小雨が降ったり止んだり。その割に気温は高くなんとも蒸し暑かった。
台風の影響なのだろう。生温い風が吹き海鳴りも聴こえる。
轟々と飛行機の爆音に似て思わず空を仰ぐほどだった。
台風は現在奄美地方の南を北上しており本土には影響がなさそうだが
またフィリピン沖に新たな台風の卵が発生しており油断は出来ない。
台風14号となれば本土に近づく恐れがあるかもしれない。
朝食時にNHKを見ていたら俳人の「夏井いつき」さんが出演していた。
テレビではよく見かける方で上品な顔立ちに似合わずユーモアも備えている。
はて?年齢はいくつくらいだろうと夫と語り合っていた。
夫は80歳位ではないかと云う。私はまだ70代ではないかと思う。
白髪頭をひっつめており老けて見えるがなんと溌溂としていることか。
食後気になってならずネットで調べてみたらとても驚く。
なんと見た目よりずっと若く私よりも年下の67歳であった。
愛媛県愛南町の出身で若い頃から国語教師をしていたとのこと。
退職した現在は松山市に在住しているのだそうだ。
愛南町と云えば宿毛市からすぐの県境の町でとても身近に感じる。
そこで潮風に吹かれながら少女時代を過ごしたのであろう。
同時代を生きて来たのだと思うと一気に親近感が湧いて来たのだった。
俳人として名を上げ今では芸能界でも有名な方である。
同年代とは云え私とは雲泥の差であった。
これは憧れずにいられない。今日からファンになろうと思う。
まるで星のような方に思えてならなかった。
運の良し悪しではないのだ。才能あってこその成功なのではないだろうか。

今日はめいちゃんの10歳の誕生日であった。
我が家で生まれ我が家ですくすくと成長した可愛い孫である。
良く気が利く優しい子に育ってくれてなんとも感慨深かった。
今夜はお祝いをと考えていたのだが娘に却下される。
そんなこともあるだろうと思っていたのでショックではなかった。
家族で焼き肉を食べに行くのだと夕方出掛けて行く。
当然であるかのようにあやちゃんは留守番である。
またまたそこで老婆心が芽生えて来てしまうのも無理はないだろう。
ステーキを焼いていたのであやちゃんを誘ったのだが
「今は食べたくない」と言い張り部屋から出て来てはくれなかった。
家族断絶とまではいかないが哀切が漂うような夕暮れ時であった。
娘達はもう帰宅していて今からケーキを食べるようだ。
もちろんお誘いはないので少しいじけながらこれを記している。
もうどうでもいいやと不貞腐れているのかもしれない。
この10年はあっという間の歳月だった。
今ではどちらが居候なのか分からなくなってしまったが
私達夫婦も老いに任せ随分と小さくなったように思う。
老いては子に従えと云うがなんだか酷く粗末に扱われている気がする。
いつだったかめいちゃんが「家族の絵」を描いてくれたことがあった。
その絵は宝物のように今も壁に飾ってあるのだが
真っ先に「おじいちゃん、おばあちゃん」を描いてくれていた。
めいちゃんにとっては私達も家族なのだろう。
それだけが救いであり私達夫婦の励みになっている。
歳月は流れるばかり。10年後のめいちゃんに会いたくてならない。
晴れたり曇ったり。相変わらずの厳しい残暑であった。
明日から明後日に掛けては雨になりそうだ。
台風が南の海上を北上しているせいなのかもしれない。
そのせいか九州北部では9月とは思えない猛暑となったようだ。
37℃を超え体温を超えるような危険な暑さである。
職場の百日紅は殆ど散ってしまったが
大きな樹ともなるとそのぶん生命力が強いのだろう。
まだ鮮やかに咲いている樹をあちらこちらで見かける。
「百日」と云われているがおそらくもう過ぎているのではと思う。
紅だけではなく白い花もありそのコントラストは見事であった。
彼岸の入りも近くなり例年なら彼岸花が咲き始める頃だが
今年は暑さのせいだろうかまだ見ることが出来ない。
昔はお墓の近くによく咲いていた。根に毒があるので
遺体を野生動物から守るための知恵だったのだろう。
血を吸って紅くなる「死人花」とも呼ばれていたのはそのせいである。
子供の頃には触れてはならない怖い花であったが
そう教えてくた祖母が亡くなった時に「紅い道」を目にしたのだった。
その記憶があまりにも鮮やかで彼岸花を見ると祖母を思い出すようになった。
今年も命日が近くなった。あの「紅い道」はきっと今もあるだろう。

義父が精力的に動いてくれたおかげで仕事が大いに捗る。
例の大口の入金は来週早々には振り込まれるようだ。
もう思い悩むこともない。どれほど助かることだろうか。
溺れる者は藁をもつかむと云うが溺れる寸前で救助されたのである。
同僚が通院のため早退。私も少し早めに退社した。
ラジオからは山口百恵の「秋桜」が流れていたが
カラオケの十八番だったのはいつの事かもう歌うことも出来なかった。
それがなんだか情けなくて秋桜を聴きながら目頭が熱くなる。
同時にもう母がこの世にいないことをしみじみと感じた。
買い物を済ませ4時前に帰宅。直ぐに二階の自室に籠る。
制限時間は30分であったが今日は15分で短歌が書けた。
相変わらず良し悪しは分からないが自分では満足である。
さらりっと書けた時はいつもそうでなんとも心地よいのだった。
考えれば考えるほど書けなくなる。それは詩も同じである。
ようするに「発作」なのだろう。これは私の持病かもしれない。
親子雲寄り添う空に名残り陽が初秋を告げて後を追う風
ボート部の一年生かぎこちなく四万十下る川面光らせ
目に映る風景だけが頼りなり詠み人になる老いた我が身も
三首目の通り目に映る風景だけが頼りだった。
午後6時30分。黄昏ていく西の空を仰いでいる。
5時前にはまるでイルカのように大きな雲が浮かんでいた。
あの雲は何処に消えてしまったのだろうと不思議でならない。
朝の道に民家があると必ずと云って良いほど鶏頭が咲いている。
夏から咲いていることもあるが秋を代表する植物であった。
花に見える部分は花ではなく隠れた部分に花を咲かすのだそうだ。
鶏の頭のような色づいた部分は「花序」と呼ばれ
その根元の「帯化」した部分に「花びらのない」小さな花が咲く。
調べてみると本当に今まで知らなかったことばかりでおどろく。
そうだ、たった今思いついたのだが庭先に鶏頭を植えてみたらどうだろう。
夏すみれが枯れてしまったので庭に秋を招いてみようと思うのだ。
思い立ったら早い方が良い。週末に苗を買い求めて来よう。

整形外科のリハビリの日だったが予約時間が4時半と遅く
すっかり帰宅が遅くなってしまった。
リハビリ前に骨密度の検査があり結果は順調とのこと。
足腰よりも腕の骨が強くなっているのだそうだ。
素人考えだがカーブスの筋トレが効いているのではないだろうか。
何事も続けてみるべきなのだなと思った。
しかし「骨粗しょう症」が完全に改善されたわけではない。
もし転倒すれば必ず骨折するようなレベルらしかった。
転ばぬ先の杖である。とにかく慎重に行動しなければいけない。
骨を強くする薬はまだまだ必要であった。
「ほっかほか亭」に寄りおかずのみ買って帰る。
娘達が夕食は不要と言ってくれていたので大助かりだった。
夫に焼き肉。私は好物のチキン南蛮にする。
店員さんとはすっかり顔なじみになりもう常連であった。
帰宅したら思いがけずに娘の車がありおどろく。
病院は休診ではなかったが休みが取れたのだそうだ。
洗濯物を畳んでくれておりなんと助かったことだろう。
大相撲を観ながら夕食。大の里が連勝で嬉しい。
食後の食器洗いも無くずいぶんと楽をさせてもらった。
入浴前に短歌を書く。今日は2首がやっとだった。
相変わらず大した短歌ではないが書けた時の達成感が大きい。
「出来ることを」と思っている。それが出来たのだから上等だ。
決して時間が有り余っているわけではなかった。
その限られた時間をいかに有効に使うかだろう。
ぎりぎりの瀬戸際であっても書こうと思えば書けるのだった。
諦めてしまったらもうそこでお終いである。
日々、自分で自分を試しているようなものであった。
茜雲イルカのように浮かんでは静止している声も出さずに
沈む陽に今日の私を重ねては落ちてはならぬ生きてこそ明日
お粗末なのかもしれないが
私は2首目が好きだなと思う。
朝はどんよりとした曇り空だったが次第に晴れて来る。
猛暑日にこそならなかったが厳しい残暑となった。
最近よく見かけるのは「仙人草」の純白の花である。
写真を載せられないので分り難いと思うが
蔓状になっており木やフェンスなどに絡みついている。
属名「クレマチス」別名「馬の歯落とし」「牛食わず」とも云われ
可憐な花に似合わず有毒植物なのだそうだ。
花から長い毛が伸びておりそれが仙人の髭に似ていることから
「仙人草」と呼ばれるようになったらしい。
見慣れた花でも調べてみると知らないことがいっぱいあって面白い。

頭を悩ませていた資金繰りの目途がなんとか立ちそうになった。
とにかく売上次第なのだが近いうちに大口の入金がありそうなのだ。
今日は義父に助けてもらいながらその段取りをしていた。
私一人では前へ進めなかっただろう。社長あってこその私である。
目の前が明るくなりもう思い悩むまいと思う。
まだ大船に乗った気分にはなれないが桟橋に立っているのだろう。
きっと何とかなるとやっと思えるようになった。
海は荒波である。やがて辿り着くであろう島影が遠くに見えている。
午後は来客があり忙しかったが3時に退社した。
楽しみのFMラジオは1950年代の特集をしており
「黄色いさくらんぼ」とは何と大昔の曲に思える。
私が4歳の頃に流行した曲なのだそうだ。
おそらく母が口ずさんでいたのだろう。不思議と歌詞を憶えていた。
父も母も歌がとても好きだった。懐かしい記憶が溢れて来る。
買い物を済ませ4時に帰宅。制限時間は30分であった。
とにかく短歌しかない。書かずに一日を終えるわけにはいかない。
自分に課すと云うことは生半可な気持ちでは済まされなかった。
「ようし書くぞ」と思う。今日こそはまともな短歌を書きたかったのだ。
けれども「まとも」とはいったい何を基準にしているのだろう。
私がまともでないことは既に知り渡っているのではないかと思う。
「ええい、つべこべ言うな」そこで開き直るのが私であった。
夏雲を見上げながらの帰り道明日は秋なら歌を詠おう
絡みつき緑を覆う純白を仙人草と誰が名付けた
相応しいことなのだろう青空に鯨のような雲を浮かべて
いったい何処がまともなのだろうか。
真夜中に久しぶりの雨音。明け方にはもう止んでおり
日中も殆ど降らないまま日が暮れてしまった。
一雨ごとに秋らしくなるのではと期待していたが
明日は晴れてまた厳しい残暑になりそうだ。
やはり彼岸までなのだろう。もう少しの辛抱である。
今朝は義父が飼っているメダカの鉢にホテイアオイの花が咲いていた。
一輪だけであったがまるでメダカの学校の先生のようである。
朝からほっこりと心が和む。きっと明日も咲いてくれることだろう。

仕事はそこそこの忙しさであったが資金繰りが苦しく頭を悩ませてる。
10月から開始されるOBD検査のため設備投資が必要であった。
国から3分の1は補助金があるのだが全て支払ってからとのこと。
とにかく先に資金を準備しなければ先に進めないのである。
義父も先日大枚をはたいて運搬車を買ったばかりでとても余裕などなかった。
金庫番の責任は重く「足りない」ではとても済まされないのだ。
いざと云う時のため蓄えている資金はあるのだが
それを使ってしまったらもう経営資金が底を尽いてしまうのだった。
まあ後は何とかなるだろうと思うほど私は楽天家ではなかった。
しかし負けるわけにはいかない。何としてもこの山を乗り越えなければ。

2時半に退社。内科の薬が切れるので病院へ寄り処方してもらう。
薬の量が多いので高額となりけっこう痛い出費となった。
70歳になれば負担額が減るのだそうだ。もう少しの辛抱である。
これほどの薬をと思うがそのおかげで元気でいられるのだろう。
血圧は正常値が続いており精神疾患も今のところ大丈夫だった。
買い物を済ませ4時に帰宅。夫は大相撲中継に夢中である。
「子連れ狼」は録画して翌日の昼間見ているのだそうだ。
私は見ることが出来ず残念だが仕方あるまい。
30分と時間を決めて自室に籠り短歌を書いた。
雨は降っていないのに降っていることにしたりして滑稽である。
雨の光景を目に浮かべながら書くのだ。殆ど妄想に等しい。
当然のようにろくな短歌は書けなかった。
それでも即発信するのだから私も相当落ちぶれたものだ。
けれども「書く」と云う姿勢は誇りに思いたい。
どんなに忙しくてもどんなに疲れていても「書く」のだった。
そんな自分を死ぬまで見守ってやりたい。
限りある命を楯に突き進む例え今日が最後の日でも
めだか鉢ホテイアオイの一輪が師の如く咲く声高らかに
対岸の山を霞めて降る雨はいったい何を隠すのだろう
お粗末でした。
今日は昭和99年の9月9日なのだそうだ。
平成、令和と年号が変わったが昭和の時代を感慨深く思い起こす。
私は昭和31年に生まれたが戦後の復興期だったようだ。
ベビーブームでもあり沢山の子供達が命を授かった。
戦争の傷跡も知らず誰も教えてはくれなかった気がする。
悪く云えばぬくぬくと育って来たのだろう。
父は16歳で終戦を迎え母はまだ7歳の子供だった。
もし終戦が長引いていたら父は戦地へ行っていたことだろう。
今朝は夏すみれにたっぷりと水を遣り出掛けた。
しかし帰宅して愕然とする。もうぐったりと枯れ始めていた。
土から根が浮き上がっているのだ。水の遣り過ぎだったのかもしれない。
なんとも憐れで涙が出そうになった。そうして自分を責めるばかり。
やはり私は花を育てるのが無理なのかもしれない。
手入れが行き届かず結局は可哀想な目に遭わせてしまうのだ。

仕事の手を休めながら母の一周忌の段取りをしていた。
そろそろ親族に案内もしなければならず手抜かりがあってはならない。
実は義祖母の7回忌も一緒にすることになっており
それは義父と話し合って決めた事であった。
弟が家族総出でやって来るらしくそれとなく相談したのだった。
今回は弟夫婦だけが良いのではないかと話したのだが
私の言い方が悪かったのだろう。弟を怒らせてしまったのだった。
「もう行くのは止める」と言い出し困ったことになった。
弟としては娘達夫婦、孫も一緒にと楽しみにしていたのだろう。
けれどもそれでは決まりが悪く遠慮すべきだと思ったのだ。
総勢6名である。法要後の会食の段取りもあり頭を悩ませていた。
弟達は「お供え」のお包みを一切しないのである。
それが当たり前のように思っておりいささか非常識であった。
しかし決して裕福ではない弟達に強制することは出来ない。
亡き母は実母であっても義父とはあくまでも義理の仲である。
義父は大らかな人であるがやはり義理を通すべきだと思うのだ。
そんな私の気持ちは残念ながら弟には伝わらなかったらしい。
「来ないならもういい」と思う。弟とはしばらく距離を置くことにした。

仕事が一段落していたので2時半に退社する。
時間の余裕があることは嬉しいことであった。
4時前には帰宅しており焦ることもなく短歌を書く。
良し悪しなど全く考えずに好きなように書いた。
いつだって自然体で在りたい。自分らしく在りたいと思う。
誰かに認められるために書いているのではないのだ。
私が「わたし」を認めるために書いているのだと思う。
夕立ちを連れて来るのか夏雲は山にぶつかり涙を流す
朝顔がまだこれからと手を伸ばす季節外れの花となるため
夏すみれとうとう尽きて憐れなり奇跡の雨を待つ定めかな
午後7時53分渇いた心を潤すように雨が降り始めた。
午後6時40分。ほうずき色の空にか細い三日月が浮かんでいる。
まるで絵本のような風景をうっとりと眺めているところだ。
朝晩の涼しさは日に日に増しているが日中は厳しい残暑となる。
江川崎では今日も36℃を超え猛暑日だったようだ。
全国一かなと思いきや上には上があるもので熊本市がトップだった。
暑さに勝ち負けはないがついつい気になってランキングを見てしまう。
朝食時、夫が久しぶりにラーメンを食べに行くかと言ってくれ嬉しい。
宿毛市郊外の「一風」まで20分程だがドライブも楽しみであった。
車中では娘達の噂話である。「いったいいつまで居座るのか」などと
家では話せないことを意気投合して語り合うのだった。
お互い肩身の狭い思いをしておりそろそろ限界を感じている。
「一風」ではラーメンセットを注文した。
けれどもいつもと何となく違う。
ラーメンに煮卵が入っていなかったり炒飯も味が薄かった。
もちろん文句など云えず黙々と食したのだが
調理を手伝っている奥さんが不慮の怪我で足を骨折しているのだそうだ。
全治一ヶ月とのことどんなにか不自由を強いられていることだろう。
パートの女性が手伝いに来ていたが奥さんと同じにとはいかない。
かなり高齢のようで腰が曲がっているのが見えた。
どんな時もあるものだ。それでも必死の思いで切り盛りしているのだろう。
いつもと味が違うなどとどうして云えようか。
月末に母の一周忌を控えており会食の予約を済ませて来たが
その頃には奥さんも復帰出来そうでほっとした。
忙しい目に遭わせてしまうが他に頼るところもないのだった。

満腹になっていたせいか午後はひたすら寝て過ごす。
自分でも異常ではないかと思うほど酷い眠気だった。
午後4時前にやっと目覚める。なんとも気怠い。
よっこらしょと起き上がり日課の短歌を書くことにした。
しかし頭の中が真っ白になっており何も浮かんで来ないのだ。
上の句は出来ても下の句が出来ない。正直辛かった。
こんな思いをしてまで書かなければいけないのかと思う。
強制しているのは他の誰でもない自分自身なのである。
そんな自分を無視することがどうしても出来ない性分であった。
負けるもんかと思う。何としても書き上げようと努力する。
40分かかりやっと3首書き終えた時には心地よい達成感があった。
ネットの海に浮かべると雑魚であってもすいすいと泳ぐ。
鯛やヒラメには敵わないが海でしか生きられないのである。
その「いのち」をどうして粗末に出来ようか。
花すべりそろそろ顔を伏せる頃昼間の夢は恋だったのか
灼熱を鎮めるように吹く風は夏を追いやる息ほどの秋
猫じゃらしゆらゆら揺れて語り合う野に一筋の光を求め
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