爽やかな秋晴れであったが日中の気温は30℃に近かった。
湿度が低く今が一番過ごし易い季節なのだろう。
地場産市場の店先には「ビオラ」が並び始めた。
寒さに強い花なので春先まで楽しめるはずなのだが
まだ植える気にならず眺めるだけであった。
足が不自由になってから億劫なことがどんどん増えて行く。
身体を動かせば心も動くのだ。諦めてはいけないのだと思う。
絶好の行楽日和となり夫と意気投合しプチドライブに出掛けていた。
家に居ても退屈でごろごろと寝るばかりである。
土佐清水市から宿毛市へと向かい一時間半程の距離だった。
久しぶりに海を見る。陽を浴びてきらきらと輝きとても綺麗。
こうして出掛けると煙草から遠ざかっていられる。
まったく吸いたいとは思わないのだ。
もちろん禁断症状も出ず気分はとても良かった。
夫にはそんな話は出来ないが決して我慢しているのではない。
それを日常に当てはめれば禁煙など簡単なことに思える。
昼食はいつもの「一風」と決めて11時過ぎに到着したが
今日はどうしたことか12時開店の貼り紙がしてあった。
仕方なく四万十市内へと向かい国道沿いのレストランへ行った。
昔から「ひいらぎ」であったが店内は「ぞうさん亭」に変わっており
まるで初めて来たように戸惑ってしまう。
メニューはステーキとハンバーグがメインでラーメンなど在りはしない。
今更昔のことを言っても仕方なくステーキと海老フライのセットを頼んだ。
後から知ったことだが鉄板焼きの専門店になったのだそうだ。
家族連れが多くなんと賑やかなこと。夫の機嫌がいささか悪くなった。
待ち時間も長く苛々して来る。やっと運ばれて来たのだが
ステーキソースがやたら甘くどうやら子供向きのようであった。
海老フライは大きかったがナイフで切ると衣が剥がれてしまう。
夫の顔色が増々悪くなりなんとも居心地が悪い昼食となる。
食べ終えて外に出るなり「もう二度と来んぞ」と夫が言う。
私も同じであった。今日の昼食は大失敗だったと思う。
「一風」さえ開いていればこんなことにはならなかったのだが
何か事情があったのだろう。まあこんな日もあるものである。
帰宅して直ぐに卵と大根を茹でた。
今夜はおでんの予定で朝のうちに材料を買い込んであった。
お昼寝をし過ぎて目覚めたらもう4時。急いでおでんを仕込む。
弱火でぐつぐつと煮込めば家中にいい匂いが漂う。
なんと平和な匂いだろうと思った。おでん程の幸せがあるだろうか。
これから鍋料理が多くなるが「おでん日和」が一番である。
あれこれと思い悩むことも無きにしも非ず。
けれどももう過ぎ去った事だと思い封印しようとしている。
考えれば考えるほど納得がいかないことだった。
かと云ってもう何も伝えることが出来ない。
私はそれ程までに無礼な人間だったのだろうか。
10月とは思えない夏日が続いているが
真夏の猛暑に比べれば随分と過ごしやすく感じる。
朝顔はまだまだ元気。もしかしたら冬まで咲き続けるかもしれない。
その健気さが愛しくてならず咲いた朝のなんと嬉しいことだろう。
朝ドラ「カーネーション」を見てから急いで病院へ向かう。
7時からの受付なので少し出遅れ16番であった。
駐車場に友人の車を見つけ思いがけずに嬉しい。
待合室で肩を並べゆっくりと語り合うことが出来た。
彼女は昨年最愛のご主人を亡くされどれほど辛かったことだろう。
「日にち薬」だと励まして来たがずいぶんと明るくなっていた。
微笑みながら思い出話が出来るのも日にち薬のおかげだと思う。
県外に住む娘さんが同居を勧めてくれているらしいが
70歳までは働くのだと言ってなんとも頼もしかった。
けれども毎朝見送ってくれたご主人はもういない。
疲れて帰って来ても独りぼっちの孤独に耐えているようだった
明日は我が身だと思う。夫に先き立たれたら途方に暮れるしかない。
「最愛」とはそう云うことである。失うのが怖くてならなかった。
先に受診を終えた彼女を見送りやっと私の順番が来る。
血液検査の結果を持参していたが再度検査をした。
主治医は今日も穏やかな笑顔で接してくれなんと安らぐことだろう。
血液検査も整形外科より詳しい数値が出ていたようだ。
細菌感染は無く特に異常はないと聞き胸を撫で下ろした。
相変わらずの咳と声枯れが続いていたので喉を診て貰ったら
やはり赤くなっており軽い炎症があるとのこと。
それで白血球の数値が高くなっているようだった。
原因はもちろん喫煙である。医師も同意見であった。
しかし医師は禁煙を強要することをしなかった。
それはおそらく私の意思に任せると云うことなのだろう。
とうとうここまで来たかと思う。全てが自業自得なのであった。
受診を終えて駐車場に戻るなり立て続けに煙草を吸った。
「いけない、いけない」と思いつつ自制することが出来ない。
まるで麻薬のように支配されていることを思い知る。
断ち切らない限り永遠に悩み続けなければいけない。
酷く追い詰められていることをもっと自覚しなければと思った。
幸い「肺がん」の不安は薄れたが複雑な気持ちは募る。
油断していたらきっと落とし穴があるだろう。
その時に後悔してももう遅いのだ。
いったいこの先私はどうすれば良いのだろう。
ぐるぐると同じところを空回りしているような気がする。
爽やかな秋晴れであったがやはり今日も夏日となる。
寒さは苦手なので過ごし易く思うのだが
突然に寒くなるのだけは勘弁して欲しいものだ。
私にとって冬ほど怖ろしい季節はなかった。
血圧がぐんと高くなり卒倒するのではないかと不安でならない。
そのまま死んでしまえば諦めもつくが半身不随にでもなれば
夫や娘達にどれほど迷惑を掛けることだろう。
考えたくもなかったが負の感情がつのるばかりであった。
もっと楽観的に生きていけたらどんなにか楽だろうか。

仕事は来客が多く嬉しい悲鳴を上げていた。
午後一番にタイヤ交換を予約してくれていたお客様がお昼前に来る。
待たせるわけには行かず同僚がお昼休みを犠牲にしてくれた。
義父は最後の稲刈りの準備をしていたが「もう昼飯じゃな」と
居室に向かうなり直ぐに工場に戻って来る。
今朝仕掛けたはずのご飯が炊けていなかったのだそうだ。
うっかりして炊飯器のスイッチを押し忘れていたのだろう。
「炊けるまで待つ」と言っていたがあまりにも可哀想なので
急いでお弁当を買いに走った。一緒に同僚のお惣菜も買い求める。
同僚は3時からの通院を控えていたのでそのまま2時まで居てくれる。
どんなにかお腹が空いただろうと気遣わずにはいられなかった。
買って来ていたポテトサラダを見るなり3日連続だと苦笑いする。
独り暮らしなので毎日お惣菜を買っているのは知っていたが
昨日もポテトサラダだったとは知る由もなかった。
玉子焼きや煮物を詰め合わせたお惣菜セットも手渡す。
義父はお弁当を食べ終わるなり稲刈りに出掛けた。
やっと「十和錦」であるが猪の被害に遭っているので僅かである。
半日もあれば終わるそうで今日は手伝い手も居なかった。
籾米を軽トラックで運ぶのは私でも出来たのだが
今日は市の胸部レントゲン検診があり3時には退社しなければいけない。
義父は一人でも大丈夫と言うので手伝うことも出来なかった。
3時半には地元の集会所まで帰り着く。
胸部レントゲンのせいかいつになく緊張していたようだ。
もし異常が見つかれば4ヶ月以内に連絡があるのだそうだ。
頭から「肺がん」が離れない。とても4ヶ月は待てないと思った。
「死」の恐怖がひしひしと押し寄せて来るばかりである。
明日は主治医の診察があるそうなので受診することに決めた。
予約制ではないので早朝から出掛けなければならないが
藁にも縋る思いである。「大丈夫」の一言を聞きたくてならない。
ようく調べたら白血球の数値はストレスでも高くなるのだそうだ。
今のところ大きなストレスはないが「隠れストレス」の可能性もある。
とにかく信頼している主治医に委ねるしかないだろう。
死んでしまえば全て終りだが生きてさえいればまだ未来がある。
目標は米寿であった。あと20年の命がどうか叶いますように。
朝の肌寒さもつかの間。日中は今日も夏日となった。
時おり雲が広がったものの陽射しは強く暑さを感じる。
今朝は朝顔が咲いており嬉しくてならず
めいちゃんに見せようと外から呼んでいたら
娘から「朝からうるさい」とお叱りを受ける。
めいちゃんが一年生の時に学校から貰って来た朝顔なのだ。
こぼれ種であってもめいちゃんの朝顔に違いないのだけれど。
今朝はもうひとつ嬉しいことがあってSNSの例の方が
私の詩を読んでくれたらしく反応があった。
もうこれで大丈夫だと思ったのだ。これからも繋がっていられると。
ここ数日のわだかまりが一気に消えなんとほっとしたことだろう。
しかし午前中に思いがけないメールが届く。
先日のいざこざの時に私が発した言葉を酷く気にしているようだった。
これはいけないと思ったが仕事中で忙しく直ぐに返信出来なかったのだ。
何としても丸く収めなければと焦る。このままでは取り返しがつかなくなる。
お昼になるのを待ち兼ねてメールのページを開いて唖然とした。
「私のような無礼な人はブロックします」と追ってメールが届いていた。
直ぐに返信するべきだったのだ。時はもう遅かりきである。
確認すると確かにブロックされておりもう返信も出来なくなっていた。
その方の投稿も一切見ることが出来ず完全なシャットアウトである。
今朝の嬉しさもありなんだか寝耳に水のような出来事であった。
よほど傷ついていたのだろうと思う。それは私以上にである。
わずか5ヶ月のふれあいであったがずっと昔から知っている方のように思えた。
だからこそ一気に親しくなれたのだろうと思う。
今回のことはその親しさが裏目に出てしまったのかもしれない。
結局は取り返しのつかない事となりお互いが傷つくことになってしまった。
その後で気づいたのだが昨夜私が寝入った後に短歌を読んでくれていたようだ。
コメントを頂いていたのに今朝は全く気づかなかった。
それも返信なしのままなのでまるで無視したような結果となっていた。
今更悔やんでもどうしようも出来ないが悔やんでも悔やみきれない。
「ブロック」は度重なる私の落ち度のせいとしか思えなかった。
もう詫びることも出来ない現実に圧し潰されてしまいそうだった。
心優しく繊細な方だったのだ。心は脆くとても傷つきやすい。
その上に信頼し合っていたのだから裏切られたように思ったのだろう。
けれども私は仕打ちだとは思わない。彼のことは一生忘れはしない。
不穏なSNSの世界で彼ほど信じられる方が他にいただろうか。
もう十分に悲しんだ。後はただひたすらに生き抜くだけである。

週一のリハビリのあった日。今日はリハビリ後に診察があった。
先日の血液検査の結果が出ており医師も心配顔である。
白血球の数値が異常に高く内科での再検査を勧められた。
これも寝耳に水であった。足の痛みはあってもこんなに元気なのにと思う。
白血病。がん。心筋梗塞。どれも可能性があるらしい。
まさか整形外科でそんな話を聞く事になろうとは夢にも思っていなかった。
帰宅して早速ネットで調べてみたが間違いではなかった。
なるべく早い方が良いだろう。内科の主治医に相談しなければならない。
一瞬怖ろしくなってしまって「死ぬのか」と思った。
喫煙が原因で「肺がん」になっているのではないか。
いや「心筋梗塞」も在り得る。全て煙草のせいとしか云いようがない。
今すぐ止めなくちゃと思いつつ引っ切り無しに吸ってしまうのだ。
なんだか気が狂ったようである。まるで自殺行為としか思えない。
死ぬのなら書かなくてはならない。詩を短歌をこの日記も。
私が「わたし」として生きていたことを残して置きたくてならない。
久しぶりの快晴。朝は19℃と少し肌寒く感じたが
日中は25℃を超え10月とは思えない夏日となった。
北海道では氷点下の処もあったそうで驚く。
関東では初冬の寒さとなり札幌よりも気温が低かったらしい。
日本は小さな島国であるが地域によってこんなにも差があるのだ。
朝の山道ではお遍路さんが二人。一人は逆打ちであった。
どちらも荷物は小さく近辺の宿に泊まっていたのだろう。
以前はよく野宿のお遍路さんを見かけたが最近は殆ど見ない。
Mさん以外にも顔見知りの職業遍路さんが何人か居たのだが
何処かの町で居を定め落ち着いているのかもしれない。
風の噂でGさんは癌を患っていると聞いたことがあったが
治療をするにも托鉢暮らしでは病院にも行けなかったことだろう。
何とも憐れで不憫でならない。それもGさんの選んだ人生である。
Wさんは父の命日に二年続けて会いお経を唱えてくれたことがあった。
Wさんも所持金が少なく一日一食を貫き栄養失調になっていた。
「いつ死んでも良いのだ」と言った。寂しげな顔が忘れられない。
お大師堂から足が遠のきもう2年が過ぎたようだ。
これまで頂いた沢山のご縁は私にとって人生の宝物に他ならない。

仕事は今日もぼちぼちの忙しさであった。
義父は昨夜飲み過ぎたらしく二日酔いでお昼まで寝ていた。
よほど嬉しかったのだろう。飲み会は義父の一番の楽しみである。
けれども81歳になった高齢者にはいささか厳しさもあるのだろう。
車検整備が完了した車があったのでお昼のうちに車検を終わらす。
私のお昼休みはなかったがいつものことであった。
一時からは国会中継を見たいと言いまた居室へと戻って行く。
午後は来客があり早目には終れず3時過ぎに退社した。
FMラジオは「谷村新司特集」でしみじみと耳を傾ける。
昨日が命日だったのだ。何と惜しい命だったことか。
けれども歌声は永遠に残り癒し続けてくれるだろう。
買い物を済ませ4時過ぎに帰宅した。
めいちゃんの友達が遊びに来ており二階は賑やかである。
水曜日は下校時間が早いので思う存分に遊べるのだ。
他の日は宿題に悩まされており可哀想でならない。
昔は学校から帰るとランドセルを放り投げ夕方まで遊んだものだ。
今の子供達は帰宅しても勉強である。そんな世の中になってしまった。
洗濯物を畳みながら「破れ奉行」を見たがもうラストに近かった。
悪者を成敗する時に奉行が「てめえ達を斬る」と大声で叫ぶ。
片っ端し斬り殺すのだが決して血を見せないのが良い処である。
きっと女子供が見ても怖がらないように配慮されているのだろう。
「配慮」は大切に思う。それは人を思い遣ることに等しい。
SNSで受けたダメージは未だ消えずにいるが
今日はその人の誠実さをつくづくと感じた。
発信されているポスト(投稿)に共感せずにはいられないのだ。
真から心根の優しい人なのだろう。そうしてとても正直であった。
だからこそ私に対しても本音をぶつけて来たのだと思う。
お互いが傷つけ合ってしまったのだ。私の落ち度もかなり大きい。
遠ざかるべきではないのだと今日は思った。
何かの仕打ちのように容易く後姿を見せてはいけない。
「配慮」あってこその縁である。たったひとつきりの魂ではないか。
二十四節気の「寒露」露が冷たく感じられる頃。
秋は日に日に深まっているようにも感じるが
日中は25℃とまだまだ夏の名残がある。
都心では一気に気温が下がり寒さを感じたようだ。
朝の道の秋桜もほぼ満開となり心を和ませている。
峠道に差し掛かる手前の地区にはお遍路さんの休憩所があるのだが
数日前から溢れんばかりの秋桜が花瓶に活けられている。
地元の方の温かなもてなしに頭が下がる思いである。
残念ながらお遍路さんの数は少ない。今朝も一人も見かけなかった。
おそらくこの夏の猛暑で出足が鈍っているのだろう。
秋が深まれば一気に増えるのではないだろうか。
そう云えば職業遍路のMさんにしばらく会っていない。
最後に会ったのはいつだったか忘れるほどである。
初孫が生まれて娘さんが同居を勧めてくれていると言っていた。
迷っている風であったが山梨へ帰ったのかもしれない。
10年以上も毎日歩き続けて来たのだ。
ゆっくりと休み穏やかな老後を過ごしてくれていたら何よりに思う。

今日は義父の81歳の誕生日だった。
そわそわと落ち着かないのは自動車免許の更新が気になっていたようだ。
高齢者講習は既に終えており合格していたのだが
ずっと目の調子が悪く不合格になるのではと不安だったようだ。
どうしようどうしようと迷っていたが決心したのか午前中に出掛けた。
お昼にはにこにこと笑顔で帰って来て合格とのこと。
私も嬉しくてならず義父と一緒に喜び合った。
免許を失効してしまえば仕事も出来なくなってしまうのだ。
それだけはあってはならないことである。
今夜は友人たちが誕生日のお祝いをしてくれるそうで楽しみにしていた。
今頃は大いに酔っぱらって盛り上がっていることだろう。
独居老人ではあるが友人に恵まれており有難いことである。
午後には仕事が一段落していたので2時半過ぎに退社した。
4時前には帰宅しておりゆっくりと寛ぐことが出来る。
もちろん「破れ奉行」も見た。何度見ても面白い。
20年以上も昔の時代劇だがとても新鮮に感じる。
今は時代劇そのものが廃れておりとても残念でならない。
頭から離れないのは「太平楽」であった。
神経質な私にとって人から言われたことはかなり尾を引く。
もちろんそう言われたのはこれまで生きて来て初めてのことだった。
「勝手気ままに振る舞うこと」「でたらめな言い分」など。
周りの状況や他の人の様子を気にせずに、悠長に過ごしているさまや
好き勝手な言動をあらわす言葉なのだそうだ。
SNSで最も信頼していた人からそう言われたのだからダメージは大きい。
最初は時が経てばと思っていたがどうやら修復は無理なようである。
昨日から一切の繋がりが絶えてしまったようだ。
哀しみよりもこんな理不尽なことがあるのかと嘆くばかりである。
去る者は追わない主義なので私も後姿を見せるしかない。
いったい誰だったのだろうと思う。私が出会った「魂」とは。
今日も天気予報が外れおおむね晴れとなる。
山里では午後にわか雨が降ったが市内は降らなかったそうだ。
「洗濯物がかり」の夫にとっては乾く乾かないが重要な問題のようだ。
今朝はどんよりと曇っていたのでまた乾燥機に放り込んでしまった。
7時50分出勤。外に出ると朝顔が咲いており嬉しくてならない。
愛でる時間はなかったが声を掛けてから出掛ける。
花にも「こころ」があるような気がしてならない。
目も耳も口もあるのではないだろうか。
昼間は10月とは思えないほどの暑さとなった。
まだ事務所にはエアコンが必要でいったいいつまでだろうと思う。
長期予報では11月になると一気に寒くなるのだそうだ。
このままでは冷房と暖房がバトンタッチしそうである。

さあ仕事と意気込んでいただけになんと面白いことだろう。
後から後からする仕事があり忙しさを愉しんでいた。
金曜日には一日がかりで登録に行っていた義父もほっと寛いだ様子。
新しい運搬車のナンバーは「1010」であった。
古い運搬車も車検があるのでこれからは2台となるのだが
自動車税など経費を考えると少しばかり頭が痛い。
けれども義父の嬉しそうな顔には負けてしまうのだった。
義父と相談し古い方は農機具用に。新しい方は顧客専用とする。
事故車などを運搬するとかなりの利益が生じるのだった。
義父と顔を見合わせ「どんどん儲けようぜ」と笑い合った。

市役所に臨時ナンバーの返却に行かねばならず2時半過ぎに退社。
M君は対応中で忙しそうにしていたので声を掛けられず残念だった。
仕事ぶりはとても頼もしく若い頃のM君とは別人にも思える。
情報処理の専門学校を出ており頭脳明晰と見た。
しかも明徳義塾高校卒である。身障者であっても彼は本当に凄い。
若い頃にはまともな就職に恵まれずどれほど苦労したことだろう。
障害者施設で毎日リサイクルの空き缶を踏み潰していた頃もあった。
今思えばどんなにか惨めで辛かったことだろうと思う。
障害者雇用は社会的問題になっているが彼は「光」になったのだ。
4時に帰宅。洗濯物を畳みながら夫と「破れ奉行」を見ていた。
私は子供の頃から血を見るのが苦手であった。
残虐なシーンなどあると逃げてしまいたいほど怖くてならない。
目を背けてはならない史実であってもそれは同じである。
それがどうして許されないことなのか分からなかった。
SNSのその人は「太平楽」と言ったのだ。
「平和な国の民の特権」だとも言った。
確かに私は平和な国の民である。もちろん戦争も知らない。
それではいけないと云うのなら私はどう生きれば良いのだろう。
毎朝般若心経を唱えながら「どうか家族をお守りください」と手を合わす。
それはおそらく私が死ぬまで続くことではないだろうか。
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