前回の最強寒波ほどではないが真冬の寒さが続いている。
幸いなのは冬晴れでたっぷりの陽射しが降る注ぐこと。
風は冷たいが陽射しを浴びるとほっとする。
土佐清水市の足摺岬では椿が満開となり見頃となっているそうだ。
以前のように出掛けることも出来なくなり幻のような椿である。
「椿のトンネル」を歩いたのは随分と昔の事になってしまった。
山茶花は散るが椿は落ちる。潔さよりも少し憐れに思えて来る。
耳を澄ませばポトンと音がするらしいがその音の何と儚いことだろうか。

早朝に義父から電話があり昨夜は酷く体調が悪く眠れなかったらしい。
首の痛みとは別で下血があり血圧も低下していたそうだ。
あまりの辛さに救急車を呼ぼうかと思ったが朝まで辛抱したようだ。
心配でならず直ぐに駆け付けるべきだったがそれには及ばないと云う。
そうして自力で県立病院の救急外来へと向かったのだった。
一時間後には私も職場へ着いており急いで仕事の段取りを済ます。
そうして県立病院へ向かったのだが駐車場に義父の車が見当たらない。
その代わりに例の女性の車が直ぐ近くに停められてあった。
何となくそんな気がしていたので「やっぱり」と思う。
義父も余程心細かったのか頼らずにはいられなかったのだろう。
もし母が生きていても何の役にも立たなかったと思う。
けれども母がそれを知ればどんなにか嘆いたことだろうか。
義父の容態が心配だったが駐車場からそのまま帰る。
何とも複雑な気分であったがその女性に任そうと思っていた。
3時過ぎに義父から電話があり「十二指腸潰瘍」だったそうだ。
出血が治まるまでしばしの入院となってしまった。
原因は定かではないが痛み止めの服用し過ぎも考えられる。
やはり元を正せば首の骨折が災いしているとしか思えなかった。
義父は週末には退院すると言い張っていたが勝手に決めているようだ。
私と同僚は仕事の段取りでパニック状態である。
二人で助けあってこの急場を何としても乗り越えなければならない。
出来るのか?自分に問えば「何とかなるだろう」と応える。
幸い週末から三連休を控えており明日、明後日が勝負だった。
お客さんには迷惑を掛けるが理由を話せば待ってくれるだろう。
そう信じて立ち向かって行こうと思っている。
悪いことが続く時もあるものだ。順調とは限らないのが世の常である。
そんな時に嘆いても何も変わりはしないのだと思う。
受け止めて如何に対処するかである。決して逃げてはならない。
二十四節気の「雨水」雪が雨に変わる頃であるが
またもや寒波到来で日本海側は大雪になっているようだ。
長期寒波との事で厳しい寒さは来週まで続くらしい。
四万十は曇りのち晴れ。気温は低目であったが陽射しが燦々と降り注ぐ。
山里では時雨れる時間帯もあったが雪に変わることはなかった。
今朝の山道では7人のお遍路さん。最近では珍しく多い。
白装束ではなく黒装束のお遍路さんが2人歩いていた。
おそらく何処かのお寺の修行僧ではないかと思われる。
笠を深めに被っており顔はよく見えなかったが若者に思えた。
鈴々と鈴の音がこだまするように響く清々しい朝の道であった。

8時半前に職場に着いたが義父は早めに県立病院へ行ったようだった。
気になってならずひたすら帰りを待っていたが
お昼になっても帰らず2時を過ぎても帰って来ない。
仕方なく同僚に伝言を頼み帰路に就いた。
帰宅して4時過ぎにやっと義父から電話があったが
昼食も食べられず朝からずっと検査詰めだったようだ。
先日のMRI検査では不足だったのだろうか。
不思議に思っていると義父から思いがけない事を聞く。
整形外科の医師の紹介状に何と「癌の疑いがある」と記されていたらしい。
実際に紹介状も見せてもらったそうだが確かに「癌」の字があったそうだ。
義父はどれほど驚いたことだろう。私も寝耳に水のような話である。
長時間の検査の結果癌の疑いは晴れたが義父は憤慨しており
「やっぱりやぶ医者だ」と整形外科の医師を罵り始めていた。
私にとっては最も信頼している医師である。
おそらく見逃せない部位があったのだろう。
気遣ってくれたことに感謝しなければと義父に伝えたことだった。
今回の怪我さえなければ病院へ行くこともなかっただろう。
高血圧も自力で治そうとするような義父であった。
81歳とは思えない体力がありその上に強い精神力を備えている。
決して生半可ではない。何としても遣り切ろうとする努力家でもあった。
私にはとても真似が出来ない。80歳まで生きる自信もなかった。
もしかしたら義父よりも先に逝ってしまうかもしれない。
決して諦めている訳ではないのだがどうしようもなく不安なのだった。
やがて春本番となり桜の季節がやって来るが
はらはらと散る光景が目に浮かんでならない。
朝の内には黄砂が、その後は快晴となったが冷たい強風が吹く。
予報通りの寒波到来でしばらくは真冬並みの気温となりそうである。
なんだか春と冬がおしくらまんじゅうをしているようだ。
朝の山道を行けば山沿いに梅の木があり小さな白い花が咲いていた。
民家からは離れているが近くに畑があり誰かが植えていたのだろう。
毎年いち早く咲きほっこりと気分を和ませてくれる。
今朝は車のトラブルがありパワーウインドウが開かなくなっていた。
昨日までは何ともなかったので突然に壊れてしまったのか。
一ヵ所だけならモーターの故障が考えられるが全部の窓が開かない。
義父に相談したらヒューズ系の故障かもしれないと云う。
月曜日であり車検が3台も入庫しており私の車どころではなかった。
ダイハツに電話したら今週いっぱいは修理が出来ないのだそうだ。
車検はもちろんのこと一般修理も予約制になっていた。
どこも忙しいのだなとしばらくは我慢することにする。
義父は一見元気そうに見えたが腕の痛みが辛いとのこと。
それでも無理を強いて「種籾」の準備をしていた。
「種籾」はそのまま発芽さすことは出来ず消毒が必要らしい。
米作りは本当に大変で何と手間が掛かることだろうか。
そんな忙しさの中で中古車が一台売れた。
商談は義父任せで余計に忙しくさせてしまったようだ。
明日は県立病院へ行く予定である。義父はまた俎板の上の鯉になるだろう。
まさか入院はないと思うが少しでも完治に向かうことを願って止まない。

4時に帰宅。洗濯物を畳みながら夫と「三匹が斬る」を見ていた。
最後に奉行所の悪役人を一人残らず斬り殺すのだが
大罪になりそうなのに何のお咎めがないのが不思議でならない。
夫に訊けば時代劇とはそう云うものなのだそうだ。
悪者イコール死である。今の世では考えられないことであった。
私も灰汁が強く決して善人とは思えないが
今のところ誰からも恨まれてはいないようである。
ただ嫌われることはある。正直過ぎるせいかもしれない。
ずばっと本音を言ってしまう時があって相手を傷つけてしまうのだ。
どれほど縁深くてもそれは忽ちに切れてしまうものだった。
縁は儚く一度切れてしまうと修復は不可能に等しい。
けれども私は自分を責めることをしない。
責めてしまえば私自身が傷ついてしまうからだろう。
いつだって「去る者は追わず」であった。
そうして「来る者は拒まず」を貫きながら生きている。
雨上がりの曇り日。気温は14℃まで上がり暖かな一日となる。
ご近所に寒桜の樹があるのだが例年ならそろそろ咲く頃であった。
しかしわずか百メートル足らずの距離を歩くことが出来ない。
情けないことである。ささやかな春を目に浮かべるばかりであった。
サニーマートで古い友人に久しぶりに会った。
マスクはしておらず肌艶の良さにはっと驚く。
彼女は人一倍行動力を備えており躊躇わず何処にでも行く。
以前には岡山の倉敷まで一人で行ったこともあった。
アマチュアカメラマンで県下でも認められておりその腕前は凄い。
コロナ禍前までは度々あって写真を見せてもらうのが楽しみであった。
けれどもこの四年程の間にそんな機会も遠のいてしまっていた。
友人と呼んで良いものか。彼女には大勢の友人がいるようである。
ほんの立ち話であったが彼女が眩しくてならなかった。
私がどれ程努力をしても彼女に手が届くことはないだろう。

山里の義父の事が気掛かりであったが電話もせずに過ごしていた。
おそらく安静にはしていなかったことだろう。
工場は休みだが田植えの準備をしなければならない。
まるで米作りに命をかけているように思われる。
明日は会えるが少しでも元気を取り戻していることを願って止まない。
最低限の家事だけで後はひたすら寝て過ごす。
「また夜眠れなくなるぞ」と夫に云われ3時には起き上がっていた。
退屈でならずまた昔の日記を読み返すばかりである。
今日は8年前の2月と3月の日記を読んだ。
あやちゃんは4歳、めいちゃんは2歳である。
その頃はよく一緒にお風呂に入っていたようで懐かしくてならなかった。
今では着替えをしている姿でさえ見ると怒られてしまうのだ。
もう幼子ではない。二人とも少女の階段を上り始めている。
あやちゃんはもう大人の階段と云っても過言ではないだろう。
ふれあうことは殆ど無くなり会話も随分と少なくなった。
ただ二人ともおじいちゃんの夫とはよく話すようだった。
私はきっと「ウザい」のだろう。それも過度の老婆心のせいかもしれない。
いつまでも変わらない事など在りはしないのだと思う。
この私でさえ数年の間に随分と変わったと自覚している。
足が不自由になったせいもあるが行動力はすっかり失せてしまった。
日に日に老いが身に沁みるようになり「いのち」の不安が付き纏う。
前途が心細くてならないのだ。未来などあって無いに等しい。
けれども生きたくてならずもがき続けているような日々であった。
種を蒔けば芽が出てやがて花が咲く日も来るだろうが
その種を蒔く行為に躊躇っているように思う。
たった一粒の種を手のひらに載せひたすら春を待っている。
曇り日。気温は10℃を超えていたが肌寒い一日だった。
今夜から明日の明け方にかけて雨になりそうである。
一雨ごとに春とはいかないだろう。来週はまた寒波になりそうだ。
けい君11歳の誕生日。元旦に会ったきりだが元気にしているだろうか。
息子が仕事なら独りぼっちで留守番をしているかもしれないと
電話をしてみたら「今日は誕生日だぞ」と息子の弾んだ声がする。
新しいゲームを買ってもらったのだろう。父親と一緒に遊んでいるようだった。
寂しい思いをしていなくてほんとうに良かったとほっとした。
今春にはもう6年生になる。あっという間の11年だった。
母親のことで辛い思いをした頃もあったが「いま」が一番に思う。
真っ直ぐに成長することをただただ祈るばかりである。
今日は11年前の2月の日記を読み返していた。
満月だったのだ。まるで月から授かった天使のような「いのち」である。

朝のうちにカーブスへ行っていたが午後はまたひたすら寝て過ごす。
義父から着信が2回あった。最初は仕事の段取りの相談であったが
二回目には酷くしんどそうな声で首や腕の痛みを訴えていた。
朝のうちは地区の田役に行っていたらしく力仕事をしたのだろう。
無理をしてでも務めるのが義父の性分である。
とにかく早めに寝るように伝えたが何とも弱々しい声であった。
いったい何が義父を突き動かしているのだろうと思う。
壊れてしまうまで身体を酷使しようとしているとしか思えなかった。
私と義父の会話を横で聞いていた夫が「まるで母親だな」と云う。
いつものことだがあまり良い気がしなかったのかもしれない。
夫は未だに義父の事を「おとうさん」と呼んだことがなかった。
ぐるぐると空回りするように色んなことが押し寄せて来る。
順調とは行かない事ばかりでいつまで経っても落ち着かない。
これ程までに私を試しているのはいったい誰なのだろうと思う。
義父はもちろんのことだが私も夫も老い先は短い。
未来を考えるほどの心の余裕もなかった。
生かされる限りのささやかな未来なのだろう。
その時に思い残すことがないような生き方をしたいものだ。
穏やかな晴天。気温も15℃まで上がり春らしい暖かさとなった。
このまま春本番となれば良いのだがまだ2月である。
立春を過ぎたとは云えまだまだ冬の名残があるだろう。
「寒さなければ花は咲かず」私の好きな言葉であった。
今朝は義父に昨日の医師の話を伝えたが全く動じない。
思っていた通りへらへらと笑い飛ばすばかりだった。
おまけに医師の事を「やぶ医者」だとのたまう。
痛みが酷ければ深刻にもなるだろうが少し楽になっているようだ。
それはそれで良いことだが「安静」のあの字も考えていない。
今日は農家仲間さんと畔の草焼きに出掛けて行く。
勇ましい姿はとても怪我人には見えなかった。
工場の仕事は一段落し例の大型車の車検整備が完了する。
後は検査だけだと喜んでいたらシャーシの溶接が必要とのこと。
鉄骨部のKちゃんが出張しており今日はお手上げとなった。
仕上がりは来週になりそうだが何とほっとしたことだろうか。
事務仕事も特に忙しくなく2時に退社させてもらった。
今週も遣り切った感で満たされ気分は上々である。
週末はゆっくりと休みまた来週に備えなければいけない。
今日も娘が休みだった。何か変だなと思っていたらちゃんと話してくれて
今月いっぱいで病院を解雇されるのだそうだ。
寝耳に水のような話であったが新しい検査技師を雇い入れたらしい。
そうなれば娘はもう不要である。なんだかとても理不尽なことに思えた。
娘は「もういい」と云う。さほど気に入った仕事ではなかったようだ。
病院側は「受付」の仕事を勧めてくれたらしいがそれも断ったのだそうだ。
受付は病院の「顔」であり気が進まなかったらしい。
あと何日勤められるのか定かではないがおそらく休みが多くなるだろう。
娘が家に居てくれると助かるが手放しでは喜べない複雑な心境である。
今朝はあやちゃんの事も話してくれて思いがけなかった。
小学校の卒業式は出席しない。中学入学の準備も迷っているようだった。
入学説明会には行かなければならずとても気が重い様子である。
制服はめいちゃんも着られるが来年には制服自体が変わるのだそうだ。
「無駄」と決めつけてもいけないがそう思うのが当然だろう。
「ジャージだけ買おうか」と云うので私も頷いていた。
娘とこんな話が出来るとは夢にも思っていなかった。
よほど精神的に参っているのだろうと察する。
母親だから話せることもあるのだろう。
それは20代の頃の娘と同じだった。
何事もなるようになるだろう。あれこれと思い悩んではいけない。
そう思っていても人生にはそれが付き纏うものである。
良かれと思ってしたことが最悪になることもあるのだった。
日々が手探りなのだ。そこには「絶対」は在り得ないのだと思う。
不確かなあやちゃんの未来。家族の行く末。
私と夫の寿命。誰も教えてくれないことに立ち向かう日々である。
青空となり陽射しは十分にあったが強風が吹き荒れる。
南風なら春一番だろうが冷たい北風であった。
全国的に吹き荒れたようで火災が延焼している処もあるようだ。
まだ鎮火のニュースは流れず何と気の毒なことだろうか。
日中は10℃まで気温が上がったが風のせいか真冬の寒さであった。
明日は穏やかな晴天になるらしいが来週にはまた大寒波のようだ。
三寒四温を繰り返すのが今の季節の習いであるが
少しでも暖かくなる日が多くなることを願って止まない。
誰もが春を待ち侘び心に蕾を抱いていることだろう。

仕事は車検が三台完了。同僚と義父のおかげである。
週末にかけては例の大型車の車検整備を完了させる予定であった。
入庫してからもう随分と経った。お客さんが何度か様子を見に来て
その度に頭を下げるばかりで心苦しくてならない。
3時前に退社しリハビリに向かう。
義父の紹介状を受け取っていたら診察室から医師が駆け寄って来て
かなりの重症とのこと。とにかく安静にするようにと言われた。
仕事などもっての外なのだそうだ。穏やかな医師だが語気が荒い。
無理をしていたら大変なことになると念を押された。
県立病院を受診すると入院の可能性もあるそうで
言われた通りに従わなければいけないのだそうだ。
入院と聞いて一瞬目の前が真っ暗になった。
一週間位ならなんとがなるがそれ以上となると会社存続が危うい。
同僚と私だけでどうやって会社を支えて行けば良いのだろう。
いくら考えてもそれは到底無理な話である。
検査員の義父が居ないと車検が出来なくなってしまうのだ。
収入は忽ち途絶え会社は倒産となってしまう。
それは義父に限らず私や同僚であっても同じことだった。
一人でも欠けたらお終いである。三人で守り続けて来た会社なのだ。
義父には明日話すつもりだが笑い飛ばすかもしれない。
そうして安静どころか余計に仕事に励むことだろう。
そうなればもう私の手には負えなくなってしまう。
精神力だけで治る怪我では決してないのだ。
悪いことばかりではなかった。今日は新車が一台売れる。
義父が契約に行ってくれて順調に成立した。
顧客は私の古い友人であり新車購入を勧めたが
最後の契約は義父に任せて良かったと思う。
朗報もなくてはならない。会社はそうして成り立っている。
山あり谷ありの日々である。今はおそらく山だろう。
「そこに山があるから登る」と言ったのはある探検家だったか
私達はもちろん探検家ではないが似たような者なのかもしれない。
苦労は多いが平安もある。そうして生かされているのだろう。
山に登れば空が近くなり眩しい程の陽射しがある。
手は届かないがそれが人生の「山」なのに違いない。
「谷」には小川が流れ岩陰にひっそりと咲く春の花があるだろう。
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