| 2024年08月08日(木) |
何があっても私は「わたし」 |
晴れたり曇ったり。ほんの少し暑さが和らいだように感じたが
江川崎では39.9℃とまた全国一の猛暑を記録したようだ。
同じ四万十市でも山間部と平野部では随分と違うことに驚く。
四万十川の中流域であっても川風の影響を受けないのだろう。
不思議なものである。地形に熱がこもりやすいのかもしれない。
仕事の疲れだろうか鬱ほどではないが気分が落ち込む。
SNSでは毎朝必ず声を掛けてくれる人がいるのだが
これまでのように直ぐに返信出来なくなってしまった。
心苦しくもあるが時間を置いてお昼にやっと返信している。
今朝はなんとか配慮して貰えないものかと思った。
そんな勝手がまかり通るわけがないことは重々承知している。
決してコミュニケーションが苦手なわけではないのだ。
ただ社交辞令の連続に気分が付いて行かなくなっている。
おそらく明日も明後日も続くことだろう。
仕事は相変わらず義父に振り回されており精神的に疲れる。
今朝はエアコン修理を待ち兼ねたお客さんから苦情があり
「もう直さんでもえい」と言われて車を引き取って行かれた。
とにかく日数が掛かるのだ。義父にしか出来ない仕事である。
義父も精一杯なだけになんとも残念でならなかった。
昨日高知市の専門店へ預けた搬送車も修理不可能とのこと。
義父の落胆は大きくひたすら嘆くばかりであった。
会社には新しく買い替える余裕など全くなく困り果てている。
なんだか酷く追い詰められたような気分になり落ち込むばかりであった。
けれども投げ遣りになってしまったら元も子もない。
今までの努力を水にしてしまうわけにはいかないのだ。
それは難破船の沈没にも等しい。もう絶体絶命でもある。
今日はなんとか乗り越えたが明日のことは分からない。
お盆休みを目前にしてこれほど窮地に立たされるとは思ってもいなかった。

3時過ぎに退社。週一のリハビリは4時の予約であった。
リハビリを終えたらレントゲンを撮り診察を待つ。
やっと名前を呼ばれ診察室に入るなり地震のアラームが鳴り響く。
大勢の患者さんが居て一斉に鳴り出したものだから一瞬パニックになった。
幸い大きな揺れではなかったが横揺れが長かったように感じる。
院長先生の指示で取り合えず皆外に出たが直ぐに落ち着いた。
日向灘が震源地で宮崎が震度6弱の大きな揺れだったようだ。
四万十市は震度2だったことを後になって知る。
南海トラフとの関連性も調査中とのことで気が気ではなかった。
しばらくは余震もありそうで油断は出来ない。
大地震の前触れではないことをひたすら祈るばかりである。
診察の結果は良好。とにかく現状維持に努めなければいけない。
完治は在り得なくても自分の足で歩けることが肝心に思えた。
私にも「前途」は在るのだろう。
悲観からは何も生まれないことを改めて肝に銘じた。
何があっても私は「わたし」なのだ。
決してのんべんだらりと生きてなどいない。
二十四節気の「立秋」暦の上ではもう秋である。
けれども何処吹く風と今日も猛暑日となった。
おそらく処暑までは厳しい残暑が続くことだろう。
私は夏の退くさまがなんとなく好きである。
それはどの季節にも云えることだが
潔く去って行く季節などありはしないのだ。
燃え尽きたように去る夏。寄り添うように訪れる秋。
そんな「別れ」の光景にはつい感傷的になってしまうものだ。

早朝から義父は高知市へ。今日は搬送車の修理の為だった。
これまでも故障はあって部品を注文しては自分で直していたのだが
今回は複雑な部分らしく専門店へ出向くしかなかったようだ。
搬送車はもちろん会社でも使用するが殆どが農機具の搬送に使っている。
稲刈りを目前に控えどれ程困惑したことだろう。
困ったのはエアコンも故障していることだった。
灯台下暗しではないがお客さん優先で後回しになってしまっていた。
早朝に出掛けたが日中の猛暑にはさすがに参ったらしく
「暑うてたまらんぞ」と泣きそうな声で電話が掛かって来た。
なんとか無事に専門店へ辿り着いたがしばらく預けなければならず
仕方なく列車を利用して帰って来たようだ。
夕方の電話では「稲刈りが出来んぞ」と嘆きまくっていた。
憐れでならないがこればかりはどうしようもないことである。
大手は10日から一週間盆休みなのだそうだ。
部品は入っても修理は再来週からになるだろう。
義父の気が鎮まってくれれば良いが先が思い遣られるばかりである。
午後、身体の怠さと眠気が酷く2時に退社した。
自販機で缶コーヒーを買い煙草を吸いながら帰る。
まだ水曜日なのに明日は大丈夫なのかと不安になった。
買い物を済ませ帰宅するなり横になったのだが
夫が「八丁堀の七人」を見始めて一緒に見ることにした。
最終回だったようだ。どの番組も最終回はなかなかよろしい。
夕食後、夕陽を仰ぎつつ短歌を二首書く。
短歌の場合は「詠む」が正解らしいが
なんだか私には相応しくないように思えてならない。
「かっこつけるんじゃない」歌人でもないくせにと思う。
詩もそうだが一生掛かっても認められることはないだろう。
「秋隣風の噂も聞きそびれきみ棲む街に夕陽が落ちる」
短歌には季語は必要ないのだが「秋隣」と云う言葉が好きだった。
「あきとなり」これは立秋前の夏の季語であるらしい。
けれども立秋に相応しく思えてならなかった。
隣に秋がいるのだ。そう思うだけでほっとする。
終らない夏はないがすべてのことがいつかは終るのだろう。
大気が余程不安定なのだろう。今日も雷雨があったらしい。
山里では一滴も降らなかったので帰宅してから知る。
空が暗くなった時に夫が早めに洗濯物を取り入れてくれたのだそうだ。
「どうだ、俺も役に立つぞ」と言わんばかりに得意げな顔をして見せる。
土砂降りの雨だったそうで洗濯物が濡れずに済み何よりだった。
一雨降れば気温が下がるはずだがそうは問屋が卸さず
西日が射す二階の自室は38℃にもなっていた。
猛暑には慣れたが汗が滝のように噴き出る。
先月の電気代が3万円を超えていて大いに家計に響くが
エアコン無しでどうして過ごすことが出来よう。

仕事は相変わらずの忙しさだった。
朝一にタイヤ交換に来てくれた高齢のお客さんが
「迷惑かもしれんがのう」と言ってお茄子を沢山持って来てくれる。
毎朝収穫していてとても食べ切れないのだそうだ。
迷惑だなんてとんでもない。笑顔で有難く頂いたのは言うまでもない。
義父と同僚と3人で分ける。同僚は肉炒めにすると言っていた。
同僚はお母さんと二人暮らしだったが昨年老人施設に入居したのだった。
自炊にもすっかり慣れた様子で微笑ましく思う。
今日もエアコン修理が2台入庫した。
一台はスイッチの故障。もう一台はガス漏れである。
義父の見立ては完璧で頭が下がるばかりであった。
「お盆休みまでに直さんといかんな」義父もやる気になってくれる。
そんなこんなで今日は機嫌が良くほっとしたことだった。
3時に退社。事務も忙しかったのでなんだか疲れを感じる。
仕事は好きだが疲れるとつい「もう嫌だな」と思ってしまう。
若い頃のようにリセット出来なくなってしまったのだ。
買い物を済ませ帰宅するとポストに「詩誌」が届いていた。
SNSを通じて知り合った詩人さんが送ってくれたのだ。
とても新鮮な魅力を感じる。きっと良き刺激となるだろう。
ふと仲間に入れてくれまいかと思ったが身の程知らずだと直ぐに気づく。
世のなか捨てる神あれば拾う神ありとは限らないのだ。
けれどもこれまで参加していた詩誌を追放されてから
前途が随分と明るくなったような気がする。
もうくよくよと思い詰めることもないだろう。
「未来」と云うほどの時はもう残っていないかもしれない。
いつが最後になるかも分からない崖っぷちに立っている。
飛び込む勇気はないがいつまでも風に吹かれていたいものだ。
猛暑も一休み。山里では午後雷雨があった。
つかの間のことであったが一気に気温が下がる。
「立秋」も近くなんだか希望のように思えて来た。
終らない夏など決してありはしないのだ。
今朝の山道では鉄砲百合を多く見かける。
少し調べてみたら「高砂百合」が本当のようだ。
初夏に咲く鉄砲百合の仲間ではあるが花の形が違うらしい。
素人目では見分けがつかず私はずっと鉄砲百合だと思っていた。
山肌に咲いていることが多く群生しているようだった。
純白で清楚な花は本来の百合の姿なのに違いない。

週末にはもうお盆休みに突入するためか仕事の忙しいこと。
車検の入庫や相変わらずエアコン修理も多かった。
義父の機嫌がすこぶる悪い。苛立ちがピークになっているようだ。
朝の内はしぶしぶ仕事をしてくれたが直ぐにまた田んぼへ走る。
お昼になっても帰らず今日も昼食抜きであった。
畔の草刈りがそれ程までに大切なのかと思う。
恐る恐る訊けば稲刈り前に済ましておかなければいけないのだそうだ。
今年は特に夏草の成長が著しく何処も大草になっているらしい。
その分稲の成長も早く気が急くばかりなのだろう。
村でも一二を争う作付け数であった。その苦労は並大抵のことではない。
とにかく機嫌を損ねないこと。それは少なからずストレスになっていく。
そうして上手に回していかなければいけない。それも私の仕事であった。
お盆が近くなりお供え物を持って来てくれる人も多くなった。
仏壇にはまだ供えられず事務所に山積みになっている。
そのまま放置出来ないことは義父も心得ているようだ。
私は何も手伝えず心苦しくてならないが義父に任せるしかなかった。
迎え火を焚けば母が帰って来るのだろうか。
多忙な義父の傍らで寛ぐことが出来るのだろうか。
いっそのこと我が家へと思ったが二ヵ所で迎え火を焚いてはいけないらしい。
霊が迷うのだろう。そうして帰る場所を見失ってしまったら
母があまりにも憐れで可哀想に思えて来る。
もしかしたら「帰らんでもえい」と拗ねているかもしれなかった。
そんな母をどうやって宥めたら良いのだろう。
初めての盆帰りである。母には楽しみに帰って来て欲しかった。
声も聴こえず姿も見えないが母の魂はいったい何処にいるのだろう。
| 2024年08月04日(日) |
ふるさとは遠きにありて |
午後7時外気温31℃。ほおずき色の夕焼けを仰いでいる。
ほんの少しだけ夕暮れが早くなったようだ。
日中は今日も猛暑日。江川崎では39.2℃連日の日本一を記録する。
夫が来週あたり久しぶりに行ってみるかと言ってくれた。
私にとっては生まれ故郷である。夫の計らいが嬉しくてならない。
子供達がまだ幼い頃、家族4人で訪ねたことがあった。
その当時にはまだ私の生まれ育った家が残っており
なんと懐かしかったことだろう。涙失くしては見れなかった。
その時夫が「また来ような」と約束してくれたのだ。
それ以来何度か訪れたが生家は取り壊され今は更地になっている。
父は転勤族だったので一処に定まることはなかったが
「ふるさとは?」と訊ねられたら私は真っ先に「江川崎です」と応える。
父がいて母がいて弟がいて「チョビ」と云う名の犬も飼っていた。
私達家族が最も穏やかに幸せに暮らしていた頃のことである。

今日は何処にも出掛けずひたすら家の中で過ごす。
買い物には行かねばならず酒類やお米を買って来た。
どれも重く車に積み込むだけで一苦労である。
帰宅して「おじいさ〜ん」と呼ぶと夫が直ぐに駆け付けて来てくれた。
あまりの大荷物に「ネットで買えばいい」と捨て台詞を吐く。
あれほどネット通販を嫌っていたのが嘘のようだった。
「いかんよ、それじゃあポイントが付かない」と言うと
「ポイントより楽なことを考えろ」とのたまうのであった。
今後増々高齢になればそれも考えてみるべきかもと思う。
出来ないことがどんどん増えていくのだろう。
やがて免許を返納すればもう買い物どころではなくなるのだ。
午後は一時間程お昼寝をし夫とテレビを見ていた。
パリはもう夜中なのだろうオリンピックの中継はなく
録画してあった「ポツンと一軒家」を見る。
徳島からで70代の男性が実家を守り続けているのだった。
築150年ではあったがリフォームしてあり住み心地は良さそう。
継ぐ予定であった長男は既に亡くなりその人は末っ子なのだそうだ。
生まれ育った家をなんとしても守るその情熱が感じられた。
永遠にとはいかないだろう。その現実が切なく思う。
誰だって守りたい一心なのだ。生きている限りと願うことだろう。
私にはもう生家がなくもちろん実家もなかったが
あの高台にあった家が幻のように目に浮かぶのだった。
ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しくうたうもの。
| 2024年08月03日(土) |
穴の開いていない5円玉 |
夕方にはにわか雨の予報だったが一向に降らず
辺り一面が熱にうなされているような黄昏時となった。
今日も猛暑。江川崎では39.8℃を記録し日本一の暑さだったようだ。
旧西土佐村で私が生まれ育った地域ではあるが
子供の頃の夏の記憶に「暑さ」の辛さは少しも残ってはいない。
四万十川がプールであった。川遊びのなんと楽しかったことか。
駅前の駄菓子屋さんで一本5円のアイスキャンデーを買って食べたこと。
その頃には穴の開いていない5円玉があって
母の財布から失敬したことがある。てっきり10円玉だと思っていた。
オレンジとメロンのアイスキャンデーが2本食べられるのだ。
喜び勇んで買いに行ったら駄菓子屋のおじさんが売ってくれない。
「一本だけだよ」と苦笑いをするのだった。
その時の恥ずかしかったことを今でもはっきりと憶えている。
子供心にもう二度と母の財布から盗んではいけないのだと思った。

工場の忙しさが気になりつつもお休みを頂いていた。
案の定電話が何度も掛かってくる。義父から3回、同僚からも3回。
お客さんからも5回あり対応に追われる。
無理をしてでも行けば良かったのだがもう後の祭りであった。
義父は今日もエアコンの修理でさすがに参っている様子だった。
「このままじゃ田んぼに行けない」と嘆くばかりである。
今朝の新聞に熱中症で亡くなった高齢者の記事が出ていて
その話もしたのだが「そうなったら運命じゃ」と言い放つ。
その人も田んぼで倒れているのを家族が発見したのだそうだ。
昨日のこともあり「今日は田んぼは諦めたや」と言い聞かす。
義父の口調は荒く苛立ちがひしひしと伝わって来た。
「明日は日曜日やけん仕事はせんぞ」と言うので
「そうそう、明日かあるやんか」やっとそれで落ち着いたのだった。
同僚は午後から出勤して来てくれたが車検整備に追われていた。
そんな最中にパンク修理の依頼が舞い込む。
村でもほぼ土佐清水市に近い人里離れたポツンと一軒家であった。
女性のお客さんで困り果てておりどうして断ることが出来よう。
同僚に相談しても一つ返事ではいかなかった。
なんとか宥めしぶしぶではあったが出張修理に行ってくれほっとする。
3時頃に無事に終えたと連絡があり「ご苦労様」と労った。
僅かな売り上げではあるが人助けも仕事である。
誠心誠意尽くすことが今後の仕事に繋がるのだと信じて止まない。

そんなこんなで昼寝どころではなかったが一時間程眠れただろうか。
気が張っており未だに緊張感が漂っている。
土佐清水市では「あしずり祭り」が開催されており
お祭り会場でめいちゃんがダンスを披露したようだ。
相変わらず娘は何も言ってくれずめいちゃんから教えてもらう。
この暑さでは観に行くことも出来なかったけれど
「寂しいもんやね」と夫と語り合った。
もうすぐ同居してから10年になろうとしているが
歳月が流れるほど「家族」ではなくなっているような気がしてならない。
一家の主であるはずの夫の影も随分と薄くなった。
「なるようになるろう」夫と慰め合う老夫婦であった。
10年が20年になるとは考えられず娘達次第であるが
「いつまでも一緒にはいない」と言われた日が遠ざかって行く。
誰にも分からない未来がもどかしく不安でもあった。
夕風を待っているが全くの無風状態であった。
結局窓を閉め切りエアコンのお世話になっている。
電気代が気になるが少しでも快適に過ごさねばなるまい。
それにしても連日の猛暑であった。
奈良県の十津川村では39.9℃と日本一の暑さだったようだ。
四万十市は36℃で昨日程の暑さではなかったが
同じ市内の江川崎では39.1℃と驚く程の気温であった。
今日は義父が軽い熱中症気味となり大いに心配する。
朝のうちに工場の仕事を済ませ畔の草刈りに行ったのだったが
一時間もしないうちに帰って来て吐き気がすると訴える。
急いで保冷剤で首の後ろを冷やしたりして対処した。
いくらタフな義父でも猛暑に適うわけがないのだ。
「なんのこれしき」と意気込んでいても80歳の高齢である。
はらはらと心配でならなかったが少し休むとまた出掛けて行った。
留守中に予約なしのエアコン修理が2台も入庫する。
お客様は神様であったがもう勘弁して欲しいと思わずにいられない。
義父がまた忙しくなるだろう。なんだか憐れに思えて来た。
そもそも二足の草鞋を履くことがもう限界なのだと思う。
「にっちもさっちもいかない」とはこんな事を云うのだろう。
事務仕事は一段落しており明日はお休みを頂けたが
この有り様では気になってしょうがなかった。
私が出社したところで何の役にも立たないのがもどかしい。
母は整備士の資格を取得していたが私は今更どうしようもなかった。

3時に退社。同僚も通院日で今日は3時までだった。
明日も午前中は眼科だそうで終わり次第に来てくれるそうだ。
還暦を過ぎた同僚も身体のトラブルが多くなり心配は尽きない。
帰り際にふっと短歌が浮かんだので発信しておく。
しゃっくりのようなものなので突然出て来るのだった。
「一抹の不安のような事だった花が終われば実になるのかと」
どうしてなのか自分では全く理解できないけれど
「一抹の不安」と云う言葉が頭から離れなくなったのだった。
仕事の疲れもあったのだろう心細くてならない。
生きてさえいればと思うがその「いのち」が心許ないのだ。
いったい誰に明日の「わたし」が分かるだろう。
もしかしたら今日が最後の日かもしれないのに。
それは今日だけに限らずいつも私を襲って来るのだった。
花が終われば実になるのだろうか。
私はこの世にいったい何を残せるのだろうか。
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