ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年08月23日(金) 紙パンツ記念日

今朝は晴れていたが突然土砂降りの雨になり驚く。

大気が余程不安定だったのだろう。

夫から電話があり洗濯物が間に合わなかったと嘆く。

留守番の任務を果たせなかったことを済まなそうに詫びていた。

大丈夫。そのために乾燥機があるではないか。

「じゃあスイッチ入れるぞ」そう言って電話は切れた。

夫が家に居てくれて本当に助かっている。

それは決して当たり前のことではないのだとつくづく思う。


今朝はもうひとつハプニングがあった。

職場に着くなりのことで小さなおならが出てしまったのだが

あろうことか便も一緒に出てしまったのだった。

おそるおそるトイレで確かめたらナプキンを通り越し下着も汚れている。

こんな失態は初めてのことですっかり焦りまくってしまった。


とても仕事どころではなくなり家へ帰ろうかと思ったが

はっと思い出したのは母の紙パンツであった。

亡くなった後に処分をしたのだがもしやと思い探してみたら

ビニール袋の中に一枚だけ入っているのを見つける。

もう迷っている場合ではない。履くしかないと決心した。

狭いトイレに持ち込み必死の形相となる。

痛む左足を上げることが出来ないのだ。涙ならぬ滝のような汗が流れた。

なんとしても履かなければいけない。紙パンツとの闘いである。

15分程トイレに籠っていただろうか。やっと履けた時の大きな安堵。

履き心地に違和感はなく紙パンツのCMにも出られそうだった。


これも母の形見である。いざと云う時のために母が残してくれたのだろう。

まさかこんなに早く履く時が来るとは思ってもいなかったが

母のおかげだと思うと目頭が熱くなるのだった。

一枚きりの紙パンツである。もう二度と失態があってはならない。

用心のために富士薬品の「はら薬」を服用した。

それが効いたのかおならも出ることもなく一日をやり過ごせた。

たかがおならではないのだ。今後は「おなら警報」だと肝に銘ずる。





仕事は忙しさの峠を越え今日は随分と楽だった。

同僚は稲刈りのため休んでおり義父と二人でぼちぼちと仕事をする。

石川行の日程が決まりその準備もあった。

台風10号が接近しておりなるべく早く日曜日に発つことになる。

一泊して月曜日に車を引き取りに行くのだそうだ。

石川県加賀市とのこと。有名な温泉もあるらしい。

義父も友人も楽しみでならない様子であった。

途中で必ず電話をするように伝え2時過ぎに退社する。


取引先に用事があり寄り道をしたので帰宅は4時であった。

時間の余裕があることが嬉しくてならない。

短歌を書き終えて洗濯物を畳んでから夫と「銭形平次」を見ていた。

たまにしか見れないが癖になるような面白さである。



明日は休めるので怒涛の今週が終わった。

足の痛みに耐えながらよく頑張ったと思う。

疎かにしていることを数えたらきりがないだろう。

それよりも出来たことを数える日々でありたいものだ。


つくづくと誰を想って鳴くのやら夏の欠片につくつく法師








2024年08月22日(木) 夏が退こうとする日

二十四節気の「処暑」暑さが和らぎ秋の気配を感じる頃。

ゆっくりと少しずつである。それは退くようにだ。

若い頃「処暑」と云う詩を書いたことがあったが

それは夏をある人に置き換えて書いてあった。

別れの予感がしていたのだろう。切なくてならなかったことを憶えている。

もう二度と書けない。あの頃のような感性は永遠に消え去ってしまった。

生まれ変わっても私は詩を書いているのだろうかと思う。

魂が現世を忘れてしまうわけがない。心を失うわけにはいかないのだ。



疲れのピークなのだろう。朝から気分が沈んでならなかった。

SNSでは毎朝必ず声を掛けてくれる人がいるのだが

社交辞令的な朝の挨拶が日に日に億劫になってしまった。

今朝はもう限界を感じ正直に自分の気持ちを伝える。

配慮をお願いしたつもりだったが上手く伝わらなかったようだ。

直ぐに返信がありまるで縁が切れるような口ぶりであった。

毎朝でならない理由はいったい何だったのだろうと思う。

どれ程気忙しい朝でも丁寧に返信して来たつもりだった。

けれどもそれが段々と重荷になり私の義務になってしまったのだ。

顔の見えない世界である。言葉だけで成り立っているのかもしれない。

正直に話せば相手を傷つけることもあるのだろう。

去る者は追わない主義であるがそれで切れてしまうような縁ではない。

傷つけることも傷つくことも表裏一体のように思う。





仕事は相変わらずの忙しさであったが週一のリハビリがある日で

3時前に退社し整形外科へと向かった。

湿布かぶれになってしまいここ数日湿布が貼れないせいか

昨夜も就寝中に酷く痛み辛くてならなかった。

杖に頼らずとも歩けるようになっていたのも困難となり

また元の木阿弥になってしまっている。

医師に相談したがやはりかぶれの治療が先決とのこと。

しばらくは痛みに耐えながら過ごすしかないようだ。

「なんのこれしき」である。嘆いても何も変わりはしない。

幸いリハビリの効果は大きく帰りは随分と楽になっていた。


5時前に帰宅。洗濯物を畳み終えて10分程横になれた。

もう短歌どころではない。「いっぱいいっぱい」なのだ。

もしかしたらそれも義務なのかと思ったがそうではない。

詩も短歌も書きたくて書いている。私にとっては大切なことだ。


夕食後一首だけ書いた。後はこれから書こうと思っている。

まるで眠る前の儀式のようだ。そうして一日を全うしようとしている。


もしかしたら待ってくれている人がいるのかもしれない。



2024年08月21日(水) こんな私は嫌だ

今日も猛暑日にはならずもう暑さの峠を越えたのかもしれない。

それにしても今年の夏のなんと暑かったことだろう。

あらゆるものを焼き尽くすような猛烈な暑さであった。


太平洋上に台風10号が発生しゆっくりと北上しているようだ。

不気味な進路予想で四国にも影響がありそうである。

もう自然災害はこりごりに思うが逃れる術もないだろう。

耐え忍ぶことは出来ても来るものをどうして拒めようか。

大きな被害が無いことをただただ祈ることしか出来ない。



仕事は今日も怒涛の忙しさであった。

昼食のお弁当を掻き込むのが精一杯で休憩時間は皆無である。

義父はもっと憐れで朝食も食べないまま働いてくれる。


午前中に例の搬送車の契約を済ませた。

なんと石川県に在る販売店であり陸送を依頼しないとのこと。

友人とすっかり話が出来ており二人で引き取りに行くのだそうだ。

あまりの遠距離に心配ではあるが楽しみにしている様子である。

金沢に近く地震の被害は殆ど無かったようだが

被災地には違いなく観光気分で行っても良いものかと思う。

契約を済ませたからにはもう後戻りは出来ないだろう。

義父の好きなようにさせてやりたい気持ちが勝って来た。





車検完了の車が2台あり今日も退社が遅くなってしまった。

疲れはピークに達しており運転中の生欠伸が絶えない。

いけないいけないと思いつつまた煙草に火を点けるしかなかった。

眠気は直ぐに治まるが「こんな私は嫌だ」と強く思う。

禁煙を目指す気持ちはすっかり無くなりやりたい放題である。


サニーマートで買い物をしていたら「奥さん」と呼び止められた。

全く知らない人でやたらと杖を褒めてくれるのだ。

母の形見であり気に入ってはいるが褒められたのは初めてだった。

70代と思しき女性であったが足を引き摺りながら歩いている。

「辛そうですね」と声を掛けたがもう返事はなかった。

なんだか狐に遭遇したような複雑な気分である。

足が不自由なのは私だけではないのだなとつくづく思う。


帰宅したらもう5時前になっており洗濯物を畳むのが精一杯だった。

今日は短歌を諦めようと思う。出来ない日があっても良いのだと。

自分に課せば課すほど追い詰められている現実が圧し掛かってくる。


夕食は出来合いの豚カツであったがリーフレタスでサラダを作った。

冷蔵庫に確かにあったはずの生ハムが何処にも見当たらない。

夫が笑いながら「めいが食べたぞ」と教えてくれる。

それも微笑ましく思いめいちゃんには何も言わなかった。


毎朝8時前には出勤する娘は気忙しく昼食の用意もままならない。

孫達は買い置きのカップ麺を食べることが多かった。

「おじいちゃんが居てくれるから」と娘も頼りにしているのだろう。

家族ではないと思われていても家族だからこそと思わずにいられない。

夫は口にこそ出さないがそれがけっこう嬉しい様子である。


夕食後の煙草を吸いながらぼんやりと窓の外を眺めていた。

そうしたらまるで発作のように短歌が二首書けたのだった。


夕空に掛ける言葉が見つからず黄昏ていく心の窓辺


退けば見える景色もあるだろう明日は処暑かと想う人あり





2024年08月20日(火) 捕らぬ狸の皮算用

夜明け前まで小雨が降っていたが日中はよく晴れる。

湿度が高かったのか蒸し暑くてならなかったが

気温は33℃と猛暑は和らいでいた。

明後日は「処暑」である。次第に秋めいて来ることだろう。



仕事は相変わらずの忙しさで眩暈がしそうだった。

来客も多く対応に追われる。

義父は借りている田んぼの借料としてお米を配っていた。

その数の多さに驚く。苦労の割に大きな負担に思える。

ただ農地を所有しているだけでお米が手に入る仕組みだった。

義父の所有する田んぼは全く無く憐れにも思えて来る。

山里も高齢化が進み稲作を諦める農家がどんどん増えているのだ。


収穫したお米はJAではなく高知市内の米穀店へ納めている。

その方が高値で買ってくれるのだそうだ。

「捕らぬ狸の皮算用」ではないがその収入で搬送車を買おうとしている。

カーセンサーで見つけた中古車がいたく気に入っており

まるで子供が玩具を欲しがるように駄々をこねるのだった。

そうなればもう止めても無駄で好きなようにさせるしかない。

もう手に入れたつもりでいるのだろう今日も上機嫌であった。





果てしなく忙しかったが3時半に退社。

お昼休憩も無かったのでぐったりと疲れていた。

夕飯の献立も決まらないままお総菜売り場をうろつく。

揚げ物が多く家族には不評であったが我慢して貰うしかない。

帰宅したらもう4時半である。横になる暇もなかった。


15分だけと思いパソコンに向かい短歌を捻る。

なんとしても書くぞと思ったのだが結果は散々であった。

自分でも意味不明の短歌を二首書きそのまま発信する。

焦っているのだ。あがいているのだ。もうどうしようもない。


時間に追われ続けている日々であった。

余裕さえあればと思うが成果があるとは限らない。

追い詰められてこそ可能なこともあるのかもしれないのだ。

しかしいったいいつまでこんなことを続けるのだろうと思う。

かと言って詩や短歌を諦めることがどうして出来よう。

この日記もそうである。どんなに疲れていても書かずにいられない。

そうして一日を全うしてこそ生きていられるのだろう。


全てのことが最期に向かっているのなら尚更のことではないだろうか。



2024年08月19日(月) 秋待ちの雨

深夜から激しい雷雨。明け方に雷は治まったが土砂降りの雨となる。

「大雨洪水警報」が発令されていたが夕方には解除となった。

明日からもしばらくは雨の日が続きそうである。


待ちに待った雨ではあるが大雨となるとさすがに戸惑う。

しかし恵みの雨と捉えることも出来るだろう。

猛暑続きで四万十川の水量も随分と減っていたようだ。


ワイパー全開、ライト点灯で朝の道を走り抜ける。

山道に差し掛かり道路の冠水を予想していたが危機一髪で無事だった。

慣れた道でも何が起こるか分からず不安は付いてまわるものだ。



仕事は今日が実質的なお盆休み明けとなり大忙しとなる。

取引先も今日からでなんと慌ただしいことだろう。

義父の稲刈りは一段落していたが疲れが出たのだろう

「今日は休む」と言って居室から姿を現さなかった。

休養も大事と思い同僚と二人で精一杯のことをする。

車検整備の上にオイル交換、パンク修理もあればバッテリー上りも。

あまりの忙しさに同僚もパニック気味になっていた。


10時を過ぎた頃「やっぱり休むわけにはいかんな」と義父の声。

げっそりと疲れた顔をしていたが何とか動き出してくれた。

段取り課長は私だがやはり社長あってこその会社だと思う。

私一人では決められないことがたくさんあるのだった。


工場が落ち着いたところで2時過ぎに退社する。

今日は「県税事務所」に行かなければいけなかった。

雨は少し小降りになっていたが傘無しではずぶ濡れになってしまう。

駐車場から小脇に書類を抱え杖と傘の二刀流である。

大切な書類なのでファイルに入れてあったがうっかり落としてしまった。

拾うとしたら傘が手から離れてどうしようも出来ない。

雨に罪はない。私の足が不自由だからいけないのだと思う。


地下の売店で県証紙を買い求めたら親切な店員さんが居てくれて

エレベーターまで案内してくれた。県税事務所は2階である。

おかげで階段を使わずに済み大助かりだった。

エレベーターの場所が分り難かったが次からは大丈夫だろう。


書類を提出しまた大切な書類を受け取る。

車までやっと戻り着いた時には息が切れるほど疲れていた。

いけないいけないと思いつつ煙草を二本も吸ってしまう。

不思議と気分が落ち着くのだ。だからいつまで経っても止められない。




買い物を済ませ帰宅したら夫が今日の報告をしてくれた。

あやちゃんの機嫌がとても良く何度か話し掛けてくれたそうだ。

昨日は余程虫の居所が悪かったのだろう。

その原因は定かではないが繊細な心の襞に何かが触れたのかもしれない。

本当は家族で出掛けたかったのかもしれない。

頭から行かないと決めつけて誘うこともしない娘夫婦であった。


けれども余計な口出しは厳禁である。

娘夫婦の「見守る」は私達とは明らかに違うのだった。


今日はあやちゃんの好きな「わらび餅」を買って来ていたので

「冷蔵庫に入れとくね」と告げると「うん、明日食べる」と応えてくれた。

笑顔が嬉しくてならなかった夕暮れ時のことである。



2024年08月18日(日) つくつく法師

久方の曇り日。猛暑は和らいだが風もなくかなりの蒸し暑さだった。

夕方のこと。ツクツクボウシが声を限りに鳴き逝く夏を感じる。

やがてヒグラシも切なげに鳴き始めることだろう。

どの蝉も儚い命である。八日目の蝉の姿を思わずにいられない。


娘達があやちゃんを残し高知市へと出掛ける。

私達も何処かへ出掛けようかと思っていたのだが

あやちゃんを独り残すのも気掛かりであった。

夫も運転が億劫らしく気が進まない様子である。


朝のうちに買い物に行っていたが相変わらずの酒類の多さ。

冷房の効いている店内であっても汗だくになってしまう。

ドラッグにも行っていたので帰宅が少し遅くなってしまった。

「もう出掛けるのはよそう」夫の一言に迷わず頷いていた。


お昼にほか弁をと思いあやちゃんに声を掛けたら

酷く機嫌が悪く「要らない馬鹿」と声を荒げる。

馬鹿は余分だと思い少しお説教をしたら増々怒るのだった。

何度目かの反抗期だろうか。ストレスも溜まっているのだろう。


夫が「もう相手にするな」と言うので以後一切口出しをしない。

夫と二人分だけの「鶏そば」を買って来て昼食を済ませた。

なんとも虚しい。なんとも寂しい。可愛い孫でありながら

なんだかとてつもなく大きな距離を感じた。


夕食も夫と二人で出来合いの物で済ませたが

娘達が帰ってくると誕生日らしくお寿司を買って来ていた。

もちろん私達は完全無視で家族団欒を絵に描いたような様子である。

同居を始めてもうすぐ10年になるがとうとうここまで来たかと思う。

私と夫はもはや居候で家族とは認められていないのだろう。

お寿司が食べたかったのではない。いじけているわけではないが

「ここまでするか」と思うととてつもなく寂しくてならなかった。


昼間あれほど機嫌の悪かったあやちゃんがにこにこの笑顔である。

それはそれでほっとしたがあまりの変わりように戸惑う。

祖父母の存在などもうどうでも良いのだろうと悲しくもあった。



43年前の夜を思い出す。産声を上げなかった娘に泣き叫んだこと。

助産婦さんが娘を逆さにしお尻を叩きやっと泣いてくれたこと。

夏に生まれた子はおひさまの匂いがし愛しくてならなかった。

朗らかで優しい子に育ってくれてただただ感謝しかなかったのだ。


娘はもう私を母とは呼ばない。

「おばあ」と呼びながらつんつんとぶつかってくるばかりである。



2024年08月17日(土) 雨降って地は固まるのか

お盆が明けると秋めいてくるものだが

まだまだ「処暑」を迎えるまでは厳しい暑さが続きそうだ。

今日は江川崎が39.6℃で群馬の舘林と並び全国一の暑さになった。

「ふるさとは暑さを誇り四万十の水も温みて子等の背を焼く」

水遊びをする子供等の姿が目に浮かび一首書いてみた。


市内も36.6℃と猛暑日であったが午後突然の雷雨がある。

土砂降りとなりなんと心地よい雨音だったことだろう。

熱を帯びていた地面がまるで転がるように喜んでいた。


ちょうどお昼寝中の事で異変に気付いた夫が洗濯物を取り入れてくれる。

おかげで雨に濡らすこともなく大いに助かった。

持つべきものは夫であり娘は全く役に立たない。


その娘が明日誕生日なので一日早く今夜は焼き肉パーティーをした。

パーティーと言っても名ばかりでいつものように夫と先に食べる。

お肉の残り具合も気になりたらふくとは行かなかったが

〆に目玉焼きも食べてお腹がいっぱいになる。


明日は出掛けるそうで夕飯は不要とのこと。

最近の週末はそんな日が多くなり私も楽をさせてもらっている。


昨年の誕生日は最悪であやちゃん以外皆コロナに感染し大変だった。

もう二度とあんな辛さは御免だと思うが再びの感染もあり得るだろう。

感染予防には気を付けているが相手は見えないウィルスである。

以前のような恐怖心は薄れたが不安はいつまでも付いて回るだろう。

日常生活に制限はない。だからこそ用心しなければならない。





週一のカーブスのため仕事は休ませてもらっていたが

義父の稲刈りのこと。同僚の仕事のことが気になってならなかった。

そんなに気になるなら仕事に行けばいいと夫は言うのだが

カーブスを止めてしまったら一切の運動が無くなってしまう。

以前のように歩くこともままならない現実がのしかかってくる。

とにかく筋力を作ること。そのためにもカーブスは必須であった。


今日はお仲間さんの一人が声を掛けてくれて

股関節の手術を勧めてくれたのだが真剣にはなれなかった。

以前は40日程の入院が必要だったが今は2週間で退院出来るらしい。

けれどもその2週間の家事はどうする。仕事はどうするかだった。

それほどまでに自分を評価しているわけではないけれど

たとえ3日でもどうして疎かに出来ようかと思う。


幸いリハビリの効果が大きく日に日に足の痛みが楽になっている。

このまま10年は過ごせるのではないかと過信せざるを得ない。

もし駄目でもあの世まで持って行くことも可能である。

それも良いではないかと思うのだ。死ねば痛みとは無縁になるだろう。


あれこれと考えながら心はけっこう忙しい。

自分の「在り方」も心細くてならないが

生きてさえいれば叶うこともきっとあるだろう。

ああいい人生だったと思えるような最期を迎えたいものだ。






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