ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2024年07月04日(木) なるようにしかならない

雲一つない青空。今日も各地で猛暑日になったようだ。

静岡では39℃を超えたそうで危険な暑さである。

四万十市は36℃。今日は江川崎より気温が高かったようで驚く。


昨日はロージーのご主人が熱中症で救急搬送されたそうだ。

「ビョーキシタ」「テンテキシタ」と今朝話してくれる。

熱中症は日本だけとは限らないと思うがどんなにか焦ったことだろう。

今朝はもう落ち着いて居ると聞きほっとしたことだった。


心配なのは義父である。今日も午後から稲の消毒に行く。

暑さが身に堪えているはずだが決して弱音を吐かなかった。

それはそれで頼もしくもあるが倒れはしないとどうして言えるだろう。

引き止めることも出来ずはらはらとするばかりであった。


午前中にまたエアコンが効かないお客さんが2人来店する。

義父が待機してくれていたので大助かりだった。

一人はコンプレーサーの故障。もう一人はガス不足である。

原因が直ぐに分かるので対応も早い。さすが義父であった。


事務仕事は元帳が完成し明日は税理士事務所へ行けそうである。

今年はもう30期となり歳月の流れを感慨深く感じる。

今は経理ソフトがあり便利になったが昔は全部手書きだった。

経理のケの字も知らなかった私に一から教えてくれたのは母である。

母は誰にも教えてもらわず独学で学んだようだった。

整備士の資格も持っており今更ながら頭が下がる。


会社は30期だが義父が整備工場を始めてから今年で60年になる。

20代の頃の義父を知っているだけにこれも感慨深いことだった。

小学生だった私にとっては優しいお兄ちゃんで大好きだった。

両親が買ってくれなかったリカちゃん人形も買ってくれたのだ。

よほど縁深かったのだろう。母の恋を知る由もないが

実の父は気づいていたらしくその苦悩を思うと心が痛む。


今思えば運命は「なるようにしかならない」ものなのだ。

どれほど引き裂かれても母は自分の想いを貫いたのだと思う。

けれどもそれは母の運命だけではなかった。

実の父はもちろんのこと私や弟の運命さえも変えてしまったのだ。


もう過ぎ去った事とさらりと水に流せない。

母が死んだ時に私は母を赦し切っていないことに気づいた。

それは今も変わらず心に巣くい続けている灰汁のようなものである。


死んだら母に会えるのだろうか。

私は笑顔で逝かなければならない。



2024年07月03日(水) 紫陽花尽く

梅雨明けを思わすような晴天。久しぶりにおひさまを見た。

気温はぐんぐんと上がり暑さで有名な江川崎では37.1℃を記録する。

夕方のニュースを見るまで知らなかったが日本一の気温だったそうだ。


山里は平野部より気温は低く凌ぎやすいように思うが

標高が高い分太陽に近いのかもしれない。

陽射しが降り注ぐなか紫陽花はそろそろ尽きようとしている。

やがて枯れ果て化石のようになってしまうのだろう。

もう愛でる人もなくなんとも憐れな姿であった。



炎天下の中、義父は午後から稲の消毒に出掛ける。

その留守中にエアコンが効かなくなったお客さんが来てくれたが

同僚では手に負えずまた出直して来てもらうことにした。

予約なしの突然の来店には戸惑うことが多い。

直ぐに対応出来ないことも心苦しくてならなかった。

義父さえ待機してくれていたらと思うが所詮無理な話だろう。


事務仕事は決算の準備がほぼ整い後は元帳の作成のみとなった。

今週中には完了し税理士事務所へ届けたいものだ。

毎年の事だが年々頭が回らなくなっているように思う。

記帳漏れやミスが多く手直しに時間を取られてしまうのだ。


帰り道に車検証を届けなけれないけないお客さんがあり

3時前に退社。久しぶりに国道を通った。

自動車専用道路が出来てから国道の交通量の少ないこと。

道路沿いの商店も閑散としておりなんだか寂しく思う。


お客さんは在宅しておりしばらく語り合ってから帰路に着く。

国道沿いの「ちきん館」で「まるっぽ鶏」を買った。

ちきん館にはお刺身も売っているのだが今日はもう売り切れていて残念。

まるっぽ鶏は家族皆の好物なのできっと喜んでくれるだろう。


4時に帰宅。洗濯物を畳んでから少し茶の間で横になっていた。

夫が「八丁堀の七人」を見ていたので一緒に見る。

随分と古い時代劇のようだがけっこう面白かった。

驚いたのは元フォーリーブスのおりも政夫が同心役で出ていた。

なかなかの演技力である。十分に俳優でやっていけると思ったのだが

今ではもう全く姿を見ることもなくとても残念でならなかった。

「八丁堀の七人」では人を殺さない。気持ちよく成敗をするのだ。

見終わった後の爽快感が癖になりそうな時代劇であった。



仕事のゴールは未だ見えないが「ある日突然」は在り得るだろう。

する仕事が無くなってしまった私の姿を時々想像する。

毎日が日曜日なのだ。いったい何をすれば良いのだろう。

寝太郎になるかもしれないしテレビっ子になるかもしれない。

そうしてあらあらという間に老いぼれて行くような気がする。

そうなれば次のゴールは「死」しかないではないか。

そんなことを考えていると「いま」がとても幸せに思えて来た。


紫陽花は毎年咲くが私の「いま」はもう二度とない。





2024年07月02日(火) 私の半世紀

梅雨空の予報だったが思いがけずに青空が広がる。

気温も30℃を超えすっかり真夏の暑さとなった。

エアコンの効いた室内に居るのが心苦しくてならない。

同僚は工場で汗だくになって働いてくれていた。

気遣えばもう慣れているのだそうだ。

「夏は暑いに決まっちょるやいか」と笑顔を見せる。


義父は朝から長靴を履いてざわざわとしていた。

田んぼの様子を見に行っていたのだろうか2時間程で帰って来る。

そのまま車検をし書類を書き終えたらもうお昼であった。


今日も車検の予約が入っていたのだがお客さんが来店しない。

何度か電話をしてみたが一向に連絡が取れなかった。

お昼ならと思い再度電話をしたらやっと繋がる。

予約をしたことをすっかり忘れていたのだそうだ。

「イマカラスグイク」外国人のお客さんなので片言の日本語である。

それから5分もしないうちに来てくれて「タイヤチェンジスルヨ」

「オイルチェンジスルヨ」となり代車に乗って帰って行く。

午前中は畑仕事をしていたらしくもんぺ姿が良く似合っていた。

山里へ移住して来てかれこれ8年位だろうか。

最初はご主人の通訳が必要だったが随分と日本語が上手になった。

一番好きなお客さんは?と訊かれたら私は迷わず「ロージー」と応える。



やっと決算の準備を始めたので仕事はいくらでもあったが

あとは明日と決め3時過ぎに退社する。

程よい疲れであった。帰ったら少し横になろうと思っていたのだが

そうは問屋が卸さず洗濯物を畳み終えたらもう5時であった。

夕飯は相変わらずの手抜きだったが胡瓜と蛸の酢の物だけは作る。

サニーマートのお惣菜はどれも家族に不評で頭を悩ます。

いつも残ってしまい翌朝私が後始末をするのが習いである。

もう一品何か作りたいがとても手に負えなかった。

こんなことがいったい後どれほど続くのだろうか。



今朝はほんの遊び心でSNSに高校時代の写真を貼った。

自分で云うのも何だがけっこう可愛らしかったのだ。

しかし50年の歳月の何と残酷なことだろう。

今ではもうその頃の面影など少しも残ってはいない。

目と口はあるがもはや化け物であった。


遊びだったので直ぐに削除しようかと思ったが未だ残してある。

思い出がいっぱいなのだ。17歳の青春の真っ只中のこと。

写真を撮ってくれたのは誰だったのかどうしても思い出すことが出来ない。


海辺の町で潮風に吹かれながら私は少女から「おとな」になった。



2024年07月01日(月) 行き当たりばったり

曇り時々雨。湿度が百パーセントではないかと思う程の蒸し暑さだった。

七月文月となり今日は半夏生だとか。元々は農事の繁栄を祈る日らしい。


義父の田植えは無事に終わったようで何よりだった。

けれどもまだ後始末があるそうで今日も気忙しそうにしていた。

稲穂が見え始めたので晴天になり次第消毒もしなければいけない。

農薬が年々値上がりしており頭を悩ませている様子だった。

そうかと云ってお米は値上がりしない。とても理不尽に思えるが

それだけお米が有り余っているのだろう。残念なことである。


仕事はけっこう忙しかった。

請求書を作成したり車検案内の葉書を出したりする。

決算の準備もしなければいけないがそこまで手が回らない。

明日こそ明日こそと思っているうちに日々が流れるばかりであった。

昔とは違うのだ。テキパキと何でもこなすほどもう若くはない。


昼休みはあって無いようなものだが日課の短歌だけは書き終える。

SNSへ発信すればほっとして心地よい達成感があった。

それからこの一週間に詠んだ短歌から2首を選び新聞に投稿する。

自分では自信作のつもりだが現実はとても厳しい。

「これでもか、これでもか」と思いながら投稿を続けている。


先日は「高知県文芸賞」の応募案内が届いていた。

毎回応募している者には届く仕組みになっているようだ。

私は短歌よりも詩に重点を置いている。

4年前だったか奨励賞を頂いた時には夢のように嬉しかった。

しかし募集要領には未発表の作品に限ると明記してあり

電話で確認したらSNSで公開した作品は発表したとみなされるのだそうだ。

それを聞いてがっくりと肩を落とす。今回は諦めるしかあるまい。


私の詩や短歌は全て「オン書き」でありノート等に書くことはなかった。

いわば即興であり即詠なのである。悪く云えば行き当たりばったり。

いつの頃からだろうパソコン画面に向かってしか書けなくなってしまった。

その空白があってこそ湧き出す言葉があるのだろう。

今更その書き方を変えるつもりはなかった。

それは私自身の心を見失うことにも等しい。

だからこそ一生涯そんな自分らしさを貫きたいと思っている。


4年前の詩は今だから明かすが古い詩のノートに書いてあったものだ。

父が亡くなった直後に書いた詩だから20年近く経っている。

今思えば私はとても卑怯な真似をしたのかもしれない。

けれども賞を頂いたことで父の供養になったのだと思っている。

誰よりも私の文芸活動を応援してくれていた父であった。


生前の父に最後に会った日に「おまえは短歌をやれよ」と言ってくれた。

私はそれを父の遺言だと思って短歌を忘れることは決してなかった。


詩も短歌もと欲張りなのは重々承知している。

詩人でもなく歌人でもない。詩集も歌集も出すことはないだろう。


私はひたすらパソコン画面に向かって「いのち」を捧げている。







2024年06月30日(日) 心の琴線

曇り日。風はあったが不快な程の蒸し暑さだった。

扇風機ではとても耐えられずエアコンのお世話になる。

娘達は朝からエアコンをフル稼働しており

夫が「俺らが我慢することはないぞ」と苦笑いしていた。

電気代は馬鹿にならないが快適に過ごすことが一番なのだろう。


サニーマートが開店する9時を待ちつつ自室で過ごしていたが。

ひっきりなしに煙草を吸ってしまい我ながらうんざりとする。

とにかく部屋から出なければいけないと茶の間に行ったら

夫が録画してあった洋画を観ていた。

戦争映画のようだったがそれがなんとも残虐である。

後から後から人が死んでいく。小さな子供も乳飲み子さえも。

母親は犯され乳房を抉り取られそうになっていた。

「もう止めて」の一言が云えない。夫は食い入るように観ている。

「コンナヒトナノダナ」と改めて思う。

価値観とはまた違うのだろうがとても共感など出来なかった。


買い物から帰宅すると今度は別の洋画を観ていた。

缶コーヒーのCMによく出ている俳優さんで名前は知らないが

見知った顔なので興味が無きにしも在らずだった。

戦争映画のように残虐ではなかったが怖ろしい場面ばかりである。

途中からだったので夫にあらすじを訊ねたら

ロサンゼルスで地震があって地下の火山が爆発したのだそうだ。

街中には溶岩が流れ込み人々はパニックになり逃げ回っている。

夫にとってはスリル満点のようだが私はひたすら怖ろしくてならない。

「モウイヤダ」と思う。逃げるように自室に向かいまた煙草ばかり。

手も口も切って捨てたい。なんだか気が変になってしまいそうだった。





午後4時過ぎ、あやちゃんが珍しく部屋に入って来て

またSNSの話になった。今日の私のポストを見せる。

そうしたら今朝のポストに昔の写真を載せていたのがいけなかった。

夕陽を背にしたあやちゃんとめいちゃんの写真で

逆光なので顔は判別できないと思っていたのだが

「どう見てもこれ私じゃんか」とお叱りを受ける。

6年前の写真であっても絶対に許さないと言うのだった。

即刻削除を言い渡されあやちゃんの監視のもとに削除した。

「いっぱいいいねが付いていたのに」と私が反論すると

「誰もいいねと思って押してないよ」と真剣な顔をして言う。

SNSとはそう云う場所なのだそうだ。

お説教はまだまだ続きうかつに人を信用しないこと。

顔も知らない人と仲良くなったりしないこと。

最後に「ネットは危険がいっぱいながやけんね」だった。


まるで大人が子供に云うようなことであった。

でもそれだけ慎重に考えて行動しているのだと思う。

とても12歳とは思えないしっかりとした考えだと感心したのだった。

私は自分の迂闊さを深く反省し今後に活かさなければいけない。


思い起こせばネット生活も25年程だろうか。

様々なトラブルに巻き込まれ人を傷つけたりその反対もあった。

それでも私は人を信じることを止められずに今に至っている。

顔が見えないこそ魂が触れ合うのではないだろうか。

心の琴線に触れる「縁」を大切にしたくてならない。



2024年06月29日(土) 私は燃えている

曇り日。風はあったが梅雨時らしい蒸し暑さとなる。

もう幾日も洗濯物を外に干せずにいる。

「今日はどうかな?」と夫に訊けば「止めとけや」と即答だった。

お天気の良い日はいつも夫が洗濯物を庭まで運んでくれるのだ。

何しろ6人分の洗濯物の重いこと。私にはとても無理な話である。

夫はもうそれが自分の役目と心得ていて文句の一つも言わなかった。


だんだんと家事がまともに出来なくなっている。

あと5年後、10年後となればいったい私はどうなっているのだろう。



朝のうちにサニーマートへ買い物に行っていたら

店頭に刃物屋さんが出店していて包丁研ぎもしてくれるそうだ。

確か去年の今頃にも研いでもらって助かったことがあった。

とても愛想の良いお兄さんで今年も頼むことにする。


一度帰宅してから包丁を3本持って行った。

忙しいのか仕上がりは午後になるとのこと。

夕方までに取りに来ることにしてカーブスへ向かった。


カーブスでは滝のような汗で脂肪が燃えているらしい。

実感は全く無いが「私は燃えている」と思い頑張る。

何と心地よいことだろう。気分も明るくなったような気がする。

昨日の肩凝りが嘘のように楽になっていた。

それだけでもカーブスに通う意義があるのだと思った。


カーブスを終え駐車場から夫に電話を掛ける。

「明星鉄板焼きそば」を作ってもらおうと思ったのだけれど

開口一番に「今それどころではない早く帰って来い」と言うのだった。

いったい何が起こったのだろう。気が気ではなくなり大急ぎで帰った。

真っ先に頭に浮かんだのは息子の元お嫁さんのことだった。

まさか自殺。それは常日頃から一番心配していることである。

精神病なので発作的に命を絶つことも十分に考えられた。



帰宅したら台所から笑い声が聞こえているではないか。

夫は焼きそばを作ってくれているようだった。

訊けばあやちゃんが急に腹痛を訴えて苦しんでいたのだそうだ。

娘も買い物に出掛けており夫もパニック状態だったのだろう。


「もう治った」とケロッとしているあやちゃんにほっとする。

便秘だったのだろうかトイレに行ったら楽になったそうだ。

不規則な食生活。運動不足もあるだろうと察する。

とにかく一時的なことで済み何よりだった。


夫の作ってくれた焼きそばの美味しいこと。

焼きそばライスにしてお腹いっぱいになった。

そのまま倒れ込むように寝てしまい目覚めたら4時近くになっていた。

週末はとにかく寝ることである。そうして私は蘇るのである。


アイスコーヒーを飲みながら短歌を捻った。

何が良かったのかすらすらと詠める。

一首5分の早業であった。うん我ながら素晴らしいと悦に入る。

特に2首目が気に入ったので高新文芸にまた投稿してみよう。



ヤフオクで落札した山上秋恵さんの歌集が昨日届いた。

驚いたのは中古本のはずなのにどう見ても新品だったことだ。

これは誰も開いてはいないのだと確信する。

もしかしたら山上さん本人が手放したのかもしれない。

それ程までに辛いことがあったのか。それは知る由もなかった。


短歌は2001年から2013年のものが収録されており

まだ20代だった頃の作者の若々しさが感じられた。

子育ての真っ最中だったのだろう家庭的な短歌が多いようだ。

まだ全てを読み終えてはいないがゆっくりと読みたいと思っている。


風に出会い風を見る。心の琴線に触れる確かな風を感じた。



2024年06月28日(金) こころはいつも忙しい

大雨の予報だったが幸い小雨のままで済む。

今はもう止んでいて心地よい夕風が吹いている。

明日は晴れ間もありそうだ。ゆっくりと天気が回復するだろう。


夜明け前に「つゆさん」の詩を書いた。

以前から書いている季節シリーズのつもりであるが

きっと誰にも分からないだろうと思う。

そもそも詩人でもないくせにシリーズなど大それたことだろう。

自己満足以外の何ものでもない。私が好きなのだからそれでいいと思う。

いつもリポストしてくれていた方が家庭の事情でしばらく休むのだそうだ。

当然のことながらリポストは全くなくなってしまった。

しかし今思えばそれも過剰評価だったのではないだろうか。

その方にはとても感謝しているが好意に甘え過ぎていたように思う。


もっと現実を見るべきである。厳しければ厳しいほど私は燃える。

ありったけの心でありったけの命で書き続けて行かねばならない。




仕事は実質的に月末であった。先月は苦しかったが今月は余裕がある。

義父に相談することもなく自分一人で乗り越えられそうだった。

9時半にはもう全ての支払いを終え肩の荷が下りる。

振込も何件かあり出金ばかりではなかったのが幸いだった。

これが順調でなくて何だろうと思う。悦に入っている場合ではないが

山あり谷ありの日々である。油断大敵雨あられもあるだろう。


同僚は通院のため午後からの出社であった。

義父は午後二時になっても姿が見えなかった。

義父の親友であるお客さんがオイル交換に来てくれて

二階の居室にいるはずの義父に声を掛けたが返事がない。

「死んじょるがじゃないか」となってしばしパニックになる。

お客さんが部屋を見に行ってくれようとしていたら

のそりのそりと階段を下りて来る義父の姿があった。


どうやら昨夜田植えの段取りがてら友人達と深酒をしていたらしい。

明日最後の田植えをすることに決まったそうで何よりであった。

それにしても人騒がせなこと。マジで死んだのかと思ったではないか。


余談ではあるが義父の父親は57歳の若さで亡くなっている。

心臓発作だったそうだ。ある日突然にぽっくりと死んだらしい。

そんな不運な血筋である。義父が長生きをするとは限らないのだ。


私は明日の段取りをする。点検と車検の予約が入っていたので

同僚がスムーズに仕事が出来るように準備を整えて置かねばならない。

あれもこれもと何と目まぐるしいことだろう。

それも全て自分が休む為であった。謂わば自業自得である。


4時前に退社。今日は随分と遅くなってしまった。

幸い眠気は無かったが少しでも横になりたくてならない。

しかし買い物をしなければならず洗濯物の山が待っている。

首と肩がパンパンに張っており今にも倒れそうになっていた。


5時半には夫の晩酌開始である。時間をずらすことは可能だが

その分夕食が遅くなるので娘達も戸惑うことだろう。

6時には食べ終えていないと私の入浴も遅くなってしまうのだった。


毎晩の事だが7時にはこの日記を書き始めている。

くだらない日記ではあるが書き終わるまで一時間半程掛かる。

けれども書かずにはいられない私は日記中毒であった。

22年も書き続けて来たのだ。どうして今更止められようか。


こころはいつも忙しい。けれどもその心のおかげで生きている。

ゆらゆらと揺れ続けているがここには真実の私がいる。


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