ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年11月09日(土) 一切れのオレンジ

朝の冷え込みが緩み日中も穏やかな晴天となる。

奄美地方では線状降水帯が発生し水害を招いたようだ。

いつも台風の進路に当たる地域で雨には慣れているはずだが

今回の雨は予想を上回るほどの豪雨だったらしい。

幸い命を落とされた方はいないようだが大きな水害となり心を痛めている。

断水にもなっておりまだ復旧の目途が立たないらしく気の毒でならない。

同じ日本なのに本土は晴天である。これほど心苦しいことがあるだろうか。

それにしても11月になってからの豪雨とは異常気象としか思えない。

一刻も早く雨が止むことをひたすら祈るばかりであった。




朝のうちにカーブスへ行き心地よく汗を流す。

娘が勤めている病院の看護師さんが体験に来ており言葉を交わした。

小児科の看護師さんで孫達がお世話になっていたので懐かしい。

ついつい娘のことを話してしまったのだが後から酷く叱られる。

強い口調で「余計なことを話すな」と機嫌を損ねてしまったようだ。

同じ病院なので「よろしく」の意味を込めて話したのだが

娘にとっては母親がでしゃばる事ではなかったのだろう。

夫にも叱られしゅんとする。些細なことが大きな後悔となった。

私はいつも一言多いのだそうだ。もっと自覚しなければならない。



お昼のうちに茹で卵を作り大根も下茹でした。

2時間程お昼寝をしてからおでんを煮込む。

「おでん日和」は嬉しいもので家中にいい匂いが漂う。

平日には作れないので尚更のことであった。

幸せだなと思う。夕飯がとても楽しみだった。


娘は孫達にカレーを作る。これも平日には作れず久しぶりである。

いつもは甘口だが今日は中辛なのだそうだ。

孫達も成長したのだなと微笑ましく思った。

だんだんと大人の味になっていくのだろう。

やがては辛口も大辛も食べられるようになるはずだった。


例の如くで夫と先に食べ終えた頃娘婿が帰って来た。

詫びなければいけないことがある。今朝は炊飯が間に合わなかったのだ。

毎晩寝る前にお米を仕掛けるのだが昨夜は残りご飯があったので

朝炊けば良いと安気に思っていたのがいけなかった。

今朝炊飯器の中を見たら二人分しかなくて焦りまくる。

大急ぎでお米を研ぎ早炊きコースで炊いたがもう遅かりしであった。

朝食を食べ損ねた娘婿になんと申し訳ないことをしたのだろう。

少しでも手を抜こうとするのは私の悪い癖であった。


昨夜「出来ることしか出来ない」と書いたが

出来ることをしようしないところが私の欠点でもある。



午後8時を過ぎ空を見上げるともう三日月ではなく半月になっていた。

月齢には詳しくないので「一切れのオレンジ」と名付ける。

月を見ていると不思議と癒される。ほっこりと優しい気持ちになるのだった。

私は永遠にはなれないが月は永遠に空に浮かび続ける。

満月かもしれないと最期の夜に想いを馳せていた。








2024年11月08日(金) 出来ることしか出来ない

今朝も初冬らしい冷え込み。きりりっとした寒さが心地よい。

日中は20℃程で暑からず寒からずの快適な気温だった。

一年中こんな気候ならばと思ったがそれでは季節がなくなる。

春には春の花が咲き。夏の花。秋の花。冬には冬の花を咲かせてやりたい。

人は暑さに耐え寒さに耐える。そうして逞しくなっていくのだろう。



ゆるりと仕事。心配していた義父はすっかり元気になっていた。

お昼過ぎに車検が一台完了し今週の仕事が一段落する。

厄介な一般整備は後を絶たず義父が一人で頑張っていた。

同僚では手に負えずどれほど助かることだろうか。

「何としても直すぞ」その意気込みには頭が下がる思いである。

そうして顧客との信頼を強めていく「商売」とはそう云うものだろう。



内科の薬がもう少しで切れるため掛かりつけの病院へ行く。

2時に仕事を終わらせてもらって早めに向かった。

薬は2ヶ月分処方されるため次回はもう来年である。

薬漬けではあるがあっという間の一年だった。

血圧も不安症も落ち着いていて何よりである。

ただ酷く咳き込むのは一向に治らずもう医師に相談も出来ない。

自業自得なので仕方ないが夜中の咳にはすっかり参っている。

煙草さえ止められたらと思うがずるずると吸い続けるばかりだった。

自分で自分の首を絞めているのだからもうどうしようもない。


来年では遅すぎるかなと思いインフルエンザの予防接種もした。

ちくりと痛い。これでは子供が泣くはずだと思った。

看護師さんも今年は特に痛いような気がすると言い笑い合う。

病院の職員は皆早めに接種を済ませているのだそうだ。


買い物を済ませ4時過ぎに帰宅した。

途中からであったが「破れ奉行」を見る。

何だかラストがいつもと違うなと思ったら最終回だったようだ。

もう来週からは見れないと思うと残念だったが爽快な気分でもある。

今の時代にはこれほどの面白い時代劇などなかった。

「てめえらを斬る」忘れられないセリフとなる。

今は悪人で溢れ返っている世の中だった。誰も斬り捨てることなど出来ない。



娘は残業だったらしく6時半に帰宅する。

娘婿と孫達は先に夕食を食べ始めていた。

相変わらずの献立なのに喜んで食べてくれて何と嬉しいことだろう。

娘も「お腹が空いた」と言って直ぐにテーブルに付いていた。


出来ることしか出来ない。それ以上もそれ以下もなかった。

毎日試されているのかも知れないが在りのままを貫いている。

その上に日々の心細さは増しこの先どうなるのかと思う。


私が突然に死んでしまったら夕食は誰が作るのだろう。

そんな事を考えていると途方に暮れてしまうのだった。

必要とされているのならとことん生きなければならない。

死ぬわけにはいかないのだと強く思った。


失うことは容易いことだろうか。目も耳も足も在る。

何よりも「こころ」が在り精一杯の「いのち」が在るのだった。




2024年11月07日(木) 風邪引くなよ

二十四節気の「立冬」暦の上では今日から初冬となる。

今朝は全国的に冷え込んだようで北海道は雪だったようだ。

四万十市は9℃と今季一番の寒い朝となった。

けれどもまだまだ序の口である。やがては氷点下の朝を迎えることだろう。


血圧が気になりちゃんちゃんこを羽織ったり暖房を点けたりした。

とにかく寒い思いをしてはならない。寒さが命取りになることもある。

死がいっそうと身近になり私にとっては怖ろしい季節であった。


山里の気温は平野部よりも2℃程低い。

まだ霜の季節ではないがそれも近いことだろう。

辺り一面が真っ白になる。それはそれで風情のある景色である。


今朝はどうしたことか義父の姿が見えなかった。

事務所の二階が居室になっているのだが履物はちゃんとある。

朝刊も取ってあったので居室に居ることは間違いなかったが

物音が一切聞こえず二階はしんと静まり返っていたのだった。

だんだんと心配になって来てもしかしたら倒れているのではと思う。

義祖父がそうだったのだ。心臓発作で突然に命を落としていた。

私は二階に上がることが出来ず同僚に頼もうと思ったのだが

それよりも電話を掛けるのが先決だとやっと気づいた。


10回のコールの長いこと。心臓がぱくぱくし不安でならない。

やっと義父の声が聞こえた時にはどれほどほっとしたことだろう。

原因不明の頭痛なのだそうだ。頓服を飲み寝ていたようだった。

急激な寒さで風邪を引いてしまったのかもしれない。


無理はさせたくなかったがお昼から仕事をすると言って聞かない。

午後には作業着を着ていつも通りに整備の仕事を始めていた。

「もう治った」と言うのだ。その言葉を信じるしかなかった。

顔色も良く元気である。心配し過ぎてもいけないのだろう。

しかしもう81歳の高齢である。何があってもおかしくはなかった。


平穏無事を祈るばかりの日々である。

自分の事はさておいても義父や同僚の体調を気遣うことが多い。

一人でも欠けたら会社はアウトになる。もちろん私もその一人である。

今日明日に死ぬわけにはいかないのだと改めて思わずにいられなかった。



整形外科のリハビリのあった日。スマホ越しに医師と会話をしたが

「寒うなったけん風邪引くなよ」と言ってくれてとても嬉しかった。

ささやかなことであるがその優しさが身に沁みた一日であった。



2024年11月06日(水) 崖っぷち

最高気温が21℃。やっと秋らしい気候になった。

まさかもう夏日になることもないだろう。


朝の国道で向日葵に似た花が咲いておりはっとスピードを落とす。

皇帝ダリアであった。向日葵よりもずっと背高のっぽである。

去年は見かけなかったので今年の春に植えたのだろうか。

日が短くならないと花芽が出来ないのだそうだ。

夏の花に思いがちだが晩秋から初冬にかけて咲く花らしい。

花の色はピンク系が多いが黄色い花もあるのかとおどろく。

しばらくは朝の道が楽しみになった。明日の朝もきっと会えるだろう。



今日は亡き父の誕生日であった。生きていれば95歳となる。

死んだ人の歳を数えるほど切ないことはないが

どんな老人になっていただろうかと思いを馳せた。

生涯不運な父だっただけに少しでも幸せであって欲しい。

そんな願いも今は伝える術もなく何と儚いことだろうか。


21年前の今日。父と最後に会った日のことを思い出していた。

まさかその9日後に亡くなるなどと思ってもいなかったのだ。

明くる日の夕方電話がありたわいのない話をしたのだが

それが父の最後の声になってしまった。

思い出せば思い出すほど父が憐れでならない。

せめて生きているうちに孫の顔を見せてやりたかったと悔やまれる。

薄情な娘だった。母よりもずっと父のことが好きだったのに。




2時過ぎに仕事を終えて帰路に就く。

取引先の中古部品店に届け物があり立ち寄っていた。

息子の職場の目と鼻の先でありしばらく会っていない息子を想う。

便りのないのは元気な証拠だが気掛かりなこともあった。

娘と同じであれこれと干渉してはいけないのだろう。

けれども子供は幾つになっても「こども」である。

母は死んでも母であり続けたいものだ。


感傷的になってはいけないのだが今夜はどうしようもない。

三日月を眺めているだけで涙が出そうになる。

辛いことなど何ひとつないのにいったいどうしたことだろう。

生きているだけで丸儲けなのにその儲けを無駄にしているようだ。

命あることほど有難いことはないのに感謝しきれずにいる。

それは同時に死の不安であり心細くてならない。


今夜は書くことが出来た。明日の朝も書けるだろうか。

最後かもしれないといつも思う。

どうしようもなく崖っぷちに立っている。




2024年11月05日(火) もう誰も切れそうにない

朝は肌寒く曇り空であったが日中は秋晴れとなり気温も高くなる。

七分袖のチェニックは母の形見。見つけた時にはまだ値札が付いていた。

おそらく買ったものの着る機会がなかったのだろう。

少し派手だったのかもしれない。ピンク系にグレーの模様がある。

私もピンク系は苦手であったが着てみるとけっこう似合っていた。

明るい色の服を着ると気分まで明るくなるようだった。

母を着る。母と一緒に仕事に行くような気がした。



連休明けの仕事の何と忙しかったことだろう。

義父は休みなく働いていたようで2台の整備が完了していた。

とても自慢気な顔で私と同僚に納車を急かす。

その口ぶりがとても荒くなんだか責められているように感じた。

喫煙所にも行けず苛々がつのる。トイレまで我慢していた程だ。


やっと納車が完了したら今度は車検受けの車を引き取りに行く。

義父の友人なので自分が行けば良いのにと思ったが

雷が落ちそうなのでとにかく言う通りにするしかない。

同僚も大きな溜息をついていた。決して私だけではなかったのだ。


午後には義父も落ち着きまるで別人のように穏やかになる。

まだもう一台厄介な修理があり今日中に済ませたいようだった。

昼食をさっさと済ますとお昼休憩もせずに頑張っていた。


事務所に来客があり私が応対したのだが思いがけないことに

私と話したくて訪ねて来てくれたようだった。

そのお客さんも足が悪く難儀な日々を送っていて見るからに辛そうである。

「もうわしはいかん、なんちゃあ出来んなった」と嘆く。

そのことを奥さんから毎日のように責められるのだそうだ。

奥さんも苛立っているのだろう。その気持ちも分からないこともないが

長年連れ添うた夫婦だからこそ思い遣る気持ちが大切に思う。

あまりに嘆くので他人事には思えず憐れに思えてならなかった。

「また辛い時には話しに来たやね」と宥めると笑顔を見せて

「おう、また来るけん」と手を挙げて帰って行った。


私は夫に助けれながら何とか日常生活を送っているが

それは決して当たり前の事ではないのだと改めて思った。

足の痛みだけではないその上に老いを重ねて生きていかねばならない。

10年があっと云う間である。それだけ死も近づいて来るのだ。

無理をしてでも生きなければならない。痛みなど些細なことにも思える。



日没時、今日も一番星と三日月を見た。

月は昨日よりも少しふっくらとしていてもう誰も切れそうにはない。

傷ついてはいけないのだ。嘆いてはいけないのだ。














2024年11月04日(月) チャーシュー麺

今朝は今季一番の冷え込みだったようだが日中はまた夏日となる。

11月とは思えない異常な暑さに戸惑うばかりであった。

二階の自室が28℃にもなっておりまだ扇風機が必要である。


連休もやっと最終日。今日も家籠りのつもりであったが

思いがけずに夫が「一風」に昼食を食べに連れて行ってくれた。

渋々ではあったが家には里芋の煮物しかなかったのだ。


今日は特別に「チャーシュー麺」を作って貰った。

メニューにはないのだが半炒飯とのセットである。

「一風」のチャーシューはとても美味しく一枚では物足らない。

今日は4枚も入っており最高に幸せな気分であった。

その分ボリュームがあったのだろうお腹がはち切れそうになる。

帰り道では一気に眠くなり帰宅するなり倒れ込むように寝ていた。

目覚めればもう3時である。さすがに夫も呆れ返っている。




娘婿の40歳の誕生日だった。今夜は奮発して焼き肉にする。

とは云え焼き肉パーティーとはいかず夫と二人で先に焼いて食べる。

やはり6人掛けのテーブルの出番はなかったようだ。

娘婿がホルモンが好きなのでミックスホルモンを買って来ていたのだが

夫が全く遠慮せずホルモンばかり食べるのではらはらした。

ストップを掛けたら気を損ねてしまい一気に機嫌が悪くなる。

私がもっと沢山買って来ていれば良かったのだがもう後の祭りであった。


めいちゃんもご機嫌斜め。癇癪を起こして部屋に閉じ籠っていた。

6人掛けのテーブルになったので椅子の位置を変えたのが原因である。

これも私の一存でしたことでおばあちゃんが一番悪かった。

娘が以前の位置にめいちゃんの椅子を据えやっと機嫌を直してくれる。

良かれと思ってしたことがとんでもないことになることがあるものだ。


もう8時前だが娘達の「焼き肉パーティー」は続いている。

私達は既に部外者だが楽しそうな声が微笑ましくてならなかった。

家族として家族を見ている。寂しいこととは少しも思わない。



日没時に今日も一番星を見つけたがやはり蝋燭にしか見えない。

母だろうか父だろうかとかつての家族を想う。

きっといつまでも見守ってくれているのだろう。

私もやがては星になるが一番星なら良いなと思った。


一番星から少し離れて細くて折れてしまいそうな三日月が見える。

何とも神秘的な紅い三日月であった。夢ではないかとふと思う。

夢ならば覚めてしまうが月は日に日にふっくらと丸くなるだろう。



2024年11月03日(日) オムライス

文化の日。爽やかな秋晴れとなる。

気温は夏日だったが蒸し暑さを感じることもなく過ごし易い一日だった。

あやちゃんを独り残して出掛ける訳にもいかず一日中の家籠り。

休みの日はいつも朝からごろごろと寝てばかりいるのだが

今日は珍しく掃除に目覚め台所の片づけから始めた。

しかし杖なしでは10分も立っていられず直ぐにギブアップである。

左足が棒のように固くなりずきずきと痛むのだった。

無理をして頑張ってはいけないのだとつくづくと思う。

夫に弱音を吐いていたら掃除機を掛けてくれなんと助かったことだろう。


食器棚の横にはお菓子などが散乱しており何とも片付かない。

そうだと思いつきホームセンターへキッチンワゴンを買いに走った。

親切な定員さんが車まで運んでくれてとても有難くてならない。

杖を付かずに入店したのだがレジまで運ぶのが一苦労だったのだ。


娘が留守なので賞味期限切れのお菓子でも勝手に捨てる訳にはいかない。

とにかく片付けて置けば明日にでも娘が処分するだろう。

キッチンワゴンは正解だった。おかげですっきりと片付く。


午後には運送屋さんから電話があり注文していた食卓テーブルが届いた。

またまた大忙しとなり古いテーブルとの入れ替えである。

家を建てた時から使っており傷も多く脚もがくがくになっていた。

4人掛けのテーブルだったが今度は思い切って6人掛けとする。

もう家族6人で食事をすることはないが大は小を兼ねるだろう。

思いがけずに安価だったので買ったのだが何とベトナム製でおどろく。

けれども丈夫でかなり重くあやちゃんに手伝ってもらい組み立てた。

薄汚れた台所だったが新しいテーブルで見違えるようになる。

椅子は古いままだがまた余裕が出来たら新しくしようと思う。

娘達の反応はどうだろう。今更6人掛けなんてと言われること覚悟である。


娘からは何の連絡もなかったが夕食のこともあり私から電話した。

帰宅は遅くなるとのことで夕食は不要だそうだ。

あやちゃんのことは一言も言わない。気にもならないのだろうか。

私と夫は大いに気になっている。夕食は好物のオムライスを作った。


新しいテーブルで3人で食べようと思ったのだが

今日は気が向かないらしく「後からたべるけん」と部屋から出て来ない。

無理強いもいけないだろうとそっとしておいたら

私がお風呂に入っている間に部屋に運び独りで食べたようだった。

「おばあちゃん美味しかった」その一言が嬉しくてならない。

以前のようにつんつんと反抗的になることは一切なくなっている。

私が留守の平日にも茶の間へ来て夫とたわいない話をしているそうだ。


昨夜は夫が「寂しいのかもしれんな」とふっと口にした。

2歳からお姉ちゃんになってずっと甘えることを我慢して来たのだろう。

娘は手の掛かるめいちゃんに付きっきりでもう10年が経った。

それは当たり前のことかもしれないが「寂しさ」には違いないと思う。



階下が賑やかになって来た。娘達がやっと帰宅したようである。

真っ先に娘婿が二階に上がりあやちゃんに声を掛けていた。

そうでなくてはいけないのだとまた老婆心が騒いでいる。


何があっても我が家は平和だった。

家族のようで家族ではないのかもしれないがこの上なく幸せだと思っている。


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