が目に浮かんでならない。
朝の内には黄砂が、その後は快晴となったが冷たい強風が吹く。
予報通りの寒波到来でしばらくは真冬並みの気温となりそうである。
なんだか春と冬がおしくらまんじゅうをしているようだ。
朝の山道を行けば山沿いに梅の木があり小さな白い花が咲いていた。
民家からは離れているが近くに畑があり誰かが植えていたのだろう。
毎年いち早く咲きほっこりと気分を和ませてくれる。
今朝は車のトラブルがありパワーウインドウが開かなくなっていた。
昨日までは何ともなかったので突然に壊れてしまったのか。
一ヵ所だけならモーターの故障が考えられるが全部の窓が開かない。
義父に相談したらヒューズ系の故障かもしれないと云う。
月曜日であり車検が3台も入庫しており私の車どころではなかった。
ダイハツに電話したら今週いっぱいは修理が出来ないのだそうだ。
車検はもちろんのこと一般修理も予約制になっていた。
どこも忙しいのだなとしばらくは我慢することにする。
義父は一見元気そうに見えたが腕の痛みが辛いとのこと。
それでも無理を強いて「種籾」の準備をしていた。
「種籾」はそのまま発芽さすことは出来ず消毒が必要らしい。
米作りは本当に大変で何と手間が掛かることだろうか。
そんな忙しさの中で中古車が一台売れた。
商談は義父任せで余計に忙しくさせてしまったようだ。
明日は県立病院へ行く予定である。義父はまた俎板の上の鯉になるだろう。
まさか入院はないと思うが少しでも完治に向かうことを願って止まない。

4時に帰宅。洗濯物を畳みながら夫と「三匹が斬る」を見ていた。
最後に奉行所の悪役人を一人残らず斬り殺すのだが
大罪になりそうなのに何のお咎めがないのが不思議でならない。
夫に訊けば時代劇とはそう云うものなのだそうだ。
悪者イコール死である。今の世では考えられないことであった。
私も灰汁が強く決して善人とは思えないが
今のところ誰からも恨まれてはいないようである。
ただ嫌われることはある。正直過ぎるせいかもしれない。
ずばっと本音を言ってしまう時があって相手を傷つけてしまうのだ。
どれほど縁深くてもそれは忽ちに切れてしまうものだった。
縁は儚く一度切れてしまうと修復は不可能に等しい。
けれども私は自分を責めることをしない。
責めてしまえば私自身が傷ついてしまうからだろう。
いつだって「去る者は追わず」であった。
そうして「来る者は拒まず」を貫きながら生きている。
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