| 2024年08月04日(日) |
ふるさとは遠きにありて |
午後7時外気温31℃。ほおずき色の夕焼けを仰いでいる。
ほんの少しだけ夕暮れが早くなったようだ。
日中は今日も猛暑日。江川崎では39.2℃連日の日本一を記録する。
夫が来週あたり久しぶりに行ってみるかと言ってくれた。
私にとっては生まれ故郷である。夫の計らいが嬉しくてならない。
子供達がまだ幼い頃、家族4人で訪ねたことがあった。
その当時にはまだ私の生まれ育った家が残っており
なんと懐かしかったことだろう。涙失くしては見れなかった。
その時夫が「また来ような」と約束してくれたのだ。
それ以来何度か訪れたが生家は取り壊され今は更地になっている。
父は転勤族だったので一処に定まることはなかったが
「ふるさとは?」と訊ねられたら私は真っ先に「江川崎です」と応える。
父がいて母がいて弟がいて「チョビ」と云う名の犬も飼っていた。
私達家族が最も穏やかに幸せに暮らしていた頃のことである。

今日は何処にも出掛けずひたすら家の中で過ごす。
買い物には行かねばならず酒類やお米を買って来た。
どれも重く車に積み込むだけで一苦労である。
帰宅して「おじいさ〜ん」と呼ぶと夫が直ぐに駆け付けて来てくれた。
あまりの大荷物に「ネットで買えばいい」と捨て台詞を吐く。
あれほどネット通販を嫌っていたのが嘘のようだった。
「いかんよ、それじゃあポイントが付かない」と言うと
「ポイントより楽なことを考えろ」とのたまうのであった。
今後増々高齢になればそれも考えてみるべきかもと思う。
出来ないことがどんどん増えていくのだろう。
やがて免許を返納すればもう買い物どころではなくなるのだ。
午後は一時間程お昼寝をし夫とテレビを見ていた。
パリはもう夜中なのだろうオリンピックの中継はなく
録画してあった「ポツンと一軒家」を見る。
徳島からで70代の男性が実家を守り続けているのだった。
築150年ではあったがリフォームしてあり住み心地は良さそう。
継ぐ予定であった長男は既に亡くなりその人は末っ子なのだそうだ。
生まれ育った家をなんとしても守るその情熱が感じられた。
永遠にとはいかないだろう。その現実が切なく思う。
誰だって守りたい一心なのだ。生きている限りと願うことだろう。
私にはもう生家がなくもちろん実家もなかったが
あの高台にあった家が幻のように目に浮かぶのだった。
ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しくうたうもの。
| 2024年08月03日(土) |
穴の開いていない5円玉 |
夕方にはにわか雨の予報だったが一向に降らず
辺り一面が熱にうなされているような黄昏時となった。
今日も猛暑。江川崎では39.8℃を記録し日本一の暑さだったようだ。
旧西土佐村で私が生まれ育った地域ではあるが
子供の頃の夏の記憶に「暑さ」の辛さは少しも残ってはいない。
四万十川がプールであった。川遊びのなんと楽しかったことか。
駅前の駄菓子屋さんで一本5円のアイスキャンデーを買って食べたこと。
その頃には穴の開いていない5円玉があって
母の財布から失敬したことがある。てっきり10円玉だと思っていた。
オレンジとメロンのアイスキャンデーが2本食べられるのだ。
喜び勇んで買いに行ったら駄菓子屋のおじさんが売ってくれない。
「一本だけだよ」と苦笑いをするのだった。
その時の恥ずかしかったことを今でもはっきりと憶えている。
子供心にもう二度と母の財布から盗んではいけないのだと思った。

工場の忙しさが気になりつつもお休みを頂いていた。
案の定電話が何度も掛かってくる。義父から3回、同僚からも3回。
お客さんからも5回あり対応に追われる。
無理をしてでも行けば良かったのだがもう後の祭りであった。
義父は今日もエアコンの修理でさすがに参っている様子だった。
「このままじゃ田んぼに行けない」と嘆くばかりである。
今朝の新聞に熱中症で亡くなった高齢者の記事が出ていて
その話もしたのだが「そうなったら運命じゃ」と言い放つ。
その人も田んぼで倒れているのを家族が発見したのだそうだ。
昨日のこともあり「今日は田んぼは諦めたや」と言い聞かす。
義父の口調は荒く苛立ちがひしひしと伝わって来た。
「明日は日曜日やけん仕事はせんぞ」と言うので
「そうそう、明日かあるやんか」やっとそれで落ち着いたのだった。
同僚は午後から出勤して来てくれたが車検整備に追われていた。
そんな最中にパンク修理の依頼が舞い込む。
村でもほぼ土佐清水市に近い人里離れたポツンと一軒家であった。
女性のお客さんで困り果てておりどうして断ることが出来よう。
同僚に相談しても一つ返事ではいかなかった。
なんとか宥めしぶしぶではあったが出張修理に行ってくれほっとする。
3時頃に無事に終えたと連絡があり「ご苦労様」と労った。
僅かな売り上げではあるが人助けも仕事である。
誠心誠意尽くすことが今後の仕事に繋がるのだと信じて止まない。

そんなこんなで昼寝どころではなかったが一時間程眠れただろうか。
気が張っており未だに緊張感が漂っている。
土佐清水市では「あしずり祭り」が開催されており
お祭り会場でめいちゃんがダンスを披露したようだ。
相変わらず娘は何も言ってくれずめいちゃんから教えてもらう。
この暑さでは観に行くことも出来なかったけれど
「寂しいもんやね」と夫と語り合った。
もうすぐ同居してから10年になろうとしているが
歳月が流れるほど「家族」ではなくなっているような気がしてならない。
一家の主であるはずの夫の影も随分と薄くなった。
「なるようになるろう」夫と慰め合う老夫婦であった。
10年が20年になるとは考えられず娘達次第であるが
「いつまでも一緒にはいない」と言われた日が遠ざかって行く。
誰にも分からない未来がもどかしく不安でもあった。
夕風を待っているが全くの無風状態であった。
結局窓を閉め切りエアコンのお世話になっている。
電気代が気になるが少しでも快適に過ごさねばなるまい。
それにしても連日の猛暑であった。
奈良県の十津川村では39.9℃と日本一の暑さだったようだ。
四万十市は36℃で昨日程の暑さではなかったが
同じ市内の江川崎では39.1℃と驚く程の気温であった。
今日は義父が軽い熱中症気味となり大いに心配する。
朝のうちに工場の仕事を済ませ畔の草刈りに行ったのだったが
一時間もしないうちに帰って来て吐き気がすると訴える。
急いで保冷剤で首の後ろを冷やしたりして対処した。
いくらタフな義父でも猛暑に適うわけがないのだ。
「なんのこれしき」と意気込んでいても80歳の高齢である。
はらはらと心配でならなかったが少し休むとまた出掛けて行った。
留守中に予約なしのエアコン修理が2台も入庫する。
お客様は神様であったがもう勘弁して欲しいと思わずにいられない。
義父がまた忙しくなるだろう。なんだか憐れに思えて来た。
そもそも二足の草鞋を履くことがもう限界なのだと思う。
「にっちもさっちもいかない」とはこんな事を云うのだろう。
事務仕事は一段落しており明日はお休みを頂けたが
この有り様では気になってしょうがなかった。
私が出社したところで何の役にも立たないのがもどかしい。
母は整備士の資格を取得していたが私は今更どうしようもなかった。

3時に退社。同僚も通院日で今日は3時までだった。
明日も午前中は眼科だそうで終わり次第に来てくれるそうだ。
還暦を過ぎた同僚も身体のトラブルが多くなり心配は尽きない。
帰り際にふっと短歌が浮かんだので発信しておく。
しゃっくりのようなものなので突然出て来るのだった。
「一抹の不安のような事だった花が終われば実になるのかと」
どうしてなのか自分では全く理解できないけれど
「一抹の不安」と云う言葉が頭から離れなくなったのだった。
仕事の疲れもあったのだろう心細くてならない。
生きてさえいればと思うがその「いのち」が心許ないのだ。
いったい誰に明日の「わたし」が分かるだろう。
もしかしたら今日が最後の日かもしれないのに。
それは今日だけに限らずいつも私を襲って来るのだった。
花が終われば実になるのだろうか。
私はこの世にいったい何を残せるのだろうか。
夕陽が燃えながら沈もうとしている。
燃え尽きはしないのだ。灰になることもありはしない。
日中は38.7℃全国3位の猛暑だったようだ。
8月の声を聞くなり黄花コスモスが咲き始めた。
職場のすぐ近くに咲いておりほっと心が和む。
誰かが植えたとは思えず何処からか種が飛んで来たのだろう。
自然の営みのなんと素晴らしいことだろうか。
秋桜の仲間だと思われるが小さな秋を見つけたような気がした。
秋が立てばきっとあちらこちらで誇らしげに咲くのに違いない。
終らない夏はありはせず季節はゆっくりと秋に向かっている。
その気配を感じなければいけない。自然はきっと教えてくれるだろう。

義父がまた高知市へ出張。毎月のように理事会がある。
何か揉め事があるらしく頭を悩ませているようだ。
稲刈りも近くなり気が気ではない様子が伝わってくる。
あれもこれもと背負い過ぎなのだ。人一倍責任感も強い。
とても身が持たないと気遣うがそんな義父が誇りでもあった。
工場の仕事も気になるらしく二度電話があった。
同僚と連携し今日の仕事はなんとか終えることが出来る。
事務仕事も忙しかったが3時前に退社。
週一のリハビリの日で整形外科へと向かう。
今日は朝から杖に頼らずに過ごしていた。
最初は心細かったが次第に慣れて来る。
よっしいけるぞと思い杖なしで病院の門をくぐった。
療法士さんの驚いたこと。「調子良さそうですね」と言ってくれる。
施術中も全く痛みを感じず絶好調であった。
一時的な事かもしれないが明らかに快方に向かっているのだと思う。
完治の見込みはなくても日常生活に支障が無くなるのが望みだった。
今後も希望を持ってリハビリを続けようと強く思う。
もう駄目だと諦めることは決してないだろう。
サニーマートで買い物をして5時前に帰宅。
もうゆっくりする時間はなかったがパソコンに向かった。
「短歌写真部」なるものがあるのを知って一度挑戦してみようと思う。
短歌一首に写真を貼り付ければ良いのだそうだ。
オリジナルの砂浜の写真を選んだ。そうして一首を捻る。
「さらさ砂足跡さえも残さずに深まる夏を追う君がいる」
これは年甲斐もなく恋の歌であった。
何しろ写真が20年以上も昔の写真である。
私はまだ「おんな」であり恋多き年頃であった。
木っ端恥ずかしいたらありゃしない。
あああ馬鹿みたいと思う。でももう後の祭りである。
溺れる者は藁をも掴むと云うが今日はその藁を掴んだ。
藁どころか雲を掴むような愚かな私であった。
連日の猛暑日。焼けつくような強い陽射しだった。
七月は尽き「立秋」まで後7日である。
厳しい残暑は覚悟しているがせめて朝晩の涼しさがあればと願う。
SNSを通じて知り合った友人の命日だった。
一年が経つのがなんと早かったことだろう。
未だに生きているような気がしてならない。
気さくで優しい人だった。そのぬくもりが愛しい。
ひとはどうしようもなく死んでしまう。
たとえ定命だとしてもあまりにも残酷である。
残されたご家族の気持ちを思うと胸が張り裂けそうだった。
夜明けまえに「日にち薬」の詩を書いた。
ご家族に伝わればと思ったのだがどうやら駄目だったようだ。
今日も薬。明日も薬である。永遠に癒されない哀しみなどないのだと思う。

月末の仕事を無事に終えたが今日も怒涛の忙しさだった。
軽く眩暈がしてそのまま倒れてしまいそうになる。
幸いお昼に10分程休むことが出来る。
義父は今日も昼食を摂れない。後から後から仕事があるのだった。
同僚も汗だくである。見ているだけで気の毒でならなかった。
4時半に退社。すっかり遅くなり買い物を諦める。
帰り際に「ほか弁」を注文しそのまま受け取りに行っていた。
5時20分に帰宅。お素麺を湯がこうと大鍋でお湯を沸かす。
お湯が沸くまでに大量の洗濯物を畳み終えた。
少しでも横になりたかったがとてもそんな余裕はなかった。
いくら私の帰宅が遅くても夫はいつも通りである。
5時半にはビールを飲み始めるので苛々としてしまう。
お素麺をすする口元がぞっとするほど気持ちが悪い。
夫には本当に申し訳ないが生理的に受け付けられないのだった。
いったいいつからそうなってしまったのだろう。
老いだけのせいではないと思うのだが理由が見つけられなかった。
夕食後は疲れがピークに達していたが
沈む夕陽をぼんやりと眺めているとふうっと短歌が浮かんでくる。
「文月の尽きて夕陽が沈む頃ほおずき色の記憶が暮れる」
明け方まで強い風が吹いていたが夜明けと共にぴたりと止む。
日中は今日も猛暑となりうんざりするような暑さになった。
関東ばかりではなく九州も40℃近くまで気温が上がったようだ。
大分県豊後大野市で39.2℃と今日の日本一を記録する。
昔はせいぜい30℃超えではなかっただろうか。
それが真夏の気温だと誰もが思っていたのだった。
年々過酷な暑さになっている。10年も経てば40℃が当たり前になりそうだ。
エアコンの無い時代、昼寝をするのに母が団扇で風を送ってくれた。
そんな記憶も遠い夏の思い出となっていく。

仕事は今日もエアコン修理。予約なしの突然の来客である。
義父は友人と農機具の展示会に出掛けており留守であった。
お客さんに訳を話し出直してもらおうと思ったのだが
義父が帰るまで待つと言って聞かない。
幸い近くの喫茶店で時間を潰してくれることになり助かる。
午後一時前に義父が帰りすぐさま修理に取り掛かってくれた。
ガスは満タンなので他の不具合が考えられる。
念入りに検査をしやっと故障個所が判明した。
部品は明日入るとのこと。お客さんも納得して帰って行く。
義父は今日も昼食を摂らず一生懸命に働いてくれた。
そのまま畔の草刈りに行くと云うので心配でならない。
それでもまったく苦にする様子も見せず頭が下がるばかりであった。
余程気が張っているのだろう。無我夢中なのが伝わってくる。

3時に退社。車に乗ると外気温が43℃になっており驚く。
少し走ると36℃になりそれが正解なのだろう。
自動車専用道路を時速90キロで走り抜ける。
サニーマートで買い物をし4時に帰宅した。
玄関先の夏すみれがぐんにゃりと弱っている。
今朝水遣りをしてから出掛けたのだが余程陽射しが堪えたのだろう。
水道の水は生温くしばらく庭に打ち水をしてから冷たい水を待った。
「帰宅する我を待ちたる夏すみれ水道の水冷たくなあれ」
しゃっくりのような短歌はまずまず順調であった。
以前のように時間を決めていないのでとても気楽である。
良し悪しは兎も角として自由に詠めるのが愉しい。
自信はないが誇りはある。それは矛盾しているかもしれないが
いかに自分らしさを貫くことではないだろうか。
詩も短歌も好きでならない。それは同時に自分を好きであることに等しい。
どれほど踏みにじられても私は「わたし」を守り続けるだろう。
雲一つない快晴。陽射しは容赦なく照りつける。
広い範囲で猛暑日となり特に関東は危険な暑さとなった。
栃木県の佐野市では41℃と信じられないような猛暑である。
佐野には古い友人が住んでいて気になりながらも
暑中見舞いをするでもなくついつい疎かにしてしまうのだった。
そうしてだんだんと疎遠になって行くのだが仕方ないことだろう。
私はせっかくの縁を自ら遠ざけてしまうことがよくある。

仕事は怒涛の忙しさだった。エアコン修理が一気に三台もあり
義父の助けがなければとても手に負えない。
義父もそれを承知していて身を粉にしてくれたのだった。
例の如くで昼食も摂らず汗びっしょりになって働いてくれる。
それにしても今年の夏はエアコンのトラブルがとても多い。
猛暑のせいもあるだろうがひっきりなしに入庫している。
事務仕事は午後には一段落しており2時半に退社出来た。
FMラジオは「五輪真弓特集」で聴きごたえがある。
哀愁が漂うと云うかしんみりと聴き惚れてしまうのだった。
夏らしい明るい歌も良いがやはり「枯葉舞う季節」が好きである。
夕方めいちゃんが癇癪を起こしキムチが食べたいと叫び出す。
泣き喚く前にと大急ぎでローソンへ買いに走った。
すると外のベンチで外国人の青年が二人アイスクリームを食べていた。
目が合って笑顔を交した後に「おいしい?」と訊いたら
二人が声を揃えて「おいしー」と言ってくれて嬉しかった。
咄嗟に英語が出て来ない。おいしいは英語で何と云うのだっけ。
「デリシャス」かなと思ったが自信がなかったのだ。
でも日本語が通じて良かった。これもささやかな一期一会だろう。
キムチを買って外に出たら二人の笑顔が待っていた。
「グッナイ」と手を振ったら「グッナイ」がこだまするように返ってくる。
ちょうど夕陽が沈む頃でなんだか映画のワンシーンのようだった。
荷物は見当たらなかったがもしかしたらお遍路さんだったのかもしれない。
お大師堂から歩いて来たような気がしてならなかった。
4月に行事の当番をした時にお大師ノートを見たのだが
英語やフランス語やそれは沢山の書き込みがあったことを思い出す。
小さなお堂ではあるが人気の宿になっているのだろう。
私の足はすっかり遠のいてしまったがずっと気になりながら過ごしている。
心の拠り所だったのだ。これまでどれほど癒されて来たことだろう。
遠のくことは容易いのかもしれない。
ただ億劫だと云う理由だけではないのだと思う。
信心する気持ちはまったく薄れず朝に晩に手を合わし続けている。
父と母の遺影の傍にはいつも「お大師さん」が居てくれるのだった。
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