ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年09月12日(木) 落ちてはならぬ

午後6時30分。黄昏ていく西の空を仰いでいる。

5時前にはまるでイルカのように大きな雲が浮かんでいた。

あの雲は何処に消えてしまったのだろうと不思議でならない。


朝の道に民家があると必ずと云って良いほど鶏頭が咲いている。

夏から咲いていることもあるが秋を代表する植物であった。

花に見える部分は花ではなく隠れた部分に花を咲かすのだそうだ。

鶏の頭のような色づいた部分は「花序」と呼ばれ

その根元の「帯化」した部分に「花びらのない」小さな花が咲く。

調べてみると本当に今まで知らなかったことばかりでおどろく。


そうだ、たった今思いついたのだが庭先に鶏頭を植えてみたらどうだろう。

夏すみれが枯れてしまったので庭に秋を招いてみようと思うのだ。

思い立ったら早い方が良い。週末に苗を買い求めて来よう。




整形外科のリハビリの日だったが予約時間が4時半と遅く

すっかり帰宅が遅くなってしまった。

リハビリ前に骨密度の検査があり結果は順調とのこと。

足腰よりも腕の骨が強くなっているのだそうだ。

素人考えだがカーブスの筋トレが効いているのではないだろうか。

何事も続けてみるべきなのだなと思った。

しかし「骨粗しょう症」が完全に改善されたわけではない。

もし転倒すれば必ず骨折するようなレベルらしかった。

転ばぬ先の杖である。とにかく慎重に行動しなければいけない。

骨を強くする薬はまだまだ必要であった。


「ほっかほか亭」に寄りおかずのみ買って帰る。

娘達が夕食は不要と言ってくれていたので大助かりだった。

夫に焼き肉。私は好物のチキン南蛮にする。

店員さんとはすっかり顔なじみになりもう常連であった。


帰宅したら思いがけずに娘の車がありおどろく。

病院は休診ではなかったが休みが取れたのだそうだ。

洗濯物を畳んでくれておりなんと助かったことだろう。


大相撲を観ながら夕食。大の里が連勝で嬉しい。

食後の食器洗いも無くずいぶんと楽をさせてもらった。

入浴前に短歌を書く。今日は2首がやっとだった。

相変わらず大した短歌ではないが書けた時の達成感が大きい。

「出来ることを」と思っている。それが出来たのだから上等だ。

決して時間が有り余っているわけではなかった。

その限られた時間をいかに有効に使うかだろう。

ぎりぎりの瀬戸際であっても書こうと思えば書けるのだった。

諦めてしまったらもうそこでお終いである。

日々、自分で自分を試しているようなものであった。


茜雲イルカのように浮かんでは静止している声も出さずに

沈む陽に今日の私を重ねては落ちてはならぬ生きてこそ明日


お粗末なのかもしれないが

私は2首目が好きだなと思う。



2024年09月11日(水) 黄色いさくらんぼ

朝はどんよりとした曇り空だったが次第に晴れて来る。

猛暑日にこそならなかったが厳しい残暑となった。


最近よく見かけるのは「仙人草」の純白の花である。

写真を載せられないので分り難いと思うが

蔓状になっており木やフェンスなどに絡みついている。

属名「クレマチス」別名「馬の歯落とし」「牛食わず」とも云われ

可憐な花に似合わず有毒植物なのだそうだ。

花から長い毛が伸びておりそれが仙人の髭に似ていることから

「仙人草」と呼ばれるようになったらしい。

見慣れた花でも調べてみると知らないことがいっぱいあって面白い。




頭を悩ませていた資金繰りの目途がなんとか立ちそうになった。

とにかく売上次第なのだが近いうちに大口の入金がありそうなのだ。

今日は義父に助けてもらいながらその段取りをしていた。

私一人では前へ進めなかっただろう。社長あってこその私である。


目の前が明るくなりもう思い悩むまいと思う。

まだ大船に乗った気分にはなれないが桟橋に立っているのだろう。

きっと何とかなるとやっと思えるようになった。

海は荒波である。やがて辿り着くであろう島影が遠くに見えている。


午後は来客があり忙しかったが3時に退社した。

楽しみのFMラジオは1950年代の特集をしており

「黄色いさくらんぼ」とは何と大昔の曲に思える。

私が4歳の頃に流行した曲なのだそうだ。

おそらく母が口ずさんでいたのだろう。不思議と歌詞を憶えていた。

父も母も歌がとても好きだった。懐かしい記憶が溢れて来る。


買い物を済ませ4時に帰宅。制限時間は30分であった。

とにかく短歌しかない。書かずに一日を終えるわけにはいかない。

自分に課すと云うことは生半可な気持ちでは済まされなかった。

「ようし書くぞ」と思う。今日こそはまともな短歌を書きたかったのだ。

けれども「まとも」とはいったい何を基準にしているのだろう。

私がまともでないことは既に知り渡っているのではないかと思う。

「ええい、つべこべ言うな」そこで開き直るのが私であった。


夏雲を見上げながらの帰り道明日は秋なら歌を詠おう

絡みつき緑を覆う純白を仙人草と誰が名付けた

相応しいことなのだろう青空に鯨のような雲を浮かべて


いったい何処がまともなのだろうか。








2024年09月10日(火) ホテイアオイ

真夜中に久しぶりの雨音。明け方にはもう止んでおり

日中も殆ど降らないまま日が暮れてしまった。

一雨ごとに秋らしくなるのではと期待していたが

明日は晴れてまた厳しい残暑になりそうだ。

やはり彼岸までなのだろう。もう少しの辛抱である。


今朝は義父が飼っているメダカの鉢にホテイアオイの花が咲いていた。

一輪だけであったがまるでメダカの学校の先生のようである。

朝からほっこりと心が和む。きっと明日も咲いてくれることだろう。




仕事はそこそこの忙しさであったが資金繰りが苦しく頭を悩ませてる。

10月から開始されるOBD検査のため設備投資が必要であった。

国から3分の1は補助金があるのだが全て支払ってからとのこと。

とにかく先に資金を準備しなければ先に進めないのである。

義父も先日大枚をはたいて運搬車を買ったばかりでとても余裕などなかった。

金庫番の責任は重く「足りない」ではとても済まされないのだ。

いざと云う時のため蓄えている資金はあるのだが

それを使ってしまったらもう経営資金が底を尽いてしまうのだった。

まあ後は何とかなるだろうと思うほど私は楽天家ではなかった。

しかし負けるわけにはいかない。何としてもこの山を乗り越えなければ。



2時半に退社。内科の薬が切れるので病院へ寄り処方してもらう。

薬の量が多いので高額となりけっこう痛い出費となった。

70歳になれば負担額が減るのだそうだ。もう少しの辛抱である。

これほどの薬をと思うがそのおかげで元気でいられるのだろう。

血圧は正常値が続いており精神疾患も今のところ大丈夫だった。


買い物を済ませ4時に帰宅。夫は大相撲中継に夢中である。

「子連れ狼」は録画して翌日の昼間見ているのだそうだ。

私は見ることが出来ず残念だが仕方あるまい。


30分と時間を決めて自室に籠り短歌を書いた。

雨は降っていないのに降っていることにしたりして滑稽である。

雨の光景を目に浮かべながら書くのだ。殆ど妄想に等しい。

当然のようにろくな短歌は書けなかった。

それでも即発信するのだから私も相当落ちぶれたものだ。


けれども「書く」と云う姿勢は誇りに思いたい。

どんなに忙しくてもどんなに疲れていても「書く」のだった。

そんな自分を死ぬまで見守ってやりたい。



限りある命を楯に突き進む例え今日が最後の日でも

めだか鉢ホテイアオイの一輪が師の如く咲く声高らかに

対岸の山を霞めて降る雨はいったい何を隠すのだろう


お粗末でした。



2024年09月09日(月) 奇跡の雨

今日は昭和99年の9月9日なのだそうだ。

平成、令和と年号が変わったが昭和の時代を感慨深く思い起こす。

私は昭和31年に生まれたが戦後の復興期だったようだ。

ベビーブームでもあり沢山の子供達が命を授かった。

戦争の傷跡も知らず誰も教えてはくれなかった気がする。

悪く云えばぬくぬくと育って来たのだろう。

父は16歳で終戦を迎え母はまだ7歳の子供だった。

もし終戦が長引いていたら父は戦地へ行っていたことだろう。



今朝は夏すみれにたっぷりと水を遣り出掛けた。

しかし帰宅して愕然とする。もうぐったりと枯れ始めていた。

土から根が浮き上がっているのだ。水の遣り過ぎだったのかもしれない。

なんとも憐れで涙が出そうになった。そうして自分を責めるばかり。

やはり私は花を育てるのが無理なのかもしれない。

手入れが行き届かず結局は可哀想な目に遭わせてしまうのだ。




仕事の手を休めながら母の一周忌の段取りをしていた。

そろそろ親族に案内もしなければならず手抜かりがあってはならない。

実は義祖母の7回忌も一緒にすることになっており

それは義父と話し合って決めた事であった。


弟が家族総出でやって来るらしくそれとなく相談したのだった。

今回は弟夫婦だけが良いのではないかと話したのだが

私の言い方が悪かったのだろう。弟を怒らせてしまったのだった。

「もう行くのは止める」と言い出し困ったことになった。

弟としては娘達夫婦、孫も一緒にと楽しみにしていたのだろう。

けれどもそれでは決まりが悪く遠慮すべきだと思ったのだ。

総勢6名である。法要後の会食の段取りもあり頭を悩ませていた。

弟達は「お供え」のお包みを一切しないのである。

それが当たり前のように思っておりいささか非常識であった。

しかし決して裕福ではない弟達に強制することは出来ない。

亡き母は実母であっても義父とはあくまでも義理の仲である。

義父は大らかな人であるがやはり義理を通すべきだと思うのだ。

そんな私の気持ちは残念ながら弟には伝わらなかったらしい。

「来ないならもういい」と思う。弟とはしばらく距離を置くことにした。





仕事が一段落していたので2時半に退社する。

時間の余裕があることは嬉しいことであった。

4時前には帰宅しており焦ることもなく短歌を書く。

良し悪しなど全く考えずに好きなように書いた。

いつだって自然体で在りたい。自分らしく在りたいと思う。

誰かに認められるために書いているのではないのだ。

私が「わたし」を認めるために書いているのだと思う。


夕立ちを連れて来るのか夏雲は山にぶつかり涙を流す

朝顔がまだこれからと手を伸ばす季節外れの花となるため

夏すみれとうとう尽きて憐れなり奇跡の雨を待つ定めかな


午後7時53分渇いた心を潤すように雨が降り始めた。



2024年09月08日(日) 猫じゃらし

午後6時40分。ほうずき色の空にか細い三日月が浮かんでいる。

まるで絵本のような風景をうっとりと眺めているところだ。


朝晩の涼しさは日に日に増しているが日中は厳しい残暑となる。

江川崎では今日も36℃を超え猛暑日だったようだ。

全国一かなと思いきや上には上があるもので熊本市がトップだった。

暑さに勝ち負けはないがついつい気になってランキングを見てしまう。


朝食時、夫が久しぶりにラーメンを食べに行くかと言ってくれ嬉しい。

宿毛市郊外の「一風」まで20分程だがドライブも楽しみであった。

車中では娘達の噂話である。「いったいいつまで居座るのか」などと

家では話せないことを意気投合して語り合うのだった。

お互い肩身の狭い思いをしておりそろそろ限界を感じている。


「一風」ではラーメンセットを注文した。

けれどもいつもと何となく違う。

ラーメンに煮卵が入っていなかったり炒飯も味が薄かった。

もちろん文句など云えず黙々と食したのだが

調理を手伝っている奥さんが不慮の怪我で足を骨折しているのだそうだ。

全治一ヶ月とのことどんなにか不自由を強いられていることだろう。

パートの女性が手伝いに来ていたが奥さんと同じにとはいかない。

かなり高齢のようで腰が曲がっているのが見えた。

どんな時もあるものだ。それでも必死の思いで切り盛りしているのだろう。

いつもと味が違うなどとどうして云えようか。


月末に母の一周忌を控えており会食の予約を済ませて来たが

その頃には奥さんも復帰出来そうでほっとした。

忙しい目に遭わせてしまうが他に頼るところもないのだった。




満腹になっていたせいか午後はひたすら寝て過ごす。

自分でも異常ではないかと思うほど酷い眠気だった。

午後4時前にやっと目覚める。なんとも気怠い。

よっこらしょと起き上がり日課の短歌を書くことにした。

しかし頭の中が真っ白になっており何も浮かんで来ないのだ。

上の句は出来ても下の句が出来ない。正直辛かった。

こんな思いをしてまで書かなければいけないのかと思う。

強制しているのは他の誰でもない自分自身なのである。

そんな自分を無視することがどうしても出来ない性分であった。

負けるもんかと思う。何としても書き上げようと努力する。


40分かかりやっと3首書き終えた時には心地よい達成感があった。

ネットの海に浮かべると雑魚であってもすいすいと泳ぐ。

鯛やヒラメには敵わないが海でしか生きられないのである。

その「いのち」をどうして粗末に出来ようか。



花すべりそろそろ顔を伏せる頃昼間の夢は恋だったのか

灼熱を鎮めるように吹く風は夏を追いやる息ほどの秋

猫じゃらしゆらゆら揺れて語り合う野に一筋の光を求め



2024年09月07日(土) 露ほどの秋

二十四節気の「白露」大気が冷え始め露を結ぶ頃。

いよいよ本格的な秋かと思えるがそうは問屋が卸さず

今日も全国的に厳しい残暑となった。

江川崎は36℃を超え全国3位の猛暑日となる。

やはり彼岸まではまだまだ夏の名残があるだろう。


夏すみれは持ち直してくれ今朝は元気に咲いてくれていたが

紫と白があり白の方はすっかり枯れてしまっていた。

もうそうなればいくら水遣りをしても駄目だろう。

夏の花である。紫の方も秋まで咲き続けるとは思えなかった。

最後までと思う。無残に死なせるわけにはいかない。




朝のうちに一時間程朝寝。なんともだらしない有り様である。

10時にカーブスへ行ったが駐車場が満車状態であった。

仕方なく近くの文化センターに停めさせてもらったが

道路を横断せねばならず汗だくになって歩く。

普段から歩き慣れていないせいかふうふうと息が上がっていた。


カーブスでは「お友達紹介」とかであれこれと景品をもらった。

紹介したつもりはなかったのだがSNSで知り合った友人が居て

入会時に私の名前を出してくれたのだそうだ。

それはとても思いがけなく嬉しいことであった。


彼女は昨年最愛のご主人を亡くされ独り寂しく暮らしていた。

いつまで経っても悲しみは癒えず気遣わずにはいられなかったのだ。

「始めてみよう」と思ったとのこと。きっと良き転機となるだろう。

身体を動かせばきっと心も動き出すのに違いない。

少しでも前向きに明るい気持ちになれることを願わずにいられなかった。


私も仲間が増えてやる気が出て来たように思う。

足の痛みに負けず出来ることを頑張って続けようと思った。




昼食後、ふと思い立って美容院へ行っていた。

癖毛なので汗をかくとぼさぼさになりなんと鬱陶しかったことだろう。

思い切り短くカットしてもらい栗色の髪に染めてもらった。

まるで生まれ変わったような気分である。

とにかく行動するべきだと思う。自ら変わるきっかけを作るべきなのだ。


帰宅後はお昼寝。目覚めたら4時近くになっていた。

日課の短歌をと思い自室に籠っていたが今日はいささか調子が悪い。

いつもは直ぐに頭に浮かんでくるのだが今日は駄目だった。

まあどんな時もあるだろう。決して焦ってはならない。

結局30分かかりなんとか3首を書き終える。

如何なものか。良し悪しは相変わらず自分で判断することは出来ない。


洗濯物を畳んでから恐る恐る通知をチェックしたら「いいね」があった。

僅かではあったがそれがどれ程励みになることだろう。

まるで「いいね」中毒のように愚かな私であったが

詩も短歌もそうして救われているのだと思う。

それは同時に他からは一切認められないことに等しい。

SNSあってこその私だと云っても過言ではないだろう。


そんな生き方があっても良いのだと思いたい。

まるでネットの海を漂う海月のようでもあった。


露ほどの秋なのだろう陽は西に夏の記憶が傾いている

赤とんぼ群れから外れ独り飛ぶ空に故郷があるかのように

子の背には夏の塗り絵が描いてあり汗かく度に思い出となる



2024年09月06日(金) 明日は咲こう

朝の涼しさもつかの間。今日も厳しい残暑となる。

ただ今までと確かに違うのは風の色であった。

風に色なんかあるはずはないのだが

熱を帯びた夏風とは違いとても爽やかである。

それは空の色だろう。空がそのまま映っているようだ。

明日は「白露」終らない夏など在りはしないのだ。


帰宅したら夏すみれがぐったりと項垂れていた。

今朝は元気に咲いていたので水遣りを怠ったせいだろう。

昼間の陽射しがよほど堪えたのだろうと思う。

慌てて水遣りをしたがなんとか持ち直して欲しいものだ。


花すべりは逞しい。水をあまり欲しがらず陽射しにも強かった。

しかし夕方になると花を閉じるので平日は見ることが出来ないのだ。

留守中の庭先を彩ってくれているのだと思えばなんとも健気であった。





仕事は順調とは行かず来週まで尾を引きそうである。

新しい運搬車の車検整備が完了したのだが

ABSセンサーを交換したにも関わらず警告灯が消えないのだった。

他に原因があると思われるが義父にも分からず頭を悩ませている。

仕方なく大型車専門の業者に依頼することになったが

臨時ナンバーが必要で今日は手続きが間に合わなかった。

大枚をはたいて購入した車である。しかも遠く石川県まで行ったのだ。

何としても乗れるようにしてやりたいと手を合わすばかりである。


義父の落胆は大きくかなり焦っているようだった。

それもそのはず飼料米の稲刈りが迫っている。

猪が出没し稲を食い荒らしているのだそうだ。

一刻も早く稲刈りをしなければ収穫量にかなり響くだろう。

神様仏様である。私もなんだか追い詰められたような気分であった。




買い物を済ませ4時に帰宅。短歌を後回しにして「子連れ狼」を見る。

今日も沢山の人が殺められたので夫に「罪にならないのか?」と訊いた。

もちろん大罪なのだそうだ。奉行所も捕えようと必死になっているらしい。

しかし奉行所の役人も「拝一刀」には敵わないのだそうだ。

刺客は今で云う殺し屋である。その報酬で生き延びているのだろう。

どれほど残虐なシーンがあっても幼い大五郎に救われる思いであった。

そうでなければ成り立たない時代劇なのだと思う。


見終わってから短歌を書いた。夕食の支度まで15分程ある。

窓の外は夕焼け空でとても穏やかな気持ちになれた。

大きく深呼吸をしながら指先が勝手に動き出すのを待つ。

「即興」と云うより「オン書き」であった。

詩も短歌も全てそうして書いている。そうでなければ書けない。

そうしてそのまま発信してしまうのだから書き直すことは出来ないのだ。

賛否両論はあると思うがそれが私の書くスタイルであった。


だからいつまで経っても認められないのだと自覚している。

けれどもこのまま最期を迎えても私は悔やみはしない。

人はひと私はわたしであることを貫き通したいと思っている。


夕暮れて蕾に変わる花がある眠る夜なら明日は咲こう


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